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Praise the Lord
日々の聖書のことばより 分かち合い

 大下 陽子






   

2022 新しい年における望み 土壌のたとえ キリストにある自由 一人より二人、二人より三人
ウクライナの平和のために 解放の年:ヨベルの年 ウクライナ支援のバザー 自然そのものではなく、自然を創られた方へ
邦画「マイ・ダディ」を観て 30年ぶりの再会 時間の表現:永遠 カニの看板が壊されても愛は建てあがる
収穫を期待する いつまでも残るもの 親子ゴスペルクラブ始めます! リトミック教室見学
アメージング グレース 生まれつき目の見えない人の癒し なぜ軽井沢? 心が折れても、主にあって喜ぶ
信頼される喜び
2023 普段の生活の中での神様との対話 台湾のために祈る 誰のために 悲しみの果てに寝る
アイデンティティ イースターエッグ 約束を守る 親子関係
マンホールの修理 枝につながる 天国の前味わい 目に見えないけれど、今そこにいる
いつ呼び求めても近くにいるお方 ハレルヤ 医師 中村哲さんのドキュメンタリー映画を観て 親切の動機
みことばは わたしの歩みを照らす灯 ハープによる祈り 信じる者は幸い *
Dec. 16, 2023

 信じる者は幸い



  クリスマスの季節、改めて聖書を読んで気づかされたことがあります。「あなたはみごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」と天使のお告げを受けたマリアは、すぐに親類のエリザベトの家に出かけました。高齢で不妊であったエリサベトが、神様の奇跡で妊娠したということを聞いたからでしょう。マリアは予告なしに、エリサベトを訪問したわけですが、彼女はマリアから「おばさん、こんにちは!」(予想です)と挨拶を聞いた時、胎内の子が喜んで躍ったことを感じ、マリアが救い主イエス様を胎内に宿していることを聞く前に、「主のお母さまが来られるとは!」とマリアに与えられた恵を知っていったとは、驚くべきことだと思わされました。エリザベトはマリアに起こっていることを聖霊によって知らされて「わかってしまった」わけです。救い主イエス様が生まれることの喜びが、聖霊により、胎内にいる赤ちゃんにも、エリサベトにも伝えられたとは、不思議なことです。しかもマリアが「お言葉通りこの身になりますように」(ルカ1・38)とみ使いに言ったことも、マリアが何もいわなくともエリザベトはわかって、「主なる神様が『こうなる』と言われたことを疑わずに実現すると信じたあなたは幸いだわ!」と感極まってマリアに言ったのでしょう(ルカ1・45)。


  私たちも御言葉を通して、神様の約束は必ず実現すると信じる信仰が与えられているので、実は同じように幸いなのです。その約束は、主イエス・キリストを信じれば救われ、永遠の命が与えられるということ(ヨハネ3・16)、また信じると聖霊が与えられ(ヨハネ14・16)、上記のエリサベトのように理性や知識を超えた方法で、聖霊により示される(ヨハネ14・26)ということです。つまり個人的に神様から啓示されたことを、頭の知識としてではなく、自分の身に及ぶ(信じられる)ということを体験することができます。


  また、この信仰により地上の生活が、困難であっても、いつか再びイエス様が来られ、完全なものが来るという希望が与えられ、励まされてこの世を生きていくことができます。この希望がクリスマスの喜びでもあります。クリスマスは、神様が神の子であるイエス様をこの世に人として送った出来事であり、その命を十字架上で犠牲にするほどに、神様が私たちを愛してくださっていることを表しています。その愛を受け取ると信仰が与えられ、希望が与えられるからです。そして神様とイエス様との霊の交わりに、与えられた聖霊によって私たちをも招いて下さります。この愛の中に、感謝と喜びを持って日々歩んで参りたいと思います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント一13・13)。



  「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」 ルカによる福音書1章45節  (新共同訳聖書)




Nov. 25, 2023

 ハープによる祈り


 「俺もすてたもんじゃないな、と思えた。」

 これはあるホームレスの方が、ハープによる演奏と歌を聴いて、その感想を後から手紙でつづった中の一言です。彼は、おそらく生きることになんらかの絶望感を抱き、社会生活から身を引いて路上生活をされていたのだと思います。そんな彼が、たまたま山谷にある施設でのハープの演奏の会に飛び入りで参加し、心が癒されたのではないかと察します。


 先日、リラ・プレカリア(祈りのたて琴)といって、病床にある方や、精神的な痛みを抱えている人のもとに訪問して、ハープの演奏と祈りを届ける活動をしている方の講演を聞きました。ハープの音色を聴くだけでも素晴らしかったのですが、演奏者の方々はラテン語の歌を歌います。それはあえて歌詞を理解できない曲を用いる、つまり思い出のある歌等を用いず、心を解放するためになじみのないケルト系の子守歌、テ-ゼ、グレゴリオ聖歌を、利用者の呼吸に合わせて歌を奏でるそうです。つまり、音楽を導くのは利用者自身だそうで、相手に合わせてハープを奏で、歌を歌い、沈黙の時間も持たれるそうです。その利用者に与える影響は、深く、大きく、そして静かにその人の魂の深いところに、言葉を超えた方法で届くそうです。


 古代のイスラエルの王であったダビデは竪琴の奏者であり、シンガーソングライターでした。彼の歌は詩編という聖書の書簡にたくさん記されています。私たちは詩編を読み、その詩を神様への祈りとしてとらえることが出来ます。その内容は、悲しみ、怒り、恐れなども含み、正直な感情や思いを神様に訴えていますが、どんな状況にあっても助けて下さる神様への信頼、感謝が含まれています。人生に絶望的になっている方、心の病気で苦しんでいる方、身体の疼痛で苦しむ方がこのハープを聞いて癒されるのと同じように、私たちも聖書の言葉を読み、聞き、そして賛美の歌を歌うことで生活の様々な局面で、励まされ、助けが与えられ、そして慰められます。聖書のことばは、私たちの生きる力となります。そして、聖書の言葉を深く理解し、自分への言葉として受け止めるには、神様の霊(聖霊)が必要です。


