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Praise the Lord
日々の聖書のことばより 分かち合い

 大下 陽子


2021 望郷の想い 会うのを楽しみにして ゴスペルを思いっきり歌う時間 梅の季節
益子の意味 たった一つの種の力 「あの事もこの事もしよう」 権利の主張
イースターの希望 二者択一 スイッチ入る 召命?コーリング?
丸投げ 新しくなること SDGs 持続可能な。。。 ヤギのやっくん@道の駅 益子
パレスチナ問題 能動的と受動的 グラディエーター(剣闘士) 大谷石
移民、難民の受け入れについて 賛美する喜び 3.11と9.11 誇るべきこと
いちじくの木を見て、目を覚ます アジア学院サンデー 足元に注意 Watch your step 絶対的信頼
喜びに励まされて 一枚のチラシの効果 求めよそうすれば与えられる 何を?
Dec. 21, 2021

 求めよそうすれば与えられる 何を?


     「求めなさい。そうすれば、与えられる。 」は聖書の文脈から転じて、慣用的表現として一般的に使われています。故事ことわざ辞典によると「求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ。」とあります。もちろん、このような神様の存在ぬきの、成果主義的な意味ではありません。

  イエス様はこの箇所の前後に二つのたとえ話を話されています。一つ目は、夜中に旅人が訪ねてきて、その人をもてなすパンがなかったので貸してくれと頼み続ける非常識な友人の話です。当時の家は、皆が一つの部屋で寝ているという環境ですので、主人だけが起きてごそごそ動けば、ようやく寝かしつけた子が起きてしまうし、家族皆にとって迷惑であります。その人は「面倒をかけないでくれ」と戸口で断っていますが、しつようにその友人が願うので起きて必要なものは何でも与えるだろうという話です。ここで注目したいのは、この友人が自分のためでなく、自分のところに訪ねた友のためにしつこく願っているということです。自分のための願いではないのです。この箇所を読んで、私は自分が他者ためにどれほどしつこく、熱心に祈っているかと問われました。すると、自分のことばかりで、ほかの方のためにはある程度祈ったら、祈らなくなってしまうことがあると正直に認めざるをえません。


 二つ目は、どんな悪い人間でも最低限、自分の子には願えば良い物を与えるという話です。現代では児童虐待が多く、この話がすべての親にあてはまるとはかぎらないという、悲しい現実があります。このたとえは、祈りに答えて下さる天の父である神様を強調するために、一番与えてくれそうもない悪人のケースと豊かに与えて下さる神様を対比する表現法で、「まして天の父は」(新共同訳)、「とすれば、なおのこと天の父が」(新改訳)と続きます。なおさら、天の父なる神様は願えばよい物をくださるということを、イエス様は伝えています。


 イエス様のこの「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という命令は、どれも祈って神様に願いなさいということを言っておられると思います。つまり3つの祈りが段階的に積極的になっているともとれます。最初はシンプルに願い求める。さらにこの願いは神様の御心なのかと探し求める。神様のみこころだとしても、行くべき道の前の戸が閉められこれ以上進めないように見える状態だったら、戸が開けられるまでたたき続ける。つまり、すぐに答えられなくとも忍耐し、熱心に祈り続けることをイエスは教えられていると思います。祈りとはそれほどに、真剣に祈るべきことなのです。このたとえのあとに「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」*1とイエス様は言われます。イエス様を主キリストとして信じていない人には聖霊が与えられていませんが、だれでも信じれば聖霊は与えられます*2。一番重要で、神様に熱心に与えて下さるように祈り求めるべきものは、聖霊であり、それが最も良い物ではないでしょうか。


 願うことはいろいろあるとは思いますが、皆がイエス様の十字架に表される神様の愛を知り、救われるようにと祈ることが最も神様の御心にかなうことであると思います。すぐには聞かれなくとも、忍耐をもって自分の周りの人のために祈り続ける、しつこく祈りたいものです。キリストの愛を知らない方々がみことばを聞き、そして信じて聖霊が与えられ、信仰に導かれるようにもっと熱心に祈っていきたいと思います。


 

  「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」ルカによる福音書11章9-10節

 

 *1ルカによる福音書11章13節


 *2「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」使徒言行録2章38節 (新共同訳聖書)




 

Dec. 12, 2021

 一枚のチラシの効果

 

   クリスマスの時期が近づきました。今年も益子教会では12月25日の夜にクリスマス礼拝を開催する予定です。そのチラシを益子の道の駅の町の情報コーナーに置かせて頂き、益子教会の近辺にポスティングをしました。私たち夫婦といつも教会の礼拝にきている女性が、「私がこのチラシを配ることに意味あると思って!」と、一緒に配ってくれました。一人でもチラシを見て教会に足を運ぶ人がいることを願いながら。またこのチラシを作成して下さった方、献金を捧げて下さった方、祈って下さる方等、多くの方々によって益子教会の伝道活動は支えられていることを、主にあって心から感謝しています。

  確率的にチラシの効果というのは低いものです。人口2万人程の小さな町で数百枚ちらしを配っても、目に留められないかもしれません。しかし、神様を求めている人の目には必ず留まり、神様がその人の心に触れれば「行ってみよう」という気持ちが起こされ、教会に来てくれるきっかけとなると期待しています。「チラシを見てきた」という人がたった一人だとしても、私たちは大喜びで迎えたいと思います。そして、その方が聖書の言葉を聞き、神様の愛を知るきっかけが与えられ、いつか信仰に導かれたらと願うばかりです。


 下記のみ言葉にあるように、イエス様はなくした銀貨のたとえを語られました。ある女性がなくした銀貨を一生懸命見つけるまで探し、ようやく見つけると、友達や近所の人を呼び集めて、「見つけたのよ!一緒に喜んでください!」と大喜びします。なくした銀貨を懸命に探すこの女性の姿は、神様から離れた人を探す、神様ご自身をたとえていて、 一人の人が神様の愛を知り、今までの人生を悔い改めてイエス・キリストを信じれば、天国で天使たちの間に喜びがあると、イエス様がたとえの解説をされています。「一人の罪人(つみびと)」とありますが、聖書において根源的な罪は神様を信じていないことです。ですから、「私は罪人ではない。人さまに迷惑をかけたことないし、警察のお世話になったこともない」と思われるかもしれませんが、人は生まれたときから神を知らず、誰かかが教えない限り真の神を知らないので、神の存在を無視し自己中心的に生きています。ですから、私自身も含めて皆罪人であるといえます。しかし、その罪から救ってくださるのが、イエス・キリストで、神様はこのキリストを信じる人を忍耐をもって、ずっと探しておられ、見つかると(つまり、救われると)、天国の皆で大喜びしてくださるのでしょう。

 クリスマスという言葉は、「キリストを礼拝する」という意味です。なぜ、キリストを礼拝するかというと、イエス・キリストは礼拝されるにふさわしい、本当の神様であるからです。神から離れた、罪人であるすべての人を救うために、神の御子イエス・キリストはこの世に人としてきてくださり、十字架で私たちの罪が赦されるため代わりに罰をうけて死なれ、3日後に復活され、今も天で生きておられる。このことを信じていると、そのキリストのしてくださった大きな犠牲とそのことを計画した神様の深い愛に感謝して、礼拝をせずにはいられません。つまりクリスチャンにとって、毎週日曜日の礼拝がクリスマスともいえます。

  神様が救いに応答する人を探しておられるにあたり、人間の私たちはどんなに小さいことでも手伝えることがあると思います。まずは神様を求めている人に出会えるようにと願いつつ、あきらめずに祈り続けたいと思います。神様の喜びに少しでも私たちが預かれるのはなんと幸いなことでしょう。多くの教会で、クリスマスの準備がなされていると思います。各々の教会の上に、神様の祝福と恵みがあふれ、新しく来られた方を喜んで迎えられるように祈りつつ。

 

 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 ルカによる福音書15章8-10節 (新共同訳聖書)




 

Nov. 28, 2021

 喜びに励まされて

 

   師走に近い、北風が吹き始めたころ、社会福祉の学校時代の友人たちと数年ぶりに会いました。私は地方に在住していて首都圏には出ていく機会が少なく、またコロナもあってしばらく集まることができませんでしたが、久しぶりに会って、近況を報告しあい楽しいひと時を過ごせました。5年も過ぎれば何かしら変わりはあります。転職、病気、家族との別れ等、それぞれの人生で大変なことがあり、今の職場でも人間関係、制度上の問題と決してお気楽な状況ではありません。しかし、ともに分かち合うことで、お互い励まされ「また頑張ろうね」とそれぞれ帰途につき、感謝でした。

  一方、日本は他国に比べてかなり安全であり、コロナも一時抑えられているようですが、世界では政治的に不安定で家を追われてる人々、さらなるコロナ感染拡大の波が来ており、病気に苦しんでいる人々もいて、また自分たちがいつ感染するのかという不安を持ちつつ、経済もどうなるかと先行きは不透明です。日本もいつ感染拡大により非常事態宣言になるかはわからず、ニュースを通して耳に入る専門家たちの予測により、恐れや不安が沸き起こってきます。一時的に励まされても、不安材料は常につきまとうという社会状況であります。


 下記の聖書のみことばは使徒パウロがフィリピという市に住む信徒あてに書いた手紙の内容ですが、パウロ自身はこの手紙をキリストの宣教のゆえに、迫害され獄中で書いています。ですから、状況的にはとても喜べない、逆に劣悪で、いつ殺されるか、またいつ釈放されるかわからない絶望的状況でした。にもかかわらず、彼が失望せず、かえって他者を励ませる手紙を書けるほど喜んでいられたのはなぜでしょうか。それは彼のキリストを信じ続ける信仰だと思います。

 パウロは、私たちの今おかれている「状況において」喜びなさいと言っていません。「主において」常に喜びなさいといっています。社会情勢がどんなに悪くとも、どんなに落ち込んでいても、常に喜べることがクリスチャンにはあるはずです。それは自分がキリストによって罪の赦しが与えられ、救われて、神様との間に和解が与えられていること、それによる平安が与えられているという、恵みにおいて喜べるということでしょう。この救いの喜びを思い出す時、今自分が決して喜べるような状況にない時、辛い時も励まされます。主が共にいてくださるという信仰を働かせることによって、前向きに物事をとらえ、また疲れて力が失われていても起き上がれます。もし信仰が働かないほど、落ち込んでいるのであれば、「わたしどもの信仰を増してください 」*とイエス様の弟子たちがお願いしたように、祈って信仰を増してくださいと願い求めることができます。信仰を持ち続けるには、自分の意志や力だけでは限界があります。しかし、信仰さえも増し加えてくださる神様が共にいてくださるというのは、何にも勝る、変わらない励ましであります。また、ともに祈ってくれる仲間が教会にはいることは、目に見える励ましでもあります。

  最近、日々の疲れがたまって朝起きるのが辛いと思うことが日々あります。今月は特に通常のルーティンの上に、研修や面接で遠方にでかけたり、課題提出があったりと時間がとられ、何のためにこれらをしなくてはならないのかと投げ出したくなり、イライラしそうになったこともありました。そんな時、いつもこの信仰の原点に戻り、キリストに従って生きるという本来の位置に自分の心を戻せることは幸いです。状況の左右されず、神様のすでに私にしてくださったこと、またこれからも与えられる恵みに感謝し、日々過ごしていきたいと思います。

 

 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ信徒への手紙4章4節 (新共同訳聖書)



  *ルカによる福音書17章5節



 

Nov. 14, 2021

 絶対的信頼

 

   先日、久しぶりにハプニングがあり、冷や汗をかいたことがありました。その日、今まで在宅で何時間もかけて準備してきた研修の、しかもその集合研修日の当日に栃木から東京まで電車で向かう際、途中到着が間に合わないという状況がおこり「ああ、もうだめだ!神様助けてください!と祈りました。一方で、「間に合わなかったら、それはこの研修の修了・資格保持ができなくとも、私の将来の方向には差し支えないのかもしれない。自分の計画が通らなくても、神様にゆだねよう」と、ふと冷静に思いました。そして待っている間に夫に電話し窮状を訴えると「大丈夫、間に合うよ、祈っているから」と励まされ、その後なんとかタクシー乗り場まで走り込み、会場の受付に開始3分前に到着。無事に研修が受けられほっとし、感謝でした。次回は前の日から東京の実家に泊まることにします。

 いちいち夫に電話しなくとも自分一人やればよいのですが、何か起こったときは夫に助けを求められること、特にその場で祈ってもらえることは心強く、幸いです。しかし、夫が人間である限り、物理的に体は一つしかないし、空間的にいつも共にいるわけではなく、また助けたくても助けられない状況がある、つまり限界があることは承知しています。結局、独りで立ち向かわなければならないという状況は必ずあり、独身でも既婚でも、皆同じだと思います。


 私は今まで、神様により多くの危険から守られ、助けられてきました。日本でもどこにいてもそうですが、特にアメリカで独りで生活していた時は、いま振り返ると「よく、無事だったなあ」と思うほど、無茶をしていたと思うことがあります。アメリカでは一部の一般人が銃をどこでも持ち歩いているという点で、怖い面があります。治安の悪いフィラデルフィア中心部やニューヨークで、タクシーも乗れず夜中に路面電車や地下鉄で帰宅したこともあり、また危機的状況の中で誰からも助けが得られず、自分独りで対応せざるを得ないこともありました。しかし、どんな時も神様が共にいて下さったから、独りではない、神様が守っていてくれるという信仰が与えられ、実際安全が保たれ、本当に感謝であり、またこれからもどんな状況になろうとも、神様がいるから大丈夫だという絶対的信頼を持てます。

 使徒パウロは当時、私たちが想像も及ばないほど多くの危険や困難な目に会い、それでもキリストの福音を伝えるために、ローマで殉教するまで宣教活動をしていたことが聖書にしるされています。冒頭のみことばのように、彼の実体験を伴う神様への信頼はとても重みがあり、このことを信じるすべての人に、この神様の愛が及ぶということが記されています。死でさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。ただ、私たちがこの信仰を持ち続ける必要はあります。信仰とは、神様に対する絶対的信頼であるとも言えます。世の中に絶対というものはないですし、相対的なことばかりですが、神様に関しては絶対という形容詞を使えます。信仰もプレゼントですから、まだ信じられないという思いであれば、求めれば不思議と与えられます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 」(ローマの信徒への手紙15章13節)とあるように、この信仰によって、状況に左右されない救いの喜びと平安が私たち一人ひとりの心を日々満たすように、祈っていきたいと思います。

 

 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 」 ローマ信徒への手紙8章38-39節(新共同訳聖書)






 

Nov. 7, 2021

 足元に注意 Watch your step

 

