Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○May 8, 2022 「神があなたに広く伝えてほしいこと」
    
 ペトロの手紙1 2章4−10節
 
 本日の箇所は、ペトロの手紙第一より、私たちがキリストのゆえに神様から与えられた特権と、神様から委ねられていること、神様が私たちに広く伝えてほしいこと:神様の御業について学びたいと思います。
 
 ペトロの手紙一は、5章12節によるとキリストの弟子ペトロが、シルワノという人に書かせた手紙で、おそらくローマ(バビロンが同時ローマを意味する暗号)で書かれたとされます。シルワノはパウロの伝道活動の助手で 、パウロがローマでと囚われの身となったあと、シルワノの助けを借りてペトロが小アジアの地域の伝道をパウロから引き継ぎ、異邦人信徒たちに対して、迫害の中における励ましの手紙を書いたと言われます。
 
 まず、ペトロの手紙一 2章4−10節の前は、2節にある「うまれたばかりの乳飲み子のように」とあるように、キリストを信じて新しく生まれたのだから、以前の古い自分を捨て去り、みことばにより、成長するようにという文脈となります。3節に「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」だから、4節「この主のもとに来なさい」と、あります。そして霊的成長の土台は、キリストだということが、続く「石」というたとえで語られています。つまり、私たちも生きた石として用いられ、神殿、つまり神の宮を建てあげていこうという比喩です。6節はイザヤ書の引用で
 
            それゆえ、主なる神はこう言われる。
      「わたしは一つの石をシオンに据える。
      これは試みを経た石       堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
      信ずる者は慌てることはない。 イザヤ書28章16節 
 
 つまり、キリストを信じる者にとっては、キリストは選ばれた尊い石であり、新共同訳では「これを信じる者は、決して失望させられることはない」と訳されて引用されています。次は詩編とイザヤ書の引用で
 
       家を建てる者の退けた石が
       隅の親石となった。
       これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。  詩編118編22-23節
      
         万軍の主をのみ、聖なる方とせよ
       あなたたちが畏るべき方は主。
       御前におののくべき方は主。
       主は聖所にとっては、つまずきの石
       イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩
       エルサレムの住民にとっては 仕掛け網となり、罠となられる。 イザヤ書8章13-14節
      
 
 イスラエルの民がイエス様をキリストとして認めず、捨ててしまったので、彼らにとってはつまづきの石、妨げの岩です。もちろん、ユダヤ人でもイエス様を信じている人は、異邦人のクリスチャン同様に、新しい契約による神の宮に預かり、生きた石として神の宮を構成することとなります。 8節の「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」という箇所は、あたかもイスラエルの民がそうなるように定められていて、救われることのないかのように取れますが、そうではありません。なぜなら神様はイスラエルに対してアブラハムを通してなされた祝福の約束を破棄されることなく、将来イスラエルの民の救いの時がくることが預言されており、この神様の計画において、一部のイスラエル人がかたくなになったのは異邦人全体が救いに達するまで 、とパウロもローマの信徒へ手紙9-11章に記しているからです。神様のご計画はわたしたちの思いを超えています。パウロがエフェソ信徒への手紙で記しているように
 
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」 イスラエル人も私たち日本人を含む異邦人も、つまりすべての人をキリストにあって救おうと御心のままに、天地創造の前から、選んでくださっているということは大いなる恵みです。 エフェソ信徒への手紙1章4-6節
 
 9節で私たちは「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」であることが記されています。私たちはクリスチャンという新しい人種、国民であり、神様の所有の民であるということ、また、信じる一人ひとりに与えられている聖霊により、人間の祭司を介しなくとも、自分自身が祭司として、自らを生きた供え物として神様の前に捧げることが出来るという特権が、キリストの救いの御業のゆえに与えられているという、励ましのみ言葉です。神様はクリスチャンという新しい種族を選ばれ、遺伝的なアブラハムの子孫ではなく、キリストを信じる信仰によりアブラハムの子孫として約束された神様の祝福を受けることができます。このような特権が与えられている恵みを私たちが与えられているということを覚えて感謝していきましょう。具体的に自分自身を生きたそなえものとして捧げるとは?いろいろありますが、賛美で捧げることももできます。また神様に従うこと、例えば互いに愛しあいなさいという命令は簡単なことではなく、労苦と犠牲が伴います。それでも、出来なくとも、神様にしたがって愛そうと決めていくのも自らを捧げることになると思いま。す
 
