Mashiko
   

 

益子教会でのメッセージ

 ○Sep. 2023      「いつ呼び求めても近くにおられる神」
    
  聖書箇所 申命記4章5-20節
 

 聖書で記されている神様は、目に見えない神さまであります。また教会や神殿という特定の場所で礼拝しなければならない神様でもなく、お参りにいって、祈祷師にお金を払ってお祈りしてもらわないと、お願いができないような、他の人間が作り出した神々ではありません。私たちの信じている神様は、唯一の真の神である、イエス・キリストの父なる神であり、私たちも「父なる神様」と親しく呼びかけ、個人的に直接お祈りできる神様であります。しかし、目に見えないものを信じることに関して、人間は信じきれない弱さを持ち、古代から目に見える形・像を作って神とする、もしくは太陽、月、星を神として拝んできました。日本にも八百万の神々が溢れています。また現代ではアイドル、特定の人に夢中になる、もしくは仕事・趣味に夢中になってしまうことがその人にとって偶像となりかねます。先ほど読んだ聖書の箇所では神様がモーセを通して、神以外の偶像、他の神を拝まなないようにと古代のイスラエル民へ律法を与えましたが、かれらは守れませんでした。人は神様が与える正しい掟、契約を守れない弱さ、つまり誰も律法を完璧に守ることができないことを旧約聖書は記しています。
 
 本日の箇所では、私たちの神様は目にはみえなくとも近くにいて下さる神様であり(7節)24時間、365日いつ呼び求めても、聞いて下さり、聖霊が私たちの心に与えられているので、イエス様がともにいて下さることを信じる信仰が与えられています。この聖書は旧約聖書、新約聖書からなり、前者はユダヤ教の聖書でもありますが、キリスト教は旧約聖書で示されている神様を信じ、旧約聖書は結局イエス・キリストを様々な形で指し示している内容であると関連づけて、読んでいます。私たちがどのようにイエス様によって救われたのかを理解するうえで、旧約聖書について、そしてイスラエルの民、つまりユダヤ人とキリスト教との関係を正しく把握しておく必要があります。新約聖書だけ学んでいればいいものではなく、神のことばである聖書として両方読まなければ、神様とはどういうお方か、イエス様とは、私たちが何を信じ、何に向かって生きていくのか、その希望は何かを知ることができずに、「なんとなく信じている」で終わってしまいます。そのような信仰の土台は、人生の嵐がきたときに、揺らいでしまう危険性があります。
  
 イエス様ご自身が「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」(ヨハネ5:39-40)と言われています。ここでの「聖書」は旧約聖書のことを言っていますから、旧約聖書はイエス・キリストについて証しをしているのです。
 
 そして、今日の箇所も含め、旧約聖書で記されている律法は、イエス様が救い主としてこの世のこられるための準備として人間に必要だったものであり、パウロはその意味で律法は養育係のようなものだと言っています。「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3:23-25)

 つまり、子どもという存在は大人から愛を持って養育されなければ、わがままな社会性のない人格になってしまうように、まず私たちは律法で養育され、何が神様の前に良いことか悪いことかを知り、一方で自らがその律法を守り切れないと自覚する必要があります。自分の力では律法を完璧に守れない、つまり神様の前に罪を犯してしまうものだと自覚します。すると、どうしたらよいのだろうかと、神様に救いを求めます。罪とは的から外れるという意味です。神様の示した的つまり基準に、矢をうっても人は外してしまうのです。

 イエス様が救いをもたらす福音を伝えるための準備をするために、洗礼者ヨハネが「悔い改めなさい」と人々に叫んだのは、自分の罪を認め、悔い改める心をおこすためです。そのようにしてから、神様は救い主であるイエス様を歴史の中で人として登場させました。イエス様は「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(マタイ5:17)と言われています。律法というのは旧約聖書で記されているように神様がモーセを通して与えた守るべき掟、法律であり、聖でありますが、それ自体は完成したものではなかったわけです。問題は、律法を守れないと神様の前で正しいとされない、つまり罪があるとされてしまうことです。そのことをパウロはガラテヤ信徒への手紙3:23で「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。」と言っています。「この信仰」とはイエス・キリストへの信仰のことです。ガラテヤ3:22、「それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。」神様の祝福の約束が、キリストを信じる人々に、律法を守れなくとも、信仰で与えられるようになるために、律法は必要だったということです。
 
 また律法は、イエス様がたびたび律法学者・パリサイ人たちに指摘したように、それを守る人々を形骸化させてしまう危険性があります。律法さえ守っていれば自分たちは神の前に正しく、守れない人及び他の民族は裁かれると、高慢になることです。そして、律法を守ることに固執し、人の命が助かることより律法を守ることが優先されてしまうようになります。安息日にイエス様が病気の人を癒したことで、たびたび論争になりました。安息日は仕事をしてはならないという律法に様々な規定を付け足され、安息日には何も行動できないようなユダヤ人社会が出来上がってしまいました。こうして、ユダヤ人が神様から与えられた律法を形骸化し、ゆがめていきました。イエス様は、このゆがめられてしまった律法の本来の意味を回復し、完成するために来られたのです。
 
 神様は、律法を守れなくとも、御子イエス・キリストを通して救われるという道を示し、信じる者に聖霊を与えて下さいました。つまり、イエス・キリストの十字架の贖いにより私たちの罪に対する罰を全てキリストが代わりに受けて下さり、結果私たちが赦され、救われるという道です。ここに神様が御子を犠牲にしてまで私たち人間を救おうとして出さった、神様の愛が示されています。神様によってイスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放され、嗣業の民(20節)とされたように、私たちは十字架にかかってしなれ、復活され、今も天におられるキリストのおかげで罪と死とサタンから解放され、神の子供、約束による相続人とされ、神様からの祝福に与れるようにしてくださったのです。
 
 パウロは下記のように言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:26-29)
 
 キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、すると、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となるとパウロは記しています。また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国を相続するための保証であるとパウロはエフェソ信徒への手紙で記しています。
 
 この聖霊によって、私たちは天の父なる神様に信頼し、全てを委ねて日々の生活を歩めます。なぜなら、私たちが信じている神様は、いつ呼び求めても近くにおられる神様だからであり、私たちは神様の祝福の約束が自分にも信仰により与えられているからです。このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきましょう。
 
 
 (引用:新共同訳聖書)
 
 

 

   
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