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足利教会でのメッセージ

   ○Aug. 11, 2019 「キリストの平和の支配」
    コロサイ信徒への手紙3章12-17節
 
 
皆様 おはようございます。この度は、足利教会の礼拝にお招きにあずかり、みことばを分かち合う機会を与えて下さったことに感謝いたします。足利教会には、望月先生の就任式に参加した時が初めてでしたが、以前義理の父の大下秀三牧師が足利教会で仕えておりまして、その際家族共々皆さまにお世話になっていましたので、わたしも今回足利教会でご奉仕をさせて頂けることは、とても幸いです。
 
さて本日のメッセージのタイトルは「キリストの平和の支配」ですが、終戦から74年たち、8月は日本で特に平和について深く考える月間であります。世の中には、クリスチャンであるなしを問わず、核廃絶のため、世界平和のために素晴らしい活動をしている人々は大勢いると思います。一方で、多くの人が平和を願い何かしたいと思っていても、私を含めて、実際的にこのような活動にみなが参加できるわけではありません。本日は、平和の為に誰もが可能なことについて、一個人として、教会として、どのように生活の中でキリストあって平和を目指していけるかを聖書の言葉より、分かち合わせていただきます。
 
私は1990年代のまだネットも普及していない、情報も限られている時代に、世界の貧富の差はなぜおこるのか、なぜ戦争がなくならないのかと疑問を持ち、国際政治学を学び、国連や国際開発機関、NGOで働けば、仕事としてその問題に取り組めるのではという夢を持ちました。残念ながらその夢はかないませんでしたが、30代になって神様に将来の仕事に関して祈った時に、そのような国際機関で働かなくても、日本国内にも困った人はたくさんいると、まずは自分の周りの人間関係で平和を求め、そして人の助けになることができるはずだと示され、福祉の分野にキャリアを変更しました。そして40歳前半に父がアメリカ フィラデルフィアの日本人教会の牧師をしていたのでその手伝いのためアメリカに移住するまでは、高齢者の介護分野でソーシャルワーカー、いわゆるケアマネージャーのような仕事を東京でしておりました。そしてその仕事はとても好きでしたし、教会で様々な年代の方々と関わるとき、この仕事の経験で得たことはとてもプラスになっています。
 
その国際政治学のなかで平和学という分野があります。皆さまに質問ですが、平和の反対は何でしょうか? おそらく 戦争と考える方が多いでしょう。では戦争が行われていない国は平和なのかというと、どうでしょうか。ノルウェーのヨハン・ガルトゥングという平和研究者が提唱した、「構造的暴力」という概念があります。それによると、平和イコール戦争のない状態というのは「消極的平和」であり、積極的平和はこの構造的暴力がない状態だそうです。構造的暴力とは?それは社会に組み込まれている、不平等な力関係、経済的搾取、貧困、格差、政治的抑圧、差別のことで、これらがない状態が本当の平和だと述べています。確かにこのような平和こそ、私たちみなが願ってやまない人間社会の状態ではないでしょうか?しかし、この大きな構造的問題の前に、一個人は何ができるのか?もっと、個人レベルに落としていくと、願っても平和を保てないのは、互いの利害が相反すると、争う状況となるからで、それはまず家族の中から生じます。社会の単位は家族です。家族の中にも構造的暴力があります、それを虐待や家庭内暴力というのです。一方で、個人的に、大切な人の命を奪われれば、その奪った相手を赦せません。何か相手にしなければ気が済まないのが人間の感情でしょう。このように、この社会で生きている限り、いつも平和な心を自分の意志だけで持ち続けることは限界があります。
 
聖書によると最初の人間アダムが神様から離れ、罪を犯し、神様との平和を失って以来、その後の子孫である人間は生まれながら、そのような者だからです。では、生まれながらそういう人間だから仕方がないと諦めるのでしょうか。わたしのような小さな存在は、平和を願って、利益中心の大きな世界の構造的問題へ影響を及ぼすことは不可能なのでしょうか。
 
その可能性はイエス様を信じることにあると、聖書の多くのみことばを通して私は信じます。今日の聖書箇所をもう一度お開き下さい。コロサイ信徒への手紙 3:12−13節「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。?03:13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」 もし、私たちの生活の中において、これらのことを、キリストを信じている者同士が互いに目指し、そして教会外の人々に対して、こちら側の態度がこの教えにそっていこうとすれば、多くの争いは最小限におさえられるはずです。しかし現実は、教会内でさえ人間の集まりですから、問題がたくさんあります。教義や奉仕の意見の違いで言い争いが生じたり、自分の属している教団、教派だけが正しいと思い、違うグループを裁いたりという状況があるでしょう。しかし、キリストの体である教会こそが、平和的共同体であることを世にしめせなければ、クリスチャンと世の中の社会との違いはどこにあるのでしょうか?
 