 この路上生活者の方は、それが直接の聖書のことばではなくとも、演奏者が祈りをもって届ける音楽を通して、神様の霊が彼の心に触れたからこそ、人生を捨てて生きる以外の、自分の道があると悟ったのではないでしょうか。神様が愛するために造られた人間を、神様は決して見捨てられません。私はハープは弾けませんが、神様の御言葉を機会があるごとに、一人一人に届けていきたいと願います。


 「【指揮者によって。伴奏付き。ダビデの詩。】
 神よ、わたしの叫びを聞き  わたしの祈りに耳を傾けてください。
 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。
 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。
 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。
 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます」
 詩編61編1-5節 (新共同訳聖書)





Oct. 30, 2023

 みことばは わたしの歩みを照らす灯


 真っ暗な道、もしくは停電になって暗闇になった時、懐中電灯やロウソクの光が必要です。

 下記は、神様のみ言葉はわたしの道の光であり、歩みを照らす灯だという詩編です。灯とはいわゆる現代でいる懐中電灯のような、ランプの小さな光です。それは自動車のヘッドライトのようではなく、また道路の高いところにあるライトのように先まで照らす光ではありません。真っ暗な道を一歩一歩、歩んでいくとき、その足元を照らす光です。懐中電灯では遠くの先までは見えないけれども、その光があれば、とりあえず安全に歩いていけます。そうして、少しづつ進んでいくと見えない物が見えてきます。

 神様の計画も同様ではないでしょうか。私たちは明日のことや 来年がどうなるかがわからなくとも、今日という日に 日々の食べ物が与えられ、守られる、他者と争わずにお互い赦し合う、そのような生活がみ言葉の光によって可能となります。そこには、神様にお任せするという信頼が必要となります。もし不安な気持ちになれば、信頼できるように「信仰を増し加えて下さい」と祈れば必ず恵みとして増し加えてくださいます。そしてその信仰があれば、この先どうなるのかなと不安になることはなく、落ち着いて日々暮らせます。神様の示す道は、少しづづなのです。一遍に一週間分、一か月分を詳細を示されません。信仰によって歩むとは、このようにすべてわからなくとも、神様に信頼して、今わかることで平安に前進していくことでしょう。

 私たちの信仰は単に、自分が健康で、守られ、すべてが自分の思い通りにうまくゆくことを保証する神様を信じていることではありません。私たちの罪を贖うため十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストの父である神様を信じています。それ程までにして、私たちを愛してくださる神様に対する信頼をもとに、たとえ目に見えなくとも 目に見える聖書のみことばを通して、私たちの歩みを一歩一歩確実に導いてくださると信じることができます。

 日々、様々なことが起こり、その度に心が揺さぶられ、疲れてしまうこともあります。体調が悪いと思うようにことが進まず、焦る気持ちばかりが募ることも正直あります。しかし、日々聖書の御言葉に触れると、私の内に住む聖霊が、私が忘れている神様からの恵みを思い起こしてくれて、何が一番大切なのかといつも初心に戻されます。そしてどんなことでも祈り続け、また他の方々にも祈っていただくので、互いに祈りあえることが本当に励ましであります。私が歩む道をみ言葉によって照らして頂き、日々与えられている恵を感謝しつつ、主イエス様と共に歩んでいきたいと思います。


 「あなたのみ言葉は わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」 詩編119編105節 (引用 新共同訳聖書)





Sep. 24, 2023

 親切の動機


  私の両親がアメリカに住んでいた時、車を誤って中央分離帯に乗り上げ動けなくなってしまったことがあったそうです。このアジア人の老夫婦が右往左往していた時、見ず知らずのアメリカ人の若い人たちが車を止めて、車を持ち上げて助けてくれました。お礼をしたいといっても、「いいですよ」と笑顔で去っていったそうです。私もNYCに住んでいた時、ベビーカーと母親が駅の階段の下にいるのを見た、通りがかりの男性の若者が(エレベーターがない駅でした)、「手伝いますよ」と階段の上までベビーカーを運ぶという行動を何度か目にし、やさしいなあと感心したものです。昨今では日本でも親子に対する配慮が公共設備として供えられていますし、このような親切な人がたくさんいるかもしれませんが、今私が公共機関を利用しない生活のため、出会わないのかもしれません。


 このように自分自身が人の助けを必要としたときに、助けられると本当に感謝でいっぱいになります。私は見ず知らずの人、または良く知っている人から何か良くしていただくと、その相手に対する感謝と同時に「主よ、感謝します!」といつも祈りを捧げます。なぜなら、神様が今ここに、その人を送って下さったと確信しているからです。つまり神様は様々な助け、親切を目に見える人を通して私たちに与えてくださっています。ところが、自分は受けるばかりで、他者のために何かをすることを積極的にしていないと、気づかされるのです。


 自分が受けるばかりでなく、もっと積極的に小さな親切ができれば、イエス様の愛を実践できるのにと普段できていない自分に反省させられます。上記の聖書の箇所は、イエス様が言われた言葉です。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエス様の言葉ともリンクしているように思います。そして、その思いやりの動機が、単にイエス様の命令だからではなく、心から大変そうだな、かわいそうにという思いに突き動かされ、手を差し伸べられたらと願います。そして、それをした時「主イエスが喜ばれている」のを感じられれば、その喜びを動機として出来るのではないかと思わされました。何かしたかのような自己満足でするのではなく、自身がその時、その場所に遣わされて神様の愛を運ぶ器とされていることを喜び、主イエスも共に喜んでいることを感じたいと。忙しくて他者のことを考える心の余裕がない時、聖霊に促されて相手に声をかける、その優しさを職場でも家でも、教会の生活でも心がけるようしていきたいと願います。


