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Praise the Lord
日々の聖書のことばより 分かち合い

 大下 陽子













 

   

2024 十字架って素敵 できれば 世界に一つしかない個体 赦しの言葉
赤い桃の木 ヨーロッパの最初の教会:家庭集会 春の嵐における小さな配慮 *
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Apr. 14, 2024

 春の嵐における小さな配慮



 先日、台風並みの暴風雨が関東一体を覆い、そんな日に限って埼玉の森林公園に夫と出かける予定を立てていました。しかし、他の用事で埼玉まで車で出かけていたため、雨風が車を叩きつける中「奇跡的にちょうど雨が止んでくれれば」と、一応公園の入り口まで行ってみました。時は朝の11時頃、突然雨が止み始めたのです。公園の受付の方も悪天候で誰も来訪者がいない中、物好きなビジターを「いやーちょうど止んできましたね!」と迎えて下さり、公園内を歩き出す頃にはすっかり雨は止んでいました。そして5q近く、桜や、ポピー、ネモフィラなどを鑑賞しながら広い公園内歩くことができました。実はこの冬の間、仕事と勉強、教会のこと等で全く時間がとれず、ゆっくり歩く時間もなかったので、神様は悪天候の中、歩く機会と久しぶりにリフレッシュする機会を与えてくださったのだと、その絶秒なタイミングに驚きと感動で、喜びがいっぱいの日となりました。このような、ほんの小さいことから、人生を変えるような大きなことまで、いつも神様のタイミングと配慮によって日々たくさんの恵みを与えられていることを改めて感謝しました。

 主イエス様と私たちキリスト者の関係は良い羊飼いと羊の関係に非常によく描写されます。イエス様はご自分を「私は良い羊飼いです。」と言われます。良い羊飼いは自分の所有する羊を大切にケアし、守る。羊飼いは、羊を良く知っていて、羊も羊飼いを知り、その声を他の羊飼いのものと聞き分ける能力を持つそうです。羊は群れでしか行動できず群れからはぐれると自力で帰ってくることができないので、羊はその生活すべてにおいて、羊飼いを頼って生きる動物です。下記の詩編23編は良い羊飼いであるイエス様の愛のご性質が示され、弱く、助けが常に必要な私たちをイエス様は養い、導いて下さることが書かれています。


 羊は羊飼いを信頼し、委ねて安心して生きるように、私たちはイエス様の羊であり、日常的に大切に扱われていること、また迷いそうになったら正しい道に軌道修正してくださること、危険な状況から守ってくださることを生活の中で体験し、その度に安心してすべてを委ねようと信頼することができます。何か心揺さぶることがおこっても、下記の詩編23編を思い出し、良い羊飼いであるイエス様がわたしと共にいて下さることを思い出し、私たちの魂のケアをしてくださるその大きな愛のなかに安心して憩い、イエス様の声(みことば)に聞き従って日々歩んで行きたいと思います。


 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。
 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。」 詩編23編1-5節

 (引用 新共同訳聖書)

Mar. 24, 2024

 ヨーロッパの最初の教会:家庭集会


 私の両親は、家で伝道者を招いて定期的に家庭集会を開いていました。小学生の頃、母が家庭集会のために用意する特別なお菓子を一緒に食べられるのが楽しみでした。その頃から、自分が大人になったらおいしいお菓子とお茶を用意して、少人数で集まって聖書を学び、賛美をし、お祈りをしあうという集会を家で開きたいなと漠然と思ったものです。その後私が大人になってから、ある方々が提供してくださるご家庭や、自分の家にて定期的に家庭集会を開くことができたのは神様の恵であり、神様は私の小さな思いを覚えて実現させて下さったのだと感動します。クリスチャンの方だけでなく、そのママ友や、聖書を見たこともないけれど興味をもって参加してくださる方々が集ってくださり、少人数ですが、毎回よき交わりの時が与えられました。