では今日のメインテーマ キリストの平和に支配していただくには具体的にどうしたらよいのでしょうか?  そしてコロサイ03:15の前半「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」まず第一に、私たち一人ひとりが神様に自分を明け渡すことです。明け渡すとは、私が自分のやりたいこと、自分の思いを捨て、自分は神様に従います、と自分を差し出すことです。イエス様はマタイによる福音書16:24で「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を背負い、私についてきなさい」と言われました。このコロサイの5:12−13節のキリストの教えをしたいと思っていても、私たちの肉はそれが出来ないのです。なぜでしょう?なぜなら救われる前の古い自分を捨ててないからです。
 
 この自分を捨てる、と訳されているギリシャ原語アポルネオマイの意味は、「否定する、関わりを否認する、縁を切る」だそうです。つまり救われた後も、古い自分はむくむくと出てきますから、その度に、古い自分との関係を否認して、もう救いにあずかる新しい自分はキリストを主として従うことを思い出し、悔い改めて、神様に導きを祈ることです。私は以前の未熟な信仰の時の自分を振り返ってみると、いつも言い訳がありました。自分が正しい、相手のほうが悪い、もしくは自分に非があったとしても開き直っていた、つまり神様をイエス様を主と呼んでいながら、自分が主であって、古い自分の思いを優先させていたからです。しかし、その状態では、自分の心は苦いままで、相手との平和は保てませんし、そんな心の状態でよい行いや奉仕活動をしても、それによって私の心は相殺されないのです、神様は心をみるお方で、行いでごまかすことはできません。自分を神様に明け渡していこうとすれば、あとは神様が内側を平安な心に変えて下さるからです。私個人としても、その決心をしたのが30代で、それからも時間はかかって、今も現在進行形ですが、神様は少しづつ、わたしの内側を変え続けてくださっているその忍耐深さに感謝しています。
 
次にキリストの平和が私たちの心を支配するには、神様の愛を身に着けようと求めることです。14節でも「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。?」とあります。どんな立派な行いをしても、山のような信仰があっても愛がなければ何の益もないとパウロはコリ13章でいっています。もし自分のうちに愛がなければ、ローマ5章5節にあるように、聖霊により神様の愛を注いでもらえばよいのです。「希望は私たちを欺くことはありません。私たちに与えられた聖霊によって神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」私は自分の内側にいつもキリストの愛がないので、愛を与えて下さいと祈っています。感情的には相手に対して悔しい思い、納得できない思いがあったとても、それでも「神さま、私は相手を愛せないです、助けてください、相手に寛容になれるよう、赦せるよう助けて下さい、あなたの愛を注いで下さい」と祈れば、その祈りは必ず叶えられます。また、状況によっては想定外の脱出の道を神様が備えてくださることもあります。
 
私は、アメリカで、家庭集会を開いて信徒伝道をしていた時、また今も西那須野で聖書の学びの会を開いている際に、時に彼女たちの家族の問題を聞き、共に祈ることをしています。まずは悩んでいる彼女たちの心が、キリストの平和に支配されることを祈ります。聖書の言葉から励ましと、約束を彼女たちに示し、神様を信じて、祈り続け神様のタイミングと神さまの方法で助け出される希望を持つ事を励まします。そして問題となっている相手を憎んではならないこと、たとえ相手のとの関係で彼女たちの立場が不公平でも、不条理でも 自分の内側に平安が与えられるよう祈り、全てのことを神様に任せて今なすべきことするよう励まします。すると、しばらくして、彼女たちの方から、神様に助けられた、なんとかしのげたことを聞き、共に神様に感謝をします。もちろん、一遍に解決はしないのですが、一歩一歩というケースが多いのです。私は、彼女たちの証から、やはり神さまは生きていて、一人一人の人生に働かれているという証を聞き、彼女たちの心が平安に少しづつ変えられていくのを見て励まされます。
 