 「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 マタイによる福音書7章 (引用 新共同訳聖書)






Sep. 6, 2023

 医師 中村哲さんのドキュメンタリー映画を観て


  先日、益子のいくつかの地域の会主催で「荒野に希望の灯をともす」という医師 中村哲さんのドキュメンタリー映画が上映されました。中村さんはアフガニスタンとパキスタンで35年以上にわたり、現地の人々の医療に関わり、また戦乱と干ばつが続く地域に現地の人々と共に井戸を掘り、川から用水路を建設し、人々が農業で生活が出来るように働いた方です。想像を絶する試行錯誤の繰り返しと、実現したときの地域の人々との喜び、これらの資金を募るための日本での講演活動、そして彼の次男の病と死、彼の凄まじい人生がこの映画に詰め込まれていました。彼のこれらの行動の根底にある思いは「平和の実現」ではないかと思わされました。映画には出てきませんが彼はクリスチャンでしたので教会でも公演活動をし、多くの方々が日本から彼の活動を支援していました(ペシャワール会)。中村さんはクリスチャンであっても現地の人々の宗教・文化・教育のためにイスラム教のモスク建てました。ふと、欧米の宣教師が同じことをしようとして公共事業、教育事業を現地に投入したら、キリスト教の教会を立てたのではないかと思いました。おそらく彼は一人の人間として、宗教を超えて苦しんでいる人々のために尽力されたのではないかと察し、それはインドでのマザー・テレサの働きが思い起こされます。


  だれでも平和を願います。しかし、ある人は人の命を犠牲にして、自分の利益を求めます。大概が権力やお金がある人々が利害の衝突で戦争を起こし、武器が必要なので武器を作り、それを売るためにまた戦争を起こすという繰り返しです。このような世界的・構造的問題に私のような小市民が声を上げても、大海の一滴なのかと悲観的になることもあるでしょう。しかし、私はキリストを信じる者として、キリストの言葉を信じ、キリストがもたらす平和を信じて祈り続けたいと思います。


  私は人間同士の平和の前に、自分自身と神様との平和があるかを問題にします。私たち人間は生まれながら、人間を創造された神様と戦争状態、神様に敵対している者だからです。つまり神様の存在を否定し、誰も教えなくとも自分中心に生き、他の神々を神とする、あるいは自分自身が神かのように傲慢にふるまう人もいるかもしれません。そんな状態から救うために、神様は御子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。彼によって、キリストを信じる人と神様との間に和解がもたらされ、平和を得られるためです。目に見えない神様との平和を持つ人は、目に見える人間との平和を持とうと導かれるでしょう。たとえ利害関係があっても、キリストの愛に倣い、謙遜に話し合いで解決しようとする、歩み寄ろうとすることが信仰者には求められるからです。自分自身は自己中心的なものですから、日々神様に悔い改め、自分の周りの人々との平和を願っていきたいと思います。小さな集団の中での平和も広がっていけば、いつか大きな平和につながっていくことを信じていきたいと思います。


 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ローマ信徒への手紙5章1節   (引用 新共同訳聖書)




Aug. 20, 2023

 ハレルヤ♪


   8月11日の祝日に、私の夫が牧師である益子教会ではゴスペルコンサートを開催しました。オリオリというゴスペルクワイアーのグループ(15名)を招き、当日は多くの方が参加されて狭い会堂がいっぱいとなり、観客とクワイアーの人たちが一体となって非常に盛り上がりました。このグループは音楽を愛し、歌を歌うことの喜びを体全体で表現されていて、ゴスペルの曲だけでなく、その他のジャンルも素敵なハーモニーで歌ってくださり、とても楽しいコンサートとなりました。やはり一番盛り上がったのはヘンデルの「ハレルヤ」でした。この歌を聞くと、若い時にクリスマス礼拝で歌うために、教会でのコーラスの練習を一生懸命したことを思い出します。あの時は無我夢中で歌っていましたので、歌詞に思いを込めて賛美する余裕がなかったのですが、歌い終わった時の達成感はあったことは覚えています。次回コーラスの機会があったら、歌詞の内容の一つ一つに思いを込めて、賛美できればと願います。


  「ハレルヤ」とは、「主を賛美せよ」という意味で「主」とは神様のことです。ゴスペルは讃美歌ですので、「神様はなんて素晴らしい」ということを歌っており、欧米では教会のクワイアーで歌われるのが主流です。日本では、教会のクワイアー以外で、ゴスペルは歌のジャンルとして扱われ、教会外のグループでクリスチャンではない人たちが習って、歌を楽しんでおられます。ゴスペルの歌詞は詩編という聖書の書簡からたくさんその歌詞が使われています。詩編は、主に礼拝の中で歌われてきましたが、個人の祈りとしても使われてきたそうです。その内容も神への賛美だけでなく、神への語りかけ、嘆き、嘆願だったりします。嘆きの詩編であっても、最後の部分は神への感謝、賛美で締めくくられている詩編がほとんどです。つまり、困難な状況の中で、神へ助けを求める詩で始まり、最後には神が助けて下さるという、信頼の表明、信仰告白が盛り込まれています*1。


