Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○Mar. 12, 2023 「御心のままに」
    
 
 ルカによる福音書 22章39-46節
 
 本日は、ルカによる福音書より「御心のままに」と題して、メッセージさせていただきます。
 
 イエス様は、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出るほどもがきくるしんで祈られます。そして「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られた。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。神の子であるイエス様が十字架の苦難と死を恐れたからでしょうか。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死なれ陰府に下られたことです。
 
 すると、最初から父なる神と子なるイエス・キリストと聖霊は一つであり、ずっと一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまう。そうだとしたら、十字架の肉体的、精神的苦しみより、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。
 
 42節「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 主イエスが父なる神に 「御心のままに」と祈られました。これはイエス様の恐れに打ち勝った 勝利のいのりです。

 私たちは御心がなるようにと主の祈りで祈っています。一方、自分の願い、計画、思いを持っています。持つこと自体は悪いことではなく、志も神様が与えて下さります。そのうえで、その計画を神様に委ねられるかが問われます。主のいのりを礼拝で祈り、もしくは日々自分で祈るとき、「御心が天にて行われるように 地にも行われますように」を自分の具体的状況に当てはめて 祈っているでしょうか。定型文の祈りは つらつらと言葉を並べるような慣習的になりがちです。ひとつひとつ 思いをこめて 主の祈りを祈ることは大事です。
 
 一方弟子たちは、このイエス様の苦しみの祈りの際中、寝ていました。弟子たちは悲しみの果てに眠ってしまった。とルカは記していますが、マタイとマルコの福音書(14章32節から)はゲッセマネというところでイエス様は弟子たちを連れて祈っていたと記しています。そこで3度、「目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われたのにも関わらず、彼らは寝ていたと記されています。ひどく眠かったと。ルカのほうが、なぜ眠ってしまっていたのかの理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり殺されるかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて不安で、祈ることもできず、眠ってしまったのでしょう。
 
 私たちも、悲しみのあまりに祈れないことはないでしょうか。ふて寝という日本語がありますが、辛い、悲しい思いがあると、寝てしまいます。また起き上がることもできないほどに、苦しむ方もいるでしょう。しかし、主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、立たせてくださると祈れるのはなんと心強いことです。
 
 「起きて」は「立って」とも訳されます。当時のユダヤ人は立って祈る人もいたそうです。座ったり、ひざまずいて祈るスタイルもあり、状況に応じて様々です。イエス様はこの時、ここでは地面にひれ伏して祈ったとマルコ14:35には記されています
 
 「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 コリント信徒への手紙2 12章9-10節
 
 「自分は強い、自分の力を信じるんだ」と、この世の人々は自身を鼓舞し、また他者にも励ましているところがありますが、それも限界があります。それなのに、弱い時に頼れる神様の存在を知らない人々は、自分で頑張ろうとする。それは非常につらいことです。しかし神様の力は、私たちの弱さの中にこそ、十分に発揮される。自分の弱さに気付けることは幸いです。
 
 讃美歌1 291番に
主に任せよ、なが身を 主は喜び 助けまさん
忍びて 春を待て 雪は解けて 花さかん
  嵐にも 闇にも ただ任せよ なが身を

 主は任せてもらうことを喜んで助けてくださる方だと、そして 任せるときに、私たちのすることは忍耐して 春になるのを待つ と讃美歌でも歌われています。私たちはこの賛美を歌う時、神様に任せることはどういうことかを思い出したいと思います。
 
 一方で、祈りというのは「困った時だけ祈る」ものではありません。祈りとは日々の生活の中での、神様とのコミュニケーションであり、自分のために、他者をとりなすために祈り、そしてその祈りが答えられるという過程によって築きあげられる神様への信頼関係が前提にあります。緊急時だけに、危機の時にだけ助けを求めて、普段は自分でなんとかできるからと、祈らずにいるというのは自分を頼っていることになります。自分の力に頼り、八方しつくしてから、「もう、祈るしかない」という最終手段のような用い方を本来するべきではないでしょう。キリスト者の祈りは、危機的状況においての保険的な気休めではないのです。
 
 そして、祈ったことは任せる、そして任せてすぐに答えが、反応がなくとも、忍耐して待つことが問われます。待つところに、私たちの訓練があるでしょう。それが「御心がなるように」と祈る、祈りの基本ではないでしょうか。試練・誘惑に遭わないことは この世で生きている限り不可能です。ただ、イエス様が弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」といわれたように、陥らないように祈り、そして神様が祈りを聞いてくださる、守られるという安心感が与えられています。そして状況が変わるまで待つ、自分の心が変えられるまで待つ、これが私たちの成霊的成長でもあります。パウロはローマの信徒への手紙で
 
 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5:1-5
 
     私たちには聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから、危機的状況においても、長年続く辛い状況にあっても、神様からの希望が与えられています。なぜなら、キリストのおかげで、わたしたちは今恵により、信仰が与えられているからです。そしてその信仰をもとに、神様にすべてをゆだねて祈り、そしていつかは神様と主イエスとともに、天での祝福に預かれるという希望が与えられているからです。
 
 問題にばかり自分の思いを向けると、この神様の約束を忘れてしまいます。だからこそ思い出すために、何度もみことばに触れる必要があります。自分の狭い思いのなかでは希望はないかもしれません、しかし、自分の力で希望を生み出せと神様は言われておられません。私たちには、信仰に基づく希望があることを何度も思い出すのです。
 
 それをすべてはるかに超えて祈りをかなえてくださる、大きな愛の視点を持たれる神様に委ねられるようとパウロは彼の祈りをこう記しています。
 
 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。  エペソ信徒への手紙 3:18-21
 
 私たちはイエス様が受けた程の苦難を受けることはないと思いますが、神様の御心が私たちの地上での生活の中でなると、必ずしも楽な道、安易な道ではないかもしれません。しかし、死に打ち勝ち、復活された主イエス様が、私たちの弱さをご存じで、立ち上がれない時、助けて下さることを信じ、祈ったことを全て神様に委ねたいと思います。また、忍耐する心が私たちの内に与えられるよう願いつつ、希望を持ってこの世の生活に踏み出していきましょう。

 (引用:新共同訳聖書)
 
 

 

   
inserted by FC2 system