 私たちは、続く10節にあるように、信仰が与えられる前は、罪のゆえに暗闇の中にいて神様の憐みを受けるにふさわしいものでもなく、また神の民でもなかったのです。ここは旧約聖書のホセア書からの考えを、ペテロが用いて記したとされます。
 
       わたしは彼女を地に蒔き
       ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
         ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって 「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
       彼は、「わが神よ」とこたえる。 ホセア書2章25節
 
 イエス・キリストの十字架によって、暗闇からおどろくべき光に招かれ、神の民としていただきました。私たちは救われたからといって、すぐに聖人になるわけではありませんが、徐々に内側が聖霊の働きにより、神様の愛を示す性質へと変えられていく希望があります。私自身を見ると、その弱さ、性格、とても聖なる国民、祭司などと思えない者です。しかし、神様は大祭司であるイエス様というスクリーンを通して、私たちをそのように見てくださっているということを信じ、はばからず、神様の恵みの座に近づいて行こうとへブルの記者も記しています。
                                  
 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 へブル人への手紙4章15-16節
 
 そして私たちが神の民とされた理由は、主から委ねられたミッションをこの地上にいる間に行っていくためであります。それは、この主の力ある救いの業、しいては神ご自身の存在自体を、わたしたちが知らない人々に広く伝えていくということです。これは、牧師・教師だけに言われている課題ではなく、神様の救いの豊かな恵みを受けるクリスチャンすべてに対してです。個々人として、教会として、ともに祈り、キリストの福音を伝えていく責務があることは、復活されたイエス様も命令されています。マルコによる福音書16章15節 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」 しかし、その命令は、自分の力で行えとは言われていません。インマヌエルという名のイエス様がともにおられ、聖霊が私たちのうちに住み、ヘルパー(助け主)として助けて下さるから、プレッシャーに感じる必要はないのです。それぞれが神様から呼ばれていて、その召され方は様々であり、働きにはいろいろありますが、それをお与えになるのは主ですとパウロが記しているからです。
 
 直接的にキリストの福音やみことばを語れなくとも、私たちの生活の中で神様の驚くべき御業を広く伝えることは可能なはずです。神様の御業は愛ですから、その神様の愛をその時に応じて、周りに表していけるからです。またパウロはキリストの体は各器官からなり、それぞれ異なった働きをすると記しています。
       
 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」
 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 コリント信徒への手紙一 12章4-7、27節
 
 このことは、ペトロが先に、霊的な神の宮を建て上げるために、個々人が「生きた石として用いられ、霊的な家に作り上げられるように」(2:5)で記しているのと同様です。教会が、一つのキリストの体として一つの目的:主の大いなる御業を広く伝えるために、キリストの愛で結び合わされ、ともに働くことができるでしょう。この働きは、強制的になされるものではなく、神様の愛に対する応答であるはずです。最初に読みました2章3節に「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。」とあるように、自分が神様の恵み深さを経験していなければ、福音を広く伝えることが重荷になります。神様の恵みは一度きりではなく、日々豊かに注がれていて、それを私たちが受け取っていけば、心が満たされ喜びに変えられていきます。神様の恵みを味わっていないのに、クリスチャンだから教会員だからこうすべきだ、この奉仕をしてくださいと言われてしているならば、もはやその働きは企業のような組織でのものと同じになってしまい、そこにはキリストの愛がありません。

 4節「この主のもとに来なさい」と、あります。信仰を持った後でも、心に平安がなければ、主キリストのもとにまずは行き、そこで休みを得、恵みを頂く必要があります。その恵を味わって初めて、キリストに従い、習っていこうという思いが起こり、心に平安が与えられるでしょう。これはイエス様ご自身が言われているみ言葉です。
 
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 マタイによる福音書11章28-30節
 

 もし、奉仕活動が重荷に感じたり、聖書の言葉が強いられている命令と感じている人がいるならば、まず、主のもとに行き、恵みをたくさん受けることをお勧めします。キリストの恵みを味わえば味わうほど、神様に対する感謝が高まり、また自分の思いが低くされ、神様の思いにあわせていきたいと自発的に心が変えられていき、キリストの体の一部として何かしていこうと自発的に喜びをもって行えるはずです。このことを覚えつつ、神様の様々な恵みの御業を広く周りの人に伝える機会が与えられるよう、私たちを通して神様の愛を表せるよう祈り求めていきたいと願います。
 
  お祈りします。
     
 (引用:新共同訳聖書)
 

 

   
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