Mashiko

 

益子教会でのメッセージ

 ○May 2023 「すべての人々のために祈る」
    
 
 テモテへの手紙1 2章1-7節
 
 本日は、「すべての人々のために祈る」と題して テモテへの手紙Tよりメッセージをさせていただきます。
 
 まずテモテとはだれかということについて説明いたします。使徒パウロがルステラという町に伝道旅行に立ち寄った時に、ギリシャ人の父とキリスト信徒でユダヤ人の母とを両親に持つテモテを弟子として、一緒に伝道旅行に連れていくことにしたと使徒言行録に記されています(使徒16:1〜3)。テモテは、パウロが宣教旅行の同労者として信頼し、また小アジアの教会の牧会を任した人で、彼はパウロの最後に至るまで忠実にパウロと信仰の交わりを持っていたようです。パウロは自分が訪問できないテサロニケの町へ、代わりに「キリストの福音のために働く神の協力者テモテ」として派遣したり(テサロニケT3:1-3)、パウロが記したとされる6つの手紙の共同の差出人として、テモテの名が記され(テサロニケT、U、コリントU、ピリピ、コロサイ、ピレモン)、無名の著者によるヘブライ人への手紙の結びには「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。」とあり、彼もキリストの福音のために牢獄に入れられていたようです。テモテはパウロの代理として、小アジアの教会の責任ある指導的地位についていた弟子で、下記のみことばのようにパウロに励まされていました。
 
 「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」テモテU4:5
 
 そのテモテ宛にパウロがどのように教会を牧会していくかを手紙で記し、そのなかでまず第一の勧めとして記されているのが、すべての人々のために祈ることです。他者のために祈ること(執り成しの祈りと言われます)が、そのことが祈る私たち自身にとっても良いことであり、そのことを神様が喜ばれることであると記されています。

 すべての人々のために祈りなさいとあり、続いて「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」 では具体的に、何を王や高官といって現代でいう政治家達のために祈るのでしょうか。自分の属する国のために良い政治をするように祈ること、世界を視野に入れた場合、今でしたら、ある国が他国へ武力を持って侵略している場合、その政治家が侵略をやめるように祈ることなど、祈ることはたくさんあります。しかし、各国民が自国の利益のために祈ると、他国の利益を損なうという利害関係が生じる場合、神様はどの国の利害を優先されるのでしょうか。世界の平和は、各国の利害が対立すると成り立たず、それを国連やG7や首脳会議で話し合いで解決しようと試みてきています。また国内においても、権利の主張は立場が違えば異なり、たとえば高所得のAさんの要求は、低所得Bさんにとっては不利益になる、また男女によって、こうしほしいという要望の違いがあり、ジェンダー平等が今問題としてあげられています。高齢者のために国政が税金を使えば、若い世代のための政策がおろそかになり、結果出生率が下がり少子化となります。つまり立場が異なると要求が異なりますが、限られた財源ですべての人が豊かになる政治の実現は困難です。社会でだれかが犠牲になってしまう。すべての人が一斉に神様に自分のために祈るとどうなるでしょうか。

 
 このように具体的な政策レベルで政治家のために祈るということももちろん必要ですが、まずは彼らが救われること、悔い改めて、真理を知ることを祈ることが大切であります。なぜなら、神様がそう望んでおられるからです。「すべての人々」と言ったら、私たちから見ての悪い人も含まれます。神様は悪人が死ぬのを喜ばず、悔い改めることを喜ぶとエゼキエル書に記されているからです。
 
 「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」エゼキエル書33:10
 
 そして、この神様の御心をもとに、神様はご計画を立てられました。すべての人が救われるようにと、イエス・キリストがすべての人の贖いとして、ご自身を十字架で献げられたからです。
 
 「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  マタイ20:28
 
 とイエス様が言われたことはまさにこのことです。イエス様が私たちの罪の贖いとして、代わりに十字架でご自身を捧げてくださるという、神様の救いの業がなされたのは、すべての人が立ち返って、イエス様を信じることを神様が望まれているからであって、信じないで滅んでしまうことを望んでおられないからです。そこまでして、この世(世とは人類全体)を神様は愛してくださっているということは下記のみことばが示す通りです。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」 ヨハネによる福音書3:16-17
 