  先日、福島県にある安達太良山に夫婦で登山に行ってきました。往復約5時間のコースとなりへとへとになりましたが、天候にも恵まれ、自然のすばらしさ、紅葉の美しさを満喫し感謝でした。しかし、途中、山の頂上が見えたときに、私は大はしゃぎで写真を撮ろうとカメラを手に取り一歩踏み出すと、つまづいて転倒。カメラを構えていて、足元を注意しなかったのです。カメラを持っていたので両手を付けず、右手上腕から転びました。一瞬「あっ、骨が折れたか!?」との思いがよぎるほどの痛みが走りました。幸い打撲ですみ、痛みをこらえながら少し自重して、残りの登山を続けられました。登山に限らず何事もそうですが、足元を見ないで歩くとつまづきます。基本的なことですが、他のことに気をとられていると忘れてしまいがちなことです。痛い目にあって学ばされ、また今回骨折しないですんだことを神様に感謝いたしました。

 日々の歩みの中で様々なことを同時進行させていくと、気持もあせり、私は特に二つ三つのことを同時にすると片方に気を取られ、もう片方のことにミスが生じたりしがちです。ですから、どんなに忙しくても手を止めて一つのことに集中し、終わらせてからもう一つのことに進めるようにと気を付けています。それでも、時々失敗し、落ち込みます。足元に注意。自分がいま立っているところはどこか、目的のための自分の立ち位置を確認しないと、気が付くと、本来あるべき姿を見失うことがあるのです。


 私は多くのことについて、信仰の視点からどうあるべきかを考えるようにしています。例えば、今なぜ働いているのか、なぜ勉強しているのか、なぜ益子という地に住んでいるのか、今なぜ家事を効率的にする工夫をしなければならないのか等々、これらすべてには同じ目的と計画があります。しかし、一つ一つの忙しさや期日、大変さに気を取られて目先のことに目が行き、目的の焦点がづれてしまうことがあります。そこで、もう一度聖書の言葉を読み、祈り、聖霊の導きにより心の中で、「なぜ慌てるのか、あせるのか、何のためにこのことをしているのか、優先順位は何か」とふと気が付かされ、焦点を戻しています。私の目的は、生きている限り、主キリストに従って歩むこと、キリストの救いの福音を人々に機会があるごとに証ししていくことです。今の生活の中の小さなことすべてがこの目的と関連があり、そのために益となり、手段として必要なのです。私はおおざっぱな性格で、なかなか細かく気配りが持てず、間抜けで、愚かなものですから、下記のパウロの言葉は耳が痛いです。

  しかし、さらに大事なことは、生活の中のすべてのことに神様への感謝を忘れずにいることだと思います。日々、神様から与えられる恵み、例えば食べるものを感謝し、登山をした時はその自然の美しさに感謝し、すべてのことに対して主キリストにあって感謝し、生かされていることを喜ぶことができます。この感謝と喜びがないと、目的達成のためにひたすら走ることばかりで、生活がギスギスし、燃え尽きてしまいます。どんなに気を付けていても、焦点がづれることもあり、また失敗もあるでしょう。そんな弱い愚かな私さえも、神様は見捨てず、寛容に、愛を持って見守り、正しい方向へと導いてくださることに慰めと励ましが与えられています。

 

 「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。・・・そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 」  エフェソ信徒への手紙5章15-17、20節(新共同訳聖書)






 

Oct. 29, 2021

 アジア学院サンデー

 

  10月末、コロナ禍のため延期となっていたアジア学院サンデーを益子教会でようやく開催することができました。アジア学院サンデーとは、那須塩原市にあるアジア学院(農村指導者養成専門学校)の留学生達を教会の日曜礼拝に招き、礼拝メッセージと彼らの国の状況を分かち合って頂き、アジア学院の働きを理解し、支援するというプログラムです。私たちが西那須野教会に在籍していた頃は月に一度開催され、毎回アジアやアフリカの彼らの出身国の様子を知り、交流をする機会がありましたが、益子教会では今回初めての開催となりました。残念なことに、今年は海外からの留学生はコロナ禍によりビザが下りず、学生はすでに日本に在住だったギニア人の方と3名の日本人だけとなり、今回そのギニア人の方と日本人学生の2名と宣教師ご夫妻の参加でした。

 アジア学院の留学生は、クリスチャンだけでなく、イスラム教徒や特定の信仰を持たない方々もいますが、このアジア学院サンデーの時は宗教や信条に関わらず、学生たちは皆で参加しています。この日本人の学生は、アジア学院での共同生活は全てにおいて初めての経験・生活様式で、最初は慣れるのに大変だったと話していました。彼はアジア学院に入学した動機を分かち合ってくれましたが、今迄、すでに出来上がっている安くておいしいファーストフードや弁当をコンビニ、スーパーで買って食べていた生活から、自分達で一から種を蒔き、収穫し、家畜を飼い、料理し、無駄なく再利用するという循環型の生活スタイルへと変わったこと、今問題となっているフードロスもなく、自然と調和した生活を送ることができ、貴重な経験だと言われていました。このように今ある大量消費社会のひずみに気付き、環境と調和し、自然界と共存していくには、何がよいことかを考え、取り組んで行こうという人が増えていけば、徐々に社会も地球も変わっていくのではないかと思わされました。


 約一年振りに、感染対策をしながらも社会は通常営業に戻りつつあります。コロナ前のように、夜中まで飲んで食べて騒ぐことにが制限された経験を通して、人々は何か学んだことはあったのだろうかと思わされます。非常事態が起こるということは、負の側面だけでなく、今迄当たり前に思っていたことを、今一度、この生活スタイルは良いことなのだろうかと考え直すプラスの機会でもあると思います。需要以上の大量食品がスーパーに並ぶこと、エネルギーを大量消費する24時間営業の店、深夜営業の飲食店が必要なのかという生活の中での問いから、そもそも何のために生きているのだろうという精神的な問いに至る迄、一人一人が流されずに、考える良い機会だと思います。しかし、その機会を見逃して、再び自分の快楽、遊興をストレスの解消と称して、以前と同じことを続けてしまう人もいるかもしれません。人の欲や深いもので、制御し難いものです。

  アジア学院のようにストレスがあまりないように思える平和的な環境であっても、それでも一人一人が向き合わなければならない心の課題があると思います。人間的努力と思いだけで、恒常的に楽しく、満足できるということには限界があるでしょう。私は、お金はありませんが、どんな状況にも満足できる心とキリストの愛による喜びを与えてくれる存在:イエス・キリストを信じる信仰があたえられて、本当に幸いだと思います。日々、色々なことがあっても、平安の内に戻れるところがあるからです。大切な人を失って悲しみのふちにいる人、仕事を失って途方にくれる人、生きている意味があるのかと希望がない人。。そのようなマイナスの局面にいる時こそ、神様を求め、そしてキリストを信じる信仰に導かれるチャンスだと思います。そのチャンスを逃さず、神様を信じて、心が豊かにされ、困難な状況に立ち向かえる力が人々に与えられるように、祈りたいと思います。聖書の言葉に触れる機会はネット上でも、教会でも、今の時代求めれば与えられます。探せば、見つかれります。門をたたけば、開かれます。イエス様がそう約束されたからです。求める対象は、モノや人、金ではなく、神ご自身です。「神に」何かを求めるのではなく「神を」求める。 下記 のみことばは、そのことを言っているのではないでしょうか。

 

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。?8だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイによる福音書7章7-8節 (新共同訳聖書)





 

Oct. 10, 2021

 いちじくの木を見て、目を覚ます

 

  私は時差ボケの時以外はいつでもすぐ眠れます。しかし、起きていなければならない時に、それが一方的に講義を聞いたり、本を読んだリすると眠くなってしまいます。若い時、日曜の礼拝に出ていても、大変申し訳ないのですが、お話しが始まると眠くなり、横に座っている母に脇腹をつつかれたものです。勉強しなければならない時も、いつも机の上にうつぶせに短時間ですが意識を失ったように寝てしまい、こんな勉強不足で今迄よく、受験勉強や様々なコースを修了できたなと思います。振り返ると、自分の能力以上のことをせざるを得ない状態で、全て神様の助けがなければやり遂げるころはできなかったと思います。

 今回この年になって再び働きながら学ぼうという志が与えられています。最終的に、この道を行くことを神様が背中を押して下さっていると、下記のみことばを通して示されて、意気込みはあります。しかし、いざ仕事から帰宅し、色々終えていざ本を読もうと思うと、たった1分で眠くなり寝ています。夜が眠いなら、朝方早く起きてと試みましたが、これもダメでした。やはり、休みの日の昼間しか集中できないのですが時間が足りません。カフェインは全く聞きません。どうしたら目を覚ましていられるか、またただ目を覚ますだけでなく、読んだ内容が多少なりとも頭に残るための集中力が必要です。この数週間で、すでに挫折状態です。


 先日イチジクの実を頂きました。イチジクの実は柔らかく、ほんのり甘くとてもおいしいです。イチジクはイスラエルの地域でたくさん取れる果物なので、聖書の中でたとえ話としてよく出てきます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる・・・しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」*1 ここで、人の子とはイエス様ご自身を意味し、またこの世の終末はいつ来るのかという事に関し、そのタイミングは誰もわからないし、突然来るものだが、その前兆はこういうことが起こるから、その前兆が起きてきたらそろそろ来るなと心の準備をしておきなさい、言い換えれば「目を覚まして祈っていなさい」と言われています。日常生活の忙しさで、すぐにこの緊張感を忘れるので、いちじくを見て思い出すきっかけとなるというのは、生活の中のものを用いた譬え話の効用であると感謝しています。

 寝ている暇はないのです。しかし寝なければ健康を害してやるべきことさえも出来なくなってしまいます。この健康を害さない程度になすべきことをこなし、また、イエス様が言われたように「霊的に」目をいつも覚ましていなければならないとは、軟弱で怠け者の私にはとてもハードルは高いように思えます。また、いくら私が今後の計画を立てたとしても、その前に終末が来るかもしれない。それはそれで良いとして、下記のみことばを心に留めます。


 「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ。*2
   「人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩を備えてくださる。」*3

 

 心に与えられたことを神様に委ねて、一歩一歩進んで行けば、神様が道を備えて下さると信じて、自分を奮い立たせることにしました。大地震もいつくるかわかりませんし、コロナ禍のような予想外のことがこれからおこるかもしれませんから、思ったとおりにことが進まないのが、ある意味普通なのかもしれません。たとえ、身体的には寝てしまって志したことがうまくいかなくとも、みことばをいつも心に留め、常に祈り、目を覚ましていられるように神様に助けて頂きたいと願います。


 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節

 *1 ルカによる福音書21章29-36節
 *2  箴言 16篇3節
 *3 箴言 16篇:9節  (聖書引用 新共同訳聖書)



 

Sep. 25, 2021

 誇るべきこと

 

  プライドを持つ事は一般的に良いこととして推奨されています。プライドを持てない人は、自尊心が低いとされます。では、自己卑下する人は本当にプライドを持っていないのでしょうか。どんな人であっても、プライドを持っていない人はいないはずです。他者と自分を比較して、自分を卑下しながら、同時に別の他者を見下げることが可能だからです。これは「自分を認めてもらいたい」という欲求のようなものが無意識に働き、他者を見下すことで自分はそれよりもましだからと思う、もしくは自分の存在価値を持たせるという心の中の操作を行うのです。本当に謙遜な人というのは、人と比較せず、高ぶらず、自分の現状に満足している人かもしれません。

 先日、ある事があって、それに対して自分のプライドが傷ついてイライラしたことがありました。その内容を人に話さず、後で神様の前に静まって、心の内全てをぶちまけてから、「神様、ごめんなさい。赦してください。今後、私の心がこのようなことで苦い思いを持たないよう、私の心を変えて下さい。」と祈り、ようやく収まりました。そんなことくらいで傷つくようなプライドなど、なくなってしまえばよいと願い、もっと謙遜に、柔和な心を持ち続けたいものです。


 高慢な者は神様を敵とし、謙遜な思いを持つ者に神様は恵みを与えて下さるということが下記のみ言葉に記されています。高慢な人は、自分はこれで大丈夫、誰の助けもいらないし、神など必要ないと豪語します。神さまに助けを求める・任せるという概念がありません。「自分で今迄も何とかしてきたし、これからも自分だけが頼り」だからです。そういう状態ですと、神様が恵を与えようとしてもその恵みをはじいてしまいます。

 イエス様を信じて神さまの霊を頂き、その聖霊が私の心に住んでおられるので、神様に感謝し、喜び、祈っている状態だと聖霊はそれを喜びます。そういう時は心が平安で穏やかです。一方、私の内に怒りとか、他者を批判したり裁いたりする思いが沸きあがると、聖霊はそれを悲しみます*1。そして、聖霊の火を消してはならないと聖書に書かれています*2。火は酸素が欠乏し、水をかければ消えるように、聖霊の働きもみことばと祈り、賛美が欠乏し、苦い思いを持ち続ければ止まってしまうという警告でしょう。聖霊の火を灯し続ける、つまり聖霊が私たちの言動において働かれるために、柔和な心を持ち、親切にし、憐れみの心で接していけるようになりたいと願います。なぜなら、神様がキリストによって私を憐れんで、赦してくださったように、私も目の前におかれた相手に自分が受けた愛を示していきたいからです。これは難しいことです。しかし、神様のみことばに従いたいので、そう出来るように祈り続けようと思います。


 そして、誇るものがあるとしたら、ただ一つ:「主(キリスト)を誇れ。」とありますように*3、主である真の神様を知って信頼することを誇りたいと思います。主がどういうお方なのか、その愛を知れば、その主において自分が今立っていられるという自信を持つ事、自分の拠り所を置ける事が可能だからです。主は慈しみと正義と恵の業を行われる方なので、虚勢を張らずに、自他の評価で自己卑下することなく、安心して、自分は神様に愛されていて、大切にされている存在なのだ、というその恵みを感謝して受け取りたいと思います。


 それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」ヤコブの手紙4章6節

 *1 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 エフェソの信徒への手紙4章30-32節

 *2 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。 テサロニケの信徒への手紙1 5章16-19
  *3 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 エレミヤ書9章23節  (聖書引用 新共同訳聖書)



 

Sep. 13, 2021

 3.11と9.11

 

  日本人にとって忘れらない、悲しみの日の一つは2011年の3.11、東日本大震災の日であると思いますが、アメリカ人にとって同様に忘れられない日は、2001年の9.11、同時多発テロが起こった日です。今年でちょうど20年が経ち、アメリカの各地で式典が行われ、教会でも残された遺族たちの悲しみに神様の慰めが与えられるように祈ったことでしょう。私は個人的に、これらが起こった日にアメリカと日本にいなかったのですが、その前後に両国に在住していた者として、両日ともにその日が来ると深い悲しみを覚え、祈りを捧げています。そして今、新型コロナウイルスのパンデミックが起こり、もはやこれは一つの国や地域だけでなく、世界中の地域でこのウイルスが広まり多くの方が亡くなっているという患難の時代に私たちは直面しています。

