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メッセージ



<”全ての慰めの神” 第2コリント人への手紙1章1-11節

2012年11月11日 日米合同教会 日曜礼拝でのメッセージ
    The Japanese American United Church
      http://jauc.org/index.htm


 おはようございます。この度はメッセージのご奉仕に与らせて頂きありがとうございます。私はフィラデルフィアの日本人教会の者ですが、不思議な神様の導きにより、金曜日夜にこの教会の地下のお部屋をお借りして、隔週でバイブルスタディを開かせていただいて、ちょうど一年となります。とてもよい学びとフェローシップの時を与えられ感謝です。

本日の聖書個所である、IIコリントの手紙のテーマの一つは 神様から与えられる慰めであります。この書簡では慰め・励ましということばがKey Wordでたすうでてきますが、原語であるギリシャ語で慰めはパラクレイシスといってその語の意味は「助けるためにその人の傍に呼ばれる」です。この慰めということばは、ヨハネの福音書14-16章でも、イエス様が聖霊のことを“助け主”として言われ、第2コリントに出てくる“慰め”と訳されている同じ言葉です。聖霊を助け主、慰め主、そして代弁者として、弟子のヨハネは福音書及び手紙で表していますが、まさに聖霊と言う方はそのような働きをされます。


○コリント人へ手紙が書かれた背景

パウロは第2回伝道旅行でコリントへ一年半滞在し(使徒18111AD5253、その結果教会ができましたが、その後、コリントの教会内のたくさんの問題の報告を受け、彼らに長い手紙を書きました。それが第一の手紙で、かなりはっきり問題を指摘した、鋭い内容も含んでいます。その後、コリントの人々がパウロの手紙を読んで、罪のゆえに悲しんで、悔い改めて、心を新たにして喜んだ、という話しを伝え聞き、パウロは大いに慰められました。よって第2のコリント人への手紙は慰め、励ましの内容がメインでありますが、一方いまだにパウロの権威を否定し分裂分派を引き起こす偽教師もコリントに存続していたので、そのことに対してもはっきり対決しています。

本日は、一章の1-11節を通して、私たちが様々なプレッシャーや試練にあった時、落胆して落ち込むところに留まらず、イエス様に目を向け、どのように、神様の中に慰め・励ましを得るか、また他者を神様からの慰めをもってどう励ますために 3つの思い起すことについてまとめました。


○ポイント@ 神様はあなたにとってどういうお方であるか

「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。

 他の手紙でもそうであるようにパウロは、神様への感謝から始めますが、最初の一節で神様は私たちの主イエス・キリストの父なる神であることです。いうまでもなく母なる神ではない。私たちはイエス・キリストのおかげで、神様を天の父と呼ぶことが出来、神様が御子イエス様を愛されたように神様は私たちも子として愛して下さるという驚くべき関係を与えられていること、続いて神様が慈愛に富んでいる方であり、そして慰めの源であるかただということです。私たちが想像しうる人間の親子関係と比較しようがない、大きな愛を持って神様は私たちを子として、無償の愛でケアして下さっているということを信じ、信頼していくことは重要です。私たちがどうであれ、天の父の私たちへの愛は変わりません。日常生活おいても、どういうお方をほめたたえているか、信じているかをはっきり意識することが、信仰の土台であります。


○ポイントA 神様はあなたのために何をしてくださっているか

パウロは9節で彼の拠り所は死者をよみがえらせてくれる神であるといっています。皆さんは、どのような神様により頼んでいるでしょうか?単に自分のお願いをかなえてくれて、守ってくれる、危険から救い出すだけの神様でしょうか? それとも、パウロのように キリストが私たちの罪のために十字架にかけられ代わりに罰を受けられて死んで、3日目によみがえられたこと、このキリストを死から復活させた神様に依り頼んでいるでしょうか?これを個人的に自分の罪のためだったと意識されているでしょうか。この真の神様に本当により頼むには、最低限必要な自覚があります。それは自分が無力であることを知ることです。パウロがああもうだめだと、8節で死を覚悟したように。

