Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○January 16, 2022 「祈るときには」
    
 
 ルカによる福音書11章5-13節
 
 本日は「祈るときには」と題して、メッセージをさせていただきます。この箇所は11章1節から4節のいわゆる主の祈りの箇所続きで、新共同訳聖書では副題が「祈るときには」となっています。1-4節はで、弟子たちがイエスに「わたしたちにも、祈りを教えてください」と言われて、「祈るときにはこう言いなさい」といわゆる「主の祈り」を教えられた文脈の続きです。主の祈りと一緒に話しますと時間が限られた中で深く学ぶことが難しいので、本日は5節から13節を中心に語らせていただきます。
 
 クリスチャンでなくとも、9節「求めなさい。そうすれば、与えられる。 」は一般的に聖書の文脈から転じて、慣用的表現として使われており、故事ことわざ辞典によると「求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ。」とあります。私たちは信仰を与えられているので、そのように神の存在ぬきの、成果主義的な意味ではないことを知っています。
 
 イエスは9-10節で「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」 の前後に二つのたとえ話を話されています。一つ目は真夜中の訪問者と二つ目は悪人でも自分の子には良いものを与えるという話です。このふたつのたとえと合わせて、イエスが祈りについて何を私たちに教えようとされているのかを学びたいと思います。
 
 まず真夜中に頼み事をする友人ですが、私たちの常識で夜中に人が家をピンポーンと訪問してくるというのは想定されません。しかし、この時代のこの民族では、砂漠のエリアがあり、旅の途中そこを通る時、昼間だと非常に暑い気候なので、夜に移動する人もいたかもしれません。また、旅人をもてなすことはイスラエル民族の文化でもあり、「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブル11:2)と記されています。この友人のところに、旅人が来たのですが、その人をもてなすパンがなかったので貸してくれとの願いです。当時の家は、皆が一つの部屋で寝ているという環境ですので、主人だけが起きてごそごそパンを用意しても、ようやく寝かしつけた子が起きてしまうし、家族皆にとって迷惑であり、面倒なわけです。だから面倒をかけないでくれと戸口で断っていますが、しつようにその友人が願うので起きて必要なものは何でも与えるだろうという話です。ここで注目したいのは、この友人が自分のためでなく、自分のところに訪ねた友達のために、パン貸してほしいとしつこくお願いしているということです。自分のための願いではないのです。
 
 もう一つは悪人であっても自分の子供には良い物を与えるというたとえです。悲しいことに、現代ではこれがすべての親にあてはまるとは限らず、現代は児童虐待を引き起こしてしまう、ねじれた親子関係があるのが悲しい現実があります。当時は11-13節「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。13このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」のように、悪人でも最低限、自分の子が願うことには良い物を与えるものです。その直後に、「まして天の父は」(新共同訳)、「とすれば、なおのこと天の父が」(新改訳)と続きます。ここは、祈りに答えて下さる天の父である神様を強調するために、一番与えてくれそうもない悪人のケースと対比している表現であります。
 
 イエスのこの「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という命令は、文法的には現在命令法でかかれ、継続の命令でかかれています。この3つはどれも祈って神様に願い続けなさいということを言っておられると思います。3つの祈りが段階的に積極的になっているともとれます。最初はシンプルに願い求め、さらにこの願いは神様の御心なのか、そうでないとしたら何かと探し求め、祈りの内容が変えられていくこともあるでしょう。そして、この願いは神様のみこころだとしても進むべき道への戸が閉められこれ以上進めないように見える状態だったら、戸が開けられるまでたたき続けるという一連の祈りです。すぐに答えられなくとも忍耐し積極的に熱心に祈り続けることをイエスは教えられていると思います。真剣な祈りなわけです。祈りとはそれほどに、真剣に祈るべきことなのです。パンをもっていない人が、友人のために求めるように、私たちは他者に愛を示そうとすると、できない自分に、愛のない自分と向き合わざるを得ません。口で言っているのは簡単で、実際そういう状況になって初めて、「自分は愛がない。愛せない」と自覚します。そこで、愛がないから無理!と開き直るのではなく、ないから愛をください、注いでくださいと願い続ければよいのです。
 
 願うことはいろいろあるとは思いますが、私は人が救われるようにと祈ることが神様の御心にかなうことであり、すぐには聞かれず、忍耐をもって祈り続けることだと思います。みなさんのご家族の中で、また友人で神様を信じていない人がいたら、その救いのためにしつこく祈るでしょう。私たちも、毎朝、救われていない家族のために、信仰に導かれるように祈っています。
 
 最後の箇所ですが、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」。私たちは、イエスを主キリスト、救い主として信じれば聖霊が与えられています。イエスを主キリストとして信じていない人には、聖霊が与えられていませんが、信じれば聖霊は与えられると、記されています(使徒の働き2:38)。一番重要で、神様に熱心に与えて下さるように祈り求めるべきものは、聖霊ではないでしょうか。イエスを信じたいと求めつづければ、信じられるようになり、聖霊が心に与えられます。信仰について「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ信徒への手紙10章9-10節) とパウロが記しているように、個々人が信じると決断し信仰告白するものですが、一方でその信仰自体も神から与えられるという側面もあると記されています「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 」(エフェソ2:8)
 
 私たちの信仰生活で、聖霊なくしては一歩たりとも先へ進めません。聖霊の働きにより、聖書を理解し、神が私たち一人ひとりに何を語ろうとしているかを受け取ることができます。その聖霊も神から与えられる賜物です。だから、キリストの福音は、信じられないと言っている人でも求め続ければ、信じられるように神が信仰を与え、聖霊を与えて下さる。この約束は、私たちに対する励ましであり、特に信仰の弱い者、信じた後も疑ったり、不安定な状態なものであっても、「信仰を与えてください」と求めれば、信仰はあたえられ、自身の意思の力だけで信じ続けることのできない者にとっても、神の側が信仰を与え続け、そして聖霊を与えて下さる、このことは慰めであり、励ましであります。
 
 私たちはもちろん、自分の様々な必要を父なる神様に、願ってよいのです。私たちはイエス・キリストの十字架によって、赦され、神の子供としていただいたからこそ、「アバ、父よ」とイエス・キリストのみ名を通して、大胆に何でも祈ることができる特権が与えられてます。なんという恵みでしょうか。
 
 この祈りを、自分のためにだけでなく、特に救われていない方、神様を求めている方のために聖霊が与えられるよう、しつこく、熱心に祈り続けましょう。最後にエフェソ6章18節をお読みします。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」聖霊によって祈り続けましょう。すると、神様は今日の箇所の約束のように、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるのです。
 
  
     
 
 
 

 

   
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