 なぜこれらが起こるのか?というよりも、なぜ人の命が突然奪われてしまうのか?という疑問に行きつくのだと思います。災害も、事故も、病気もなければ、人は長くて100歳くらいまで生きられるだろうという前提があって、その前提が破られるからです。建物であれば、壊れてもある程度再建がなされます。しかし、命は再建ができません。逆に言えば、たとえすべてが失われてしまっても、命さえ残ればやり直せます。元通りの生活ができないとしても、新しい生活にて生き続けられます。その命よりも、経済を優先するのかとの声が今巷であがっていますが、経済活動と人命救助の両立は、どの政府にとっても難しい政策です。政府も試行錯誤しますが、国民も何をしてよいか、何が最善なのか、私たち一人一人に問われていることだと思います。


 「神がいるなら、なぜこのような災害やテロ、病が起こることを許されたのか」と、思う人々のことも考えます。もし神がいるなら全て平和になるよう支配できるはずだと。なぜ人間を好きにさせているのかと。もし神が、人を平和的に生きるようプログラムしたロボットとして創られれば、そうなるかもしれません。しかし神様はそうなさらず、自由意志を持つ存在として人を創られました。自発的に自分の意志で「良い」ことを選択し、神様を信じてほしいからでしょう。不条理なことはたくさんあります。しかし明らかなことは、神様が不条理なことを引き起こすのではなく、人間が引き起こしているということです。そうだとしても、「なぜ?」という質問はでてきます。それを神様にぶつけてよいのです。そこから、模索が始まり、神様との対話が様々な媒体を通して始まり、結局、神様を求めることに繋がるからです。そしてその質問に答えられるのは、人ではなく、神様だけです。

 聖書では命は、単なるこの体が生物学的に生きることだけを指しません。命とは、キリストを知って信じ、救われることを指し、死とはキリストを信じず、救いから外れてしまうこと、という2元論的な内容と言えます。キリストについてどの様な情報を「信じる」のでしょうか。まず、イエス・キリストが今存在している全てを創った神であること*1、そしてキリストがその被造物である人間を大切に思い、永遠に神と共に生きれるように、自ら人となってこの世来られ、私たちの罪が赦され、救われるために、代わりに神からの罪に対する罰をうけ、死なれたこと、神により復活されて今も天で生きておられること、これらのことを信じる人が永遠の命を与えられるということです。


 そんなことをどうやって信じるのか?と思われる人もいるかもしれません。「人には出来ないが神には出来る」*2、とイエス様は言われました。これは、人には「そんなことを信じるなんてありえない」と思えても、神様の力によって、求める人には信仰も与えられることを含みます。人はどういう時に本当の神様を求めるかというと、たいがい、その人が困っている時、自分の思うように人生がいかない時、苦しんでいる時に助けを求めます。そして、自分を救ってくれる神様を求め、そしてキリストに個人的に出会うのです。単に、神様は今困っている状態から救うのではなく、魂のもっと深い根本的なところから、湧いてくる質問「自分はなぜ存在していいのか」にキリストは愛を持って答えてくれます。「私があなたを目的を持って存在させた、愛するために存在させたんだよ」と。

 使徒パウロは、下記のみことばにあるように、キリストを宣べ伝える活動において死を覚悟する程の患難に何度も会いましたが、そのたびに助けられ、神様への希望が強まって行ったことを記しています。このように、をあらゆる苦難の中にある人々に、信仰を持つきっかけ、もしくは信仰が強められる時は、ある意味、患難の時かもしれません。そう思えるとしたら、その辛い体験をした人にのみ理解できることでしょう。今、多くの辛い思いの中にいる方々が、パウロやそのほか多くのキリストを信じる信徒たちが経験してきたように、神様に助けを求め、神様に助けられるという経験を重ね、どんな時でも神様がなんとかしてくださると信頼できるようになり、心に安らぎと希望を持てますように、祈ります。また、神様が、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださったので、今こうして、平安のうちに恵みを受けて生きています。ですから、神様が全ての人を心にかけて下さり、慰めを与えて下さる方であることを、今苦難の中にある方々へ伝えていきたいと願います。


 「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」 コリント信徒への手紙2一章9-10節

 *1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 」ヨハネによる福音書1章1-3節 (言とはイエス・キリストを指します)

 *2イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 マタイによる福音書19章26節  (聖書引用 新共同訳聖書)


 

Sep. 4, 2021

 賛美する喜び

 


  先日、「賛美する喜び」というオンラインによる教会音楽ワークショップに参加しました。私は普段、教会の礼拝で賛美歌の奏楽をしているのですが、なかなかただ弾くだけで技術的なことはもとより、奏楽をする上で教会音楽の基礎的なことを少しでも学べればと願い、またコロナ禍における賛美を他教会がどのように工夫しているか等も知る良い機会だと思い、2日間にわたる講座に参加することにしました。ほとんどがすでに録画されたものを聞く形でしたが、Zoomによる奏楽相談室では、一人一人が発言する機会が与えられ、礼拝で奏楽する時の質疑応答の時間がもたれ、非常に参考になりました。前の教会で、パイプオルガンの奏楽を少しだけ学ばせていただき、実際礼拝で奏楽する機会があった時も、先輩に色々教えていただいたのですが、今回は私にとって技術的なことよりも、大事なことは、会衆が神様に賛美を心を込めて歌えるように、奏楽者はどのように仕えるかという点で、私にはレベルの高い話ですが、とてもチャレンジを受けました。また、録画の場所のチャペルを見て、懐かしい思いに駆られましたが、何十年も前、自分の学生時代に、身近にパイプオルガンやチャペル・礼拝があったのに、自身がほとんど関わることをしなかったことが非常に残念に思います。

 賛美の歴史を見ると、時代によってスタイルは変わっていきます。しかし、神様を讃美する歌詞は変わらずに何千年も歌い続けられていることが神様の業によるものだと改めて思わされました。時代や教派によって異なる賛美の多様性があることを受け止めつつ、自分の出来る範囲で奏楽を続けていこうと、モチベーションが上げられ非常に有意義なワークショップでした。


 使徒パウロとシラスは、キリストを伝える中で迫害を受け、獄に入れられることがありましたが、権力者たちは彼らを物理的に閉じ込めることはできても、彼らの賛美と祈りを妨げることはできませんでした。彼らは獄中でも賛美を歌い、それを他の囚人たちが聞いていたと聖書に記されています*1。獄中ですから、もちろんアカペラで歌っていたでしょう。究極的には楽器の奏楽がなくとも、たとい音程が違っていても、賛美は歌えるのであり、その讃美を神様が喜んで受けて下さるということが大切だと思います。

 私は、時々頭の中で賛美を歌い、その演奏の音まで頭の中で思い返し、時には仕事中、廊下を歩きながら頭の中で歌っています。仕事をしていると9-10時間があっという間に流れますし、その間づっと神様のことを意識できないのですが、それでもほんのひと時でも頭の中に賛美というBGMを流しながら、神様に助けを求め、そして実際職場でいつも助けられているので本当に感謝です。賛美の喜びは、奏楽する時も、歌う時も豊かに与えられる、神様からの恵であります。神様は、日曜の礼拝の時だけでなく、仕事中でも、家でも私の主であり、全てをコントロールして下さる方、共にいて下さる方です。それを私が意識すればするほど、神様への感謝が賛美となり、祈りともなり、神様とのコミュニケーションが増えます。賛美の内容は、主に聖書のみことばからとられていますので、みことばが自然と頭の中に蓄積されて、折にかなってそれを思い起こし、困難な状況の時にそのみことばによって力を受け、励まされて、日々生活していきたいと願います。



 *1 使徒言行録16章25節
 


 

Aug. 22, 2021

 移民、難民の受け入れについて

 

  最近のニュースで日本国の外国人寄留者に対する扱いについての問題が取り上げられるようになりました。また、先日、日本在住のイラン人の方から、日本の難民問題について、またマスコミに全く放映されていないイラン国での深刻なコロナ感染状況について話を聞く機会があり、非常に考えさせられました。もちろん、これらの問題は今始まったこではなく、マスコミに取り上げられていなかっただけで、以前から日本は海外からの難民の受入が他国と比較して非常に少ないという統計は発表されていました。日本国民の意識の中に、難民イコール治安が悪化するというステレオタイプがあり、内戦等で政治的に祖国を追われざるを得ない、困っている人々を助けようという思いには中々いきつかないのでしょう。

 一方、日本国民であっても犯罪をする人はいますし、外国人を違法に雇用し犯罪に利用しているその親玉は日本人であり、ネットを使って国外から日本に侵入してきているハッカー集団等が活動しているという現実があります。そのような現実を鑑みれば、治安悪化があるから難民を受け入れないというのはあまりにも狭い、非国際協力的考え方だと私は思います。日本という国は、グローバル化を経済、利益の面だけで他国にて拡大し続けてきた一方、メンタル的には全く鎖国を続けていた時代と変わっていないのではないでしょうか。もちろん、歴史的に移民で出来上がっているアメリカのようにはいきませんが、今の時代、もう少し難民を迎え入れる制度・体制を構築していく必要が政府にはあり、また国民側も共通理解を得られるよう、視野が広がっていけばと願います。

 聖書には、移民(外国人寄留者)の扱いについて記されているところがいくつかあり*1、そこには、民族を超えた、人間すべてを大切に思い、愛して下さる神様の思いが示されています。例えば「隣人を愛しなさい」という律法があったとしても、「隣人」の定義が個々人異なったらどうでしょう。はるか海の向こうの外国人は隣人なのでしょうか?難民を受け入れるべきだと思ったり、普通の生活場面で外国人と接する場合に親切にしようと思えるには、個々人の行いの動機、またはその行いに導く法律があると思います。イエス様はユダヤ人として生まれましたが、その神様が与えた規律、教えを厳格に守り、「自分は神の前に正しい」と思っているユダヤ人たちに対して、たとえ話を用いて、この「『隣人』とはだれですか?」と問いました。当時のユダヤ人にとっては、隣人とは同胞で、自分と関係が良好な人だけでした。しかし、イエス様的に隣人とは、自分と同じ民族や近所の人、知人だけではなく、究極的には仲が悪い人もそのカテゴリーに入ります。なぜなら、神様の御子であるイエス様にとって、人間は皆同じ愛する対象であり、イエス様は人種や性別、国籍、身分はもちろん、犯罪を犯す人・犯さない善良市民(?)等とわけ隔てをなさらない方だからです。

 私はこのイエス様から、こんな自分であるのに関わらず、愛され、大切にされていることを信じ、感謝して、この世での生活を天国という最終目的地にいくまでの寄留者として、キリストの愛に倣って生きていこうと思っています*2。こんな自分とは、今迄神様を知らず逆らってきた人生を歩んできた者であっても、キリストが代わりに十字架で私の罪にたいする罰を負って下さったから、全て赦されていること、そして信じた後も失敗も多く、信仰が弱い者であることです。私は神様に良くして頂いても、目に見えない霊的な神様にお返しができません。神様は私たちにお金は要求しません。キリストを信じるだけです。しかし、私としては何もできなくともせめて その神様の愛に応答し、目に見える自分の目の前の人々に対して、下記のみことば「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様のことばに、たとい出来なくとも、従いたいという思いが与えられています。


 私たちがこの世の生活で困難な状況であっても、自分に敵対する人が周りにいても、今もキリストは天において助け、導いて下さっていることを信頼し、全て委ね、不安にならずに生きていけることは幸いだと感謝しています。この神様の計り知れない愛を受け取れたからこそ、隣人の定義をイエス様的にまで広げ、愛を広げていければと願います。私は大きいことはできません。まずは、今自分が接する周りの人々、何人であっても、自分にかみついてくるような人であっても、神様からその愛を心に注いでいただき、時には忍耐しつつ、親切にできればと努めようと思います。

 
 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 ルカによる福音書10章36-37節 (新共同訳聖書)

 *1 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で 寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」出エジ プト記22章21-22節
 「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手か ら救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、 無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ書22章3節)


 *2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 」ヘブル人への手紙11章13節 (口語訳聖書)
   
 


 

Aug. 17, 2021

 大谷石

 

  私が住んでいる益子教会の建物は、一階の部分の外壁が大谷石という、栃木県大谷町付近一帯で採掘される石材で造られています。私は個人的に大谷石の存在を栃木に引っ越すまで知らなかったのですが、先日、大谷石資料館に行く機会がありました。その資料館は、地下の採掘場跡からなっていて、夏でも12℃という涼しさです。その採掘場は地下深く、またとても広い空間が広がっており、以前どのように採掘していたかの説明と展示がされています。暗い空間に、ところどころライトアップがなされていて、あたかも古代エジプトの遺跡に見えるような錯覚を覚えるほど、幻想的な場所でした。大谷石が使われ始めたのは6−7世紀に遡り、1960年代迄は手作業で石を切り出していたそうで、暗い地下に働き続けていた労働者の方の苦労を思いました。大谷石で出来ている建物は、夏でも涼しく、昔から穀物や食物の倉庫(石蔵)として用いられ、栃木県のあちらこちらで、今でも大谷石で出来た倉を見かけます。大谷石は比較的柔らかく加工しやすい石材でありますが、耐震性、耐火性は強いとのこと。西洋諸国と異なり、日本のほとんどの建築が木造でしたので、昔から石材の建物が日本でもあったというのは意外でした。

 石材といえば、古代イスラエル国のソロモン王が建てた神殿も石で建築されていました。その神殿の建築についての詳細が聖書に記されていますが、その時の様子について下記のような記録があります。


 「神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、建築中の神殿では、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音は全く聞こえなかった。 」 第一列王記6章7節

 この「よく準備された」という形容詞の原語は「シャーレーム」が使われているそうですが、「自然なままの」、あるいは「完全な」という意味があるそうです。そして、「平和」を意味するそうです。神殿の建築現場では、すでによそでカットされた石材を組み立てるだけでしたので、石を切る時の大きな音がしていなかったということでしょう。もちろん、多少石を組み上げていく上で音がしていたとは想像しますが、それでも現場にこのような静けさがあったということは不思議です。神様が臨在する聖なる場所、神様を礼拝するための場所にふさわしいことだなと改めて思わされました。

 石や岩というのは聖書的にも意味があり、神様を石や岩として譬えられます。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」*1の「隅の親石」というのがキリストを指し、イエス様ご自身がこの聖書の箇所を下記のように引用しています。この時代の建築において、土台となる隅の親石は基礎部分において重要でしたが、にも関わらず、この譬えでは神殿を建築している当事者がそれと認識できず、「この石はどこの部分なのだろう」と捨ててしまったとあります。その当事者はユダヤ人であり、彼らにはメシア(救い主)が与えられることを昔から預言者を通して示されていましたが、いざイエス様が来られてもメシヤだと認めず、十字架に架けてしまうことが示されています。そしてイエス様の救いは、ユダヤ人以外の民族へ与えられるということを比喩で預言しています。そのおかげで、日本人である私も、現代でイエス様を信じることが出来ているわけです。また、ユダヤ人であっても、キリストをメシヤだと信じれば救われます。

 使徒パウロが、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 」*2と記しているように、キリストを信じる信徒が神の神殿であるという根拠は、何人であっても、誰であっても、イエス様を救い主として信じた者はイエス様という基礎の上に一体となり、神の宮として建て上げられているからであり、神の霊(聖霊)が私たちの内に住んでおられるからです。これは、神様がなぜそのように図られたのかが私たちにはわからないので、私たちの目には不思議に見えるわけです。