  たとえキリストを信じる信仰を持っていなくとも、その人がゴスペルの意味を意識するしないに関わらず、神様をほめ称えているのは、素晴らしいと思います。信仰を持って礼拝の中で賛美し、また日常生活の中で賛美を口ずさみ、神様への感謝の思いを込め、喜びを持ってゴスペルを歌えることはもっと幸いです。ゴスペルは、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です*2。つまり、神様がどんな状況からも救ってくださること、神様の人間に対する深い愛を示し、その主の慈しみ深さを経験した者は神様に対して感謝を賛美として捧げるのです(ゴスペルとは「福音」、「よい知らせ」という意味)。良い知らせの内容は、主イエス・キリストを通しての救いと希望です。どんな形であれ、日本にもっとゴスペル(福音)が歌われて、広がっていき、いつかその内容に興味を持ち、神様の祝福を受けとる人が増やされるよう願っていきたいと思います。

 「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の詩をうたえ。」 詩編149:1


 *1  W.H.シュミット、木幡藤子 訳、『旧約聖書入門下』、教文館、2003年、p202-210 参照。
 *2 ローマ信徒への手紙1:16



Aug. 13, 2023

 いつ呼び求めても近くにいるお方


  今年は日本全国で4年ぶりに開催されているお祭りや花火大会のことがニュースで報じられています。先月益子の町でもおみこしがだされ、太鼓の音が夜遅くまでにぎやかに響き、多くの人がお祭りに参加していました。お祭りと宗教は深い関係があり、昔からなされてきている地域の行事であります。人が神を拝むとき目に見える像が必要となります。なぜなら、目に見えないものを信じるのは難しく、御神体というように神が宿っているとされる木、鳥居、キツネの像、仏教であれば仏像と、目に見える何かを作って拝み、願い事をするものです。日本はいたるところに八百万の神々が溢れていますが、世界の歴史をみても、古代からほとんどの宗教は目に見える形・像を作って神とし、もしくは太陽、月、星を神として拝んできました。


  キリスト教の神様は目に見えません。神様は特定の人に現れて、メッセージを伝えますが、声だけで、もしくは夢や幻のなかで声が語られ、誰も神様の姿を見た人がいないと聖書にしるされています。キリスト教の前身であるユダヤ教は、神様がある日アブラハムという人物を約4100年前に呼び、彼の子孫から一つの民族:イスラエル民族を起こし、祝福することを約束されました。そして、神様はそのイスラエルの民族(ユダヤ人)から、全ての人々の救い主となる方を送り、ユダヤ人だけでなく救い主を信じるすべての民族が神様の祝福を受けるようになるとアブラハムと約束をされました。その救い主が、神でありながら人間としてユダヤ人から生まれて、この世にこられた神の子イエス・キリストです。


  私たちが信じている神様は、下記の聖書箇所にあるように「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」です。教会や神殿という特定の場所で礼拝しなければならない神様でもなく、お参りにいったり、祈祷師にお金を払ったり、お賽銭や献金をしてお祈りしてもらわないとお願いができないような神々ではありません。私たちの信じている神様は、人間を含めたこの世界を創造された唯一の真の神である、イエス・キリストの父なる神であり、そのキリストによって私たちも神様の子供とされ、「父なる神様」と親しく呼びかけ、個人的に直接お祈りできる神様であります。また、キリストを信じる信仰により、わたしたちはキリストのものとなるので、神様がアブラハムに対して約束されたことが、わたしたちにもあてはまり、信仰によりアブラハムの子孫であり、約束による相続人となると使徒パウロは記しています*1。また、このことを確証させてくれるのが、信じる者に与えられる聖霊であり、約束された御国(天国)を相続するための保証である*2とパウロはエフェソ信徒への手紙で記しています。


  この聖霊によって神様が近くにいると信じられます。365日いつ呼び求めても、聞いて下さり、イエス様がともにいて下さる(インマヌエル)*3ことを信じ、様々な困難があっても、安心して直接お祈りし委ねることができるのは幸いです。日常生活でこの神様から与えられている祝福を忘れがちですが、このことを覚え、主に感謝しつつ今週もキリストと共に歩んでいきた いと願います。

  「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。」 申命記4:7


 *1「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:26-29)

 *2「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」エフェソ1:13-14

 *3 インマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味 マタイによる福音書1:23

July 15, 2023

 目に見えないけれど、今そこにいる


 私は今年の4月から7月まで、東京で週一回、夫の母校で神学基礎講座を受講しました。通学には栃木から東京へ片道3時間以上かかるため、それもフルタイムの仕事をしつつ難しいと思っていましたが、ふと、週一度夜なら、という思いに奮い起こされ、体を壊すことなく続けられたのは、神様の恵みだと感謝しています。そして、夜中に車で迎えにきてくれたりと協力してくれた夫に感謝したいと思います。クラスで神学生・聴講生の方々と共に学べたことが貴重な経験でした。これから先も更に学びつつ、キリストの福音を伝えていきたいと願います。 たくさんのことを凝縮して学び、課題も多く消化しきれていませんが、そのなかで、「自分が信じている神様はどういうお方なのか」ということの一つに、「目に見えないけれどもいつも一緒におられる神様」であることに深い理解が与えられる機会ともなりました。


 今まで、礼拝や、祈り・賛美の集会等、教会には様々な集会に参加してきましたが、私はこれらすべてに主イエス様がそこにいて下さるということをいつも認識していたかどうかと、自分に問われたのです。教会はキリストを信じる人の集合体ですから、キリストの名のもとに集まるのが前提なのですが、それにも関わらず何か他のことに気を取られ、心が落ち着かずにこれらの集会に参加していた時はないだろうかと。イエス様はその人としての誕生の時から、「インマヌエル」(神は我々とともにおられるという意味)と呼ばれ、そして、私たちの罪を償うために十字架にかかって死なれました。そして、復活して弟子たちの前に現れた時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われて、天国へ戻られました。つまりイエス様は、今は天国におられても、同時に、地球上のあらゆる集会の中に「いる」ことが可能な、目に見えない、想像を超える神様であります。


