Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

   ○September 19, 2021 「賛美する口を」
    
 
 「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。 泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出るでしょうか。 わたしの兄弟たち、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができるでしょうか。塩水が甘い水を作ることもできません。」 ヤコブの手紙3章9-12節
 
 本日は、ヤコブの手紙からメッセージを分かち合わせていただきます。このヤコブは、イエス様の人間上での異父兄弟で、イエス様が復活される前はイエス様を信じていませんでしたが(ヨハネ7:5)、復活後「その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。(1コリント15:7)」とありますので、ヤコブは復活されたイエス様に会い、それ以後信者になり、キリストの弟子となったようです。さらに、初代教会ではヤコブは指導者の一人として認められていたようで、彼は使徒の働き15章に記されるいわゆる使徒会議で、異邦人と律法との関係について最終的な決議を出した人で、パウロがガラテヤ信徒への手紙(2:9)でのべているように使徒ペテロ・ヨハネと並び教会の柱として重んじられていたようです。
 
 この手紙の書き出しで、ヤコブが自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべ」と言っています。「しもべ」の聖書の原語ではデューロスであり、最下位の奴隷をさします。ヤコブは肉の上ではマリアさんから生まれたので親族でありますが、それを超えて、自分はキリストの奴隷であるという認識を持っているほど、イエス様を神の子、救い主であると信じていたのでしょう。また、手紙の宛先が「国外に散っている12部族へあいさつを送ります。」とありますが、エルサレムやユダヤ以外の、世界中に散らばっている離散のユダヤ人信者を指しているのではないかと言われています。なぜなら北イスラエル国の部族はアッシリア帝国の捕囚以降失われてしまったといわれていますが、もしかしたらサマリヤ人でキリストを信じた人々にも宛ているかもしれません。
 
 さて、本日の聖書の箇所は一言でいいますと「口から呪いではなく賛美のことばを発しましょう」でしょうか。しかし、口をコントロールするのは容易ではありません。クリスチャンでも悪い言葉をつい発してしまうことはあるでしょう。例えば、教会に来ている人が、日曜の礼拝に賛美歌を高らかに歌い、神様に感謝の祈りをし、説教を聞いて心満たされて、教会の敷地を出たとします。そして家路につくため車の運転を始めたとたん、信号を無視しして飛び出して来た相手の車がいたら、つい罵声を(車内なので相手には聞こえませんが、神様は聞いてお居られます)上げてしまいます。こんなことが残念ながら、おこりうるでしょう。
 
 アメリカですと、文化的に西欧はキリスト教が土台であるがゆえに、日本とは異なる表現が呪いのことば(Curse Words)となっています。日本では、あまり言いたくありませんが悪い言葉の例として、自身に嫌なことが起こったり、相手にたいしてイラッとすると「ふざけんな!」(すいません)と言う人がいたりしますが、それと同じ状況で欧米では「ジーザス・クライスト!」「ジーザス!」という人がいるのです。よくハリウッド映画を見ていると耳にするでしょう。イエス様の名前を呪いのことばに使うなんて信じられませんが、現実汚い言葉、罵倒する言葉を使う人々の間で使われているのが悲しいことです。自分の名前がそんなふうに使われていたら、いやです。ましてや、神の子であるイエス様の名がそのように扱われるとは恐れ多いことです。
 
 現代は言葉が口からというより、SNSという媒体によって一瞬にして、全世界に毒を拡散し、多くの人々が被害を受け、最悪の場合は人を自殺に追い込みます。ヤコブの手紙3章5節から8節までの「口」をSNSに置き換えて読んでみると怖い程ぴったりします。SNSは、自分の名前を示さずして、無責任に、一瞬にして嘘、デマ、誹謗中傷を拡散します。私はあの書き込みの行が次々に表示される画面がTVにでると寒気がします。SNSは便利な面、いい面もあるかもしれませんが、悪い面が多すぎます。私たち夫婦はいったんアカウントをつくると制御するのが難しいので最初からラインをしませんし、ネットの書き込みもしません。ネットの活用は、必要な情報だけを調べ、必要な事項だけE-メイル等でやりとりをするだけにしています。
 