 私たちは「自然なまま」で、ありのままで恵によって救われましたが、そしてイエス様を信じる信仰によって、少しづつ「完全」に内側が変えられていく石となっていきたいと思います。聖霊の業によって、私たちはよく準備された石となって、キリストの体、神様の神殿の一部に組み入れられ、愛の実を結ぶ神の民になりたいと。一夜にして出来ることではないですが、日々祈りつつ、キリストに委ねていきたいと願います。

 
 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 マタイによる福音書 21章44節 (新共同訳聖書)

 *1 詩編118編22-23節
*2 第一コリント信徒への手紙3章16節

 

Aug. 3, 2021

 グラディエーター(剣闘士)

 

   この数年間で、東京は多くの改修工事、新設工事が行われてきたのは、2020オリンピックのためで、円形競技場やその他の競技の為の新しい建設物が東京の新しい情景を創り出しています。円形競技場の由来は、古代ローマ帝国の時代に遡り、もともとはスポーツ観戦の場ではなく、剣闘士が殺し合いを行い、観客がそれを見るという娯楽を提供する場所でした。映画「グラディエーター」を観た方は想像がつくと思いますが、なんとも残酷な娯楽です。しかし、人々はそれを良しとし、政治的にはそのような娯楽を提供することで人々の帝国に対する不満を解消させるための道具としていたと言われます。また、オリンピックの時期だということで、これに関する記事があり、目にとまりました。「剣闘士:殺し合いのイメージは誤解だった」という説を古代の壁画、歴史的一部の文献から、あたかもそれが現代のスポーツのように審判がいて殺すまでに至らないケースもあったとか、剣闘士訓練施設で大切に育成されていたとあり、しまいには「剣闘士は勇敢に戦い、時には命を落とす、男らしさや美徳の象徴にほからならなかった」と書かれていました。どんなに悪を美化しても、歴史的事実であり、もし美化された内容通りであったのならば、皇帝によって廃止されることなく、今も続いてるはずです。


 先日、この悪しき習慣であった剣闘士を終わらせるきっかけとなったのが、キリスト教の修道士であったことを知りました。この娯楽は、ローマ皇帝により5世紀初頭に禁止令が出され、最終的に競技場を閉鎖されるまで7世紀頃まで密かに続けられていたそうです。テレマクスという修道士 は、ある時、このむごたらしい剣闘士の戦いを止めようとして円形競技場に入りました。すると、観客が逆上し石を投げつけて彼を殺してしまったという事件が発生し、それをきっかけとして、当時ローマ帝国はキリスト教が国教となっていたので、皇帝により禁止令が出されたそうです。テレマクス修道士の命が犠牲となってこの悪しき娯楽は終焉しました。 


 古代から、ある人々は人と人とが殺されて倒されるまでの戦いを観て興奮し、ストレスを解消するという本質を持っているのではないかと思います。なぜなら現代では、剣闘士の代わりに、バーチャルのゲーム上で同じことが行われているからです。IT技術が進化すれば進化する程、この戦って相手を殺し、ポイントをゲットして「やった!」と興奮する、ある種の満足感を得る娯楽が拡大し、人々の心を知らぬ間に蝕んて行くことを私は懸念しています。「ただのゲームではないか」と言われます。実際に人に命が失われなくとも、ゲーム上で「殺す」という精神的構造を、なんの良心の呵責なく続け、心が麻痺していくのに気がつかないのでしょうか。そして、世界的に行われている、現代のバーチャルの殺し合いゲームという娯楽を、誰が命をかけて終焉させることが出来るのでしょうか。


 私は、人はどんなに高尚な立派な人でも、心に暗い部分、罪悪という部分を個人差や程度はあれ持っていると思います。それが良心で抑えられていればいいのですが、「魔がさした」と言われる様に、やってはならないことをしてしまう、酷いことを心で思ってしまうということを誰もが経験しているはずです。そんな私たちの罪の部分から解放し、赦し、そして罪を犯さないように、愛の心を持てるように変えることが出来るお方が、イエス・キリストしかいないと信じます。神の子であるイエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を十字架上で犠牲にされました。修道士テレマクスは、キリストの愛に生きて、自分が殺される危険があろうとも、とにかく剣闘士を止めさせようと競技場に入っていったのだと私は思います。また、神様はイエス様のこの犠牲により私たちを救って下さるだけでなく、イエス様を信じて生きる、新しい生き方において生きる希望が与えられることが、幸いであり、この不確実な先行きが不透明な時代において、特に、私たちには必要ではないかと思います。一人でも多くの方々が、なぜ自分が今生きているのかを真剣に考え、それを求めた時、神様を見いだせるはずです。

 使徒パウロは、キリスト教の神様を全く知らない、ギリシャ時代の多神教を信じるアテネの人々に、真の神様を伝えようとして宣べ伝えた内容が、下記の聖書の箇所です。私は、日々、このコロナ禍にあって、苦しんでいる人々、人生で悩んでいる人々が、このような聖書のことばに触れる機会がネット上でもあって、求めて、キリストを知って、幸せになってほしいと祈っております。神様は私たち一人一人から遠く離れておられる存在ではなく、見えなくとも近くにはおられ、一人一人をケアして下さる優しいお方であることを知ってほしいと。



「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章26−27節

 

 *「ナショナルジオグラフィック」日本版8月号「グラディエーター熱狂の舞台裏」

 

July 24, 2021

 能動的と受動的

 

   梅雨が明け、猛暑の時期となりました。今年は我が家で、プランターになす、きゅうり、トマト、ピーマンの苗を植え、少しですがしばらくの間収穫を楽しむことができました。近所の方もこれらの小さな野菜の成長を見ていて下さり、そのことで会話をかわし、少しだけですがお裾分けできたり、毎日実がなるのを楽しみにしていました。ところが、折しも、熱海に土石流を引き起こした線状降水帯の大雨の時に、これらの野菜は風と大雨で根ごと倒されてしまいました。急いで修復したのですが、それ以来元気がなくなり、水をあげても実がならなくなり、厳しい太陽に照らされて涸れてきてしまいました。とても悲しくなりました。来年は、大雨が降るときには、軒下に移動するなどして野菜を守らなければならないと思います。このように、植物は自然のままではうまく成長せず、損なわれてしまうことがあり、実を結ぶことは簡単ではないことを毎年失敗しながら、試行錯誤しています。


 私が小さな野菜を惜しんでいる一方、今年の自然災害、特に洪水の被害は日本だけでなく世界各地でもニュースで報道されており、多くの方々の命が失われていることは心痛みます。聖書に、小さな木が枯れたことを惜しむ人と、12万の人々の命を惜しむ神様のストーリーがヨナ書という書簡に記されていることを思い起こします。ちょっとわがままなヨナという預言者は、自分に日陰を作ってくれていたトウゴマの木が一夜にして涸れてしまい、翌朝太陽がヨナの頭上に照りつけ、暑くてぐったりすると、「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と神様に文句を言いました。すると、神様はヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。お前は…一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」*1と言われました。そもそも、ヨナは神様から「ニネベに行け」と命令されていましたが、自国を苦しめていた残虐な国アッシリアへ行くことを拒み、結果船の旅の途中、大魚に呑まれて生死をさまよい、神様に悔い改めて、ニネベの岸に吐き出されます。ヨナは、ニネベの人々が神様からのメッセージを聞いて悔い改め、救われてほしくなかったのです。案の定、ニネベの人々は、ヨナの簡単なメッセージで悔い改めてしまったのです。私たちは、目の前の小さなイベントにがっかりし、文句を言ったり、ましてや残虐に人を殺す者を「赦せない」と思ってしまうのが正直な感情でしょう。ヨナは私の自己中心的な態度、また自分の正義感にもとづく他者にたいする裁きの心を現しているようで、ヨナを責められません。


 しかし、神様は私たちとは全く異なり、どんな人に対しても、滅びて欲しくないと救いの手を差し出す方であり、慈悲深く、情け深い方だと聖書を読んでいて思わされます。そのような神様にキリストを通して救って頂いた私は、今でもヨナ的になるときもあり、他者に対していつも慈悲深くなく、冷たい人間だなと自分をみると落ち込みます。しかし、それでも、いや、それだからどうしたらいいのかと考えると、たとえ不完全で、実を結ばない者であっても、イエス・キリストにつながり続けることだと下記のみ言葉を通して示されました。つながるには、私が「つながろう」という自分の意志、いつもそう出来なくともそう努めようとしつづける決意が前提であり、それは能動的に私のなすべき責任です。ただ棚から牡丹餅状態で何もしないのでなく、自分の思いをキリストにつながらせようという意志を持ち続ける必要があります。そして、自分をイエス様につなげて頂いた後はお任せする、つまり受動的に栄養を流していただけることになります。私自身が栄養を造らずとも、イエス様が流して下さる栄養をもって、時間がかかっても実を結んでいけるのではないでしょうか。イエス様の側からすると、「わたしもあなたがたにつながっている」というのは、私たちがまず、イエス様を受け入れて、イエス様を私にコネクトさせてはじめて、イエス様が私につながっていてくださり、木が枝に養分を送るように、キリストの力を、愛の性質を私に送ってくれるわけです。


  キリストにある愛の実、たとえば喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制*2を、自分の素の性質で結ぶことは私にはなかなか出来ません。しかし、私が生活の中で与えられる希望の一つは、こんな自分でもイエス様につながり続ければ、いつかは実を結び、周りの人々にキリストの愛を示せるように変えられていくということです。主体的、能動的にイエス様につながっていようと、日々み言葉を読んで、思いめぐらし、後は受動的にキリストの愛を流して頂き、それが自分から溢れ出て外へ流れ出ますように、祈りたいと思います。



 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15章4節  (聖書引用、新共同訳)

 *1 ヨナ書4章9-10節

 *2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23

 

July 11, 2021

 パレスチナ問題

 

   先日、テレビの番組で「パレスチナ紛争はなぜ起きているのか?」という内容が放映されていました。そのゲストの方々のコメントから推測すると、多くの日本人はパレスチナ問題についてあまり知らないし、エルサレムがどこにあるかさえしらないかもしれないと気がつきました。それは、日本とイスラエルはなんらかの関係があったとしても、そのことがクローズアップされていないからでしょう。その解説者は、パレスチナ紛争は「誰の土地か?」でアラブ人とユダヤ人が争っているとし、ユダヤ人にとっては「この土地は神様が我々に与えると約束した土地だ」と主張していると述べていました。


 また、アラブ人の中には、イスラエルと共存していこうという穏健派(東ヨルダン地区)と、ユダヤ人を必ず追い出すというガザ地区の過激派(ハマス)があり、何時も先制攻撃でロケットをイスラエルに打ち込んで、反撃をイスラエルから受けます。その結果民間人もまき沿いになり、「イスラエルの攻撃で子どもたちが殺された!」と世界にニュース発信し、同情を買い、同時にアラブ人の同胞たちへ、自分達過激派の存在意義をアピールしていると解説されていました。軍事的にハマスとイスラエル軍のレベルは、野球で言えば少年草野球チームと大リーグのチーム程差があると。ニュースだけを見ている人々は、「イスラエルは民間人を殺すなんて酷い」という印象を持ち、そもそもなぜそのような結果になっているかを知らないで、イスラエルだけを批判することになります。もちろん、軍事的にも政治的にも、全てイスラエルのしていることが正しいとは思いません。少なくとも、イスラエル国内にも、パレスチナ問題に関して穏健派と強硬派の政党もいて、実際やられたらやりかえしていて、平和的解決には至っていません。


 日本人は「ご先祖代々からの土地」として、特に地方では大切に守っている方が多いと思います。しかし、行政が道路を拡張するため、その先祖代々の土地を手放さなくてはならない場合もありますが、決して売らない所有者もいます。今、益子で農道だった道が両側の水田の部分が売られて、広い道路に工事がなされています。おそらく、益子駅とその周辺からちょっと離れた益子の道の駅につながる道を広げたいということで工事がなされていると推測しますが、農業を営む方々にとっては土地を手放すという犠牲が伴います。しかし、その広げられた道路の間に、新しい道路と道路の間に、細長く水田が残っている部分があります。そこは、なぜかは知りませんが、その部分だけ、所有者は土地を売らずに通して、協議の結果、そこを避けたまっすぐではない道路になったのだと思います。私はそこを見ると、パレスチナ問題を思い出します。(いささか飛躍しすぎ)


  誰でも、自分たちの持っているものを次の世代に残したいと思うものでしょう。それは良いことであります。しかしどんなに良いことも、そこに欲がからむと争いを引き起こします。私たちキリストを信じる者は、地上での土地は寄留の地であり、天国で、永遠に相続する場所が与えられることが、聖書にユダヤ人だけでなく、全てのキリストを信じる者に約束されていると信じています。ですから、あまり地上の所有に関してこだわらないよう、争わないよう、下記のみことばように、使徒パウロも聖書で勧めています。地上のことには、たとえ損することがあったとしても、なるべく最低限に関わり、その分、上にあるものにいつも心を留めたいと心がけたいと思います。上にあるものとは、キリストに関わること、つまり天の父なる神様の御心にそったことでしょう。そのためには、日々み言葉に触れ、み言葉を生活の中で適用していくことに心を配りたいと願います。また、日本人であっても信仰の目でみるとイスラエルは非常に自分達と関係のある国であり、現代においてこの国で起きていることが聖書に記されている事と直結するという、重要な国です。神様のご計画で起こされたイスラエル人(ユダヤ人)という民族、そして彼らに約束された祝福*が、イエス・キリストを通して全ての人におよぶという聖書の約束を信じる時、現実の歴史で起こってきたことが聖書の預言と重なって行き、また今後起こりそうなことも、ぼんやりとですが予想がつきます。すると不確かなことに対する恐れ、思い煩いが薄れていき、その分、神様に対する感謝、満ち足りた思いが与えられ、幸いです。


 かくいう私は日々、突発的なことが起き(仕事の性質上仕方がないのですが)、その対応に追われたり、思うように行かないことばかりで、計画したことも本当に成し遂げられるのかどうかも不明と、あくせくしているような者です。それでも、神様に助けを求め、計画したことも全て、どうなるかは神様に委ねて、神様の御心にそった一日一日を過ごしたいと祈り求めて行きたいと思います。

 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロサイ信徒への手紙3章1-2節

 *創世記12章 1-3節「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」

 

June 29, 2021

 ヤギのやっくん@道の駅 益子

 

   「あの小屋は何だろう?」益子町にある道の駅は、緑豊かな水田が広がる場所に建てられたおしゃれな設計の建物ですが、この4月からその横に小さな小屋が建てられました。毎日その横を通勤で通り、気になっていたところ、ある日そこに一匹のヤギが登場しました。おそらく観光客、特に子ども連れの家族がヤギと触れ合うために飼うことになったのでしょう。隣の市のリス村から連れてこられたそうです。先日、二人でそのヤギを見に行きました。確かに人にとっては動物の存在はかわいいし、癒し系なのですが、一匹でぽつんと客寄せのために置かれ、寂しそうだなというのが正直な感想です。せめてつがいで置いてほしいと願います。このヤギは「やっくん」という名前がつけられています。かわいそうに、人を突かないよう、角もおられていました。