 私たちは目に見えるものしか認識できないし、理解できないため、目に見えないものを信じることに困難を覚えます。しかし、信仰が与えられると目に見えないキリストが「今、そこにいる」ことを信仰で受け止められるのは幸いです。またイエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちに「父は、弁護者(聖霊のこと)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。・・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」*1と約束されました。この聖霊も見えませんが、信じる者の内側に住み、私たちの信仰を強め、励まし、目に見えない主イエス様の臨在を感じ、信じられるように助けてくださいます。


  さらに、「わたし」がこの地上にいながら、イエス様にあって共に「今」天にもいるという面があるということを、イエス様は言っておられます。「こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」*2、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」*3。わたしたちは、自分が天にイエス様と共に神様の御前に今いることを見ることができないので、そのイメージがわかないかもしれません。しかし、見えないだけで今もこの状況はおきていて、同時に将来天にいるということが顕れることを待ち望むという面があります。これは個人という捉え方より、教会という集合体の一部として、つまりキリストが教会の頭であり、私たちがその体であるという表現がパウロによってなされているように、キリストの体の一部であるから、キリストがおられるところに自分も実はいるのだと、信仰で認識することが可能でしょう。ある牧師の方が、このことを若い時代に信仰問答*4を通して知り驚いたと話されていましたが、私も驚いています。そうだったのか!と。私は、いつも主と共にいるということをもっとリアリティーを持って、信じていきたいと思わされました。私の日常生活のすべてのことにおいて、キリストの臨在を意識し、神様の御心が何か、何を今をすべきか、何を言うことが言わないことがよいのかを聖霊が助け導いてくださることを体験できるように願い、主イエス様が困難な状況でも共に歩んで下さっていることを信じ、大きな励ましと慰めが与えられることを神様に感謝したいと思います。


 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

 *1 ヨハネによる福音書14:16-7
 *2 ヨハネによる福音書14:2-3 「行って、あながたたのために場所を用意したら、戻ってき、あなたがたをわたしのもとに迎える、こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
 1*3 ヨハネによる福音書17:24
 *4 ハイデルベルク信仰問答 問49 参照

July 4, 2023

 天国の前味わい


 
先日、益子教会で月一回の親子ゴスペル教室が開催された時、日本に宣教のため在住しているアメリカ人家族とアジア学院の学生(インドの方々)が参加してくれました。そのため、その日は英語の曲がメインでしたが、その一つは、「Hallelujah、Salvation and Glory」という曲を3パートに分かれてハーモニーで歌いました。すると、歌っている皆が一つになって、会堂が揺れ動くような、非常に力ある賛美となり、喜びにあふれて久しぶりに感動しました。賛美を歌うことでこれほど気持ちが高揚し、「神様が素晴らしい」という歌詞をゴスペルの曲調に乗せて高らかに歌うことができ、ああ、天国での礼拝、賛美(黙示録4章)はもしかしたらこんな感じなのかしらと、ふと思わされました。


 これは一時の感覚的なものと言われればそれまでですが、天国はどういうところなのかを考える助けになる体験です。天国というのは将来でなければ存在しないもの、現在においては経験出来ないものと思いがちです。つまり、それはこの体が死んでから行く場所であり、今現在は関係ないところであるとしがちで、聖書に天国がどうであるか詳しく記されていないのもあってイメージが難しい事柄です。イエス様は天の国は祝宴、婚礼の宴会として譬えで表現されていますが、また黙示録では荘厳なる都、新しいエルサレムとして描かれています。またイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるとも言われましたし*1、人間が将来与えられる「復活した体」については、もはや婚姻関係もない、つまりこの世の人間関係はなく、皆が「天使のようになる」と言われています*2。これは死んだら天使になるという意味ではなく、「のように」という類比表現であり、また時間的な空間的な制限のない体、天国で生きられる体であろうとイメージすることができます。


 目に見えないキリストが私たちと共にいて下さるということは、この地上でだけでなく、天の国でも共にいる状態(それが完全になるのは将来ですが)であることを信じていきたいと願います。聖霊の働きにより心に平安を与えられ、この世の生活にあっても、天の国のことを考え、天の国を部分的でもこの世で味わえる、先取りできる行為につながればと願います。その行為の一つには礼拝であり、兄弟が互いに愛し合うということでしょう。天国での礼拝にちかいものを、普段の礼拝で少しでも神様に捧げられるように、リアリティを持ちたいと願います。すると、それが日常生活の、現実の厳しい局面、困難な状況になった時の励ましとなり、忍耐が与えられるからです。


 何事も忍耐するには希望が必要です。その希望とは、天の国における希望であり、それは「将来」だけでなく、「今」も、私はキリストにあって、自分は復活させられて天の父の前にいると、(イエス様は弟子たちに「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2-4 と約束されました)、もっと信仰で認識できると、明確な希望となるでしょう。今、私はこの地上にいるので、自分が天にキリストとともにいる状態が見えません。下記のみ言葉にあるように、もしかしたらその状態は「キリストと共に神の内に隠されている」から見えないのであって、聖霊の働きで信仰においてこのことを認識し、そしてそれが将来現われることを待ち望んでいきたいと願います。


 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」 コロサイ信徒への手紙3:1-4


 *1 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21
 *2 マタイによる福音書22:29-30イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。


June 11, 2023

 枝につながる



 梅雨が始まる頃、我が家では毎年プランターで野菜を植えます。今年はアジア学院から分けて頂いた土に、きゅうり、とまと、ピーマンの苗を植えました。本当はぶどうやキュウイなどフルーツを育てられたらという願いもありますが、今の場所では難しく、野菜だけにしています。同じ土、同じ日の当たる場所におかれ、同じ幹になっているピーマンでも、サイズが大小あります。それでも幹につながっているかぎり、実はなっていきます。ほんの少しの野菜ですが、育てているといつも思い出す聖書の箇所があります。


