Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○February 13, 2022 「キリストにおける自由」
    
 
 ガラテヤ信徒への手紙4章31〜5章1節
 
 みなさんは、自由という言葉をどうとらえますか。逆に自由の反対語は何でしょうか。束縛、不自由、奴隷。生活の中でどんな時に、自由がないと感じますか?一般的に自由とは、人から強制されず、自分の意思で選択肢があるなかから何かを選べる状況をいうでしょう。本日は、ガラテヤ信徒への手紙より、キリストにおける自由についてお話しをしたいと思います。
 
  本日のテキストは、パウロの手紙の中で、最も口調の強い表現と切迫感をもって、ガラテヤの教会の人々に書いた手紙です。パウロが3:1「ああ。愚かなガラテヤ人」と始まり、「キリストを通して自由になれたのに、どうしてまた再び、奴隷状態にもどってしまったのか?」と訴えている箇所があります。ガラテヤの信徒の方々に当時何がおこったのでしょうか?ちなみに、ガラテヤとは町の名前ではなく、地方の名前、たとえば日本でいうと関東地方のような、広い範囲でその地域の教会あてに書かれていることになります。
 
  ガラテヤ地方の人々、つまり今の小アジアの地域のギリシャ人たちが、パウロの宣教によって、キリストの福音を信じて、喜んでいました。そしてパウロとの関係もとてもよかったのです。しかし、パウロが去ったあと、ユダヤ主義クリスチャンといって、ユダヤ人でキリストがメシアであることを信じてはいるが、彼らは「ユダヤ教の律法を守り、割礼をうけなければ救われない」という誤った教えを異邦人に植え付け、キリストの福音からガラテヤ信徒の人々を引き離そうとしていたのです。キリストの福音はイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、このユダヤ主義の人々が主張する教えは偽物であります。しかし、パウロがいない間に、そこに居座って、嘘を教え続ければ、人々はそういうものだとだまされてしまうものです。
 
 パウロがガラテヤの信徒の人たちに、さまざまなたとえを用いて、それは福音ではないと説明しています。ユダヤ人はそもそも何から自由にされたかということです。律法の呪いからです。律法自体は良い物でありますが、律法は守れないと呪いが下ると聖書に書かれています。そして、ユダヤ人はその歴史をみても、神様がモーセを通して与えた律法を守れなかったのです。自分たちが守れなかった律法を、他国人、ギリシャ人に守るように教えること自体がおかしなことであります。
 
 さらに大事なことは、イエス・キリストは 私たちが守れない律法の呪いを変わりに受けて下さり、十字架にかかって死なれたから、そのことを信じる者は律法を守れなくとも、ユダヤ人でなくとも、誰でも救われるのです。ですから、このように、律法の呪いから解放するためにキリストがしてくださったことを信じるのなら、なぜ、再び律法の呪いに戻ろうとするのか?ということをパウロは一生懸命説明しているのです。
 
 まず、31節「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。 」についてですが、この約束とは、神様がアブラハムに与えた 創世記12:3 「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」です。パウロが4章21-30節にて 二人の女性のたとえを話したのは、アブラハムの子孫は二人の女性から二つの血筋がいて、必ずしもアブラハムの子だからといって、すべてがこの約束に該当するわけではないことを説明しています。
 
 二人の女性のたとえは、アブラハムの妻サラと奴隷のハガルについてで、創世記に記されています。サラは90歳でイサクを奇跡的に生んだことはみなさんご存じだと思います。ハガルはエジプト人で奴隷でしたが、サラが神様の約束を待ちきれなくて、自分では子は産めないと判断し、アブラハムにハガルを通して子供を産み子孫を残してくれと頼んだことに発端します。神様を信頼せず、社会的常識で判断して計画を立て、アブラハムもそれに同意したのですが、この出産は肉の思いによるもので、神様のもともとの計画ではありませんでした。それに巻き込まれたハガル自身は気の毒で、奴隷という立場で従うしかなかったのですが、彼女の産んだ子イシュマエルはアブラハムの子であっても、奴隷であり、アブラハムの相続権はないのです。
 