 ヤコブの手紙は成熟したキリスト者の歩みをするためのきわめて実際的な指導書であると言われます。ですから、ある意味こうもとれます。ヤコブの手紙は私のように、まだ成熟していない者にむかってのゴール・指針を示す書簡ととると、今の時点で舌をまだまだ制御できない者にも希望があります。「クリスチャンはこうあるべき、そうでなければ、失格」ではなく、このような成熟さを目指して、キリスト者として歩もうと励ましと戒めにとれば、失望せずに神様の助けを求めて、自身の口を制御し、行いの伴う信仰を持てるよう目指していきたいと思います。
 
 先日、ゴスペル賛美礼拝に来ている方が、感情のコントロールの話を分かち合っておられました。クリスチャンになる前は、またなった後も暫くはイラッとすると、つい悪い言葉をいい放ってしまう、特に車の運転している時がひどかったが、最近は、神様によって心に変化が与えられそれほど反応しなくなりました、悪い言葉も言わなくなったと言っておられました。私も、以前は罪の意識なく、悪い言葉を発していましたし、人のうわさ話に参加していました。しかし、この聖書の教えを知ってからは、気をつけるように意識し、今はだいぶ神様によって変えられていることは幸いであり、また、聖霊がそれはよくないよ と示してくれているので、ストップがかかります。
 
 命令やきまりというものは、何々を「してはならない」、これこれを「しなさい」という2種類に分かれます。他者を呪うような、悪い言葉を口からだすなというのは、前者の「してはならない」に属しますが、単に、「してはならない」ことばかりを意識すると、とても窮屈で疲れてしまいます。ですから、してはならい命令を意識するのではなく、逆のことをいつも心にとめるよう意識したほうがよいのです。その逆とは、神様を讃美すること、そして、エペソ人への手紙4章29節にパウロがかいていますが、口語訳ですと「悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 」というみことばを意識するとよいでしょう。
 
 例えば、自分が相手と話すときに、まず必要な事を話す。むやみに話すことは失敗につながりやすいものです。時には沈黙があってもその沈黙を破ろうとして、自分から話さないことも一つの知恵です。ペテロはヤコブとヨハネと共に、イエス様と高い山に登り、そこでイエス様が栄光に輝かれた体に変わり、モーセとエリヤと三者会談をしていたことを目撃したきのことが記されています(ルカによる福音書9章33節)。驚いたペテロの発言のその時の発言は、イエス様とモーセやエリヤを同等のレベルに置いて小屋を3つ建てましょうというその場にそぐわない的外れでの発言です。だから、「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。」とのコメントが聖書に記されています。このように、何を言うべきが分からない時は、黙っていた方がいい時があります。とりあえず何か話をつながなければと下手なことをいわないほうが賢いでしょう。かえって、相手が話しだそうとしているのに、こちらがその機会を奪ってしまうこともあります。ヤコブの1章19節「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くには早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」と 記されています。一方、今「この時」に話さなければならないこともあり、それについては勇気をもって発言すべき時もあります。それが必要な時です。
 
 次に、人の徳を養うのに役に立つ言葉を話すこと。これは難しいですが、要は、これから自分が言おうとしていることが、相手の霊的な益になるか、助けになるかを頭で考えてから、言葉を選んで話すことです。これは折にかなった聖書のみ言葉から引用もしくは、類推したことをいうことがよいと思います。この状況でどのみことばを引用して、励ましたらいいかとか、頭で考えてから発言するというのは訓練がいります、しかし、この頭の作業を続けていくと、次第に意識するようになります。余計なことをいって、相手を傷つけたり、相手から「裁かれている」と取られてしまうことを防ぎます。
 
 そのためにも、自分自身が日々み言葉を読み、読むだけでなく生活に適用できるよう意識するように努め、今年の年間の指標「みことばに生きる」が、それです。失敗もありますが(私は日々失敗あります)、そこで落ち込まず、神様ごめんなさいと謝って、赦して頂き、しきりなおします。クリスチャンは結局、この世の知恵や励まし、希望や慰めの言葉で、他者の徳を養うのは限界があり、良かれと思って言ったことが必ずしも相手の益につながらないことを知っています。しかし、私たちは人間の思いを超えた神様の知恵と知識、み言葉がを与えられています。また、主イエス様の十字架で示された愛、これ以上の愛はないし、これを除外した人間同士の平和や希望は限界があると知っています。いくら、この世的に賢いように見えても、キリストが示す愛がなければ、意味がないわけです。
 
