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益子教会でのメッセージ

   ○Mar. 18, 2018 「イエス・キリストが受けられた杯」
    ヨハネによる福音書18章1-11節
 
 
教会歴では今レント(受難節)の時期です。アメリカに住んでいて驚いたことは、レントが始まる日、いわゆる灰の水曜日に、街を額に黒い炭で十字架の印を付けた人が歩いている光景をみたことです。カトリックの信者さんがミサでつけてもらい、一日それをつけっぱなしにしているようです。受難節は悔い改めを表明するため(祈り、断食、慈善)を特にする時期ですが、本日はこのことを踏まえ、ヨハネの福音書18章より、イエス様の十字架での受難について示され・学ばされたことをわかちあわせて頂きたいと思います。
 
他の3福音書と比較し、ヨハネの福音書のユーニークな点の一つは、弟子ヨハネがイエス様の最後の晩餐の時からゲッセマネの園へ移動される間に、いわゆる弟子たちへの送別のみことばを13-17章というボリュームをさいて、詳細に記録しているところです。ですから、18章1節で「こう話し終えると」とあるのは、イエス様が弟子たちに13-17章で話された内容を受けております。これは、今まで群衆や宗教家達に話されていた公的な福音のメッセージではなく、弟子たちにだけ話された内容で、これから十字架への道を歩み、もはや今までのように一緒にいられないことを伝え、不安になる弟子たちにたくさんの励ましと約束、神様の大きな愛と信じる者たちがどのようにその愛を世に示していくか、助け主としての聖霊のこと等をイエス様は話されました。そしてイエス様はこう話し終えると、ユダの裏切りにより祭司長・律法学者たちにより、逮捕される場所であるゲッセマネの園へ弟子たちと向かわれたのです。
 
最初に、この聖書でイエス様の受難を示すいくつかの象徴に注目したいと思います。場所の名前ゲッセマネ(ヨハネでは園とだけ、他福音書ではゲッセマネ)、1節のキドロンの谷、この二つがイエス様の受ける受難を象徴しているそうです。また、剣、杯にもそれぞれ意味が込められていて、それを知ることを通して神様のご計画や意味を読み取ることが出来ます。まず、ゲッセマネの意味をご存知ですか?これはオリーブの圧搾という意味です。オリーブはぎゅっと圧縮、絞ると油がでます。おそらくこの園は当時、オリーブの木がたくさんあって、絞る場所に近かったのかもしれません。他の福音書が記しているように、イエス様がこのゲッセマネの園でこれから通られる十字架での受難について、神様に身悶えて祈られた場所、そして逮捕された場所です。ですから、この“ゲッセマネ”という言葉も、イエス様が身を圧縮されるような思い、つまりこれから受ける苦難・十字架のイメージをあらわしていると解釈されるそうです。
 
またこの“園“ですが、園というのは人間の歴史の舞台を象徴しているそうです。聖書にでてくる最初の園はどこですか?エデンの園です。エデンの園では、最初の人間アダムが神に従わず、結果人間に罪と死が生まれながら入ってしまったという、いわゆるエデンの園は人間の不従順と罪と死がもたされた場所です。それに対比して、ゲッセマネの園はイエス様が神様の救いの計画:人がその罪と死から救われるには誰かが代わりに罰をうけて十字架で死ななければならないというミッションをうける、そのイエス様の神様への従順により、イエスを信じる人々に義と命をもたらす場所です。最初の人間アダムとイエス様の対比は使徒パウロもローマ5章18-19節で説明しています。
 
次に、イエス様が渡られたキドロンの谷についてですが、当時の神殿の東側の谷で、そこの谷底に流れている川があります。キドロンの意味は“暗い”という意味だそうです。なぜ暗いかというと、その川上の神殿で、人の罪の贖いをするために大量の動物の犠牲が祭壇で捧げられていましたが(ヨセフス「ユダヤ史」によると、過ぎ越しの祭りのとき約256,000頭の羊)、その流された血がすべてこの川に流れていくので、川の色はいつも血で濁っていたそうです。キドロンの谷は罪の恐ろしさ暗さを示します。罪のない方であるイエス様は私たちの罪を担うことを象徴するように キドロンの川筋を歩き、向こう側へ渡られたのです。
 
次に、5節のイエス様が「私である」と言われたことについての意味についてですが、弟子であったユダの手引きにより、3節にあるようにその園にイエス様を逮捕するために総動員された武装した一隊の兵士(当時のローマ軍では一隊というと600人が単位)がやってきました。おそらく、イエスと弟子たちが他のユダヤ人の反ローマ過激派グループのように戦ってくると予想し武装してきたのでしょう。しかし、イエス様は4節にあるように、「ご自分の身におこることを何もかも知っておられ、るので、ご自分から進み出ています。夜で、明かりが全くない場所ですし、松明の灯では人の顔がよく見分けられない状態なのでイエス様は自ら出て行き4節「誰を探しているのか」と言われました。これはイエス様の弟子たちを巻き込みたくない、自分だけ連れていけという、弟子たちへの愛の現れと観察できます。イエス様はご自分を信じるものたちを、聖霊によって助け守るだけでなく、実際的な場面でも最後まで彼らがイエス様と共に逮捕されないように守られました。そして、イエス様がご自分で、6節「それは私である」と言うと、かれらは地に倒れました。なぜ倒れたのでしょうか><?これを原語ギリシャ語から直訳すると「私はある」ともなり、これは神様の名前です。それはどこにかいてあるでしょうか?出エジプト記3:14でモーセが燃える柴の中から、神様の声を聴き神様対話した時にモーセは神様に向かって「あなたのお名前はなんですか?と聞くと日本語訳では「私はあってある者」、ヘブル原語を直訳すると“私はある”です。つまり“私はある“というその神の名は、その一言で多くの武装兵も倒れてしまう程の力があるのです。
 
