Mashiko
   

 

益子教会でのメッセージ

 ○Mar. 2024      「イエスの眼差し」
    
  聖書箇所 ルカによる福音書22章54-62節
 

 今年のイースターは今月末ですが、本日は、イエス様の受難の物語の中での、弟子のペトロが、自身も逮捕されてしまうという恐れから「私はあの人を知らない」と言ってしまう弱さと、ペトロに対するイエス様が振り向かれた時の眼差しを通して、聖書から示されたことを分かち合わせていただきます。
 
 イエス様が逮捕されて、大祭司の家へ連れていかれ、弟子のペトロは遠く離れてついていったと記されています。他の弟子たちは皆、散りじりばらばらに逃げてしまいましたが、ペトロは、そっとついてきたのです。この記事は4つの福音書が記していますが、ヨハネによる福音書ではイエスの弟子の一人が大祭司と知り合いだったので、ついてきたペトロを大祭司の家の中庭に入れたとしています。時は真夜中で、焚火が庭にたかれていて、ペトロも他の人々に紛れて焚火にあたっていました。すると、一人の召使の女性がペトロに気づいて、じっとみつめ「この人もあの人と一緒にいました」と周りの人に言うので、ペトロがそれを打ち消して、私はあの人を知らない」と言いました。またしばらくして別の人が「あなたはあいつらの仲間だ」、「確かにこの男はあの人の仲間だ、ガリラヤ人だ」と周りから言われ、ペトロはそれぞれに「私はそうじゃない」「あなたの言っていることが分からない」とイエス様を知らないと3度言ってしまいます。
  
 イエス様は既にこのことを予告していました(ルカ22:21-34)しかも、単に予告しただけでなく、「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくらないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(22:32)と落ち込むであろうペトロにその先のことも言われています。イエス様はペトロの弱さを知って、信仰がなくならないようにあらかじめ祈り、そして、立ち直って、兄弟たちを力づけなさいと、ペトロへの使命をすでに伝えておられます。しかし、この時はペトロが思い出せたのは「鶏が鳴く前に、あなたは3度私を知らないという」という予告の部分だけだったかもしれません。
 
 そして、ペトロが3回もイエス様とのかかわりを否定した時に鶏が鳴き、イエス様が振り向かれてペトロを見ます。ペトロがいた位置から、捕らえられていたイエス様は見える距離に置かれていたのでしょう。イエス様の眼差しについて聖書は何も語っていません。それは「ほら私が予告したとおりだろう!」というようなペトロを責める眼差しではないはずです。「私はそんな弱いあなたのために十字架にかかるのだよ、赦しているよ」という、慈しみ深い愛の眼差しであったことでしょう。イエス様の言われた言葉を思い出し、ペトロは外にでて、激しく泣きました。「ああ、なんてことを言ってしまったんだろう、先生、ごめんなさい!」というペトロの激しい叫びだったでしょう。大好きな先生のために「主よ、御一緒なら、牢に入っても、真でもよいと覚悟しております。」とまで豪語しました。彼はその時本当にそう思ったのでしょう。しかし、いざ、死の恐怖が迫ると、そんな人間の強がりはどこかへ吹き飛んでしまうのです。

 イエス様が宣教活動をされた地域にあるガリラヤ湖の湖畔に、「ペトロの再召命教会」という教会があるそうです。その横には「ペトロの再召命の像」というのがあり、イエス様が復活して後、ガリラヤ湖で弟子たちに現れた時の話をモチーフにした像だそうです。そのことはヨハネによる福音書21章に記されています。ペトロを含めた弟子たちは、すでにエルサレムで復活のイエス様にお会いしましたが、ペトロはきっと複雑な気持ちだったでしょう。イエス様が復活したことはうれしいのですが、自分が3度もイエス様を知らないといって、ある意味裏切ったことが後ろめたかったでしょうし、「ごめんなさい」と謝る機会もありませんでした。ペトロはその後、他の元漁師だった弟子たちとガリラヤへ戻って、漁をしていたと記されています。彼らはどうしたらいいか未だわからなったのかもしれません。

 ある朝早く、復活されたイエス様がガリラヤ湖畔に現れました。そして、弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに3度「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と聞かれます(ヨハネ21:15-17)これは、ペトロが3度イエス様を知らないといったことに対応して、もう一度イエス様を愛するか?との質問に答えさせ、イエス様の羊を飼い、世話をするようにといわれます。ペトロは3回とも、「私があなたを愛していることはあなたが存じです」とこたえます。これは、もう自分はイエス様の弟子としてふさわしくないと落ち込んでいるペトロに、イエス様を愛しますと確信させるきっかけを与え、そして励まし、再びイエス様の羊を養う、世話をするように再び召命を与えている箇所だと言われます。
 