 また、みことばがその折に浮かんでくるためにも、賛美をいつもBGMに流すことはおすすめです。なぜなら、音楽というのは非常に脳に影響力があり、そのリズムと歌詞は残るものです。ですから、いつも心に賛美を頭の中で流していると 結局その讃美の内容が聖書の箇所に基づいているものが多いので、みことばが頭に残り、自身が霊的に引き上げられるからです。賛美の目的は神様をほめたたえることですが、同時に賛美を捧げている者も益を受けます。また一人で歌う賛美よりも皆で歌う賛美はもっと素晴らしいです。今コロナ禍で教会に集まって賛美できない信徒の方々もいます。集まっても、1番だけしか歌わないとか、奏楽だけ流すとか、今迄当たり前のように会衆で大きい声で賛美出来たことが出来ないのは悲しいことですが、むしろ制限されればされるほど、出来た時代の有難みを感謝する事が出来ます。
 
 先日、オンラインで参加した礼拝音楽のワークショップに参加し、オルガン奏楽の技術的なこと、その歴史、また今コロナ禍でどのように工夫して礼拝賛美をしているかを知ることができました。一人の牧師はこういっていました、礼拝時間に今まで5曲歌っていた賛美を2曲に減らしたけれど、かえって一曲一曲の歌詞を味わって、大切に歌えるという利点もあると。イギリス人の牧師が言っていたことは、イギリスではロックダウン中は礼拝堂に牧師も、奏楽者もだれ一人入れない状態が続いたそうです。完全に締め切り状態で辛い時期だったと。彼はこの4月から日本にきて、日本で教会で賛美が感染対策をしながらも行われていたので感動したそうです。
 
  私たちへの神様からの励ましは、どんな状況であっても 私たちから賛美を奪い去ることは出来ないということです。なぜなら賛美は信仰の表明であるからです。どんなスタイルでも、たとえ戦時下であっても、牢獄に入れられていても賛美はできます。パウロとシラスは牢に入れられていても、アカペラで賛美を二人で歌い祈っていると、他の囚人の方が聞き入っていたと聖書に記されています。そして、突然大地震が起こり、牢の鍵が全て開いてしまい、看守が自殺しようとすると、パウロが止めました。私たちは逃げないでここにいると。つまり、他の囚人たちは、逃げられる状況であったのに逃げなかったのです。そしてその看守は家族ともどもキリストを信じました。このように賛美には力があります。
     
 私たちは、単に、道徳的や人道的に口を制御しよう、悪口を言わず、相手の徳が高まることを言うようにしようとしません。それだったら、聖書以外でも、他の宗教でも人道的に言われていることです。なぜ私たちがみことばによる教えに従おうとするかという動機は、ローマ信徒への手紙14:15にあるように、互に裁き合わないように、特に何を食べるか食べないかで兄弟を裁いてはいけないとパウロがローマの教会の信徒に記していますが、新改訳では「もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」とあります。この新改訳の「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」がポイントだと思います。愛によって行動しようと思うなら、まず口から発することを聖霊の助けによって、コントロールするよう意識し、神様が愛しなさいといっているから私たちはそれに従おうと思う。これが、私たちの信仰にもとづく、口の制御の目的だと思います。私たちは、相手がどんなに意地悪な性格でも、極悪な人でも、批判したくなるような相手であっても、神様はその人をも神のかたちに似せて創られたものである事、だからその相手を大切に思い、愛し、イエス様が十字架で命を犠牲にした程に、愛して下さっている同じ人間であるということ。その相手を悪くいったり、ましてや暴力や命を奪うことをしてはならないと思えるのではないでしょうか。
 
  私たちは神様への感謝の思いをいつも捧げるために、口から、または声に出せない場合は心の中で神様を讃美しましょう。そして神様が創られた自分の周りに置かれた兄弟姉妹に神様の祝福があるように祈り、同じ口をもって相手の徳が養われるような、共に神様の恵を分かち合い、受け取れるように励まし合うことを心がけていきましょう。泉から甘い水だけを湧き出させられるように、ぶどうの木から甘いブドウの実だけを、つまりガラテヤ信徒の手紙の5章22-23節にあるように御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)を結べるように、今週も神様に求めて行きましょう。

 

   
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