 「スケープゴート」という言葉は日本語にもなっていますが、「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ、聖書由来の用語です。政治家が、「秘書がやった」と言って、責任を秘書にかぶせ、刑事責任を負わせたり、遂には自殺に追いやるということがあります。まさに秘書はスケープゴートにされたと言えます。また、その時代の政府の不平や憎悪を他にそらすため、ある人々、ある民族がスケープゴートとして罪や責任をかぶせられ、迫害されてきたというたくさんのケースが歴史的にも見られます。ひどい話ですが、人間が古来からしてきたことです。


 動物たちには申し訳ないのですが、かれらはいつも人間の犠牲になります。聖書に、祭司が古代イスラエルの民の罪を贖うために、動物を犠牲にして毎年儀式をしていたことが記されています。その一つが贖罪(しょくざい)の山羊という儀式で、これがスケープゴートの由来です。「祭司は二頭の山羊の為にくじを引き、一つのくじは神の為に、一つのくじはアザゼルの為とする」*1(アザゼルとは『完全に除去する』という意味)とあり、やぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々の悪と罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせて、荒野に放ちます。また、過越しの祭りでは、小羊を屠ります。その過越しの時に屠られる小羊はまさに、イエス・キリストの十字架を示す型であると言われます。洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」*2と人々に言ったように、小羊も同様に人の罪のために犠牲になっていました。事実、イエス様が十字架にかかり死なれたと同時刻に、エルサレムの神殿では過越しの小羊を屠る儀式が行われていました。


  これらの動物の犠牲により、人がその罪を動物に負わせますが、それ自体で罪を除くことができず、しかも罪から解放されないまま、人は罪をくり返し犯すので、この儀式を何度も行わなければならないのですが、下記の聖書の箇所にあるようにイエス様は神の子であるので、たった一回の犠牲で全ての人の罪を背負える背負えるように、またすべての罪に対する赦しが与えられるように神様が計画して下さったのです。キリストは、全ての民を永遠に罪から救われるアザゼルのやぎでもあり、過越しの小羊であり、しかも罪の除去だけでなく、人類を罪から救い、その救いを信じた者を天国に招き、永遠の命を与えて下さるメシヤ(救い主)であると、聖書は記しています。

  人はどんなに他人に罪を負わせたとしても、心の底では自分の罪や悪を自覚しており、それがいつか暴かれて責められるのではないかという負い目や恐れを持ち続けなければならず、その罪責感を他者に負わせることは不可能です。そして、赦されているという安堵感も与えられません。しかし、イエス様の十字架はそれを取り除くことができ、赦され、心に平安が与えられます。また自分が赦されて、神様がイエス様の命を犠牲にしてまで、愛してくれているということを受け取れると、他者に対しても柔和な心が与えられ始めます。私は、キリストを信じる信仰が与えられても、他者に対する柔和な心が充分に、品性としてまだ備わっていないのが正直なところです。ひとりでも多くの方が、キリストの愛によって罪責感や恐れ、トラウマから解放されることを祈りつつ、私自信もキリストの柔和な心を与えてください、と日々祈り、全ての人と平和を保ちたいと願っています。


 「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」ヘブル人への手紙9章11-12節

 *1 レビ記16章1-22

 *2 ヨハネによる福音書1章29節

 

June 13, 2021

 SDGs 持続可能な。。。

 

   最近メディアでもSDGs 持続可能な開発目標(Susutainable Development Goals)のことが取り上げられるようになってきました。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2030年までに達成するべく掲げた目標です。世界規模で貧困をなくす、持続可能なエネルギーを開発する、不平等をなくすなど 17の目標(ゴール)を掲げています。日本でも二酸化炭素の排出量を減らすという具体的目標数値をかかげているのもこれと関連していて、個々人のレベルでエネルギーの使い方や、環境のためになる、小さいことから始めようと推奨されています。


 「バナナはなぜ安いのか?」高校生の時、この問いを投げかけられましたが、私はこの問いを通して考えなければならない問題を理解できませんでした。逆に、ミッション系の学校のキリスト教の授業の中で、先生が聖書の話をしないで、なぜこの話題を取り上げたのかがわかりませんでした。安いイコールお得。私たちは自分の財布が得すれば、なぜ安いのか迄考えません。しかし、フィリピンの人達が超低賃金で、その当時は子どもが働いていたから、人件費が安く抑えられてバナナの価格が安いという現実がある、つまり開発途上国の人々が先進国企業により搾取されているという犠牲の上に「バナナは安い」のです。私はこのことに問題意識をもったのはもっと後になってからで、「持続可能な開発」という言葉は、アジア・アフリカの開発途上国の開発の為のことばとして30年位前に学んだコンセプトでした。そのころは未だ先進国と称する西欧諸国が植民地時代のアジア・アフリカ諸国との関係をひきづっている物の見方、社会構造があり、この問題を国連等が主導になって取り組んでいくのは不可能なように思えました。しかし、30年近くたって、SDGsが全ての地球上の国が、同じ目標に向かうというアジェンダとなり、少しは前進しているのかもしれません。


 一方、SDGs達成のためには、人が互いを尊重し、利益中心ではなく、国境を越えて互いに助け合おうという思い、自然を大切にしようという共通の認識が必要でありますが、個々人の価値基準が異なるのでその道は容易なことではないと思います。しかし、もし17項目の中の一つにもある 「正義や平和」を、キリストにあって皆が共有できれば実現可能ではないかと思います。なぜなら神様が人にしてほしいことは、神を信じ、人間同士互いに愛し合いなさい*1ということにつきるからです。見えない神を信じ、愛するということは、神様の命令(言い換えれば、私たちにしてほしいこと)を守ることだと聖書にあり、その命令は難しいことではないとあります。*2


  神様は人と人が居住できる地球を創った時、それらを全て見て「極めて良かった」と言われたと下記の聖書に記されています。なぜ「極めて良かった」人と地球が今のようになってしまったのかは、最初の人間アダムとイブが、神様の命令を守らず、神様から独立して、自分達で善悪を決めようかのごとく、食べてはならないと言われた善悪の木を食べてしまったからです。それ以降人は創造主である神様を知らないで生まれ、誰かが教えない限り、神様の存在を知らず、信じず、己の利益のために人を傷つけ、自然を破壊・操作してきているのではないでしょうか。そうなる以前は、人は神様と自由にコミュニケーションができ、無垢に神様に全て委ねて平和な生活を自然と調和しつつ、エデンの園の中で送っていたので、心には神様との平和、自然との調和があったはずです。もしかしたら、人の潜在意識の中には、初めに神様が創造された、自然と調和していた世界、平和あ人間関係への渇望があるのではないかと思います。

  たとえ今の状態が楽園ではなくとも、キリストを信じることで、この世に生きながら神様との間に平和があり、神様に全てを委ね平安な気持ちが与えられ、神様の与えて下さるその恵みに感謝して日々過ごすことが可能と信じられること、これは、なんと幸いなことでしょうか。私は、全てを神様に頼り、委ねることができる特別な恩恵を”SDG” (Special Dependency on God)と勝手ですが思いつきました。私はキリストにあるSDGをいつも心に留め、神様に感謝し、結果的に国連が掲げる17項目にも少しでも生活の中で実践していければと願います。


 「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」 創世記1章31節

 *1「「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。?イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。?これがいちばん大切な、第一のいましめである。?第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。?これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」マタイによる福音書22章36-40節 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ヨハネによる福音書15章12節

 *2「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネの手紙5章3節

May 23, 2021

 新しくなること

 

   我が家にあるダイニングテーブルと椅子は、夫の両親から譲り受けた家具で、いわゆるアンティークですが、とても気に入って使っています。なんでも古いものと新しいものがあり、新しく購入したり、造ったりもしますが、古いものを好んで買う方もいます。現代のように大量生産・消費の時代において、古いものを大切に使いづつけることを私も好み、洋服、家具、電化製品も壊れたり、破れたりしなければ、なるべく新しいものを買わず使い続けたいと思います。


 一方、自分の品性や身体に関しては、「新しくなれれば。。。」と思うこともあります。今迄生きてきて、「あのことをしなければよかった」と、してしまった罪や失敗については、神様は既に赦して下さっているという恵みが与えられ、罪責感にさいなまれることなく、後ろ向きに過去を振り返ることがなくなったのは幸いです。が、してしまったことの刈り取りや失ってしまった事柄はもとには戻れません。そのことに対する不満や自己憐憫を続けるのではなく、そのことを受け入れて、共に生きていこうと前向きに捉えるようにしています。例えば、病気になってその後遺症が続く場合は、その後遺症とも、自分の一部として共に生きていこうと思う。また、人間関係については、神様は赦してくれても、人は赦してくれない場合があります。その相手との関係が改善されることを祈りつつ、相手の自分に対するネガティブな感情を受け入れていかなければならない、ということもあるでしょう。


 聖書にははっきりとこう書かれています。

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 」第2コリント人への手紙5章17節

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」テトスへの手紙3章5節


  聖書の最初の書簡「創世記」で、「はじめに神は天と地とを創造された。」*1とあるのは、将来に新しい天と地が現れることが含まれた、神様の啓示の言葉だと思います。このみ言葉は、神様の御子、イエス・キリストが今ある天と地を組み立てるところから始まり*2、そしてキリストの十字架による罪の赦し、その罪によって失われた良い状態の回復、つまり新しい創造の「型」として聖書の最初に記され、そして聖書の最後の書簡「黙示録」において、その全てが新しく、創造される天と地のことへと繋がります。天と地だけでなく、永遠に神様と共に生きれる新しい体が与えられ、人と神様が共存できる世界がいつか来るという聖書の約束は、この世の中で生きていく中で、私にとって大きな慰めであり、励ましであります。

  キリストを信じながら、私の感情や思いが古いままのように思えても、また体に不具合があったり、年とともに衰えていったとしても、聖霊によって新しく造られ、古い自分は過ぎ去っていること、そしてこれから神様が全てを新しくされる日がくるという下記のみことばを心にとめていきたいと思います。毎日の生活で個人的にも、社会情勢においても色々困難はありますが、信仰によって、待ち望みつつ、日々過ごしていきたいと祈り求めます。


 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。  黙示録21章1-5節 (引用:口語訳聖書)

  *1 創世記1章1節
*2 「【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたし(1節の「知恵である私」つまり、キリストを指す)を得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。」 (新改訳2017聖書) 箴言8:22〜30 ()は加筆

 「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」 コロサイ人への手紙1:15-16 (口語訳聖書)
 

May 9, 2021

 丸投げ

 

   仕事をしていて、自分の担当でないことを他者から「やっておいて」と頼まれることがあります。その人が上司であればやれと言われたことをするのは仕方ありませんが、例えば同僚同士の場合、その人との関係がよく、自分に余裕があるときは快く引き受けられます。が、そうでない時は「丸投げするなんて。。。」と思ってしまうこともあるでしょう。仕事はチームワークですから、特定の人に業務が偏らないよう、お互いが助け合って、分担しあい業務を終了していくのが理想ですが、現実は多忙な中、なんとかこなすのが精一杯ではないでしょうか。


 仕事の事なら手伝えますが、人間関係に基づく個人の抱えている内面的な問題ならどうでしょう。その人の話を聞くことはできますが、その解決方法を提供するのは困難ですし、その人の問題を引き受けることはできません。逆に、自分自身が思い悩む身である場合、他人の問題を聞いて聞き流せず、感情移入してしまうと厄介なことになります。また聴き手がカウンセリングのプロだとしても、結局は思い悩んでいる人自身の気の持ちよう、捉え方が変わらない限り、なかなか前には進めず、ぐるぐる同じところで思いが回ってしまいます。問題となっている相手が変わってほしいと願うより、自分を変えた方が早いのですが、その自分を変えられないから悩み、思い煩うわけです。しかし、思い煩いは心をさらに蝕み、悲観的な考えを拡大させ、良いことはありません。


 下記の聖書の箇所は「自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。この「委ねる」と訳されている原語は「投げる」という意味であり、すると「自分の思い煩いを神様に丸投げしなさい」と訳せます。神さまは人と異なり、全能で、慈愛と忍耐に富む方であるので、全て投げても受け取られ、解決の方法へ導いて下さる方です。


  では、神様にどのように委ねればよいのでしょうか。イエス様が言われたように、自分が神様に祈ったことは全て聞かれている*1と信じ切ることだと思います。また、祈りの答えとして与えられたことを、受け取る覚悟が必要だと思います。自分の想う通りに神様が答えてくれると願っている限りは、神様に委ねていないのです。神様に問題を丸投げしたのならば、神様は各々にとって良いという方向へ導かれると信じ、それが自分の思い描いたとおりでなくとも、受け止めるということです。また、待つということも必要です。ただ待つのではなく、神様を「待ち望む」こと、なぜなら希望を持たなければ長いこと待つ事は苦痛であり、ついに諦めて、神様に対して「ああ、神様は結局聞いて下さらなかった」と不信感を持ってしまうからです。


 「主を待ち望む者は新たなる力を得…走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」*2という神様の約束が与えられているのですから、この先の見通しがつかない時勢において、どんなことでも、全て神様に委ね、待ち望んでいきたいと思います。


 「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 」第一ペテロの手紙5章7節

  *1 「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」マルコ福音書 11章24節
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」ヨハネ福音書15章7節
  *2 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ書40章31節 (引用、口語訳聖書)

May 5, 2021

 召命?コーリング?