私たちは日常生活では自分が無力だとあまり意識しないものです。逆にこの社会にて、自分で努力して成功する、無力を認めたら終わりだ最後までプライドを持てという風潮が染みついていますので、なかなかイエス・キリストを救い主と信じた後でさえも、すぐには自分が無力だと認めない分野が多くあるはずです。私も信仰を持って歩き始めたころは、特に仕事では神様のことを思い出さないことが多かったです。しかしながら、イエス・キリストを知って共に人生を歩んでくうちに、様々な問題がおこっていくと、徐々に自分が自分が という部分が小さくなり、自分の無力さを自覚します。同時に、無力なゆえに助けて〜と神にだけ頼り、その試練を助け出してもらうという経験をすればするほど、イエス様が神様がますます自分の人生のなかで大きくなり、人生の生活のすべての面で神様に委ねようと意識するように変えられていきます。これはご自分がこのことを経験されていくとはっきり他の方に証できるよう上からの聖霊の力が与えられます。パウロが「私は弱いから強い」と2コリント1210節で書いているのはまさに、自分が無力だと認め神様に全面より頼んだ時、イエスキリストを復活させたと同じ神様の力が働かれるから強く変えられるのです。 もし、普段の生活のなかで神様に依り頼むということを意識されない方がいたとしたら、心配しないでください、そうなるきっかけがこれからあるかもしれませんし、とにかく求めれば変えられていきます、そして、それはより深い神様との信頼関係を持つことへ招かれていることでもあるのです。

「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」10節

 パウロは10節でどういう望みを神様においているのかを述べています。いつも救い出してくれたと言っていますが、どのように救い出されるのでしょうか。救い出され方には私たちが思った通りでない場合があります。神様は試練の原因そのものを取り去って、救い出される場合もあれば、ある時は試練の中で救い出される場合があります。中でと言う意味は、つまり試練の状況は変わらなくても、それに耐えられる様私たちの内側が変えられて救い出される場合です。いずれにしても、パウロは神様はいつも自分を救い出してくれたという体験とまた将来もそうだという望みを持てたのです。

 なぜこんなことが起こるかひどいじゃないですか!と神様に文句を言いたくなる方、まだキリストの救いが分からない方がいらしたら、キリストの救いが分かるよう求めて続けて下さい。そのままのご自分の苦しい状態を叫ぶ・キリストの愛と言われてもわからないんだと きれいごとを祈るのでなくそのまま神様に祈ればいいのです。すると神様は必ず聖書の言葉を通して、聖霊という助け主通して答えられます。今試練のまっ最中で苦しまれている方は、今日の個所を通して、神様は試練の中で助け出される方であること、試練を通る力を与える方であること、キリストにある希望を持って下さい。それが神様からの慰めのベースです。そもそも自分はどういうところから、イエス・キリストを信じて助け出され救われたのかを思い起してください。神様は死者を復活されるほどの力がある方です。このことは、キリストだけの復活でなく私たちにも当てはまるのです。それは将来キリストを信じる者も同じようにこの体が死んだ後、復活して新しい体が与えられ、永遠に神様と共に生きるという希望があります。この希望は今生きていて間試練を通り、神に信頼して生きている時から永遠へと続いているのです。そして後になって神様がこの試練が起こることを許可された意味が人から言われなくても、自分で見いだせるようにいつかなる、永遠の命につながる希望を持って慰め励ましあうことを求めて下さい


○ポイントB 神様はあなたを通して何をされるか。

3-4 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」

 ここでは、慰めを人から受ける側ではなく 能動的にご自分を通して他者に神様の慰めを与えるチャンネルとして、神様があなたを通して働かれるんだということを思い出して頂きたいのです。

