Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

   ○Apr. 18, 2021 「み言葉に生きる」
    
 
 「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」 申命記30章11-14節
 
  本日の聖書の箇所は、益子教会の2021年度の年間聖句であり、2021年のビジョンが「みことばに生きる」として、先週の総会でも大下牧師から話があったと思います。この申命記の箇所から、みことばに生きるとは具体的にどういうことなのかを、聖書により私が示されたことを分かち合わせて頂きたいと思います。
 
 まず、この申命記の箇所がどういう文脈で書かれたかをご説明したいと思います。申命記は旧約聖書でモーセ5書といって、預言者モーセが記したとされる最初の5つの書簡のなかの5つ目で、4つの書簡のまとめのようになっています。英語の聖書ではDeuteronomyといって、このDeuはもう一度という意味で、申命とは中国語聖書からとられていて「繰り返し命じる」 という意味です。モーセがすでに述べた命令をもう一度、特にイスラエルの民はエジプトを出てから40年も荒野にいて次の世代と代替わりしていますので、神様がモーセに与えられた律法をイスラエルの民に繰り返し命じている内容となっています。モーセの死ぬ前、民がこれから約束の地に入る前、民に向けて話した説教とされています。
 
 この申命記30章の内容はモ―セを通して与えられた神様とイスラエルとの契約についてで、イスラエルの人々のうえに、神様に従順であればいただける祝福と、不服従であったときにそのうえに下る呪いについて書いてあります。その契約とは主の命令に従えば祝福を受け、命を得、従わなければ呪いとなり滅ぶということです。イスラエルの民は、神様がアブラハムから起こして選ばれた民で、神様からの約束や祝福を与えられている民であり、そのユダヤ人の子孫としてイエス様も人として生まれ この神様の祝福と恵みがイエス様を通して全ての民族に及ぶというのが神様の計画であります。しかし、モーセの死後、イスラエルの民は異教の神を拝むようになり、神様が何度も預言者を送って立ち返るように促しても従わなかったので、結局ユダヤ人はバビロニア帝国に彼らの国を滅ぼされてしまいました。そして、紀元70年にローマ帝国に完全に国を滅ぼされ、他国へ離散し、現在のイスラエルという国は、1960年代に再建され、離散した人々が帰還してきていますが、いまだにほとんどのユダヤ人はイエス様をメシヤとして信じていません。しかし、神様はユダヤ人を見捨てたわけでなく、その回復も預言され、いつか救われることも旧約聖書に記されてあります。
 
 今日の箇所の直前30章8-10節は神様に心を尽くして聞き従った場合の祝福が書かれていて、そして11-14節に続きます。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…14節 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」この聖書の箇所は、何百年後になって使徒パウロにより、ローマ信徒への手紙第10章5-10節 で、イスラエルの民に対してだけでなく、イエス・キリストを信じる全ての人の信仰について適用されています。「5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。?6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。?7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。?8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
 
 そして今日の節に続きます。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」この聖書の箇所は、何百年後になって使徒パウロの手にわたり、イスラエルの民に対してだけでなく、イエス・キリストを信じる全ての人の信仰について適用されています。ローマ人への手紙第10章5-10節 。「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
 
 申命記の中で神はその命令について話され、それは遠くにあるのでもなければ、神秘的なものでもないと言われたのです。そのみ言葉はなぞでもなければ、理解するために難しい神学を勉強する必要もないです。それを探すためには天国に昇ることも、地の底に下る必要もないのです。それは非常に近く、つまり私たちの口と心の中にあるというのです。そして これらの言葉(ロゴスではなくレーマという「話し言葉」の意味のギリシャ語をパウロは使っています)は、主イエス・キリストと、その復活についての信仰を語るときに使う言葉で、わたしたちに宣べ伝えられている信仰の言葉なのです。
 
 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 」ローマ信徒への手紙10章9-13節
 
 私たちも、イスラエルの民同様、神様に従えなくて呪いを受けてしまうという、罪のゆえに弱さを持つ人間で、パウロが5節で言っているような「掟を守り、掟によって生きる」ことが出来ない者です。しかし、神様は私たちに、み言葉に生きることが出来る道を開いて下さいました。イエス様による救いが示されているみ言葉を信じる信仰によって、神様の祝福と恵みを受け取る事が出来るようにして下さったのです。神様がイエス様の十字架をとして、新しい契約を私たちに与えて下さった、それが新約聖書の中心である福音であり、キリストを心で信じて、口で告白すれば救われるということです。
 