コロサイ03:15後半、「この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」パウロは他の手紙でも記しているように、教会とは建物ではなく、キリストの体だと言っています。わたしたちが招かれて一つのキリストの体とされたのは、平和にあずからせるためだとパウロはここで書いています。なぜならキリストご自身が平和だからと、パウロはエペソ人への手紙2:14−15で述べています「2:14キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除く」と それは、キリストにあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせるためだと。つまり教会の目指すところは、人の共通の思い、人間的和合で一致を目指すのではなく、聖霊によってもたらせる一致であります。パウロは1コリント12:13で「一つの霊によって わたしたちはユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと 皆一つのからだとなるために洗礼を受け、みな一つの霊をのませてもらったのです。」とも言っているとおりです。教会として一つになれれば、おのずと神様にいつも感謝する心になります。
 
そして16節に「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」とあります。その為には、いつもみ言葉に触れている必要があります。み言葉は私たちの霊に必要な糧ですが、肉の思いは、日曜に聞いた説教を、建物から出た瞬間に 今日は何の話だっけ?と忘れてしまいます。忘れるのはノーマルなことですから、繰り返し、聖書の言葉に触れ続ける、するといつか、心に宿る、聖霊により心に書きつけられると、徐々にその人の言動に影響していくでしょう。
 
まずは、キリストの平和により支配された心で、自分の家族、自分の教会の兄弟姉妹、そして教会の外の職場、学校、地域の人と 付き合っていくことが私たちが実践できる平和の一歩ではないでしょうか。キリストのよる救いにあずかって初めて、神様との平和が与えられます。言い換えれば、最初に神様との平和を得るまで、私たちは真の平和を持つことはできないのです。それは感情で説明されるものではなく、私たちがした事、思ったことによるのではなく、主キリストのなされたことから来ています。キリストこそが平和であり、十字架の死によって、まず人が神様と和解できるようにして下さり、その上で人同士の平和が広がることが可能だからです。
 
教会がまず 平和の態度を貫き、たとえ経済的に損になるとしても争わず、世の中と違うということを示していく、そしてなぜキリスト教を信じる人たちは争わず、柔和なのだろう、ああ あの人たちの信じているイエス・キリストがそういう方で、それに倣おうとしているからだ とアンテオケで最初にクリスチャンと呼ばれた信徒たちのように示せれば、キリストの平和にある福音に人々を引き寄せることが可能です。わたしたちは、牧師・教師のように宣教の言葉を語れなくとも、全ての信徒がキリストの愛を平和の態度で表していくこと、それが神様の助けによって可能だからです。 教会が、愛のきずなで一つとなることの具体的な内容が、続く16節後半 「知恵をつくして互いに教え、諭しあい、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。?3:17そして、何をはなすにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父なる神に感謝しなさい。 」とあります。これらは日曜の礼拝に現れていますが、日常生活のなかでも、賛美と感謝を忘れず、何をするにも、イエス様だったらどうするだろう と 自分の感情や思いではなく、キリストの平和が支配するように、一つ一つの決断、行動に移す前に、神様に明け渡すことを覚えたいと思います。
 
キリスト抜きの平和は一時的で、条件付きであり、不完全です。しかし、人の心にある平和を求める思いが、キリストを信じる信仰に結び付けば、完全とはいえなくとも 持続可能な平和につながるという希望がもてます。なぜなら、キリストの霊が私たち 神に赦され、神と和解されたもの同士を一つにし、キリストの愛の教えに従おうと、祈って神様に助けを求め、その方向性で動こうとしていくからです。
 
最後に イエス様のことば、「平和を実現する人々は幸いである その人たちは神の子と呼ばれる」マタイ5:9 争う人ではなく、平和をつくる人であり続けるには、とにかくあきらめず、神様が私たちの内側を変えて、知恵と力を与え助けて下さると信じて キリストの平和によって心が支配されるよう 日々祈り求めて参りましょう。
 


 

   
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