 初期キリスト教の教会は、家庭集会から始まったことが聖書に記録されています。使徒パウロが、当時の地中海沿岸・内陸地域へ伝道旅行を徒歩や船で周り、行く先々でキリストの福音を伝え、それを聞いて信じた人々が家に集まって礼拝をし、それが当時の世界に広がっていきました。リディアという女性は、使徒パウロが第二伝道旅行において、フィリピという都市で伝道した時に、「主が彼女の心を開かれ」(使徒16:14)イエス・キリストを信じた女性です。パウロの一行にとって、フィリピがヨーロッパ地域で最初に伝道をした街であります。彼女は「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人」(使徒16:14)とあるように、小アジアのテアテラ市(黙示録の七つの教会の一つ、黙示2:18-29参照)の出身の人でした。


 リディアは信じた直後、彼女もその家族も洗礼を受け、パウロ達を家でもてなそうとして、強いて泊まるように招待したとあります。「私が主を信じる者だとお思いでしたら」という箇所は、「私が主に対して忠実な者と思うならば」とも訳せるとされます* 。彼女は信じたばかりで、すでにイエス・キリストを「主」と呼ぶことの深い意味を理解し、自身は主イエスに従う者、忠実な者となった、もしくはなろうと決意しての発言ではないかと思います。彼女が家に彼らを引き留める理由は、彼女の救われた喜びと感謝により、もてなしを申し出たのかもしれませんが、それをパウロたちが受けたのは、単に彼女の押しの強さによってではなく、彼女の主イエスに対する真実を尽くそうとする態度も見て、安心して泊まったのではないかと思うのです。そしてフィリピの町の教会はリディアと、後に救われた看取の家の集会から発展していったようです。


 私はイエス様を「主」と呼ぶとき、どれだけイエス様に従っていこう、真実を尽くそうという覚悟があるのかが、この箇所を読んで問われます。主と呼ぶからには、私は主の僕であり、そしてイエス・キリストは私たち(複数)教会の主であります。その主に信頼してすべてを委ね、自分の思いではなく、神様の思い(御心)がなるよう、聖霊の助けにより祈り求めていきたいと願います。


 「そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。」 使徒言行録16章15節


 (引用 新共同訳聖書)

 *加藤常昭著、『加藤常昭説教全集T 使徒信条』、ヨルダン社、1989,p225参照

Mar. 20, 2024

 赤い桃の木


 春の強風が吹くある日、古河市にある桃園に行きました。日本でも最大の桃園とありましたが、実際に行ってみてその桃の木の数は圧巻でした。ピンク色の美しい桃が満開で、鶯が時折花の蜜をせわしく吸っていましたが、ピンクの中に際立つ赤い桃の木に目が留まりました。数は少ないですが、赤という色はとても目立ちます。一般に何かの注意を引くサインは、大概赤色なのはそのためでしょう。

 聖書のストーリーの中に、「赤い紐」によって救われた女性の話がヨシュア記に記されています。紀元前16世紀頃(諸説あり)、イスラエル民族がカナンの地(現代のパレスチナ地域)にあるエリコという町を攻略する際、先にスパイが送られました。そのスパイ潜入の情報は漏れ、追手がスパイ達に迫った時、町の城壁に住むラハブという娼婦の女性が彼らをかくまいました。そして、スパイたちは彼女とその家族を救い出す印として、赤い紐を彼女の家の窓に結び付けるように指示しました。その後、イスラエル軍がこのエリコの町を攻めた時、彼女と彼女の家族はこの赤いしるしにより助けられました。彼女は異民族であり、異教の神を信じる環境で、娼婦という職業をしていたにもかかわらず、イスラエル人の信じている偉大な神のうわさを聞き、真の神であり、信じれば救われると信じて勇気ある行動を起こしたのです。彼女は「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。」*とその信仰を告白しました。


 この赤い紐は、エジプトで奴隷状態のイスラエルの民がエジプトを脱出する時に、家の門柱の鴨居に塗った過越の小羊の血と、イエス様の十字架の血潮を象徴すると解釈されています。キリストが流された血潮を自分の為だと受け入れ信じる人には、神様は私たちの罪を赦し、その怒りを下すことはなさいません。神様は、私たちがどのような者であるか、過去に何をしたか、どんな生まれかを問われず、ただ信仰によって救われ、赦されるという型がラハブのストーリーにも示されていることは、現代に生きる私たちに希望を与えます。


