Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○Apr. 10, 2022 「ホサナ(私たちに救いを)」
    
 ヨハネ12章12-19節
 
 今日は棕櫚の主日とされていて、ちょうどイエス様が十字架にかかる5日前、イースターの日曜日の一週間前にあたります。イエス様がメシア(救い主)・王としてエルサレムに迎えられる、同時に過越しの祭りで神の小羊として十字架にかかられる受難に向かわれるためのエルサレムへの道であります。当時、ユダヤ人の成年男子はユダヤ人3大祭(過越の祭り、ペンテコステ、仮庵の祭り)に必ずエルサレムに上らなければならないという律法に従っており、その過越しの祭りが近づき、イエス様はふたたびエルサレムへ行かれました。すでに多くの奇跡や権威ある教え、悪霊を追い出す権威を通してイエス様はメシヤではないかという気運がユダヤ人の間に生まれていました。
 
 新約聖書には、旧約聖書の箇所がたくさん引用されています。なぜなら、旧約聖書の内容は結局救い主イエス・キリストについて様々な形で預言していたり、指し示したりしています。ですから、このイエス様のエルサレム入場の出来事も、数百年前の詩編の著者によって、預言されています。この聖書個所は詩編118編25-26節から引用されています。
 
      どうか主よ、私たちに救いを。
      どうか主よ、わたしたちに栄えを。
      祝福あれ、主の御名によって来る人に。
      わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。
 
 ホサナとは「救って下さい」という意味です。棕櫚(なつめやし)の枝をもって迎えたことも、これも詩編118:27新改訳聖書ですと、  
      「主は神であられ、私たちに光を与えられた。
      枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで」
 
 とありますので、 これが棕櫚の枝を持ってメシヤを迎えるという預言です。
 
 ルカによる福音書19章38-39節にも並行記事が書かれていますが、群衆がこのように叫んでいるのを聞いて、パリサイ人が、イエスに弟子たちを叱って下さいと止めようとしたのは、これがメシア・王が入場するための詩編118編であることを彼らが知っていたからだと思われます。彼らはイエスをメシアと認めないどころか、かえって自分たちの立場を悪くする存在として殺そうと計画していました。
 
 これはゼカリヤ書9:9の引用で、メシヤはロバに乗って入場することの預言としてヨハネは記しています。
      「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、喚起の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えらえた者
 たかぶることなく、ロバにの乗ってくる。雌ロバの子であるロバに乗って。」
 
 この時の群衆と弟子たちのキリスト・メシヤ観は、あくまでも、ローマ帝国から独立、政治的な解放を果たしてくれる王でありました。また、王は通常ロバではなく、馬にのって凱旋し、入場するものです。
 では真のメシヤとは、何からの救いなのでしょうか? ローマ帝国からではなく、罪と死、呪いからの救いです。その救いのために、メシアは十字架の苦難を受ける必要がありました。過ぎ越しの祭りはそもそも、私たちの罪が過ぎこされて、滅びを免れることを示しています。モーセによる出エジプトの時、主はモーセにイスラエルの民の家の鴨居に小羊を屠ってその血を塗りなさいと、そうすれば主の使いがそれを見てその家を滅ぼさずに過ぎこしました。そのことを記念する祭りが過ぎ越しの祭りです。鴨居に血がついていないエジプトの人の家は、各家で最初に生まれた子が殺されました。これが、イエス様の十字架の血によって、神様がわたしたちの罪を赦し、滅ぼされずにすむことの予表です。
                                  
 当時の過越の祭りには、世界中からユダヤ人がエルサレムに来ます。大体当時何人エルサレムに来ていたと思いますか?歴史家のヨセフスによると、約2百万人以上と推定。過越しのための生贄の羊が256,000頭屠られたと記録より、律法では人家族一頭の小羊を過越しで神殿にささげます、一家族子供もいれて約7〜10人としても羊の数をわると 約2百万人。ちなみに、通常時のエルサレムの人口が400人くらいだったといわれます。この膨大な数の群衆が預言の通りにイエス様を王として迎え、「救って下さい!」と叫んでいたと想像してみてください。しかしこの同じ群集が、5日後には「十字架につけろ。」と叫ぶようになります。群衆というのは扇動されやすいもので、メシヤであるイエス様を十字架につけるよう叫んでしまうのは何と悲しいことでしょうか。
 