 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」


 イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。


 「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)


 と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。

神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。

 
 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)
 
 神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。
 
 「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)
 
 とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。
 
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)

 
 *「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23


May 13, 2023

 マンホールの修理


 教会の入り口の横に花を植えました。水をやっていると、花壇のすぐ横にある下水のマンホールからの臭いに気が付きました。よく見てみると、マンホールの蓋はしまっていても、側面がかけていて、そこから土砂が常時入り込んでいるのです。先月も排水が詰まって業者にきてもらったのですが、これでは常時詰まることになります。修理費用はいったいどれくらいかかってしまうのかと懸念しつつその業者に連絡すると、まずは町役場に聞いてくださいと言われました。下水のマンホールは町の所有なので町が修理するということで、すぐに直してくれました。何に関しても所有者に管理責任と修復責任がありますが、それがどこからどこまでが実際の使用者に負担義務があるのかわからない場合があります。今回は費用が掛からず安堵しました。


 人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。


 下記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。


 しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しかし、私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、強制されてではないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。


 私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、そこに強制はないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。もし、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のためにぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9    引用:新共同訳聖書


*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」ローマ信徒への手紙8:28

*2 ヨハネによる福音書4:18


May 3, 2023

 親子関係


 今年は、花々の開花が1−2週間早まる程、早い春の訪れとなりました。先日、藤の花で有名なあしかがフラワーパークというところへ母を連れて行く機会があり、雨でしたが、長時間の歩行が難しくなってきた母を夫が車いすに乗せて園内を周り、壮大な藤棚の美しさに母も驚き、喜んでいました。もっと若い時から、両親をあちこちへ連れていけばよかったと今頃悔やまれます。一方、親というのは、子である私が旅行に連れていかなくとも、優秀でなくとも、親の期待に添わない人生を歩んだとしても、親のほうから見捨てることがなく、忍耐を持って見守り、必要な時に助けてくれます。なぜなら、親だからです。個人差はあっても親は子を愛し、大切に思う。子は親を頼る。このような親子関係つまり血縁は切れない強い絆です。「縁を切る」と言われますが、実際親子関係は変えられない事実であり、連絡を絶つことはできても親子という縁は切れません。


 聖書の神様は人間の親子関係のように、私たち人間と人格的な関係を持とうとされていることが記されています。その顕著な表現が「父なる神」です。実際、神に人間のような性別があるのか?というと、ないはずです。性別というのは被造物が持つ性質で、すべての創造主である神は性別を超越された存在であるはずだからです。しかしイエス様も「父よ」と天の父なる神様を呼び、イエス様は「子なるキリスト」と記され、父と子という関係で記されていますから、私たちは聖書が記すとおりに理解し、信じています。一方で、神様を現わすときに母性的な表現の箇所も聖書にはいくつかあり、下記のみことばがそうです。母がその子を忘れないように(忘れることはありえるがと、人間の弱さ、限界も示したうえで)、わたし(主、神様)はあなたを忘れることは決してないと。そして、子供は親を信頼し、従い、尊敬するという面があります。このように、神様を信じるということは、最高で完璧な親がいたとしたら、その親との親子関係を持つことにたとえられるのではないでしょうか。


 「関係」には双方向的なコミュニケーションと体験が伴います。私は「父なる神様」と祈る時、「神様は私を守り、導き、愛してくださる方」という思いを前提に祈ります。そして、その祈りが聞かれることで、「ああ本当に、神様は生きていて、働かれている」と実感できることは幸いです。まだ、私が祈ってないことでも「最善の道に導いてくださっていた」と、後から振り返ってわかることもあります。つまり、私の信仰の状態にかかわらず、祈る祈らないにかかわらず、いつも私をケアし、配慮していてくれるという安心感が与えられていることは感謝です。


 私たちの社会では悲しいことに、親からの愛を受けることができずに、自身の子をどう愛してよいかわからず傷つけてしまうという、「負の連鎖」をひきずる親子関係が現実にあります。しかし、たとえ自分の親が良い親でなくて、親子関係でトラウマがある人であっても、最高の父である天の父なる神様がいることをその御子イエス・キリストを通して知り、その神を信頼することが誰でも可能です。一人でも多くの方が、この神様の愛を知って、癒されてほしいと願います。その神様を「知る」ためには、聖霊が知ろうと求める人の理性に、心に働きかけ、一人一人と親しい関係を持とうと望んでおられるキリストを、そして神様を「知る」、「体験する」ように導かれるはずです。


 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」 イザヤ書49:14-15 
         引用:新共同訳聖書


Apr. 11, 2023

 イースターエッグ


 イースターエッグ。キリスト教の文化を持たない日本であっても、ここ数年にディズニーランド等で導入されているイースター・イベントの影響なのでしょうか、一般の人々向けに様々なイースターグッズが販売されています。キリスト教文化を持つ西洋では、イースター(キリストの復活をお祝いする日)に、子供向けに「エッグハンティング」といって、飾りつけをしたゆで卵(イースターエッグ)を教会の庭等に隠して、それを子供たちが籠を持って探す遊びを行い、イースターバニーというウサギのぬいぐるみがプレゼンされています。元来、卵やひよこ、うさぎというイメージはキリストの復活という聖書由来でなく、キリスト教以外の春の豊潤のお祭りが由来していると言われています。


  クリスチャンにとって、イースターはクリスマス以上に重要なイベントです。本当は、この日だけでなく、日々、キリストが復活されたことを覚えている必要があると思います。しかし、キリストの復活が私たち個人の生活と何の関係があるのかを知らなければ、また知ってそれを信じなければ、イースターはただの子供向けの行事になってしまいます。一方、子どもというのは言われたことを素直に吸収するという面があります。益子教会でもイースターエッグを用いて、牧師がイースターの意味を子どもに説明しようと、「この卵はなんの意味か知っていますか?」と4歳の子に質問しました。するとまだ説明されていないのに、「永遠の命」とポツリと答えたのに、一同驚かされました。おそらく前に、聞いいた言葉を覚えていたのでしょう。