 ですから、信じること以外に、救われるために修行をしなければとか、献金をしなければならないとか、奉仕をしなければならないとか、聖書を理解するために知識をいっぱいつめ込む等は救われるための条件ではないのです。それら自体は良いことで、救われた結果、神様の愛に応答して自発的に行いはでてくるものです。もし行いで神様に正しいと認められるのであれば、イスラエルと神さまが結ばれた契約のままで救われるわけですが、実際はそれは不可能であることは、イスラエルの民の歴史を通して、また人類の今迄の歴史を通して証明されているでしょう。この福音について、神のみ言葉はあなた口のなかに、そして心の中、あなたのすぐ近くにあるということをローマ人への手紙第10章9節に、パウロは要約してくれています。
 
 現代に生きる私たちは、自分の心で、神様が死人の中からイエス様をよみがえらせたと信じて、それを口で言い表せば、それで救いは完成なのです。神様の約束であるみことばを心に信じれば神様が私たちを正しいとみなして下さり救って下さるからです。みことばに生きるとは具体的に、みことばがいつも私たちの心にあり、口からそれが随時湧き出る状態で日々生活することではないでしょうか。
 
 私たちはごはんを全く食べない日がありますか?忙しいから、日曜だけ食べればいいや ということはないでしょう。時間がなくとも、毎日少しは食べますし、自分が食事を取るのに、義務だと思いませんよね。自分が食べたい、お腹がすいたと欲するから食べるのであって、病気の時は食欲がわきませんし、病気であればそれを治す必要があります。また、食べたものが体の健康に影響します。スナック菓子ばかり毎日食べていたら、必ず体が壊れます。バランスよく良い物をたべるのがベストですが、それができなくとも、せめて体に悪いものを取り入れないようにすることは出来るでしょう。
 
 そうでしたら、尚更、霊の、魂の、心のご飯も毎日必要なのです。聖書のみことばは日曜日だけで充分でしょうか?毎日、体に良い物を少しでも食べないと体が病気になるように、みことばという、私たちの霊に必要な糧を毎日頂く必要があるのではないでしょうか。勧めですが、毎日み言葉に少しの時間でも触れるように工夫する、時間を創ることをされるのが良いと思います。例えば、朝15分早く起きて、聖書を読む。読む箇所は益子教会ではローズンゲンという本から抜粋して毎日読む箇所を月ごとにお配りしています。(みことばカレンダー)新約と旧約から一節づつですから、読むのに2分もかかりません。もっと読めれば、それにプラスしてその前後を読んでもよいでしょう。またネットでも#聖書# #デボーション# と検索すれば、毎日のみ言葉が示され、そのコメントが書いてあるデイリーブレッド(日々の糧)というサイトもあります。現代は今迄にない程、たくさんの媒体を使って聖書に誰でもアクセスできる時代というのは幸いです。
 
 魂が心がみことばを欲していなければ、それは霊的に不健康だということです。そのことを自覚しないで、忙しいからとかまけていると、みことばに生きる生活は困難となり、この世の価値観にずるずるひきずられて、気がついたら信仰がない人と同じような考え方行動をとってしまう危険性があります。ですから、なるべく、みことばに毎日すこしづつ触れていくことを心がけることをお勧めします。そうしますと、日曜日のメッセージを聞くときも、理解しやすくなります。読んでいても分からないことは、牧師に聴いたり、また説明されても自分の中で納得いかない、腑に落ちないという箇所は、私もあるでしょう。しかし、そのわからないことに目を留めるのではなく、それはいつかわかるように神様が個々人の信仰の成長とともに示してくれるので、お任せして、今理解している信仰のはかりに応じて、日々神様に感謝し、その恵みを覚えて、賛美を車の中でも、頭の中でも 生活の中で神様に捧げていきましょう。良い習慣により、かならず半年後、1年後と振り返ってみると、自分の霊的な成長に気がつかされると思います。
 
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
 
 みことばは、難しいものでもなく、私たちの心に、口にあるのです。そして、私たちが日々生きる道の足元をてらす灯、道のひかりです。神さまのみことばに導かれて日々生きて行きましょう。
 
引用 新共同訳聖書 

 

   
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