Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○July 10, 2022 「志を立てて下さる神」」
    
 フィリピの信徒への手紙 2:12-18
 
 フィリピの信徒への手紙は、パウロが宣教のゆえに獄に入っていた時に書かれた手紙の一つです。特徴は「喜び」という言葉の数が多く、またフィリピの教会はパウロが伝道して建てられた教会の中でパウロが唯一金銭的に援助を受けた教会*1です。パウロがこの手紙を書いた背景は、その贈り物に対する感謝の意を表すだけにとどまらず、フィリピの教会の人々への信仰生活における薦めと励まし、自分の現状報告を記したとされます。それだけパウロとフィリピの教会の間に深い信頼関係があったのでしょう。本日はパウロのフィリピの信徒への勧めと励ましを通して、志を立てて下さる神と題して、学ばされたことを分かち合いたいと思います。
 
 まず、本日の箇所の前をみてみますと、
 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 」 フィリピの信徒への手紙2:1-5
 
 とパウロは記しています。これは、フィリピの教会の中で、信徒同士の間で問題があったからこのような薦めをパウロがしていると思います。教会の姉妹の間で争いがあったことがはっきり書かれています。

 「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」 フィリピの信徒への手紙4:2-3

 エボディアとシンティケという婦人は福音のためにパウロと共に戦った、記されているほど熱心な信徒でした。理由はわかりませんが二人の間に争いがあったことがパウロに報告されていたようです。教会がどんなに奉仕活動が活発に行われ、規模が大きかったとしても、そのキリストの体である教会の一部が争っていると、それが次第に分裂へと発展し教会が無力となってしまう危険性があります。この二人だけでなく、現代の教会のすべての信徒に対する薦めであります。なぜなら、教会の中でありがちなことで、そして放っておいてはならないことであるからです。おそらく何かのことで意見が異なり、二人とも自分が正しいと思って争っていたのでしょう。だから、パウロは互いに自分の思いではなく、主において心を一つになろう、互いを尊重し合おうと彼女たちだけでなく、ほかの信徒の人たちが協力して、争っている二人を助けてくださいとお願いしています。
 
  2:6-11でキリストが神の子であるにもかかわらず、人となられ、十字架の死にいたるまで、神様に従順であったように、私たちもキリストにならい、謙遜で、他者を自分よりも優れた者と考え、相手のことに注意を払うようにパウロはすすめているからです。私たちは、常に自分自身は高慢なところはないか、人を見下していないだろうかとチェックし、他者を自分より優れた者と思い、謙遜に行動し、発言していこうと、意識する必要があることを示されます。
 
 つまり、主であるキリストに習うことが今日の箇所につながる文脈であります。12節で「従順でありなさい、恐れおののいて救いを達成しなさい」とあります。救いはキリストの十字架で完了していますから、ここは救いを得るために何か努力しなさいといっているのではありません。一方、救いは様々な局面があります。一度信じたら終わりではなく、信じ続けなければ信仰から脱落してしまいます。信じ続けるとは、キリストに従って生きることであります。キリストが十字架で贖ってくださったのは、私たちが信じて救われ、キリストのように内側が変えられていくことつまり、霊的成長が伴います。その霊的成長に努めなさいと言い換えられるでしょう。キリストに習い、神様に従順になろうと努め、自分の内側が互いに愛し合えるように変えられていくためです。それを意識せず、従順であろうと努めることなしに、信じ続けることは難しいです。なぜならすぐに世の中に流されてしまうからです。「恐れおののき」とは恐怖ではなく、神であるキリストに対する恐れ、畏敬の念を持つことでしょう。自分が救われるために、キリストが人としてわざわざ生まれてこられたこと、御子キリストの命がかかっていること、その大きな犠牲の重大さと恵みを覚えれば、おのずと畏れとおののきを思えるでしょう。自分の感情やこの世的な考えに流され、高慢な発言や態度になりそうになったらストップをかけ、またなってしまったら悔い改めていきたいと思います。キリストに従順に習い続け、霊的に成長を生涯し続けることが、救いの達成に努めることになると思います。
 
 そして、今日のタイトルにある志をたたせるということですが、私たちは聖霊を頂いているので、神のみこころは何か、何を神が喜ばれるか、何をしたら悲しませるかを聖霊が示してくれる。そのようにして私たちの思いや願いが御心にそうように導き、「こうしよう」と望ませ、行わせてくださるのは神様であるとパウロは続いて記しています。「望ませ」が新改訳では「志を立てさせ」と訳されています。
 
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
<新共同訳>
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」 <新改訳>         フィリピの信徒への手紙2章13節
 