 この後弟子たちは、イエス様から全世界に出ていき福音を宣べ伝えなさいと宣教命令を受け、ペンテコステで聖霊の力を受けます。特に、ペトロは大胆に人々にイエス様が神から遣わされたメシアであること、神がイエス様を復活させ神の右の座に上げられたことを説教します。そして悔い改めて、イエスの名に夜洗礼を受け、罪を赦してもらうように、聖霊を受けるようにと人々に勧めます。ペトロは初代のキリスト教会でリーダーとなっていきます。ペトロは、もともとは強い人だったかもしれませんが、イエス様の十字架の出来事で、恐れて隠れ、おびえていました。そんな彼が本当に強くなれたのは、この挫折の経験から自分の弱さを認め、悔い改め、イエス様から再び召命を与えられたからです。そして聖霊が与えられたとき、今までの彼から想像できない、神からの力が与えられ、ペトロは大胆にイエス・キリストを証しし、また宣教旅行へと仲間と巡回したのです。
 
 ペトロの否認と再召命のストーリーは、今日の私たちにもあてはまります。私たちもペトロと同様、イエス様の十字架と復活により、罪赦された者です。教会とは、信仰が強く、立派な人々が集まるサロンではなく、欠点のある、弱いものであっても、キリストのゆえに罪が赦されて、洗礼を受けてキリストと結ばれ、キリストから福音宣教の使命のために呼ばれた者たちの集合体であります。私たち一人一人は、各々キリストから使命が与えられ、賜物が与えられ、キリストを証しするように呼ばれています。皆がみな、ペトロやパウロのように大きな働きをするとは限りません。しかし、当時2千年前、ペトロたちの説教を聞いて、イエス様を信じた人々は、使徒たちからイエス様の教えを聞き、聖餐に与かり(パンさき)、交わり、共に祈るために家々に集まっていました。そして、徐々にエルサレムから始まって、周辺の地域へ広がり、行った先々でイエス様を証していきました。専門的な教育を受けたわけでもなく、普通の人々で、ただ自分がキリストを信じて、恵みを受け、人生が変わったこと、その神様の恵を伝えていき、それを聞いて信じた人が、同じようにまた他者に伝え、福音(良い知らせ)として当時の全世界へ宣べ伝えられていったのです。その働きは、人間業ではなく、聖霊が大きく働いておられます。
 
 現代社会に生きるなかで、日本という国では信教の自由が憲法で保障され、迫害されることはありません。しかしながら、日本では」「宗教を信じている」とみなひとくくりにみなされ、カルト宗教のアレルギーを持つ多くの日本人より煙たがれますし、避けられることはあるでしょう。もしかしたら、私たちの信仰をあざ笑う人、批判する人がいるかもしれません。そんな人々の嘲笑を恐れて自分がクリスチャンであることを隠したくなる。もしくは、イエス様の愛の教えを知りつつも、世の中の不条理に対して、仕方がないと傍観、黙認、許容してしまうかもしれません。つまり、直接的ではなくとも、結果的に「私はイエス様を知らない」ということと同じことをしてしまう可能性があります。しかし、たとえ弱さのゆえにどんなことをしたとしても、この主イエス様の愛の眼差し、「そんなあなたのために私は十字架にかかったんだよ」を思い出すことができます。イエス様は責めない方であり、代わりに信仰がなくならないようにとりなして祈って下さり、私たちが立ち直り、そして他の人をその経験から励ますように背中を押してくださる方です。そして、次回は自分の信仰を言い表す勇気が与えられるかもしれません。私たちの信仰は、神様によって強められ、聖霊は私たちの内側を御霊の実を結べるように導いてくださいます。御霊の実とは、ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節に記されています。
 
 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」
 
 私たちは、このよう愛の実を結べるよう、聖霊により変えられていくという希望があります。自分の性格でこの実を作り上げることは無理ですが、聖霊に助けてもらえば可能であります。私たちは、すぐには変えられないので、神様の愛の忍耐深さ、情け深さにより頼みたいと思います。たとえ何度も神様が悲しむことを言ったり、してしまったとしても、悔い改め、赦しが与えられることは幸いです。このイエス様の十字架に至る苦難、死、そして復活は、私たちが神様から罪が赦されるためであり、ペトロのように躓いても起き上がらせて頂けるのは感謝です。そして御霊の実を結びキリストのような性質に内側が変えられていきたいと願い続ければ、神様はその祈りを必ず聞き、かなえてくださるという希望があります。御心にそう祈りはかなえられると約束があるからです。そして、信じた時に与えられる、私たちの心の内側に住まわれる聖霊の助けにより、主と共に歩む人生を導いて頂けるよう、祈ってまいりましょう。
 
 
 (引用:新共同訳聖書)
 
 

 

   
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