 政治家たちが、御子イエス様を信じ、救われることに関しては人間同士の利害関係につながりません。信仰が与えられた政治家は、もちろんその人だけが政策の決定権があるわけではないのですが、おのずとキリストの教えを念頭に政治的決断をし、周りに影響力を及ぼすはずです。ましてや、その国のトップの政治家が悔い改めれば、例えば侵略戦争をしていたら、辞めることが可能でしょう。パウロが、テモテという教会のリーダーに、教会というコミュニティで何を祈っていくか、すべての人の救いのために祈る、特に政治家たちの救いのためにまずは祈っていこうという勧めは、現代に生きる私たちには共通に示されていると思います。神の言葉は生きていて、過去にだけ当てはまるものではないからです。政治家たちが救われれば、結果的に、人々が「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」を送れる社会的状況に変わっていけるでしょう。すべての人が救われることを祈ること、これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることであるからです。
 
 私たちは、社会的には小さな弱い立場であるかもしれません。しかし、憐みと恵により信仰を先に与えられたものとして、まだキリストの福音を知らない多くの人々、それも政治家も自分の国以外の人々、自分の嫌いな人々を含むすべての人という、神様の視点をいつも覚えて、その人たちのために祈ることはできます。そして私たちの祈りの力ではなく、祈りを聞いてくださる神様に力があり、全世界を治めることができる神様に期待して、すぐに聞かれなくても祈り続けることが大切だと思います。そして、神様のキリストを通してすでにしてくださった救いの御業をどんな時でも、今の状況が悪くとも、感謝することを覚えているかどうかがここで問われているのではないでしょうか。この執り成しの祈りは、牧師・教師だけではなく、すべての信徒、つまり教会全体に神が望んでおられることです。
 
 直接、福音を相手に語れなくとも、執り成しの祈りはいつでも、誰に対しても出来るからです。福音の伝え方にはその人に置かれた立場、状況に応じて様々な方法があるでしょう。皆が皆、口で告げ知らせられなくとも、行いと態度でもキリストの愛を示すこともできます。それには「争わず、寛容で、すべての人にこころから 優しく接する」ことも含め、2節の「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をそれが完璧にできなくともそう心掛けていれば、未信者の人に「あの人はこんなひどい状況であっても、なぜ落ち着いていられるのか?」と良い意味での疑問を持たせ、実際に「なぜ?」聞かれた時に、自分の信仰を証するチャンスとなります。
 
 ある会社の経営者が、バブルの崩壊後、倒産の危機となり、日々ストレスと心配で眠ず、精神的に参っていました。その会社の役員でクリスチャンの人が財務を担当し、資金繰りや銀行との交渉を担当していたのですが、こんな状況であってもその人は普通に仕事を続けていました。そこで、経営者がその役員に「あなたはなぜこんな状況で平気でいられるのか?」と尋ねると、「わたしはクリスチャンですから、神様にお任せしています」と一言答えると、「わたしのために、祈ってください」とその経営者が言ったそうです。
     
 こうように、社会生活の中で、ピンチの時の平穏な態度はキリストに習うものであり、神が喜ばれることであり、そして人に良い証となり、福音を伝えるチャンスにもなるわけです。この経営者がこの後どうなったかはわかりません。ただ私たちすることは、福音の種まきであり、そのあとのことは神様にお任せしてよいのです。
 
 私たちの自分の性格や力で「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をしようと思っても、限界を感じ、出来ない自分にストレスを感じてしまいます。たとえできていなくとも、私たちが霊的に成長していくよう、神様は忍耐を持って、私たちを支え導いてくださるお方です。そして、5節にあるようにイエス様が神様と私たちとの唯一の仲介者でおられ、私たちの祈りをとりなして下さります。イエス様のおかげで、すでに神様との和解が与えられるという救いの恵みについては、いつでも感謝できることですし、私たちの行いの有無、信仰の強弱でその救いは取り消されることはありません。現実的に、世の中的にも先行きが見えず、不安な要素に目を留めると心配になります。また人間関係の修復も容易なことではありません。しかし、私たちは大きな励ましと慰めのみことばが与えられています。
 
 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」コリント信徒への手紙1 14:7-9
 
 私たちは主のものです。つまり主なる神様の守りのなかに置かれていています。もし、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、わたしたちは主のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、先ほどの例話のように、「祈ってお任せしよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。その信仰を基盤にすると、自分のためだけでなく、他者のためすべての人のために祈ろうと導かれます。そのことが神の御前に良いこと、喜ばれることであります。ですから日々みことばの糧を心に蓄え、聖霊が私たちの心に働きかけてくださるよう意識して求め、日々神様に祈っていきましょう。
 
 
 (引用:新共同訳聖書)
 
 

 

   
inserted by FC2 system