 赤い色の花を見る時、イエス様の十字架で流された血潮が思い起こされます。神の子であるのに人としてお生まれになり、人と同じ体を持って地上で神の国の到来を宣べ伝え、およそ人が体験しうる究極の苦しみ、悲しみ、痛み、恥を十字架の受難において経験してくださったのは、私の罪が赦されるためでした。そのイエス・キリストの大きな犠牲に示される神様の愛を深く感謝し、イエス様の復活を祝うイースターを迎えたいと思います


 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 マルコによる福音書14章23-24節


 *ヨシュア記 2:11
 

Mar. 9, 2024

 赦しの言葉


 人は大きな失敗をしてしまうと、そこから立ち直るのに時間がかかります。また取り返しがつかないことを他者に対してした場合、罪責感がずっと残り、心の闇を持ちながら生きていかなければならない場合もあるでしょう。そんな状態から解放されるには、誰かからの励ましの言葉、慰めの言葉、そして何よりも、赦しの言葉であります。私も若い時、ある方へ謝りたいと思いつつ機会を逸し、その罪責感が重くのしかかった時期がありました。ある日神様は、そんな私にその相手に謝る機会を与えて下さり、その方は私を赦してくれました。心の重荷がとりさられ、本当に嬉しかったです。

 イエス様の弟子の一人にペトロという人がいました。イエス様が十字架にかかって死なれ、3日後に復活されて、エルサレムにいた弟子たちに現れましたが、その後、ペトロを含む7人の弟子たちは、ガリラヤへ戻っていたとヨハネの福音書に記されています。弟子たちとって、イエス様が復活したことは大きな喜びでしたが、ペトロはちょっと複雑な気持ちだったことでしょう。なぜなら、イエス様が逮捕された時、弟子たちはみな逃げましたが、ペトロはその後をついていったために、恐れにより3度もイエス様を「知らない」「わたしは仲間じゃない」と周りの人々へ公言してしまったのです。そのことで、ペトロはイエス様に会わせる顔がない、自分はもはや弟子としてふさわしくないという失意の念を抱え、今後、どうしたらいいのかわからないまま、再び故郷に戻って漁師をしていたのかもしれません。


 そこへ、復活されたイエス様が現れました。そして弟子たちと朝食を食べられ、その後ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、私を愛しているか」と三度聞かれます。これは、ペトロが三度イエス様を「知らない」といったことに対応して、もう一度イエス様の弟子として再出発させる機会を与えているようです。落ち込んでいるペトロを励まし、再びイエス様の羊を養い、世話をするように召命を与えている箇所だと言われます。私は、このことはペトロにとって、イエス様からの「赦しの言葉」を受け取る機会でもあったのだろうと思うのです。


 神様は、私たち人間が弱さゆえに犯す罪を赦し、更に新たな使命を与えるために召命し、再出発させてくださる方です。すべての負い目、苦しみ、痛み、恥を取り除いて下さるために、神様は、御子イエス・キリストを私たちの罪の代わりに十字架で死なせるという方法をとられ、イエス様はその苦難を受けて下さり、そして復活されました。イエス様は天に戻られましたが、この世で生きる私たちを助け導くために、神様は聖霊を、キリストを信じる私たちの心に送って下さりました。私たちは赦しを受け取り、感謝しつつ、イエス様から与えられた使命を、生きている間に聖霊の力により果たしていければと願います。このことは私の性格や能力では不可能ですが、神様には不可能なことはないと、聖書の御言葉を通して約束が与えられています。私たちは、キリストを結ばれることで不可能が可能になると信じ、生きる希望が与えられること、また困難の多い世の中にあっても慰めと励ましが与えられ、聖霊が導いてくださるとう確信が与えられていることはなんと幸いでしょうか。


 「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。」 ヨハネによる福音書21章15節


Mar. 1, 2024

 世界に一つしかない個体


  久しぶりに井頭公園へ散歩に行くと、水辺のカモたちに癒されました。まじまじと見ていると、一匹一匹みな頭や羽の色が異なっています。人なつこいカモは恐れもせず私たちのほうへ近寄ってきました。とても可愛らしく、見ているだけで和みます。カモだけでなく、人間も一人一人、耳の形、指紋等異なると言いますが、自然に造られたものは人口で作られるコピーと異なり、一個体ずつオリジナルです。つまり、人間も生物も世界に一つとして同じものがないと考えると、それが偶然に進化してそうなったという仮説を信じることに困難を覚えます。むしろ想像を超えた力を持つ、全能の神様がすべてを一から創造したというほうが、私は納得がいきます。

