Mashiko

 
益子教会でのメッセージ


 ○ 神は我々と共におられる Dec. 2022
    
 マタイによる福音書1:18-25
 
 イエス様の降誕のお話を毎年聞いていて、改めて「なぜ?」と思うことはあります。神様は救い主、イエス様の誕生のお告げをマリアにはみ使いを直に登場させたように、なぜ夫ヨセフにもそうしなかったのでしょうか。なぜヨセフには夢の中でみ使いを登場させたのでしょうか。
 
 皆さんは、夢を見ますか?夢の内容を覚えていますか?夢というのは、すぐ忘れてしまう夢と、後々まで覚えている夢とがあります。そしてたいがい、夢は現実とは全くことなった設定で、ある人々がでてきたり、私の場合自分が他の人になっていることもあります。夢分析はともかくとして一般的に言えることは、夢というのは寝ている間にその人の脳で映像が起こることで、よってその人の普段抱えている思いや願いなどが反映されることがあります。私は何か悩むこと、仕事のことや人間関係のことなどがあると、夢に出てくることがあります。このような心を占めている思いが、夢に反映される傾向があるのは事実でしょう。
 
 聖書では、夢を通して神様が人に語られるという記事がいくつかあります。偶然かどうかわかりませんが、旧約聖書でヨセフという人はやはり夢を見ます。彼はアブラハムのひ孫にあたりますが、自分に向かって兄たちの麦の束がお辞儀する、また11の星と月と太陽が彼に向ってお辞儀する夢をみます。実はそれが予知夢、つまり神様が夢を通して将来この家族に起こることを示されていたのです。ヨセフがお兄さんたちに憎まれてエジプトに奴隷として売られてしまった後、神様の摂理で、ヨセフは後にエジプトの総理大臣になり、それと知らずに、その地域に起こった飢饉のため、穀物をカナンの地からエジプトに購入しにきた兄弟たちが、エジプトですべてを取り仕切っていたヨセフの前にひれ伏すことになります。そして、約1900年後、同じ名前のヨセフ、つまりマリアの夫に、み使いが夢の中で現れ、神様のメッセージを伝えるのです。
  
 イエス様の誕生について、ルカによる福音書は主イエス様を身ごもったマリアを主体にして書かれているのにたいし、マタイによる福音書ではマリアの夫ヨセフを通して一連の降誕の物語が語られています。聖霊によって処女から生まれたイエス様と、マリアの夫であるヨセフは血縁的には直接関係ないですが、マタイによる福音書の記者は救い主がこの世に人として生まれる上で、神様がヨセフに大きな役割を与えていたことを描いています。マタイによる福音書1:16で
       
 「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」
     
 と記されているように、男性が中心に記されるこのアブラハムからの系図において、ヨセフが繋がっていることが記されています。これは、救い主がダビデの末裔に生まれるということがこの系図で示されています。人の名前の羅列になかなか意味を見つけるのも難しいものですが、これもマタイの福音書の中で、重要な記事であります。
 
 当時のイスラエル民族の結婚というのは、親同士が小さい時にうちの子とあなたの子を結婚させようと、親同士が決め、結婚式までの一年間の婚約期間も、正式には結婚している状態とみなされます。ですから、婚約期間に妊娠すれば、結婚の誓約を破ったこととなります。「夫ヨセフは正しい人であったので・・・」の表現の中に、ヨセフのどのような思いが隠されているでしょうか。婚約者の妊娠が発覚。自分は何もしていない。となれば不倫なのか?何か彼女が犯罪にまきこまれたのか?と、どれ程ヨセフは苦悩したのでしょうか。愛しているマリアが、なぜ?そして、マリアは聖霊でみごもったと言います。それを信じたいけれど、常識的に信じきれないと。マリアの妊娠を知ってひそかに離縁しようとした。これは自分の保身ではなく、マリアが石打ちの刑に処罰されないようにとの彼なりの結論だったのでしょう。しかし、たとえそうしたとしても、彼は一生このマリアとの離婚のことで思い悩んでしまうかもしれないのです。
     
 彼の苦悩は計り知れません。それが毎晩、悪い夢としてでていたかもしれません。マリアのように、ヨセフにも天使が目の前に突然現れることも可能だったでしょう。しかしヨセフには、夢で天使が現れたのは、そのヨセフの心の葛藤、苦しみ、寝ている間にも思い煩ってしまうほどの状態であったからではないかと思います。ですから、夢で語られたみ使いのみつげにより、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(20-21節)といわれました。ヨセフはどんなに目覚めがよい朝を迎えたのではないかと想像します。「ああ、そういうことだったのか!それなら、マリアを妻として迎えよう」と、そして救い主であるお腹の子を、自分はマリアの夫として守ることを決心したのではないかと思います。神様は、ヨセフに人間としてイエス様の父親の役割、そして神の子を守る役割を与えられたのです。彼はそれを信仰で受け止め、実行に移したのです。
     