 

   よく、クリスチャンの世界では「あなたの神様からの召命はいつ?どのようにありましたか?」と、特にある人が牧師もしくは宣教師になろうとすると必ず聞かれます。その答えとして「どこどこの集会で祈っていた時、神様に私は呼ばれました」、「聖書のこの箇所が示されて、私は牧師になる決心が与えられました」等、また晩年牧師になった私の父の場合は「イスラエル旅行に行った時、死海のほとりで神様の召命を受けた」と言っていました。また、伝道集会に行って、その場でキリストを信じる決心をし、まもなく「私は献身し、神学校に行きます!」と信じてすぐに牧師になろうという若い人もいます。各々が牧師や教師になる自分なりの理由を持っていて、他者への説明が求められます。何事も、その動機が重要です。しかし、いつ、どこでという、ピンポイントの召命でなければならないのでしょうか。


 オズワルド・チェンバース*という、スコットランド出身の19世紀の伝道者、神学校教師、説教者が神の召命についてこう記していました。「我々が忘れがちなことは、神は私たちに、霊的に、超自然的に触れられるということです。もし、神の召命を受けたのはいつ、どこで、どのようにと正確に全て説明できるのであれば、あなたが本当に神の召命を受けたのか疑問です。神の召命はそのように来ないからです。神がその人を呼ばれたと認識する仕方はもっと超自然的な呼びかけであり、雷鳴のようなもの、もしくは、ゆるやか夜明けのようなものです。…それは表現し難いものであり、輝きを生み出します。」


 私は、オズワルド・チェンバース師のような霊的な神様に用いられた偉大な人の定義する召命が、全ての人に当てはまるかどうかはわかりませんが、「表現のし難い、もっと心の深い部分での霊的な呼びかけである」ということには同意できます。召命というのは、神様が個人に語り掛けるものであって、個々人の体験であり、よって必ずしも論理立てて他者に説明できるものとは限らないですし、もしかしたら口で説明するともっとあいまいなぼんやりしたものの場合もあると思います。聖書を読んでいて、旧約時代の預言者やパウロのことばから見いだせる共通点は、神様から呼ばれている人々は、神のことば・福音をなんとか人々に伝えたいという、「そうせずにはおられない」という一種の押えがたい欲求で動かされていること、それが原動力となって、どんな迫害にも困難にも耐え、主に期待して、喜んでいるという姿です。


  私は、パウロと異なり、もし迫害されたるすぐに逃げてしまうような弱虫の信徒ですが、少なくとも、神様の愛、キリストの福音をもっと人々に知らせたい、説明したいという欲求は夜明けのように、ある時から次第に与えられてきました。私の場合それが原動力となって、突然アメリカに単身で移住したリ、日本に帰ってすぐに結婚と傍から見るといつも展開が急で驚かれます。しかし、私の中には一貫性があり、神様に守られ、導かれているという安心感があり、神様がキリストの福音を伝えるために私をどう用いられるだろうかと迷いながらも探り求めた結果が、今の自分であると言えます。私は欠点の多い、神様に用いられるにはふさわしくない資質で、自分を見ると落ち込みます。しかし、神様はあえてそのようなふさわしくない者さえも用いられると信じます。もし、こんな私がどんなに小さい働きであっても、誰かの心に神様を求めるきっかけの種を蒔くことに用いられれば、自分の能力・資質を誇るのではなく、全て神様の力と業のおかげであると神様に栄光が返されるためのサンプルとなり、私の喜びとなります。キリストを信じる信仰が与えられている人生の豊かさと神様の救いの恵み、神様の私たちに対する無償の愛を知らない人々に伝えたい、また辛い時には神様が共にいて下さるから、なんとかなるという事を伝えたいと、日々願っています。自分の内側にキリストにある「輝き」が造られることを期待しつつ。


 「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」第一コリント人への手紙9章16節 (口語訳聖書)

 *オズワルド・チェンバーズ(Oswald Chambers,?1874年6月24日?-?1917年11月15日)は、スコットランド出身、バプテスト・ホーリネス ムーブメントの伝道者、神学校教師、説教家。著書「『いと高き方のもとに(My utmost for his highest)』、いのちのことば社、1990
 


 

Apr. 30, 2021

 スイッチ入る

 

    「なぜ、あんな態度をとられるのか。」ある人が何かのきっかけで、自分に対して怒りを表してきた時、まず驚いて何も言えず、ついこちらが悪くもないのに「すいません」と謝ってしまい、後から良く考えると、なぜあんな態度を取られるのかと怒りがこみ上げてくる。。。こんな体験はしたことはないでしょうか。そのような態度をとる人について、「あの人時々、スイッチ入っちゃうとああなるんだよね」と陰でささやくのを耳にすることがあります。要は怒りのスイッチが入り爆発したり、態度が豹変したりする人の態度を現すのでしょう。


 怒りをコントロールできれば、どれだけの争いや問題を最小限に抑えられることでしょう。かくいう私も、「言わなければよかった。。」と後から思うことを口に出してしまう失敗はいまだにあり、そんな愚かな自分自身を責めて落ち込みます。口をコントロールする必要性については、聖書にあれだけ書いてあるのに、なぜ静かに抑えられなかったのかと落ち込み、しばらく立ち直れません。そんな時、聖書のデボーションの箇所がタイムリーに送られ、下記のような聖書の言葉が私を悔い改めに導き、赦しを受け取って、いつまでのくよくよせずに神様がいつか私の品性を変えて下さると信じて、気持ちを切り替えていけるのは、幸いです。


 また、私自信の感情のことより、私が怒りや苦い思いを持つと、私のうちに住む聖霊が悲しむとのみことばにより*、はっとさせられました。そうか、神様が悲しまれるのだと。私は神様を喜ばせたいし、神様の御心にかなったことをしたいと思っていても、神様を悲しませてしまっていることがいかに多いのではないかと気がつかされるました。


  同じスイッチを入れるなら、信仰のスイッチをオンにしたいと思います。信仰が働くか働かないかは、電気をつける時のスイッチに例えられます。神さまを信じていても、疑いや不信感を持ったり、思い煩いで神様に委ねられないでいたり、自分の罪をそのままにしておくと、信仰が働かなくなり、神様の力が私のうちに流れなくなってしまう。そういう時はみことばを思い出し、罪を悔い改め、信仰のスイッチをオンにしようと。つまり、私の状態がどうであれ、神様の私に対する愛は変わらないし、見捨てられることはなく、私の失敗を通しても私を成長させる方向へ導くチャンスに変えて下さる方であり、信頼していていいのだと、心を自分ではなく、神様の愛に目を向けることにします。結局、私自身の内には何もなく、私は管のようなもので、その管の中に神様の力やみことばが流されると、周りに神様の業が現れ、良い影響を及ぼせる可能性があると信じて、神様に期待していきたいと思います。


  「愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。」 箴言29章11節

 *「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」エペソ人への手紙4章30-32節 (口語訳聖書引用)
 


 

Apr. 18, 2021

 二者択一

 

    ネグレクト。この言葉があらわす状況ほど、悲しいものはないと思います。先日、ある高校生の話を聞き、心が痛みました。詳細は個人情報なのでここでは言えませんが、行政が何もその子の為に出来ないし、民間の団体の支援に頼ろうとしても、その親が支援を受けることにストップをかけてしまうので、手の出しようがないのです。親権が子供の生きる権利を妨げてしまい、最悪の場合は子供の命を奪ってしまう事に対し、何もできないもどかしさと悲しみが湧き上がります。


 日本の子どもの為の福祉制度と子供を守る法律は、先進国の中で非常に遅れています。アメリカでは義務教育が高校まであり、授業料も無料です。また、虐待の疑いがあると、また親がいて学校を休ませていると、親の監督怠慢ということですぐに行政により親子分離がなされ、子供は保護されて必要な住居と費用が保障され、学校へ行かされます。また、小さい子ども達だけを家においておいて、親が出かけてしまっていると警察に通報されます。それほど子供に対する保護が法律で保障されているという背景は、親の虐待、ネグレクト、子供を狙った犯罪により子ども達の生死が危ぶまれた深刻な社会状況があり、それに対する方策です。それでも、子供の拉致監禁、虐待は絶えませんが、100%でなくとも子供を守る行政の仕組みが機能しています。日本もせめて、これくらいのレベルに行政が早く動けるよう法改正がされてほしいと願っています。


 生きるか死ぬか。この二者択一ほど究極的な選択はないと思います。誰もが生きたいと思い、また生きるのなら幸せな祝福された人生を望みます。現代の壊れてしまっている社会で、特に子供は大人のように社会のシステムが分からないし、分別もないので、辛い苦しい状況、環境で一日一日を過ごさなければならないのです。ある国では生まれた時から戦争下で、いわゆる戦争のない時を知らないで育つ子供達がいます。生きたいと願っても、その選択肢がないかのような状況に置かれている人々。神さまはこういう子供たち、大人を見捨てておられるのか、という思いが沸いてしまうのも仕方がないことかと思います。


  しかし、下記の聖書のことばにあるように、例え親が忘れても見捨てても、神様は忘れないと書かれてあります。だから、諦めないで、命を選びなさいと*。神様は人間を愛するために創られて、永遠の命を得させ、祝福を与えたいと一人一人に願っています。それは全ての人に対してであって、いわゆる加害者も被害者を問わず、全ての人に対してです。神様は人の罪が生み出した悪の連鎖、虐待や犯罪から救い出そうとして、神の子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そのイエス様が、本来受けるべき呪い(罪の結果生じる罰、負い目、罪に対する神様の怒り)を全て代わりに負って下さり、十字架で死なれました。それは、私たちが命を得、神様の祝福を得られるために身代わりになって下さり、そして死に打ち勝って3日目に甦えり、天において、今なお、私たちに救いの手を差し伸べ続けておられます。


  死と生、呪いと祝福。どちらも2者択一であす。私たちが生と祝福を選ぶと決めれば、すでに用意されている神様の救いが与えられるのです。つまり、神様を信じるか信じないか選ぶだけです。選べないで迷っている人にも、様々な状況を通して、人を通して選ぶように招いておられます。目に見えない神様からのその招き、救いを差し伸べる手は、聖書に示されています。信じる選択さえすれば、心に平和が与えられ、、生きる希望と神さまから愛されているという喜び、自分の存在を大切に思ってくれる神様の存在を知る事で、自分の存在価値を認められます。そして、今の状況がづっと続くのではなく、必ず試練に耐えられる心を与え、また脱出の道も与えられると、聖書に約束が書いてあります。 この聖書のことばは、私たちの近くにあります。遠くにあるものではなく、理解が出来ないような難解な内容ではなく、子供でも理解できる、シンプルな内容です。心を開いて、受け取ればよい、信じるという選択をするだけです。一人でも多くの特に子供たちが、このキリストの福音を知って、信じて、将来に向けて生きてほしいと心から願い祈っています。

 「しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」イザヤ書49章14−15節
 

 *「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」申命記30章 19-20節
         (引用:口語訳聖書)
 

 

Apr. 5, 2021

 イースターの希望

 

    先日は教会暦でキリストが死んで3日後に甦られた日曜日を祝うイースターの日です。西洋諸国では、うさぎ、卵などをシンボルに用いて、新しい命が芽生える春のお祭りと掛け合わせて、子供達にエッグ・ハンティング(卵を庭のどこかに隠して、それを探すゲーム)をさせたり、ウサギのぬいぐるみがたくさん店頭に売られてたりしています。つまり、世俗化され、ディズニーランドなどを通して日本でさえも、イースターがうさぎや卵といった春の祭りとされ、本来のキリストの復活を祝う日ということが薄れてしまっているのが残念です。


 ある方から聖書に関する質問をされたことで、聖書の中に「希望」という単語がいくつあるか検索してみました。英語の聖書の検索ですと、180箇所*1ありました。聖書の中で文脈的に「希望」を含む文章は二種類に分けられると個人的に思います。一つは、人が主体の(もしくは神様抜きに人の視点における)希望と、もう一つは神様が主体もしくは、「主にあって」のように、神様にあっての希望とに分けられるのではないかと考察します。


 最近、ある若い作家の方が「押し」をテーマにした小説で、2021年芥川賞を受賞したというニュースを観ました。その作家は主人公が「押し」という応援する対象の存在に希望をおいて、辛い世の中でも生きていこうとする姿を描いたものだと語っていました。その「押し」という対象を多くの若い人たちは多かれ少なかれ持っていると。芸能人に限らず、その憧れの存在が彼らにとってアイドル(原語は”偶像”という意味もあり)になるのでしょう。その作家いわく、必ずしも「押し」の相手と直接触れ合ったり話したりという双方向性コミュニケーションの必要はないとのことでした。自分の中で満足し、完結していればそれにすがっていられて、それは逃避でもなく依存でないというのです。しかし、その片思い的なアイドルがどれだけその人を励まし続けられるのか、またいつまで、自己完結にすぎない思い、結局は逃避であるという虚しさから目を背け続けられるのでしょうか。それらの若い人たちが、中高年、高齢になったとき、別のアイドルをみつけて、明日に希望を持って、励まされて生きていけるのでしょうか。


  希望とは先のことについて、まだ目に見えない、不確実な事柄に関して、こうなってほしいとの願いであり、人は何かしらに希望をおいて、それを信じて生きていこうとするものです。聖書の文章の中で、「明日」と「希望」のセットで検索してみると、一つだけありました。それはコリントという町の信徒たち向けに書かれた、キリストの使徒パウロの手紙ですが*2、概略は 「人間のもつ希望だけで、危険を冒して何かをしたとしても、何の役にも立たないし、同様に、死人が(キリストが)よみがえられたという信仰がなかったのであれば、どうせ明日死ぬかもしれないのだったら、飲んで食べよう! という刹那的な生き方になるしかない、つまり希望がないとパウロは言っています。  私は、何かに生きがいをつくること、または人の思いの中での自己完結的なアイドルが、全て悪いことだとは思いませんが、それらはあくまでも一時的で、その人の生活や人生に確かな励ましや希望を与えるものだとは思いません。一方で、問題にたった一人で向き合い、自分の力で、自分の想いでなんとか解決しようと悩み、頑張り続けることにも限界があると思います。誰であっても、本当の神様の存在、私たちを創られ、大切に思って下さっている愛の神様がいるということを信じる信仰が必要だと思います。


  イースターには喜びと希望があります。なぜなら、上記で使徒パウロが言うように、クリスチャンはキリストが十字架に架かって死なれ、3日後によみがえられ、今も天国で生きておられることを信じているから、明日に希望が持てるのです。この復活を信じれなければ、自分の力を信じて、自分の設定したアイドルを励みするか、どうせ死ぬんだから今を楽しく生きよう的な人生かにならざるを得ません。復活を信じないのであれば、聖書に書かれていることは、ただの道徳的な教えとしてとらえるにすぎないでしょう。キリストが経験された十字架は、本当にむごたらしい苦難と死、そして天の父なる神様ととづっと一つであった子なるイエス様がその時だけ神様と断絶され、見捨てられた時でした。それは私の罪に対する神様の怒りを代わりに受けるために必要であった、神様の救いの計画でした。このイエス様の死が、死んで終わっただけであれば、そこに喜びはなく、申し訳ないで終わってしまいます。しかしそのキリストの十字架の死が、死で終わらず、死を克服された最初の方がイエス・キリストとなられました。そしてその復活がキリストだけでなく、信じる者にも将来起こるという約束が下記の聖書に記されてあり、そこに喜びと希望があります。

 生きていれば、仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、病気や災害等辛いことや問題は必ずあります。しかし、それでもなお、私たちはキリストにあって、希望をもって生き続けられることは本当に感謝です。クリスチャンは日々の思い煩い、心配ごとについて、目を背けたり、他のことでごまかしてその場その場を生きる生き方ではなく、神様が何とかしてくださる、神様に任せられるという信仰をもとに希望が持つ生き方をすることができるはずです。つまり問題を神様に祈って、助けて下さい、道を開いて下さい、導きを与えて下さいと日々祈ることが出来るのです。神様は天国に行けるという先のことだけに対する希望だけでなく、明日のこと、身近な日々の問題に対する希望を与えてくださいます。イースターの主イエス・キリストにある希望を、この時期だけでなく、いつも心に覚えていきたいと願っています。
 