 一方、自然界の壮大さや美しさを通して神の存在を覚えたとしても、それはどの神様なのか特定できません。昔から人は、自然自体、つまり太陽などを神として拝み、人が「これが神だ」と各々決めるので、各地域によって神々が異なります。こうして神々が数えきれないほど出来上がり、自然を通して知れうる神は相対的になりがちであり、例えば太陽と会話もできないし、関係性を持つことができません。


  聖書が啓示する神様はどのような性質を持つのかを、私たちは知ることが出来ます。なぜなら、神の御子イエス・キリストが人となってこの世にこられたので、イエス様と人格的な知り合い方が可能であるからです。人格的な知り合い方ができると、神様と人との間に関係性が出来上がります。もちろん、2000年前に地上におられたイエス様と今私は会えませんが、聖書の言葉を通してイエス様を知り、そしてキリストを通して神様がどういうお方なのかを知ることが出来ます。神様は世界に一人しかいない私を愛して、恵みをたくさん与えようとしておられると分かります。逆にキリスト以外の方法で神様を知ることはできないのです。キリストを通して表される神様は唯一の本当の神様であり、キリストの十字架の死によって人間の罪を赦す方です。


  さらに神様は赦した後、その人をキリストと結ばせて新しく造られると聖書は記しています*1。新しく造られても、この体で生きている間外見は変わりませんが、内側が新しく造られると、神様の愛に信仰で応答していくという神様との温かい関係性が与えられることが幸いです。外側は衰えていっても、聖霊の働きで内なる人は、少しずつキリストのような性質に変えられて、新しくされていくという希望の約束が聖書に記されているので励まされます。

  自分を見ると、変わっていないと落胆します。相変わらず、言葉で失敗しますし、感情的になることがあるからです。しかしながら、古い自分、つまりキリストを信じる前の自分はもはや存在していないことは確かであり、与えられた神の霊(聖霊)によって、神様から恵みとして与えられたものを知り*2、感謝の思いで満たされることを通して新しい創造を実感しています。下記の御言葉にあるように神様の約束を信じ、すぐに変わらない自分にも忍耐していこうと思います。自分の努力や性格、能力で変えられるのではなく、恵みによって、聖霊の働きで変えられていくことを信じ、神様に従っていくと決め、祈り求めていきたいと願います。


 「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」コリントの信徒への手紙二 4章16節

 *1「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 コリントの信徒への手紙二 5:17

 *2「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 」コリントの信徒への手紙一 2:12-13
 

Feb. 29, 2024

 できれば


    生活のなかで、何かを人にお願いするとき、「できれば」「可能であれば」という前置きをつけることがあります。それは、相手に無理がないようにという配慮で言う場合と、ダメもとで、つまりできないかもしれないけれども頼んでみようという場合があると思います。しかし、緊急で必死の依頼の時は、相手の状況に構わず頼むでしょう。例えば、自分の子供が死にそうになっていて、治療について医者と話すときは、「できれば」と言う余裕はなく、「なんとか命を救ってください!」と必死になると思います。それに対して医者は、人間の能力には限界がありますから、「ベストをつくしますが(できないかもしれませんが、ご了承ください)」と答えるかもしれません

 約2000年前、まだ医療が未発達の時に、ある子どもがいわゆる自傷行為を繰り返し、錯乱状態で自分をコントロールできない、なんとも痛ましい状況にありました。その原因が霊にとりつかれているためで、その霊がその子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込んたと聖書は記録しています。その子の親は祈祷してもらってなんとか霊を追い出してほしいとイエス様の弟子たちに頼みましたが、効果がなく、絶望状態でした。そこへイエス様が登場し、おそらく半ば諦めモードでその親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言いました。すると、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」*とイエス様は言われました。その子の父親すぐに必死に「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫びました。すると、イエス様は霊に命じて、その子から出るように命じ、その子は正気にもどりました。


