Praise the Lord 本文へジャンプ

メッセージ


<ほふられた神の小羊 創世記22章1-19節

2013年3月17日 日米合同教会 日曜礼拝でのメッセージ
    The Japanese American United Church
      http://jauc.org/index.htm


皆様おはようございます。聖書の中で初めて、“愛する”ということばが出てくる個所はどこかご存知でしょうか?本日読まれました創世記22:2あなたの愛している一人子イサク」のところがそうです。年をとってから子供が出来る、それも何年も待ってようやくできた子供というのは目に入れても痛くないほど親にとってはかわいい大切な存在ではないでしょうか。私は前の教会でもそのようなご夫婦を知っています。神様は、アブラハムが75才の時に、(創世記 12:2-3)「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」と言われましたが、実際何歳でイサクを与えられましたでしょうか?そう100才です。25年も待ったのです。ですからイサクがアブラハムにとってどれほど愛するひとり子だったことでしょうし、また神様には不可能はないという奇跡を示します。よって。しかし、神様はその子を全焼の犠牲として捧げなさい、と試されたのが今日の個所です。人間的に考えたら、あまりにもむごいありえないことです。なぜ、神はそのような形で、アブラハムが神様に従うかを試したのでしょうか。本日はこの受難節の時期にあたり、これは神様ご自身が一人子であるイエス様を十字架で捧げたことを示す型・象徴でもあることにフォーカスし、イエス様の十字架での受難と復活が神様の何千年前からのご計画の成就であることについて学ばされたことを分かち合いたいと思います。

ヨハネの福音書3:16では神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。イエス様の十字架での受難のもうひとつの側面で、イエス様と一つでおられる天の父なる神様が、アブラハムのイサクを捧げた以上に、御子を十字架につけたこと、それがどんなお苦しみであったかは想像を絶します。神様はイエス様と復活するまで霊的にも断絶されたのです。神様はそこまでして人間を愛されたのです。

旧約聖書を読めば、真の神様がご自分が創られた人間を生贄に捧げることを決して許されません。実際、古代の世界史や人類学とみても、いたるところで石や金属で作った神々や太陽などを礼拝し、人を生贄に捧げていたという遺跡や記録が残っております。誰も教えなくても、神の怒りをなだめるには誰かが生贄になる必要があると、人は古代からの観念があったようです。一方、これは、私の愛する子、私はこれを喜ぶ。(マタイ3:17)」とあるよう、イエス様は神様の愛するひとり子です。ですから、神様の意図は、アブラハムのこの試練を通して、神様がどのようにして私たち人間を救うかの型、そしてそれがどれ程の犠牲かを示していたのです。使徒ヨハネは神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を使わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」そもそも、なぜ罪のためにこんな犠牲、誰かが死ななければならないのか?というのは、最初の人間アダムとイブにまで遡ります。彼らは彼らが神様との約束を破り、善悪の木の実を食べて罪が入り、エデンの園から追われますが、そのとき神様は「皮の衣を二人に着せてあげた」と創世記3:21に書かれています。これが人間の罪のための、最初の動物の犠牲です。彼らのために動物が殺されなければならなかった。つまり神様から離れる、背くという罪は、何かの命をもってして、誰かが死んでその咎を負わなければならないほど深刻なことなのです。そしてのちに、神様はモーセを通して、祭司による幕屋での礼拝・罪のための動物の捧げも規定を定められ、それ以来、イスラエル人は罪のための動物犠牲をイエス様が来られるまで、本物が来るまでの型として何百年も続けてきたわけです。実物が到来すれば、もう型は必要なくなるように、イエス様が来られてからは、もう神殿での人間の祭司による動物犠牲は必要ないのです。イエス様は神様と人との間を仲介する大祭司でもあり、罪のための犠牲の子羊でもあり、一度で全人類分の贖い(罪のためのなだめ)を完了してくださったからです。

また、その十字架刑の場所はゴルゴダの丘ですが、これは実は歴史を遡ると、イスラエルの王・ソロモンが神殿を建てた場所でもあります。2歴代誌3:1ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。」つまり、アブラハムがイサクを捧げるように言われた場所もモリヤ山です。ゴルゴダの丘はモリヤ山の一部です。そして創世記22:7イサクは父アブラハムに尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全勝のいけにえの羊を備えて下さるのだ。」とあるように、神様はアブラハムを通してすでに、人が用意しなくても、ご自分の御子を犠牲の羊として用意し、モリヤ山でイエス様が十字架にかかることを示しているのです。

また、ヘブル人への手紙11:17には著者がこのアブラハムがイサクを捧げたことをこう解釈しています。信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出るものがあなたの子孫と呼ばれる。」といわれたのです。彼は、神には人を死者の中からよみがえらせる事も出来る、と考えました。それで、彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。彼は、神はイサクを蘇らせることが出来ると信じたのです。「これは型です。」とありますが、アブラハムが3日間の旅をしたと書いてあるのは、イエス様が3日目に死者の中からよみがえることを指し示す預言にここでもなっています。

