Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

   ○July. 18, 2021 「最初の者にして最後の者」
    
 
 「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」 ヨハネの黙示録1章17-19節
 
 ヨハネの黙示録は、皆様にとってどういイメージでしょうか。他の書簡、福音書のように、よく読みますか? 黙示という単語は原語で「アポカリプシス」で、「覆いが除かれ、明らかになる」という意味で、英語ではRevelation と言いますが、「除幕」という意味もあります。銅像とかにかかっている「覆いを取り除くこと」の意味がありますから、覆い隠されていた神様の示す計画が明らかになるという意味があります。つまり、黙示録は、人に分からないように、難しく書かれた書物ではなく、むしろ、これまで明らかにされていなかった内容が示されるという書物 であります。
 
 黙示録の構成は、1章19節に示されています「さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」3つの部分にわけることができます。1章を、「見たこと」に区分けでき、黙示録2章と3章が「今あること」で、イエスさまがこれからメッセージを送られる7つの教会のことです。そして、4章から最後の22章までを 「今後起ころうとしていること」となります4章1節に「ここに上ってこい。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」とあります。今ある教会の後に起こること、また諸説ありますが、教会が携挙された後に起こることが黙示録4章以降に書かれているとされます。
 
 黙示録は1節「神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである」とありますように、天使とヨハネと天使の会話が出てきます。 私たちが黙示録を読むときに、3節「時が迫っている」こととして読むことが必要です。また、黙示録では、イエス様の天上での姿がどのようであるかを幻の中でヨハネが見た様子により知ることができます。「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」1章12-16節
 
 想像力が乏しい私にはイメージしにくいのですが、とにかくこの世の物ではない、栄光に輝くお姿であることは確かでしょう。地上で生きている時の体で天上のイエス様を見たり、声を聞くと、人は大体ショックで倒れてしまうようです。1章17節「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。」
 
 これはヨハネだけでなく、旧約聖書のダニエル書を記したダニエルも同様な経験をしています。ダニエルも、天使から啓示されたとき、意識を失って倒れたことが記されています。「私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。」ダニエル書 10章8-9節
 
 そして、同じ天使を通しての啓示であっても、ダニエルに対して御使いは、 「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。(ダニエル 12:4)」 と言われ、時が来るまで秘められて、封じられているのがダニエル書ですが、黙示録はその時が来たので、明らかにしなさいという内容です。 「人の子のような方」については ダニエル書10章において、メシヤのことが「人の子」と呼ばれています。イエス様が地上におられる時、ご自分のことを「人の子」と表現されていたのもそれです。そして、もう死んだが生きかえって、今も生きておられるイエスさまが、教会に対して語るべきメッセージを持っておられ、黙示録の2-4章に7つの教会へにメッセージということで示されています。
 
 黙示録が書かれた時代は、ローマ皇帝ドミティアヌスの時で、クリスチャンに対する第二回目の大迫害がありました。第一回目は皇帝ネロの時で、その時にパウロとペテロが殉教しています。第二回目の大迫害のときに、ヨハネはパトモス島に流刑されました。96年にドミティアヌスが死んだので、ヨハネはエペソに戻り、再び教会の監督を始めた、という歴史的な記録があります。その時に、ヨハネは、パトモス島で受けたイエス・キリストの啓示を書き記したとされています。もしくは、流刑を解除されて、エペソに戻ってから記したかもしれません。 私は旅行でパトモス島に行ったことがありますが、観光地として「ここが、使徒ヨハネが流刑の時に住んでいた洞窟です」と紹介されたところにいきました。それが本当に当時ヨハネがいたところかどうかは不明ですが、すぐ横に美しい教会が後から建てられています。黙示録は、その内容が象徴的用語で多く書かれていて、いわゆる黙示文学とされていますので、そのまま読んでも理解できない箇所がたくさんあります。しかし、象徴的に書かれていても、その後に解説が書かれているところもあります。例えば、7つの星は7つのみ使い、7つの燭台は7つの教会、12章にでてくる竜はサタンだと示されています。
 
 さて、今日の箇所ですが、「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。」原語では「私はアルファでありオメガである」となっていて、アルファは新約聖書が書 かれているギリシャ語アルファベットの最初 の文字 、オメガは最後の文字ですから、「最初で最後、初めで終わり」と日本語で訳され、黙示録のなかだけで3回この表現が記されています。これはどういう意味かというのを考える時、イザヤ書で神様がご自身がどういう方かを宣言される箇所が参考になります。
 
 「イスラエルの王である主イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。」イザヤ書44章6節 
「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。」イザヤ書48章12節 
 