 しかし、そのことも、受難のメシアであるイエス様が通られる道として神様が計画されたことでした。
イエス様を十字架につけたのはユダヤ人だけの罪ではないのです。なぜなら、全人類、個人的には私の罪のために、十字架にイエスさまがかからなければならなかったのですから。そのことを歌った讃美歌が讃美歌21 306番 「あなたもそこにいたのか」 です。時空は超えて 実はそこに私たちもいたのです。このことを意識することなしに、イエス様を自分の救い主として信じることはできないのです。
 
 神様を信じる前の私たちは神に敵対していたのです。敵対しているということは、神様に対して罪ある状態です。パウロはエペソ2:14-17でこう記しています
       
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」
 
その敵対の反対語は和解です。神様と和解させていただき 私たちに平和がもたらされたのです。神との平和が与えられると、「神の平和」が私たちにもたらされます。人の歴史は戦争の歴史であり、繰り返しています。今のウクライナとロシアの状況、ミャンマーの内戦、またニュースにならない同様の争いがアフリカなどの国々で行われています。人が争いをするのは、この神さまと和解がないからです。
 
神様の平和は、この地上でのすべての人間関係における平和に適用されます。キリストを信じる信仰が与えられると、キリストの愛の性質に徐々に変えられていき、人間同士に争いをやめようと、平和や和解の道が生まれるはずです。もちろん、教会のなかであっても人の集まりである限り、いつも平和でない時があります。しかし、十字架のイエス様の受難、そして復活を思い起こせば、お互い赦された者として、赦しあおうと和解の思いに導かれるはずです。
 
このイエス様の棕櫚の主日のエルサレム入場は、イエス様の十字架によって私たちの罪が赦され、神様との和解が与えられるための、メシアの受難と3日後の復活による、死に打ち勝つ勝利の凱旋であると思い起こす必要があると思います。この救いは恵により、信仰が与えられます。この恵をパウロはローマの5:1-2にこう記しています
このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ており、このキリストのおかげで、いまの恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
 
 ヨハネが16節で「最初はこれらのことが分からなかった」が、イエス様が栄光を受けられた時、つまり十字架、復活、召天を経た後、思い出して、意味がわかったと記しています。弟子たちは、神様が与えてくださった聖霊を通してこの、エルサレム入場が全世界を罪から救う、救い主の入場であったことを理解できました。そしてそのことが聖書に記され、現代に生きる私たちがそのみことばを読み、理解することができるのは、なんと幸いでしょうか。聖霊はヨハネ14:26に
 
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」
 
 
人の記憶はあてにはなりません。感情によって、頭の中で記憶が書き換えられてしまうこともあります。現代は音声や動画で記録できますが、それもフェイクとして改ざんすることもできます。しかし、2千年前のイエス様の生涯、特に十字架にかかられる受難、そして復活、召天、その後の弟子たちの宣教活動の記録は、聖霊の力によって聖書という形に記録され、そして、後世の私たち一人ひとりがみことばを、折にかなって神様の約束を思い出すことができるのも聖霊の働きです。
 
 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を贖ういけにえとしての御子をお使わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)」
 
神様はこれほど、私達人間を愛して下さっているのです。神様との平和を回復し、この地上でも平和を人々の間で持ち、永遠の命を持ってほしいと願っておられます。これが神様の願い、御心です。神様は愛であり、この愛は十字架の上に表されています。どんな人であっても、神様からどんなに離れていたとしても、「ホサナ」と叫ぶことが出来ます。そして、そのホサナと神様に叫んで求めた時、キリストの愛がその人にもれなく与えられるという、大きな恵に感謝したいと思います。時がせまっていますので、なるべく早くに、一人でも多くの人が自分は救われる必要があると、自覚し、神様を求め、そしてイエス様の十字架に示される神様の愛を受け取れるように祈っていきましょう。この世では、過去も、現在も争いにより多くの人々が苦しみ、悲しみの中に置かれ、敵意が存在します。私たちは、神様の愛が一人でも多くの人々に注がれ、キリストの平和が人々の間に広がるように、このレント(受難節)に特に祈っていきたいと思います。そして、どんな状況にあっても、日々イエス様の救いを感謝してこの地上での人生を歩んでいきたいと願います。
 
      
 
      
       (引用:新共同訳聖書)
 

 

   
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