ここでパウロは自分の持ち前の経験や性格によって与えるなぐさめでなくて、まず自身が神より慰めを受けたその慰めを持って、他者を慰めることができると言っています。あらゆるといったらすべての種類の艱難を指しますので、必ずしも同じ経験をしてなくても、神より受ける慰めを持ってあらゆるケースも慰めることができると言っています。同様の苦しみ・困難(病気や家族の死、失業、自然災害、親子夫婦の問題)にあった人同士は気持ちが共感・同情しあえるものです。一方、たとえ似たような経験をしたとしても、人の慰めの言葉には限界があります。「私もそうだったから気持ちがわかるわ〜」と言われても、言われた側は、それ以上に力を持って、生き続ける、何か確かな拠り所を、その同じ状況にあったというだけの励ましのことばで、どうやってもてるのでしょうか。

なぜ神様はこんなことが起こるのを許される(許可)のか?と何かにつけて普段は神様を信じていなくてもこういうときだけ神様を責めたりします。人がやった犯罪のことまでなぜ?と。 私たちは神様でないので答えられない。だから皆さんは相手にその原因や答えをいわなくてもいいのです。一つだけわかることを相手に伝えるのです。

それは、全てのことは神様がコントロールされている、だから今はわからなくても、悲しくてもなんとかしてくださると任せて信じようと、苦しみの内容が違っても自分もそう助けられたとしこれからもそうだという希望を持って生き続ける強さも与えられるんだよと分かち合いましょう。それが大きな神からの慰めを伝えられることではないでしょうか。その苦しみの原因や今苦しんでかわいそうな自分に目をとめるのではなく、その困難な状況のなかで、神様にフォーカスするよう励ますのです。すると聖霊の働きで相手にも伝わるのです。


○慰めをともにするとは

「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。」6-7

 最後にまとめますと、パウロは6-7節でともに痛み、ともに苦しむ、慰めをともにするということも教会内での奉仕の一つであると言っています。最初に申しあげました慰めの意味パラクレイトス、助けるために傍にいることの実践は共に祈ることです。教会では奉仕といえば教えること、何かの活動することばかりが、私たちの間でめだちますが(もちろんこれらも重要ですが)、実は、艱難に合ったとき、ただ共にいることが神の家族としての、特権でもあります。礼拝の前後に一言でも二人または三人でも共に祈り会いましょう、人は一人では信仰を持ち続けるのは困難なので、神様は互いに慰め合い励まし合う相手を置かれます。相手を通しても神様は働かれるように、そのためのフェローシップ、真のつきあいなのです。

サタンはクリスチャンをなんとか教会から孤立させ、結果的に神様との関係を疎遠にしようとします。また自分のプライドもあって人に話したくない、自分だけで祈って解決しようと思われるかもしれません。しかしながら、教会はキリストの体であって、一つの部分が悲しめば全体が悲しむとパウロが言うように、痛みも悲しみも共有する一つの体なのです。神様は人を使って励まし、慰めるだけでなく、その人が誤った方向や考え方に陥っていたら、柔和な心でみことばにこう書いてあるよと戒めることも必要です。そしてそれを言われた側は素直に受け取る謙虚さが必要ではないでしょうか。私たちは他者を慰めるために神様に使って頂けるよう、また他者からの助言を受け入れられる低い姿勢となれるよう、両面願い求めたいものです。それには慰め主である聖霊の力が必要ですから聖霊に働いてくださいと求めましょう。


どうぞ、キリストにある希望を互いに思い起しあって下さい。イエス様の父である神様、慰めと慈愛に富んだ神様を思い起し、死者を復活させた神様により頼み、神様がイエス様の十字架の苦しみを通してどのように自分を救って下さったかまた今もこれからもして下さっていることを忘れずいて、また神様はこんな自分さえも通して聖霊の力で他者に仕えるよう用いて下さることを思い起し、ますますお一人お一人を通して神様の恵みのわざが現れますよう、神の国が広がりますように願いたいと思います。


(引用:口語訳聖書)
   
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