 神様は永遠に生きておられる方ですから、時間に支配されない方です。ですから、時間的な意味の初めと終わりという意味ではなく また、神様ご自身に初めや終わりがあるわけではなく、これは、「私たち人間 にとって、「神さまが初めであり終わりなのだ」ということと解釈できるでしょう。神様の全体性やすべてを統治しておられるご性質を現す表現と言えます。また、使徒パウロは以下のように記しています。 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。 」(ローマ信徒への手紙11:36)
 
 つまり、すべてのものが神様の栄光のために創造され、神様の栄光を現わすために存在しているということを理解すると、最初の者にして最後の者である神様の自己紹介が納得しやすいでしょう。 この言葉がヨハネに記された時、キリスト教に対する迫害が激しく、ヨハネ以外の使徒は皆、殉教しています。イエスさまを信じている人は、イエス様の教えに従い、迫害されても武力で対抗せず、捕まったら処刑されるか投獄されるかと、当時多くのクリスチャンが殉教していきました。そんな状況で流刑となり、孤独の中にいた使徒ヨハネに、イエスさまが「私はアルファでありオメガである。」と言ってくださったのです。
 
 では、「あなたにとって、わたしが最初で最後 だよ」というイエス様の言葉は、 具体的に私たちの生活の中でどのように適用していけるでしょうか。イエス様はこういわれました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書28章20節 時間や場所に制約されないイエス様が、どんな時でも、つまり良い時も、苦難の時もいつでもどこでもあなたと一緒といって下さります。私たちにとって、イエス様は聖霊として私たちのうちに住んでくださるので、いつも共にいて下さることが可能であるわけです。そのイエス様が私たちの全てを把握しておられ、私たちを守り、導いていてくださる方であることを、生活の中で思い起こすことが出来るのは幸いです。そうすれば、どんな状態や境遇にあっても 乗り越えられるように力と忍耐と愛、そして上からの知恵が与えられ、状況さえも変えて下さると信じられるのではないでしょうか。逆に、この信仰なくして、どうやって自分の力だけでこの大変な世の中を歩んでいけるのでしょうか。
 
 私たちは生きていれば思い煩うことはあります。それがノーマルですが、その思い煩ったことを自分で抱えず、神様に委ねることができるのは幸いです。第一ペテロの手紙に「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(第一ペテロの手紙5章7節)とあります。ここで、「何もかも神にお任せしなさい」と訳されている箇所の原語は「神に全て投げなさない」です。つまり、全て丸投げしなさいということです。自分が祈ったことは、全て神様に聞かれていると信じ、また祈りの答えとしてあたえられたことを、たとえ自分の願い通りでなくとも、受け取る覚悟が必要だと思います。自分の想う通りに神様が答えてくれると願っている限りは、神様に委ねておらず、或る意味、「この部分だけは神様お任せします、後は私がしたいのです」と言っているようなものです。神様に、問題を丸投げしたならば、神様は各々にとって良い方向へ導かれると信じ、それが自分の想い描いたとおりでなくとも、受け止めるということです。また、時には答えを待つことが必要です。ただ待つのではなく、神様を待ち望むこと。希望を持って待ち望まなければ、苦痛となり、諦めて、神様に不信感をもってしまうかもしれません。
 
  多くの人は、この神様の与える大きな恵みを知らずに、頑張って自分の力や人間同士の助け合いで生きています。しかし、コロナ禍のような苦難の時、頑張っても協力しあっても限界がある、八方ふさがりの状況があると思います。だからこそ、そんな絶望してしまう時、イエス様を求める心がおこされ、求めれば、イエス様を見出せるはずです。マタイによる福音書11章27-30節 に「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
     
 イエス様の救いを知らない人は、まずイエス様のもとへ行く必要があります。イエス様を知り、そして信じて、重荷をイエス様に委ねる。そして休みを得、生きる希望と力が与えられます。そして、そこで終わりではなく、柔和で謙遜なイエス様から学び続ける。これは信じた私たちも、一生、師であるイエス様の愛と慈愛を学び続けていく必要があります。そうすれば、安らぎを得られます。そのためにも、自分自身もみことばから学びつつ、様々な方法で周りの人にイエス様の愛を示していきたいものです。私たちは、この与えられた恵みを先に受けた者として、自分の与えられた環境のなかで、機会を求め、なんとか、アルファでありオメガであるイエス様にある希望を、生きる意味を知らない方々に伝えていきたいと願います。それが、直接言葉で伝えられなくても、行動でもイエス様の愛を示すことが可能です。私たちは行いにも、話す言葉にも、全てキリストを証しするものでありたいと、なかなかできませんが、目指していきたいと思います。
 
引用 新共同訳聖書 

 

   
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