 何か新しいことを始める時、人生における方向性を考える時、どのように決断をされるでしょうか?個人的な場合は、自分でこうしたいと思い、それを神様に祈って導きを求めて、行動に移されるでしょう。しかし、教会の活動において、つまりキリストの体である教会という共同体において何か始める場合は、独りではなくチームワークとなります。私たちの教会は、心を一つにして、同じ思いになっているでしょうか。新しい人が教会にきて、信仰に導かれるという願いは一致していると思います。しかしそのために教会が何かを始めようとするとき、様々な方法、意見がでてきます。お互いが「これは自分のアイデアだ、これがよいと思う」と主張しあうとうまくいかないでしょう。またチームワークで分担するとき、「なぜこの部分を自分がしなければならないのか」と不平を言う人がいたら、もしくは理屈をこねて、私はこれこれをしたくないと、主張しあったら、教会の働きはどうなるでしょうか?みな信仰をもって神様に対して熱心であっても、信徒同士の関係がぎくしゃくしてしまいます。しかし、神様の御心が、ある人もしくは教会のリーダーである牧師の心に、教会としての活動で、あることをしょうという志をおこさせたのなら、それは人間のアイデアではなく、神様から発し、実現に至らせてくださるのは神様であると信仰で受け止められるでしょうか。自分の思いは横に置き、教会がそう示されているのかどうか、祈って神様にそれがみこころかを牧師だけでなく教会のみなで祈り求める必要があります。何事も、まずは祈って、祈って、みことばから指針が与えられるまで、神様の導きを求める必要があると思います。神様のみこころにかなう祈りは聞かれるので、そのために道は開かれ、必要な人や物は与えられるでしょう。
 
 もし人の思い付きで先にスタートしてしまうと、「神様これこれをしますから、祝福してください!」と自分が決めて、神様にバックアップしてもらうかのような祈りになってしまいます。すると、どちらか主なのでしょうか、どちらが従うほうなのでしょうか。パウロは、「(主である神様に対して)恐れおののいて」と記しているのは、主が誰なのかを認識する必要があるからです。
 
 14-16節「何事も」というと すべてのこと、教会生活に関することだけでなく、仕事のこと、家族とのこと、地域の人との関係のことに、すべてに不平や不満をいわないでやるべきことを行いなさいとパウロはすすめています。日頃どんなに神様がよくして下さり、恵まれているかを感謝していれば、不満やつぶやきにならないはずです。不平や不満は何もよいものを生み出さず、争いの火種となります。私たちがキリストにならえば、教会の外の人々から「あの人は、なぜ人の悪口をいわないのだろう、文句も言わず、犠牲をいとわず働くのだろう?」と思うかもしれません。世の中一般の人との違いが認識されれば「世にあって輝く星」となれます。この益子という地域におかれた教会は、地域の人々にどのような印象を与えているでしょうか。もし、地域の人との関係が悪かったら、輝くどころかつまづきとなり、悪い噂がたつでしょう。ですから私たちは、たとえば教会の周りの環境を整備する、有事の時には場所を提供して地域の人々に仕える等、神様に従って、喜んでしていきたいと思います。
 
 17-18節は今までの教会への勧めのことばから、少し文脈が変わっていて、パウロは自身の現状:死刑になる可能性を述べています。しかしパウロは自身が殉教しても、フィリピの教会の信徒たちも嘆き悲しむのでなく、ともに喜んでくださいと記しています。愛する兄弟姉妹や家族が殉教することほど、悲しい辛いことはないと思います。当時の迫害はむごたらしく、残酷な仕方で処刑されていきました。パウロはそれでも、ともに喜ぼうとすすめています。パウロは自身の殉教さえも、神のみこころとして、喜びをもって受け入れていたのでしょう。私たちはパウロほどの覚悟はもてないかもしれません。しかし、キリストはそれぞれの信仰の量りに応じて様々な状況に私たちを置き、「わたしにならって従順になりなさい」と問われていると思います。それは私たちの霊的に成長を願っておられるからです。
 
 おそらく、皆さんも今なしている活動の原点を振り返ってみると、神様が志を与えて下さったと思いあたることがあると思います。すべてのことが神様から発し、神様に帰る、そしてその責任も神様が負ってくださると思うと、自分がやっているという高ぶり、もしくは自分を不必要に責めること、不安になることから自由になれます。なぜなら、みことばで
 
 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 ローマ信徒への手紙11章36節
 
     とあるように、今なしていること、それが仕事であれ、教会の奉仕であれすべてのことは神様から始まり、神様によって保たれ、神様へ向かっているので神様に栄光を返すことができます。すると、そこに「自分が」という思いは減らさせ、同時に神様が保ってくださるのだから、必要を満たしてくだり、今ないものは与えられると信じて求められます。
 
     この益子教会のために祈り続け、礼拝を開催し続ければ必ず、神様が人を送って下さり、キリストの体としての教会が建てあがると希望を持ちましょう。私たちは今与えられているこの状況、健康、家族を神様からの恵みとして感謝し、つぶやかないで、すべては神様のおかげであると、謙遜な思いをもって、キリストの従順の姿勢から学び、これからも神様がわたしたちの内に働いて、御心のままに何かを望ませ、行わせてくださることを期待していきましょう、そして祈っていきましょう。
       お祈りします。
       
     *1フィリピ4:15,コリント2 11:7-9参照
           
 (引用:新共同訳聖書)
 

 

   
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