 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」第一コリント15章19-21節
     
 *1 Bible Gateway. 検索 Hopeは旧約で97、新約で83箇所。NIV訳
 *2 第一コリント人への手紙15:23 ”If I fought wild beasts?in Ephesus?with no more than human hopes, what have I gained? If the dead are not raised,“Let us eat and drink, for tomorrow we die.” 日本語の聖書の訳では 「希望」が「動機」 と訳されています。
     (引用:口語訳聖書)
 

 

Mar. 21, 2021

 権利の主張

 

    権利。もともと権利という概念はどこから来たのか、ふと考えてみました。私は哲学者ではないし、知識もないので専門的なことは考えられません。単純に思ったことは、権利というのは例えば人の命や生活がないがしろにされている状態が生じ、それから人を守るために生まれた概念だと思います。ですから、もし生活している環境に何の脅かされる要因がなければ、生まれてこない発想ではないかと。権利の主張は、歴史的に人が人を虐げる、命を大切にしない社会の構造に対して、例えば政治家、雇用主、もしくは立場的に人を支配してしまう者に対抗する、法的な根拠として発達してきたのだと思います。一方、いざ権利が確立されると、今度はそれを乱用したり、必要以上に振りかざす者がでてくるという皮肉な状況も生まれます。全て、人の自己中心的な思いが根本にあるかもしれませんが、これが世の中というものでしょうか。


 神様は人や自然界を創造された時、全てが良かったと言われたと聖書に記されています*1。それが人の罪により、悪いものへと変わってしまい、人の集合体である世の中全体に及び、今日に至っています。もちろん、感謝なことに人にも自然にも全てが失われたわけではなく、良い部分も残っています。しかし初めに神様が創造された世界においては、人権の主張をする必要がない程、人間同士も、人間と自然との関係も調和していて平和だったのです。「互に愛し合いなさい」*2というイエス様が弟子達に言われたことばがあります。もし、これが出来ていれば、人を虐げたり、争ったり、妬んだりしないので、権利の主張をしなくとも平和に暮らせるのではないでしょうか。つまり権利とは、神様の存在を抜きにして、人間の力で暴力や虐待、争いから人を守るためのものと私は思うのです。


 クリスチャンにとって、人権の主張がいつのまにか、神様の創られたもともとの秩序や概念より優先してしまう、つまり人道主義(ヒューマニズム)、人間中心にとって代わってしまう場合があります。一方で、「聖書にこう書いてあるのだから、それはいけない!」と、他者を糾弾しがちでもあります。しかし、一体誰が、聖書の言葉を全ての状況へ正しく適用することが出来るのでしょうか。神様の想いに従って歩もうとすれば、他者を裁くべきではないと思います。裁くことができるお方は神様だけであり、私たちは相手を裁くのではなく愛する、これが神様の御心だからです。また、神様の愛は情け深く、憐み深い面だけでなく、厳しい面もあります。愛を持って相手に助言をすることは裁くことではないのですが、言い方やタイミングが難しく、言われた側は裁かれたと思うかもしれません。いずれの側にしても、感情的に捕らわれるのではなく、神様の視点からするとどうなのだろうと、冷静に自分自身をみ言葉と照らし合わせ、見つめ直す必要があると思います。人から何か指摘されると、自分のプライドは傷つくし、言い訳をするか相手に対して矛先を向けたりしがちです。しかし、そんなプライドなどなくなるべきだと思います。謙遜になって、指摘されたことを受け止め、神様が一人一人を大切にするように、私たちもお互いが尊敬できればと願います。これは、私にとって非常に耳が痛い言葉です。そうしたくても感情的に出来ていない事が多いので、プライドが砕かれて、低くなりたいと思います。


  今在る、不公平や不条理、差別、貧困は人間が作り出したものです。神様の視点からすると私たち人間は皆平等であり、神様はわけ隔てなく、ご自分が造られた大切な命として一人一人を見て下さっています。その愛の表れは、神様の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪全てに対する罰を負って死んでくださったことにあります。そして、死んで終わりではなく復活され今も生きておられる、そこに私たちの生きる希望が与えられるのです。私たち皆が神様から赦された者、愛されている者として自分の存在を受け止められた時、どんな状況にあっても相手を思いやることが可能になると思います。平和で良い関係を保つことは、人間の想いだけでは不可能でしょう。しかし、神様にあっては不可能はなく*3、この十字架の愛を信じ、神様の支配される国(領域)では可能であると私は信じます。たとえこの世的には正しいことと認められる事項であっても、もしくは、相手にも非があり、自分のプライドが傷つこうとも、神様の御心という視点ではどうなんだろう?と見極める力を与えてくださいと、祈っていこうと思わされます。


  「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15-17節
 

   *1 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった 」創世記1章31節
 *2 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書15章12節
 *3 「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章26節    (引用:口語訳聖書)
 

 

Mar. 13, 2021

 「あの事もこの事もしよう」

 

    首都圏に住んでいる両親たち、親族と一年近く会っていません。電話ではまめに連絡を取っていますが、やはり直接顔を見れないのは寂しいです。いつ頃なら安全に会えるか、なかなか見通しがつきません。こういう時は待つしかありませんし、仮に計画を立てたとしても、その時になったら実行できるかどうか、先行き不透明であります。これは個々人の生活においても、企業や団体の事業計画においても共通の抱えている課題でしょうし、いずれにしてもある程度計画は立てるものです。


 先日、茨城県の梅林を訪れました。私たちの住む場所は栃木県といっても茨城との県境ですので、気軽に車で行けるところです。この一年は観光地にはいかず、四季ごとに自然の美しさを楽しめる近隣の場所を探索してきましたが、この山沿いに広がる、満開の白とピンクの梅林は圧巻でした。平日なので人はまばらで、マスクをつけていてもほのかに梅の香りが漂い、水戸にある有名な偕楽園とはまた一味違い、山に咲く梅林がこれほどみごととは驚きと感動を覚えました。遠出や観光地へ行けなくとも、近隣で楽しめる場所に恵まれ、感謝であり、幸いだなと思います。


 「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」*1ドイツの宗教改革者ルターの言葉です。この言葉は今日の下記の聖書にみことばに記されている、信仰の一つの側面がベースになっていると思います。先のことを思い煩わず神様に全て委ね、いつも通りの日常を過ごせるという心構えは、神様から与えられる平安によるものでしょう。


  計画を立てること自体は必要なことですし、意味がないわけではありません。その計画の動機が問われます。イエス様は、「もっと儲けるために、先行投資していこう!」と自分の欲のために計画しても明日死んでしまったら意味がないという、愚かな金持ちのたとえ話をされました*2。つまり、計画を立てるとしても自分中心の人生設計ではなく、神様から一人一人に委ねられた人生、生活を探りながら、神様のみこころだったらこうしたらどうかなと、神様に祈りつつ神様中心の計画を立てることが、クリスチャンの考え方ではないかと思います。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。「そうか、違ったんだな。神様はもっと良い、最善の方向を用意しているのだろう」と、軌道修正すればいだけですから。


  中高年になるとあと、何年生きられるかと算定し、このことをやろう、あのこともしようと考える年になります。しかし、いくら健康診断をまめにし、生活習慣に気をつけた生活をしていても、病気になってしまい、計画していたことが実行できないという時もあるかもしれません。私は今元気に過ごせているのは、すべて自分の努力や計画ではなく、神様のみ心だと経験上も思えますので、あまり、気にしないように変えられました。そして、明日自分の命がなくなろうとも、それはそれでよしと。もちろん、もう少し生きたいとは正直思います。もう少し生きられるとしたら、夫婦で神様のために、キリストの愛と希望を伝える宣教活動をしたいというメインの目的のもと、プラスアルファで多くの人との出会いを大切にし、自然の美しさを楽しみつつ、小さなことにも感謝する生活を淡々と続けられればと。「悔いのないように、一生懸命生きなければ!」と気負うのではなく、もっと肩の力を抜いて、今日も神様の恵に感謝しつつ、いつも通り過ごそうと思います。
 

   「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。」 ヤコブの手紙4章14-15節
 

 *1”Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.” マルティン・ルター(ドイツの宗教改革者)1483年11月10日 - 1546年2月18日。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
 *2 ルカ12:13-21 「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。


 

Feb. 28, 2021

 たった一つの種の力

 

    有名な芸術家は必ずしも、彼らが生きている間に評価されているとは限りません。絵画や音楽等、その人が亡くなってから、後世に続く芸術作品として評価され、多くの人々に鑑賞され、影響を及ぼす場合もあります。きっと彼らは生きている間、「ああ、自分は才能がないのかな」と失望することもあったでしょうし、生活に困ったことあるでしょう。一方で「自分の表現したいものを表現したい」と、単に商業的に人受けるすものを制作するにとどまらず、自分の持っているものを固辞しているのではないかと思います。

   ジョージ・スミス氏という、宣教師としてアフリカのある地に赴きましたが、短期間しか滞在できず国外追放となり、自国に戻らざるを得なかったという人がいるそうです。彼はその限られた時間に、たった一人の方だけにキリストを宣べ伝え、彼を通してその人だけが信じました。その宣教師は、もしかしたら自分のミニストリ―は成果がない、結局神様の導きではなかったのかと、がっかりしたかもしれません。しかし、100年経ったあと、そのアフリカの地に13000人のクリスチャンがいて、彼らの信仰のもとをたどるとその宣教師につながったという話があります。つまり、神様の目には無駄なことは一つもなく、たった一つの蒔かれた種が木に成長し、多くの実を結ぶことが可能なように、時を経て、その成果が表れることがあります。ただ、その宣教師自身が生きている間は、その神様の業を知ることはできませんでした。

   私が米国フィラデルフィアに在住していた時、ホームステイでお世話になったジェニーという友人は、ご両親が日本で宣教師として数十年新潟の地で伝道活動をされていました。晩年になって御夫妻の証を聴いたことがありますが、日本での宣教活動の成果はほとんど得られず、非常に限られていたと。唯一目だったことをいえば、北朝鮮による拉致被害者家族の横田早紀江さんを信仰に導いたことだったと。その彼女が他の被害者家族とともに、日本政府だけにととどまらずアメリカに渡って、当時の大統領に、拉致問題解決のために嘆願しに行くほどの大きな働きをする人になるとは、宣教師夫妻は想像もつかなかったことでしょう。横田さんは「神がいるなら、なぜ、自分の娘は帰ってこないのか?なぜ長年祈ってもかなえられないのか」と、思われた時もあるかもしれません。しかし、横田さんは祈り続けたそうです。そして、その祈りの会は、数十年続き、昨年の11月200回になるとの、記事を読みました。*1

    信仰は、今目に見えないことにたいして神様にあって望みを持ち*2、祈り続け、働き続けるものであり、粘り強さ、忍耐が問われます。そして、一つの小さな種であっても、それはキリストの福音という大きな力を秘めている種であり、決して無駄に地におちることがなく、必ず神様の力が現れることを信じ続けようと思います。たとえ時間がかかっても、直接的な活動ができない時期が続いても、大きな成果をするにみられなくとも、全てを神様に委ね、神様に期待する信仰を持ちたいと願います。そして、たとい自分が生きている間には成果が見られないかもしれなくとも、小さな種を蒔き続け、天国にて、「ああ、こんなところで、実を結んでいるじゃないか!」と、共に喜べる日が来ることを期待する、そのような信仰を願い、祈り続けようと励まされます。

  「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」 第一1コリント人への手紙15章58節
 

 *1「横田早紀江さん支えた聖書と仲間 「祈り会」200回に」朝日新聞デジタル版、2020年11月14日 https://www.asahi.com/articles/ASNCG5SVRNC5UTIL04R.html
**2 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル人への手紙11章1節。


 

Feb. 21, 2021

 益子の意味

 

    益子という町の由来を調べてみました。徳川幕府時代の水戸藩家臣益子氏から来ているといわれ、名字としても茨城県、栃木県に多いそうです。なぜ調べてみようと思ったのは、今日の日曜礼拝にてある方が「”益子”っていう漢字を見て、ふと、思いついたんです。”神さまの益に仕える子”という意味で、神さまが益子に教会を置かれているんじゃないかと。自分自身もそのために、ここに呼ばれているように思いました。」と言われたからです。きっと神様は町の名前とご自分の信仰とがふと、結びつけられるという啓示をその方に示されたのでしょう。

   米国東部にフィラデルフィアという市があります。この街はアメリカ合衆国建国の父、ウイリアム・ペンが聖書の黙示録に記されるフィラデルフィア*1(ギリシャ語で”兄弟愛”という意味)にちなんで名前をつけたそうです。アメリカの建国にはこのペン氏のようなクリスチャンたちが関わり、ヨーロッパでの宗教的迫害を逃れて新天地を開拓し、イギリスから独立したという歴史があります。街を新しく建てようとする時に、その街が「こうありたい」という希望や願いが込められて名付けられることはよくあります。ペン氏は兄弟愛を持って、平和的な、争いのない、民主主義の自由な国を目指して、フィラデルフィアと名付けたのではと察します。私も、両親とともにフィラデルフィアにある日本人教会では、短い期間ですが信徒の方々に大変お世話になり、まさに兄弟愛を持って親しくさせて頂いたという思い出があります。このように、聖書に出てくる地名や人の名前が町の名前になったりすることを考えると、益子という、全く関係のなさそうなところに、聖書的な意味があてはめられるのも、その住民としては親しみが持てるものです。

   神様のみこころ、神さまの包括的な大きな計画にそったことは、神様の益であり、また私たちにとって益となります。ここでいう「益となる」とは、この世的なもうかる利益とか、自分に都合のよいご利益(りやく)とは異なります。私たちがこの世に生きている限り、損することのほうが多く、不当な扱いを受けたり、様々な困難、試練は必ずあり、キリストを信じているからといってこれらがなくなるわけではありません。しかし、信仰の中で試練をとらえる時、試練は私たちを神様により強く頼らせ、神様への信頼関係が深くなり、信仰が成長するチャンスでもあり、また耐えられないようなレベルの試練は与えられず、また試練の中らから脱出する道をも供えて下さるという約束が与えられています*2。また最終的には、全てのこと、良いことも、また悪いと思えることも合まって、益となるように変えて下さるというみことば*3により、私たちを励まれて前進できつことは、本当に幸いです。

    今置かれた場所で、神様の計画や願いに沿って、神様と人とに仕えたいと日々夫と共に祈り求めています。益子教会の第一のビジョンは、礼拝を第一にする教会で、たとえ人数が少なくとも礼拝を続け、そしてここに集まる人々がシンプルに神様のみことばを聞き、そして信仰が養われ、日常生活においてみことばに励まされて過ごしていこうと思える教会でありたいと願っています。そして、神様は同じ思いを持つ人々をこの益子教会に加えて下さることを信じていきたいと思います。これからも、大変なことはあると思いますし、自分の能力では乗り越えるのが不可能に思えるようなこともあるかと思いますが、神の御心であれば人には不可能でも神にあっては可能である*4というみことばにより、これからも一歩一歩進んで行きたいと感謝をもって励まされました。