 「新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」とイエスが下記の箇所でも言われたように、この霊的な新生は、肉体的に再び母の胎から生まれることを意味するものではありません。キリストの復活は、キリストを信じる者が今生きている世界にて内面的に「新しく生まれる」ことが確証される出来事であり、同時に、将来自分の肉体が死んだ後、よみがえることを信じる信仰が与えられます。このように、キリストの十字架の死と復活により、そのことを信じるものに永遠の命が与えられるようにと、神様が計画してくださったのです。このイースターの良い知らせ(ゴスペル)を一人でも多くの方に伝えたいと思います。


 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。…モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 ヨハネによる福音書4章3.15節

Apr. 6, 2023

 アイデンティティ


 先日、地域のある会主催の勉強会に参加しました。お題は「人間と国家」で大学の先生を講師に招いて、日本という国の現状:安全保障や他国との関係、軍事についてお話を聞く機会が持てました。このような内容は普段の生活ではあまり話題にならない、先生いわく「日々の生活が忙しくて考えるのがおっくうになる」話題で、真剣に議論される場があまりなく見過ごされ、気が付くと法案が可決していて、いつでも戦争を行使できるように平和憲法が空洞化されつつあるという危険をはらむ、とても重要なことだと思わされました。TVで流れる報道はほんの一部であり、ネットで検索をあえてしない限り、これらの情報はなかなか入ってこない事柄です。具体的に何かすぐにできなくとも、まずは現状を「知る」ことが大事だと先生は語っておられました。また、「自分は日本国民である」というアイデンティティのほかに、自分が「何者であるか」という、いわゆるあなたのアイデンティティは何ですかと聞かれました。いくつか持っているのが普通であろう(「文人主義」で言われるような)、という話題にも触れていました。


 私は改めて自分のアイデンティティは、キリスト信徒であることだと思います。私の存在自体が、私が努力して作ったのではなく、偶然に生まれたのでなく、神様が私をこの世に存在するために送ったと信じているからです。信仰とは、通常自分自身が告白して信じることなので、自分で開始したかのように思われがちですが(実際、そういう面もありますが)、聖書によると信仰さえも、プレゼントだとされています*1。信じる心も与えられるということですね。もちろん、人は自由な意志があり、それを拒むこともできるでしょう。私は、日本人であるという意識以上に、神の民であるという意識がメインであり、この世で生きている生活は寄留者であると思っています*2。そうするとある意味、いろいろなことに拘らなくなりました。財産を残すことや自分のお墓もこともあまり考えないですみ、また今は健康ですが、命に係わる病気にかかったとしてもその先があることを信じる信仰で、思い煩い、悲しみが軽減されるでしょう。

 平日仕事の休みが取れる時、茨城県常陸大宮市にある教会で開催されているゴスペル教室に行っています。そこでは、ゴスペル(賛美歌)をただつらつらと歌うのでなく、「もっと、体幹に力を入れて、声を前にだして!」と先生に多くの指導をしていただき、魂の底から、思いを込めてゴスペルを歌うことを習っています。歌詞にこめられている神様のすばらしさをたたえ、神様が主イエス・キリストを通して私にしてくださった救いのみ業を感謝して歌っていると、本当になんとも言えない喜びと平安な気持ちに包まれる時であります。この社会で生きる上で、同時に多くのことを考えなければならないですが、それでも私は実に「神様を賛美するために存在する自分」というアイデンティティが、生活のなかにおいても、広がってほしいと願っています。そして、下記のみことばにあるように、たとえ私が賛美出来なくとも、天と地にある自然そのものが、つねに神様の御業を示すでしょう。

 天は神の栄光を物語り   大空は御手の業を示す。
 昼は昼に語り伝え   夜は夜に知識を送る。
 話すことも、語ることもなく  声は聞こえなくても
 その響きは全地に  その言葉は世界の果てに向かう。   詩編19編2-5節


  *1「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」 エフェソ信徒への手紙2:8-9 (新共同訳聖書)
 
*2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。」へブル人への手紙11:13 (口語訳聖書)



Mar. 26, 2023

 悲しみの果てに寝る


 睡眠は言うまでもなく、生きていくうえで重要な活動であり、心の状態を調整する機能があり、それがうまく作動しないと心身に悪影響を与えます。幼児が泣きつかれて、そのまま寝てしまうことがあるように、大人になっても悲しい思いに打ちひしがれて、そのままベッドに入り、寝るということも必要なことかもしれません。ちなみに私の問題点は、睡眠不足・疲労の有無に関わらず、じっと座っていると、起きていようと努力しても眠くなることです。轟音がするMR検査の最中でも気が付くと寝ている程です。


 イエス様の弟子たちも、ここぞという時に眠ってしまったことが聖書にしるされています。イエス様は十字架にかかる直前、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出る程もがき苦しんで祈られていました。「この杯をわたしから取り除けてください」と。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死んで陰府に下られたことです。すると、初めから父なる神様と子なるイエス様は一つで、一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまうことになります。十字架の肉体的、精神的苦しみ以上に、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。


 このイエス様の苦しみの祈りの際中、「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」とイエス様は2-3回弟子たちに言われましたが、彼らは「寝ていた」と記されています。ルカによる福音書には眠ってしまっていた理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり死ぬかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて、祈りながらそのまま、眠ってしまったのでしょう。