 この箇所を読むと、この親の発言「信じます。でも私は信仰がないのです:信じられないのです」と逆のことを同時に言っていることに気づきます。しかしこの親は、自分の不信仰をイエス様の前に悔い改めて告白しているのです。信じきれない自分でありますが、助けてくださいと叫んでいるのです。つまり、元来は子どもの為にお願いをしていたのですが、そのことを通して、自分とイエス様の関係において、信じられない自分、不信仰な自分に気づき、悔い改め、こんな自分を助けてくださいとの祈りに変わったのではないでしょうか。


 長い間祈り続けても、祈りが聞かれない、もしくは病がいやされないで闘病生活が長く続くと、不信仰になってしまうことも仕方がないと思います。そんな自分の状態であっても、正直に神様の前に祈りにおいて告白し、その上で「主よ、助けてください。あなたはすべてをコントロールしている方です。私の信仰を増し加えてください。」と祈れることは幸いです。疑ってしまう自分、強い確信をもって信じ切れていなくとも、神様は憐み深い方であるゆえに、イエス様を通して、天の父なる神様に祈り続けていこうと励まされます。さらに、下記の御言葉にあるように、どう祈ってよいかわからなくとも、私たちに与えられている聖霊が代わりに天の父に祈ってくれるとの約束が与えられていること、大きな慰めが与えられます。


 「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」 ローマの信徒への手紙8章26-27節

  *マルコによる福音書9章23節

 




 

Jan. 3, 2024

 十字架って素敵


 

  「十字架のネックレスって素敵ですよね」最近、教会に来始めた高校生が言った言葉です。彼女が教会に来たいと思ったきっかけの一つは、教会の十字架、教会の建物、十字架のネックレスが素敵だなあと思ったからだそうです。きっかけが何であれ、教会を尋ねてきてくれたことは私たちにとって大きな喜びです。現代では、十字架のイメージはこのように素敵なものですが、もともとは処刑の道具です。しかも、イエス様が十字架にかかった時代は、最も残酷な処刑の一つでしたので、十字架イコール呪いのイメージであったと思います。処刑された人が復活した神であると、宣べ伝えられていた時、人々の常識的な反応はおそらく、ばかばかしいと思って信じなかったのではないかと想像します。しかし、同じ十字架の言葉が語られ、ある人にはそれが神様の力により信仰に導かれて、今日に至っているとは驚きです。これこそ人間業ではありえない、神様の業の力ではないでしょうか。


 キリストの使徒パウロが人々に最も伝えたかったことの中心的テーマは、この十字架の言葉です。十字架につけられたイエス・キリストを宣べ伝えており、それは当時のギリシア人にとっては愚かな話であり、ユダヤ人にとってはつまづきとなる内容でした。しかし、この十字架の言葉は神の知恵、神の力であると使徒パウロは説明しています。人の知恵では理解しがたい内容であっても、神の知恵にかなった、神様の救いの業が十字架の言葉に示されているからです。神様は十字架で死なれたイエス様を3日目に復活させ、そのことが福音として全世界に宣べ伝えられ、それを聞いた人々が信じて救いがもたらされる、という手段を神様はお考えになりました。日本の場合は、フランシスコ・ザビエル宣教師が大変な思いをして日本に福音を伝えて以来、迫害の時代を経て、今自由にキリストを信じて教会に集える時代となっていることを考えると、本当に昔の宣教師の方々の信仰と勇気と、それを導いてくださった主に感謝の思いが湧いてきます。


 イエス様の十字架の死は、私たちの罪のためであり、私たちが赦されて救いを得られるために、イエス様は復活されました(ローマ4:25)。洗礼が、古い自分のお葬式と新しい自分が生まれる誕生日を象徴するように、神様から与えられる霊(聖霊)によって神様の恵を知るようになり(コリント一2:12)、将来に救いが完成することを待望しつつ、この世の歩みを主イエス様とともに歩めることは幸いだと改めて思わされました。



 「 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」コリントの信徒への手紙1章18節  (新共同訳聖書)



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