Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○Sep. 11, 2022 「憐み深い主イエス」」
    
 ルカによる福音書 10:25-37
 
 本日の箇所「善きサマリア人」は、ドイツ語圏の教会では「憐み深いサマリア人」と記されているそうです。これは、この物語を単に道徳的な、善人の行為としてとらえ、私たちもそうしましょうと受け止める以上に、このサマリヤ人が憐み深いイエス様をたとえているという解釈に焦点をおいているからです。
 
 まず、この箇所についてですが、ある律法学者が質問をしました:「何をしたら 永遠の命を受け継ぐことができるか」と。これは、行い(律法を守る)によって、永遠の命を頂けるという前提で質問していますが、この人は、何が律法のなかで大切か知識をすでに持っている、答えを知っていると思います。たんに、イエス様が適切な答えをするかを試しているのです。ですから、イエス様はそれを悟って、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問を返されます。そして、律法学者は即答で、申命記6:5とレビ記19:18の「主である神を愛しなさい」、「隣人をあなた自身のように愛しなさい」を答えました。この律法学者は知識の面では優れているし、もしかしたら、ほかの福音書でイエスご自身が、「大切な戒めは何か?」と律法学者たちに聞かれて、この二つが大切で、律法全体がこの二つの戒めにかかっている(マタイ22:40)と言われたのを聞いたことがあるのかもしれません。イエスは彼の答えを評価しつつ、「正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。
 
 しかし、イエス様は律法学者がそれを実行できていないことをわかっていて、言われたのではないかと思います。それは意地悪で言われたのではなく、この律法学者にも救われてほしいからです。人は律法の行いを完全に全うできないし、そこに救いはないのです。もし出来ていたら、イエス・キリストが十字架で、そのできないで罪を犯している人間の罪を贖う必要がないからです。ですから、イエスは、彼に「知識としては律法をよくわかっているけど、出来ていますか?」という問いかけをすることにより、実は出来ない、ということを自覚させ、救い主であるイエス様を信じる方向へ導かれるために言われていると思います。
  
 新約聖書が書かれた原語(ギリシャ語)で、この憐み深いという単語(スプランクニゾマイ)はルカの福音書ではここを含めて3度使われ 、マタイによる福音書でも、大きな負債を赦された僕の話 で使われています。この単語は神が主語の時に使われるという用法、特殊用語だそうです。だから、このサマリヤ人は神様のこと、つまり御子・主イエス様のことを指すと解釈されています 。
       
 このたとえで、憐み深いサマリア人を主イエス様の姿、死にかけていた人を自分自身に当てはめてみると、自分がどのような状態からそもそも救って頂き、永遠の命を与えられ、新しく生きることが出来るようにして頂いた救いのストーリーとなります。「その人を見て憐れに思い、 近寄って・・・介抱した。」神様は、ご自分を信じないもの、神などいないと敵対する者に対しても同じ愛を注がれ、「かわいそうに思い」、罪の縄目で苦しみ、もしくは囚われている状態の人々、様々な苦しみのなかで死んだような状態の人々を、全てキリストにおいて救おうと計画されました。御子であるイエス様がご自身の命を犠牲にして、十字架で苦しみ、死なれ、そして復活され召天された業を通して、今の私が救われて生きていること、自分が受けた神様の無償の愛を常に感謝したいと思います。感謝すればするほど、この物語の中に主の憐みを受けている自分の姿を聞き取ることができます。道徳的な話ととらえると、自分が助けるサマリア人の側に回ります。もちろん、それも今後の立ち位置となりえます。主イエスに助けていただき、死から命を与えられ、今度は主イエスに習って、自分が愛されたように、他者(隣人)をかわいそうに思って助ける側に回れるからです。
     
 ではその隣人がたとえ、敵であっても(敵とは自分に敵対する、ひどい扱いをする人も含みます)憐れに思い、かわいそうに思い、助けることができるでしょうか。隣人とは、自分に利害関係がなく、自分を攻撃してこない、もしくは何か害を与えない相手ばかりではありません。そうであれば、隣人を愛することはたやすいでしょう。しかし現実の生活では、そんないい人ばかり周りにいません。
 
 そんな相手に対しては、その人が困っていも、そばを通り過ぎてしまいたくなる、関わりたくないと思ってしまう自分を正直に認めます。私は敵を愛せないし、敵を助けるどころか、この祭司やレビ人のように傍観してしまうのです。しかし、「わたしは隣人を愛せないものだ」と自覚が与えられるのはある意味、幸いだと思います。良いひとばかり周りにいると、自分は神様の愛を行えると錯覚してしまうからです。神様は私がへりくだり、神様に憐みを請い、助けて下さいと求める方向に導くために、周りに愛せない人々を置くのでしょう。そして、愛せるように神様に求めて、愛を注いでもらって自身の内側が変えられる、そのような霊的成長をしてほしいと願っておられるからです。
     
 自分の敵が倒れていても「かわいそうに思って」助ける、自分の損得を考えずに費用を出し、助ける。これはなかなかできないことでありますが、クリスチャンでなくとも、このようなことを行っている偉人は実はいます。しかし、主イエス・キリストを救い主として信じれば、律法が守れなくとも(つまり隣人を自分のように愛せなくとも)、私たちは救われ、赦され、回復されて、この世にいるときから永遠の命を頂き、神様の恵みによって生き続けることができます。そもそも自分が強盗に半殺しにされたような状態であった、そこからイエス様によって救われたというところから常に出発する必要がある、このサマリヤ人のたとえはその気づきを与えるたとえだと思います。
     
 しかし、生活の中で自分に敵対する相手なんか愛せない、という壁にぶつかります。それではどうしたらよいのでしょうか?神様の愛を注いでもらうしかありません。自分の内側になければ、神様からその心を祈って求めることが出来るのはなんと幸いでしょうか。模範的な人格者のように、神様に頼らず、自分の人柄、品性で困った人を助けることができるボランティア精神が豊かな人でなくとも、主により頼めば不可能が可能になる。つまり、臆病な人、敵に対して怒りを抱いてしまうような忍耐を欠く者、性格の悪い人でもだれでも「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエス様のことばに神様の助けによって従えます。なぜなら、自分の力や性格の良さでそれを行おうとするのではなく、神様にその実行する心と力を求めて、与えられて「できる」ように導かれるからです。徐々に、自分の内側が忍耐が与えられ、寛容な心に変えられていくことを主にあって期待できるからです。そして、主イエス様のこの命令に従おうという動機が、自分も憐れんでいただいたからというところにあるのは、強みとなります。自分が憐みを受けたことなく、愛されたこともないのに、隣人を自分のように愛せません。しかし、恵み深く、憐み深い神様の無償の、大きな愛を受けて、今生かされているものとして、その神様の愛に自発的に応答して、どんな隣人であっても、その人にたいして憐みの心、愛を、神様から頂いて、示すことが出来るよう、日常生活の中で祈り求め、折にかなった助けを頂き、歩んでいきたいものです。最後にローマ信徒への手紙5章1-5節を読んで、今日語られたみことばの確かさを心にとめ、希望をもって今週も世に出ていきたいと思います。
     
 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
   (引用:新共同訳聖書)
 

 

   
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