また、過越しの祭りはまさにイエス様の十字架で、私たちの罪をなだめるための生贄の小羊となられることを表す神様がモーセを通して規定された祭りです。ですから、その過越しの祭りの時に、神殿で過越し用の大量の小羊(歴史家ヨセフスよると毎年256000頭の羊)が屠られたとされる まさにその過ぎ越しの日にイエス様は十字架上で息を引き取られました。

聖書が私について証言している」とイエス様ご自身がヨハネ5:39言われていますように、旧約聖書は全てイエス・キリストのことを様々な形でさし示し、預言しています。ぜひ皆さま新約だけでなく旧約聖書も通読して下さい。そのときは意味が分からなくても、日曜の説教の時だけでなく、バイブルスタディで一つの書簡を順番に学ぶことで、皆さまがより神様を知って信頼していくうえで益となり、信仰の成長を助けるので、お勧めします。そうすると、聖書は神のことばですので皆さまの人生を導き、もっと神様を個人的に知り、もっとイエス様についていける聖霊の働きに敏感になるよう教えられます。

最後に パウロもIコリ15:3-5で書いていますように「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと」、今年は331日がイースターですが、イエス様の十字架の苦しみ、死、埋葬そして復活があるからこそ、私達にも希望があるのです。イエス様が復活されたことは、神の子であることの公の証明であり、またイエス様が復活されたように、イエス様を信じる私たちもいつか永遠に生きる体が与えられるつまり、新しい体として復活するという約束が、新約聖書のいたるところでパウロにより啓示され書かれています。イエス様の十字架での受難は天の父が私たちの罪とがのためにひとり子の命を犠牲にされるためでした。しかしながら、イエス様の受難が、3日後に復活されるという喜びに変えられる、この復活が非常に大事なことであるのは皆さまもすでにご存じと思います。

では、このイエス様の受難が、私たちの生活、人生にどう関わりがあるのでしょうか。単に「人類の罪のためにイエス様は死なれた」という一般的な知識レベルの理解では、神様との、イエス様とあなたの関係は薄いかもしれません。どうかこれをもっと個人的に受け取って下さい「一人子であるイエス様が犠牲として十字架で捧げられたこと、その父である神様の苦難が、自分の罪のためだった、そこまで私を愛してくれている、そしていつか自分も復活の体が与えられるという希望がある」と。このことを毎日の生活で皆様は感謝して覚えておられるでしょうか?もし、真剣にキリストを信じ、神のこの大きな愛に感謝していたら、もはや以前のように自分のために生きることができるでしょうか?

これは私へのチャレンジでもあります。なぜなら、人生忙しいし、様々な問題、もしくはそのときだけの楽しみでエネルギーを費やされ、神様との関係を深める時間を後回しにしがちだからです。そして、“神様の御心がなりますように”と祈りつつ、実は自分の狙い・自分の願いがなるようにお願いしますといつも自分中心の生活をしてしまうからです。では 神様の願い・御心とはなんでしょうか?

「どれが神のみこころかわからない?」と自分の何かの決断のことにあてはめるのではなく、イエス様ご自身がヨハネ640で神の御心とは何かと言われていることに注目してください。「私の父のみこころは、子を見て信じるものが永遠の命をもち、終わりの日によみがえることです」。神様の御心は、どこの学校へいくとか、どこで働くとか、誰と結婚するかそういう細かいことより、もちろん、これらのことは神様の導きが必要ですから、“御心”ということばより、神様の“導き”は?と祈り求めることは重要です。しかし、神様の御心はもっと根源的なことです。最終的に救いに繋がれば、人生の様々な局面の導きが結果的に御心となるわけです。真剣に神様の愛へ応答するならば、神様の御心を優先順位のトップにして求めるように変えられるでしょう。つまり、自分のまわりの人が救われるかどうかという視点、どうしたらキリストにあって自身が信仰を持ち続けられるかという視点、で人生のあらゆる面を見るように変えられます。

この信仰を持ち続けるには、聖霊に助けて頂かないと自分の力では不可能です。しかし「神には不可能はない」とイエス様は言われましたから、神様が助けて下さり、導いて下さると約束を信じましょう。信じることは現在進行で、洗礼を受けたら終わりではなく始まり、この世の地上での旅路が終わるまで一生、信じ続ける必要があり、それには意識的に神様との関係を深め、信仰が成長していく必要があります。まだ信じていない方は、ぜひ今日聞いたら、その神様の大きな愛を受け入れようと、イエス様を救い主として信じようと求めて下さい、すると傍にいる聖霊はあなたに働きかけ、信仰へと導いて下さいます。神様の愛をどうぞ今日受け取られますように。

イエス様が代わりに罪のための犠牲の小羊となるため死んでくださったのは、愛をもって、私たちをご自分の子にしようと定めて下さり、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しようとされていたからです。これが神様の世界の基がおかれる前からの救いのご計画だとエペソ13-7に書いてあります。このことを、レントの時期だけでなく、いつも365日覚えるよう教会内で互いに励まし合いつつ、またイエスさまが再び来られることを待ち望み、その大きなイエス様の尊い犠牲と一人子を捧げて下さった神様に感謝し、神様のみ心を求められる様、キリストの愛の性質に内側が変えられるよう求めつつ、人生のすべての局面で神様に委ねていきたいものです。

(引用:口語訳聖書)

inserted by FC2 system