しかしイエス様が、ご自分だけを逮捕されるようにしていた配慮の邪魔をしようとした弟子がいます。ペテロは剣で切りかかり、大祭司の僕を打ち、右の耳を切り落としたのです。ペテロは一生懸命自分の主であるイエス様を守ろうとしてしたことでしょうし、彼が弟子の中で一番忠誠心と勇気、行動力の持ち主だったと思われます。彼が耳を切り落としたことが起爆剤で、もう少しで、血なまぐさい弟子たちと、兵士の間の戦いが封切られてもおかしくない状況でした。しかし、すぐにイエス様は僕:マルコスの切られた耳を付けて癒します。イエス様はここでも、ご自分に敵対する相手に、愛を示されました。
 
 ここで私たちがペテロの失敗から学ぶことは、なんでしょうか。まず、イエス様がおっしゃるように剣に対して剣、武力に対して武力で戦ってはならないのです。私たちは肉の戦いをしかけけられても肉で返さないという適用です。もしパウロはIIコリ10:4で「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力があるものです。」とあり、エペソの6章10-18節にある神の武具を付けて霊的戦いに挑む必要があります。攻撃の武器は御言葉の剣です。イエス様はサタンの誘惑に対しては全て御言葉で応戦し勝利されました。ペテロは聖霊を受けたペンテコステの日に、なんと御言葉の剣で3000人の人々の心を刺し悔い改めに導いたのです!(使徒2:37) 武力ではなく、み言葉の剣で戦い、どんな時も祈らなければならないとエペソ6:18に書いてあります。一方で、言葉というのは相手を刺し、傷つけていまいますから、わたしたちは、話す前に、言葉を慎重に選ばなければなりません。
 
二つ目の学びは、自分の力、才能に頼らず、神様にすべて委ねることです。ペテロは確かに弟子たちの中でもリーダーシップもあり、剣で戦う力もあり、よってプライドもあったでしょう。しかしイエス様は、すべての面で「私を頼ってほしい、そしてわたしから恵みを受け取ってほしい」と言われています。恵みを受け取るには、実は自分のプライドが砕かれる必要があります。自分の能力や才能で、努力することが悪いと言っているのではないのです。そもそも神様がそれらを与えて下さったのだから、神様のために使うのは良いことです。しかし、恵みというのは、自分がうけるにふさわしくない、と心底わかった人が、初めてこれは神様から頂けるプレゼントであり、恵みだと認識し、謙遜にさせられ、すべてを神様に委ねようと思えるように変えられていきます。
 
誰でも、どんな人でも、イエス様のこの十字架の苦しみが自分のためだったと信じて悔い改めて、十字架による贖いと復活されたイエス様を信じるなら救われます。救いこそ恵みだから、その人の性格ややってきたことに関わらず、信じるだけで、キリストの故に正しくない自分が、神の前に正しいと見てもらえ (つまり義と認められるということ)、永遠のいのちが与えられます。信じる前は、自分中心に生きてきましたが、信仰が与えられた後は、イエス様の救いを受けいつも感謝できるように内側が徐々に変えられ、人生の、生活の優先順位がキリストのために生きていきたいという思いに変えられていくことは、まさに奇跡です。
 
最後に今日のタイトルの杯について、触れたいともいます。イエス様の言われた「父がわたしにお与えになった杯」とはどういう意味でしょうか。旧約聖書では杯を飲むとは 神の怒りを受けることとして、表現されています。(イザヤ書51:17、エレミヤ25:15) つまり、杯を受けることとは、神の怒りを受け、苦しむことを象徴します。イエス様は、私達人間が本来受けるべき神の怒りの杯を、代わりに受けてくださったのです。「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、あなたの御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)と、イエス様はゲッセマネの園で祈られ、最後まで神様に従順に神様の御心が適うようにと祈られました。イエス様がこの杯を受けてくれたから、私は神様からの罪に対する怒りを免れることができるのです。御心とよく祈りに用いますが、この神様の御心とは、なんでしょうか?実はそうい祈りつつ、自分の願いがなればいいなと思っていないでしょうか。私はそうでした。しかし、イエス様がヨハネ6:40で言われています 「わたしの父の御心は、子を見て信じるものが、皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることだからである」と つまり、イエスを信じて永遠の命を得、復活することが、最終的な神の御心なのであって、地上でその目的に添うことが、すべて神の御心となるわけです。
 
神の御子であるイエス様の受難はなぜ必要だったのでしょうか?他に人類を救う方法を神様は考えられなかったのでしょうか?「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」とイエス様は十字架上で叫ばれました、その「なぜ」の答えは:イエス様が見捨てられることにより、私たちが見捨てられないようにされる”という神様の愛の故です。 神様は正義の方でもありますから、罪や悪はそのままにはしておかれる方ではありません。神様の愛と神様の正義の両方を満たすため、誰かがその罪を償う必要があったのです。イエス様が代わりに怒りの杯を受けてくれたから、私たちが神様の怒りを受けずに済み、赦されました。この神様の救いの計画は、エペソ1:3-7に書いてあるように、神様は私たちをご自分の子にしようと定めて下さり、天にある全ての霊的祝福をもって祝福しようとされ、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった」のです。このことをレントの時期だけでなく、365日覚え、その大きなイエス様の尊い犠牲に感謝し、神様の御心にそって日々歩めるよう助けを求めて祈っていきたいと思います。
 


 

   
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