  「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人へ手の手紙8:28
 

 *1黙示録 3:7-13
*2「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」第一コリント人への手紙10:13
*3「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人へ手の手紙8:28
*4 「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われることができるのですか』と尋ねると、イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』」。 ルカによる福音書第18章26-27節


 

Feb. 15, 2021

 梅の季節

 

     先日、近隣の公園に3KMのウォーキングコースがあり、休日にそこを歩いていた時のことです。季節は梅の花が咲き始めるころでした。その公園内の梅園では、まだほとんどが蕾でしたが、白や赤色の梅が少し咲き始めていました。世の中の状況がどうであっても、季節ごとに必ず芽を出し、蕾を膨らませ、花を咲かせていく自然の美しさを観る度に、これらを創られた神さまの業を思い、畏敬の念とともに感動を覚えます。私たちは自然の美しさを求めて、以前はよく日帰りで観光地へ出かけたものですが、最近は人混みをさける時勢であるので、代わりに近隣の普通の公園や、畑や田んぼの道、また小さな森の中トレッキングコーすなどに出かけています。そして、そこでもいつも素朴な自然の美しさを発見し、本当に幸いだと思います。

   イギリスの数学者、哲学者でノーベル賞を受賞したバートランド・ラッセル氏によると、「飽きることへの恐れは少なくとも人類の半分の罪の原因である」と言ったそうです。私は彼がどういう文脈でこのことばを記したのかは詳しくは知りませんが、一般の哲学者からみても、人がもっと、もっとと新しいこと、新しい刺激を追い求めるという欲は、良くない結果を引き起こすと観察していたのだと思います。一方で、人類の新しい技術を求める探求心、好奇心によって、人々の生活が豊かになり、芸術やスポーツ、文化活動は発展していきますし、これら自体は良い物です。しかし、”Curiosity killed the cat”(好奇心が強すぎると身を滅ぼすことになりかねないという英国のことわざ)という面もあります。また、社会が豊かになって、科学技術がどんなに進もうとも、すぐ飽きてしまってもっと他のものを欲しがる人の欲とそれに起因する犯罪、人間関係の悪化、戦争の勃発等は全く改善しておらず、かえってより複雑になり、悪化しているといってもよいでしょう。

   私はもともと、新しいもの、新しいことを追い求めてお金を使わない者で、夫も同様でした。人々はこれらの物に並んで高いお金をだして購入していますが、並んで買うバーゲン等には全く興味がありません。しかし、最初から物欲がなかったわけではありません。20代のころは、新しいスポーツや習い事にチャレンジしたり、旅行に行ったりしましたが、それらは全て一時的で、長く続きませんでした。これらはみな飽きてしまい、それ以上続けることに価値を見いだせなかったのです。結論はみな一時的楽しみであり、私の心の深いところを、継続的に満たすもの、価値のあるものはこの世にはないということでした。もしかしたら、つまらない人間とみなされるかもしれません。しかし、自分では日々とても充実していて、満足できるので幸いです。これは、イエス様を信じる信仰が与えられてから、今迄気がつかなかった神さまの与えて下さる恵みで喜ぶことができ、結果、かなりシンプルに物事をとらえるように変えられてきたのだと思います。

    自分を含めた人の言動を見ますと、感動する話もありますが、ニュース等、ほとんどが残念に思う、落胆することが多いです。しかし、神様がこの素晴らしい自然と人を目的をもって創られたこと、そして、人を大切に思い、命を永遠に続けてほしい、神と和解してほしいと願われて、神の御子イエス・キリストをこの世に送って下さったことを思うにつけ、感動します。なぜ神さまは、欲を追い求めてしまう、自己中心的な私たち人間に価値を見いだし、御子の命まで犠牲にして、忍耐して愛し続けてくれるのか。それも、良い行いをする人間のためだけでなく、全ての人のために。聖書に記されているみ言葉をとおして、このことを知るにつけ、ただ、感謝の思いで、賛美を捧げ、礼拝したいという思いが沸きあがります。
   
 下記の箇所は、古代ユダヤ人国家の王であるダビデの詩です。彼の人生は波乱万丈で、失敗もありましたが、生涯神様と共に歩み、そして神様は彼を愛されました。彼も、神様が創られた月と星の美しさを見て、このような大きな宇宙の中の小さな存在である自分を顧みて、守ってくださる神様に対して、驚きと感謝、そして畏敬の念を覚え、この詩をつづったのではないかと想像します。この詩を読んで思うのは、本当の変わらない神様の深い愛が、自分自身に向けられていることを知った時、今与えられているものや状況に満足し、不必要な欲、つまりむさぼる心は自ずと薄れていくのではないかと思わされます。神さまの恵が私の心の深いところをいつも満たして下さり、私の願いが、神様のみ心がなるようにと思えるように変えられていく、これは驚くべきこと、ワンダフルな神さまのなさる業の一つではないでしょうか。


 「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩編8篇3-4節

Feb. 3, 2021

 思いっきりゴスペルを歌う時間

 

    日曜の午後3時から、約45分くらいですが、ゴスペルを歌う集会を2020年の4月から益子教会では開催しています。30分くらいはCDの伴奏によって、ゴスペルを歌い続け、その後牧師のショートメッセージで終わります。私は、普段の礼拝では奏楽をしているため、ひきならがを歌えないので、人数が少ないので3密にもならず、距離をとってマスクをしながら楽しくゴスペルを歌っています。このように軽快なテンポで、ゴスペルを歌える機会は、本当に楽しい時間であり、感謝です。今後は、キーボードやギター、ベースなど伴奏が出来る人が参加してくれたらと願います。神さまがいつか送って下さると祈っています。

   古くから歌われるゴスペルソングで、私たちも時々い歌う曲で、「この日は」(“This is the day”)という歌があります。とてもシンプルな歌詞の繰り返しで、歌いやすい曲ですが、歌詞はとても意味深いものです。下記の聖書の詩編という書簡から引用されています。


この日は この日は
主が造られた 主が造られた
我らは喜ぼう、
この日をば この日をば


This is the day, this is the day.
That the Lord has made, that the Lord has made.
I will rejoice, I will rejoice,
And be glad in it, and be glad in it.         (“This is the day”より)

   この歌は、当時のユダヤ人がエルサレムにある都に礼拝に上って行くとき(巡礼の、都のぼりの時)に歌われていた詩編から引用されたものです。2千年前、イエス様ご自身も、過越しの祭りという時期に弟子達と最後の晩餐を共にされてゲッセマネの園に行く途中に歌われたと思われる一節であります。*1 イエス様は、この後宗教家たちに逮捕され、違法の裁判に架けられ、十字架刑に処せられるという、想像を絶する死と苦しみの直前にこの歌を歌われたことになります。そんな恐ろしい、とても喜べないような時に、「神さまが設けられたこの日を喜ぼう」と心底歌えたのでしょうか。ゲッセマネの園では、イエス様は血の汗を流しながら、苦しみ悶えて父なる神様に祈っておられたと聖書は記しています。しかし、祈りの最後には「あなたの御心が行われますように」と、神さまに全て委ね、十字架に向かわれました。イエス様にとってこの苦しみの日は死で終わるのではなく、神さまが計画されていた、人間を救うために必要だった大きな苦難の日で、その後にイエス様は復活されるということをご存じだったからこそ、恥と苦難を忍ばれて、神様が設けられた日を喜び楽しめたのではないかと思うのです。

    私たちの日々の生活も、いつも楽しいことばかりではありません。むしろ、心配や苦悩、骨折れる日々を過ごされている方のほうが多いと思います。ある人にとっては、特に悩みもない単調な日々かもしれません。それでも、一日一日を神さまに感謝して喜べたらと願います。イエス様も「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」*2と言われています。その根拠は、その前述の「神の国と神の義を求めなさい、そうすれば。。。与えられる」です。神様の支配される領域(国)と神様の基準の正義(義)を求めていれば、必要なものは与えられるから、心配することはない、明日のことは神様がなんとかしてくれるから、神様に委ねて、平安な心でいなさいと言って下さるのです。なんという励ましの約束でしょうか。今抱えている状況を無理に喜ぶのではなく、悲しい時には悲しみ、泣きつつ、同時にすでにイエス様が十字架で私のためにして下さった事を思い起こして、そのことを感謝出来ると思います。またイエス様がその苦しみを忍ばれたことを思い、自身も神さまの助けを求めつつ励まされて、日々歩んでまいりたいと思います。
   
 「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。 」詩編118編24節


 *1マタイによる福音書26章30、36節
*2 *2マタイによる福音書6章33-34節 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

Jan. 24, 2021

 会うのを楽しみにして

 

   先日、義理の兄が用事があって益子を訪ねてきてくれました。義理の兄とは一年ぶりに会いましたが、彼が益子に来るのは24-5年ぶりだとか。近くに住む、家族ぐるみの長い付き合いの友人宅にも一緒に立ち寄ることができ、四半世紀近く経っての再会をお互い喜んでいました。短い時間でしたが、やはり顔と顔を合わせて、またその人の家を訪問して様子を知ることができる機会は、今のようにいつでも自由に会えないという状況下において貴重なことです。

   ある人と会いたい、いつか会える・・・と想うことは、普段の生活をする上でも励みになったり、楽しみであります。私の短い人生の中で、日本とアメリカとを行き来していて、多くの友人が与えられ、お世話になりました。それらすべての人と会う機会がなかなかないかもしれませんし、まめに連絡をとり続けるというのも、難しいものです。しようと思えばネットの普及でPCやスマホ越しに、コミュニケーションを取れるのですが、正直私は、多くの人といつも連絡を取り合うまめさがないのです。しかし、連絡を頂ければ返し、思い出してはその人のためにお祈りをしています。

   先日、朝に聖書とともに読む本を読んでいると、ヒットすることばがありました。

   「キリスト教徒は、突き詰めれば、「イエスというお方の姿を見たい」という望みと、そのための努力にほかなりません。」*1

   私は正確に全ての他の宗教を把握していませんが、おそらく他の宗教において、神様に会うのを楽しみにして生きている、それが人生の動機や言動力となるという宗教はあまりないと思います。神さまや仏さまは、「今」の自分や家族を守り、願いを叶えてくれる存在であり、それさえしてくれれば特に会いたいとも思わないでしょうし、せいぜい、人が造った仏像等の像を拝見して、あらたかだ、素晴らしいと思う機会はあって、それを楽しみにする人はいるかもしれません。しかし、目に見えない神に会えるのを楽しみにし、希望を持って、今生きている生活を続けていこうと励まされるのは、イエス・キリストを神と信じているキリスト教だけではないかと思います。
 

   なぜそんな望みを持てるのでしょうか?私にとっては、キリストが私の為にすでにして下さったこと、また今もこれから先のことに対して、その恵みに感謝し、感謝し尽くすことができない程だから、というのが理由です。すでにして下さったこととは、キリストが私に命を与えるために、十字架に架かってくださったこと、そして私は全ての縛りや罪の支配から解放され、赦されて、天の父なる神様より、子としての全ての特権を与えられていることです。そして今もこれから先のこととは、私が生きている上で、聖霊が内に住み、弱い、欠けのある私をやさしく導き、守り、どんな困難に会おうとも、この体が滅びようとも、いつか天でイエス様に会えるという希望により、平安でいられることです。試練・患難はあります。あると聖書にも書いてありますし*2、どの人でも試練のない人生はないと思います。しかし、キリスト者は、キリストにあってその試練を乗り越えられる、神様がなんとかしてくれると委ねられます。不安の念に襲われたり、仕方がないと投げやりなることもなく、困難に向き合って歩む力があたえられるというのは、本当に恵みです。

 

   このキリストを信じる信仰を持ち続けられるよう、日々導き、そしていつか完成して下さるイエス様にいつかお会いできるという思いをもって、人生の行程を走り続けていきたいと願い求めていきたいと思います。
 
 「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 」ヘブル人への手紙12章2節 (口語訳聖書)


  *1「ひと時の黙想 主と歩む365日」 1月17日 主イエスを見つめる より、  マックス・ルケード著 日本聖書協会 発行・翻訳
*2 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。


Jan. 7, 2021

 望郷の想い

 

   2021年がスタートし、はやくも一週間が経とうとしています。夫と結婚してから毎朝二人でしていることは、聖書を読み、そのことについて自分たちが示されたことを短く分かち合い、祈ってから一日を始めています。どの聖書の箇所を読むかは、年ごとに毎日読む箇所(大概、短い文章)が記されている本、いわゆる「日々のみことば」の類のもので、いわゆるデボーション用の本でネットでも多く見られますが、それにそっています。今年の1月1日の箇所は、「私たちの国籍は天にあります。」ピリピ人への手紙3章20節でした。

   普段の生活で、あまり自分の国籍というものを意識することはないかもしれません。私は海外に住んでいた時は、自分がエイリアン(異邦人)であることをひしひしと感じていました。その国民であることによって受けられるサービスや恩恵を受けられ、自由に自分の想いを表現できる言語を使いこなせる土地に住む事ができるのは幸いだなと、日本に帰国して実感いたします。また自分のアイデンティティを確認する時に、自分は日本人だということを考えるのではないでしょうか。在米の私の日本人の友人たちでアメリカでの人生が長い人は、アメリカ国籍を取得している人もいました。つまり、日本人であっても、国籍はアメリカとなります。

   一方で、海外在住が長くとも、日本にいつかは帰りたいという思いがあり、日本国籍のまま働き、生活している方々もいます。いずれにしても、最終的に帰りたい、何かあれば帰れるところであるという安心感を持てる、そのような故郷が日本にあると思います。また、日本国内でも地方から都会に出てきている人々には、故郷という場所は家族がそこに居る限り、何かあったら帰れるという場所であり、都会での生活が大変であっても、その故郷のことを思って頑張ろう!と励まされる人もいると思います。

   クリスチャンにとって、この世での生活は仮住まい(寄留者の生活)であり、いつか天の故郷へ行けるという望郷の思いが与えられていることは幸いです。なぜなら、この世の生活では嬉しいこと楽しいことばかりではなく、むしろ困難なことの連続かもしれないからです。若い時はその時なりに、学校や会社で人間関係に悩み、年を重ねると、以前のように活動できなくなったり、病気になったりと、いつも順調には人生進みません。しかし、どんな時でも、「ああこれで終わりか、もう踏ん張れない、、」という思いではなく、「そうだ、最終的には天国という故郷が用意されている、今は神さまに全てお任せしよう!」と信じられる信仰が与えられると、それが生きる上での支えになり、前向きに困難にとりくめる力が神さまから与えられます。

      下記のように聖書のヘブル人への手紙に記されています。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」へブライ人への手紙13章13-16節

   天の故郷を待ち望みつつ、今、特定の国や人ではなく、全ての人が大変な困難を通っているという時代において、このことを覚え、日々励まされ歩んでいきたいと念頭から励まされました。

 
 
 「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」 ピリピ人への手紙3章20節 (口語訳聖書)

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