 23節に「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
とありますが、これがイザヤ書7:14 で預言されていることが成就されたのだと、マタイは解説しています。
     
それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。  イザヤ書7:14   

 ヨセフはマリアのように直接、御子イエス様を胎に宿るという大きな役割でなくとも、赤子として生まれてきたイエス様の父親として、無事ベツレヘムで生まれるようにマリアを守り、支えるという重要な役割が与えられました。その後のヘロデ王からの虐殺から逃れるため、夢で示されてエジプトに逃げたり、また戻ってきたりと、聖書で記されているその旅の工程を見るにつけ、彼は何度も危機に直面し、どうしようと悩み、妻マリアに心配かけないようにと、一人で神様と対話したのではないかと想像するのです。しかしいつも「インマヌエル」神が私たちと共におられるという約束に、また約束の表れである幼子のイエス様の存在を見て、どれ程励まされ、ヨセフは助けられてきたのではないかと思います。
 
 私たちは日常生活の中で思い悩むことがあります。恐れもあります。私たちは信仰を持っていても、心が折れることがあり、落胆することもあります。この世の中は不安にさせるニュースばかりが報じられます。人の罪がある限り、戦争や弱い者が虐げられる社会は続きます。個人的に、生活の中で「なぜ、こんなミスをしてしまうのか!」と落ち込むこともあります。また、どうにもならない人間関係。どうしてこんなことが自分におこるのかという艱難。大事な家族を失う悲しみ。ヨセフも思い悩んでいたように。
 
 しかし、神様はそんな状態の私たちの心をご存じで、その悩んでいる状態のなかでこそ、神様は私たちに出会ってくださります。そして、こんな小さな自分にも、神様の栄光のために、何か役割を与えて下さる方です。私たちの人生における悲しみ、苦しみ、憂いを自分一人で抱えず、神様に祈って委ねていこう、任せていこう、そうすればなんとかしてくださると信じることができます。その憂いている状況があるからこそ、そこで神様は私たちと向き合って下さり、導き、心を引き上げてくださる方です。
 
 もしかしたら悩みがない人は、すべて自分でできてしまうので、神様を求めないかもしれません。私たちはこの苦しみになかで神様が共にいてくださること、弱い自分をも顧み、変わらない愛を注いでくださることを経験し、そうして神様への感謝と喜びを味わえるはずです。
 
 私たちは、このクリスマスの時期だからこそ、今一度、なぜイエス様がこの世に来てくださったのかを思い起こし、希望を持つことを忘れてはならないと思います。イエス様は私たちが救われるために、私たちの罪が赦され、神様と和解できるようにと、ご自身を捧げられて十字架にかかられ、死なれ、3日目に甦られました。イエス様の誕生は、自分が救われるためであったと信仰で受け止められたとき、その神様の復活の力が、今を生きる私たちにも及び、どんなに落ち込んでいても、絶望にも打ち勝つ力が与えられます。そして自身が引き上げられにとどまらず、この救いの喜びを、神様の愛を他の人々にも知らせていくチャンスを求めていこう、という神様の御心にそった思いが与えられていくと思います。
 
 
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 」  テサロニケの信徒への手紙1 5:16-18に
 
 とありますが、これは、いつも幸せで、苦労もなく、すべてが順調に進んでいる状態において、いつも喜んで、絶えず祈って、感謝できるわけではないと思います。むしろ 苦しみ、悩みの状況が生活のなかであるからこそ、神様に助けを求めていくと、問題にばかり目を向けている視野から、実は神様からこんなにも恵を日々与えられているではないか!という気づきが与えられる、つまり視点が変えられる。そうして、状況が変わらなくとも、神様の平安を少しずつ与えられ、喜び、祈り、感謝できるように心が変えられていくのではないでしょうか。
 
 最後に、マタイによる福音書がインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わっていることをもう一度確認したいと思います。
 
 
イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」  マタイによる福音書28章18-20節
 
 
これは、特定の人に語られているみことばではなく、キリストを信じるものすべての人に語られています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」このことを心に留めて、神様の恵みを受け取って日々歩んでいきましょう。
 
 (引用:新共同訳聖書)
 

 

   
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