 「25このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。 26他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。 」この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来するシナイ契約を表していて、これがハガルです。ハガルがなぜシナイ山を表すかというと、律法による神様との契約はシナイ山で与えられたからで、また、アラビアはイシュマエルの子孫の地です。今のエルサレムはユダヤ教の神殿があったところ、つまりユダヤ教、つまり律法主義の本拠地をしめしています。一方、サラは天のエルサレムを示し、自由の身分で、イサクは約束の子です(創世記21:9-11)。私たちキリスト者は信仰によって、アブラハムの子孫なので、その配偶者のサラが母であり、自由の身分です。ここで、パウロは奴隷と自由人を対比させています。
 
 なぜ、ハガルとイシュマエルは追い出されたかというと、イサクが生まれてまだ幼児の時に、当時10代後半のイシュマエルが幼いイサクをからかった(創世記21:9)とあり、そのことでサラはこの二人を追い出してくださいとアブラハムに願い、また神様はアブラハムにサラのいうことを聞き入れなさいと伝えます。一方神様は愛の方であるので、人間の思いから出てしまったイシュマエルに関しても、見殺しにせず、彼から12部族を起こし、今のアラブ人の祖先となったと言われています。
 
 つまり、イサクは神様がアブラハムに約束して生まれた契約の子であり、ハガルは肉の思いで生まれてしまった奴隷の子です。たとえの解釈は、信仰によって義とされる、救われるという約束を信じた異邦人キリスト者をイサクに、彼を迫害する、ユダヤ主義キリスト者をイシュマエルに置き換えています。つまり、異邦人キリスト者に律法を守れ、割礼を受けろと教えた信徒は、いまだ律法の奴隷状態であるので、彼らは神様の祝福を相続できません。律法を完全に守ることは人には不可能で、よって律法を守ることで神様の前に正しいと認められないからです。こういう人たちは、シンプルにキリストを信じている人々を迫害するので、パウロは「追い出せ!」といっているのです。これはかなり厳しいことばかもしれませんが、偽りの福音を教え、強制する人の罪は重いのです。なぜなら「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」2と イエス様もおっしゃっているように、自分が奴隷状態になっているだけでなく、キリストにあって自由になっている信徒を奴隷に引き込もうと強制するので
 
 パウロはガラテヤのキリスト者に、彼らが自由とされた民であり、約束の子であることを自覚させるため、「あなたがたはイサクのように、約束のこどもです」と続きます。ガラテヤ3:7-10には「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 」と記しています。
 
 このガラテヤ地域の教会におこったことは今日の教会にもおこりうることです。クリスチャンであっても、教会の規則を守ることを第一として(規則自体が悪いといっているわけではありませんが、)自分は守っているから正しいと、守れない人をさばき、愛のない行いをしてしまうことはありうるのです。そしてパウロは 5章1節でこうまとめています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。 」
 
 キリストの十字架による救いは、私たちの人生を変えているはずです。私たちが自由をえるために、奴隷状態から自由の身にしてくださったのです。クリスチャンになった後、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはありますか?その不自由さを自分で作っているというケースもありますし、ほかの教会の信徒、牧師から束縛されていると感じるケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、その問題を解決する必要があるでしょう。私たちを不自由にする原因の一つは、争いです。なぜならパウロは5章の13-15節でこう書いているからです。「13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」
 
 ここで教会の中で争いが起きることに注意しなさいとパウロははっきり言っています。なぜなら、争いのあるところにキリストの平和はありえません。多くの争いの原因は、「自分が正しい」と互いに言い合うことから始まります。争いは罪を犯させる機会となってしまいます。私たちは律法に縛られる必要はありませんが、結局律法自体は良い物で、イエス様は旧約聖書を引用し「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。3キリストにある自由を持つものは、人から強制されなくとも、キリストの愛にならって、たとえ相手に非があり、自分が悪くなくとも他人と争いを避け、逆に互いに仕えあいなさいとパウロは勧めています。争いや苦い思いがあると、結局それが私たちの心を不自由にし、そのことにとらわれてしまいます。
 
 私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反することがあるかもしれません。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。私個人としてはもともと短気ですし、口をコントロールできず失敗し、口には出さずとも相手を批判する心、裁きたくなる気持ちが沸き起こることもあります。ですが、すぐに悔い改め、赦しをいただき仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自 由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきましょう。 お祈りします
 
  (引用:新共同訳聖書)
     
 
 
 

 

   
inserted by FC2 system