 私たちも弟子たちのように、起きて祈っていることが出来ない状態があるかもしれません。目の前の状況や人間関係が重圧となって、心が押しつぶされそうになる。もしくは、悪への誘惑が目の前に迫ってくる。しかし、そんな弱い私たちにも「起きて祈っていなさい」とイエス様は何度も祈ることを思い出させてくださる方です。主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、助けを求めて祈れるのはなんと心強いことでしょうか。また、どのように祈ったらよいかわからなくて、心が悶々としていたとしても、私たちの内側に住む聖霊がかわりに神様に祈りの内容を「とりなしてくださる」*と聖書には記されています。これは、さらなる安心です。自分の心を私以上にわかって下さる方がおられるということ、またその方に信頼して任せてよいことは感謝につきません。
 

 「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」ルカによる福音書22章45-46節
 


*「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ信徒への手紙8:26


  引用 新共同訳聖書




Mar. 12, 2023

 気が付くと、冬を感じている間もなく、春の訪れを味わっています。それほど、この時期はあることに集中していてそれをやり終えるまで、いわゆる自分を忙しくしていたのでしょう。今朝与えられた聖書のことばを読み、はっと気が付かされました。日々の忙しさに流されてしまうと、自分は何のために生きているのかと、もう一度問われるからです。


 キリストを信じる前、私は、「自分のために生きるのが疲れた」と思うことがありました。人は実は意識していなくとも、皆オギャーと生まれたときから、誰も教えてくれなくとも自分のために生きるでしょう。もちろん、他の人のために何かしよう、役に立ちたいという思いは、後からその人の育った環境、親の影響により出てきます。しかし基本は自分のためにあくせく動いているのです。自分の思いによって行動し、自分のために働く、楽しむ、それが悪いことではないし「普通」の生き方かもしれません。しかし、私はその「普通」に空虚を覚え、疲れたのです。


 一方、ある人は自分の家族のため、特に親が自分の子供のために一生懸命最善の環境を作る、犠牲を払う、愛を注ぎます。それは素晴らしいことです。しかし、子供にも人格があり、親が「こうなってほしい」と望んでも当人はそうならない、いつか一人の独立した大人として巣立つ時がきます。親子関係に限らず、人はみな、人のために良かれと思い善意を持って何かをしても、相手にとってはそれが困る場合があります。結局相手が自分の思い通りにならないと、不満足、ストレスとなり、人間関係に問題を起こします。

 キリストを信じる者は、今日の箇所に示されているようにもはや自分のため、人のために生きません。キリストのために、神様のために生きると決断します。結果的に神様のためにすることが、他者の益になります。なぜなら目に見えない神に仕えるのは、目に見える人に仕えることになるからです。ただし、その違いは神のためであるので、人の反応がどうであれ、つまり相手が自分の思うように動かなくとも、自分の望む反応をしなくとも、落胆しないのです。神様に対してしたことだからと、その人に拘らないですむからです。
 

 では、なぜキリストのために生きるのでしょうか。下記の聖書の箇所にあるように、キリストを信じる者は、キリストが自分のために十字架で死んで、復活してくださったと信じ、その信仰により、信じる前の「古い自分は死んだ」ことになるからです。古い自分とは、自己中心の思いとそれによって引き起こされる罪から縛られていた不自由な自分で、新しい自分はそこから解放され、神様の恵みを日々感謝して受け取るようになり、この地上にいる間、神様のために何かをしようと、強制ではなく自発的に志そうとする者へと変えられる、新生した自分となります。そこには自由があります。「キリストの愛」が動機で何かすることに駆り立てられるので、それはもはや誰かのために、自分のためにという動機でなくなります。それが動機だと、自分のこだわりや相手の反応に揺さぶられないですみます。もちろん、感情的に、一時揺さぶられ、反応することはあります。しかし、何度も信仰の立ち位置に戻れるのは幸いです。

 私はキリストを信じる信仰が与えられ、生き方に関して以前のように「むなしい」と思うことがなくなり、神様に感謝しています。今は喜んで、主イエス・キリストに従って、日々歩めるように導いてくださいと祈りつつ、多くの方々がこの主イエスの福音の恵みを知って、信仰に導かれ、平安を得られるよう祈っていきたいと思います。


 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」 コリントの信徒への手紙2 5章14-15節


  引用 新共同訳聖書



Mar. 5, 2023

 台湾のために祈る

 

 私たちの教会には台湾の方がおられます。折しも3月の第一日曜礼拝では年に一度の世界祈祷日といって、毎年一つの国のために祈るというプログラムがありますが、今年は台湾のためでしたので、彼女から少し台湾について話を聞く機会が持てました。私たちは台湾に多くの民族、言語があること、そしてそれに関わる政治的問題を彼女の生活の中からの話として聞く機会が与えられました。彼女は、自分の国のために世界中の教会で祈ってくれていることを、とても感謝していました。


 知らないということは、相手を理解する情報がないため、差別や偏見につながる恐れがあります。現代日本において、言葉が通じなくとも、通訳アプリ等を利用しコミュニケーションをはかり、個性や能力が人それぞれ違うことを受け入れることを、子供のうちから教育されることが、この多様性の社会で共存していくために大事ではないかと思わされます。


 多様性を受容できず、「自分たち」という利害を主張すると民族の分断、政治的分断、戦争が生じ、これらを平和に導くことは困難です。しかし、違いがあっても私たちは同じ神様が創られた大切な存在であること、そして互いに愛し合うような人間関係を持つよう神様によってデザインされていることが信じられれば、もう少し世界は歩み寄れるのではないかと思います。ここで、神イコール宗教とすると「恐ろしい」という偏見を持つ人がいます。宗教は洗脳する、戦争をするではないかと。しかし宗教が戦争をするのではなく、神が戦争をするのではなく、結局「人間」が宗教を大義名分にして戦争をし、洗脳しているということを識別すべきでしょう。そもそも、相手に危害を加えることを正当化する神々は本当に神なのでしょうか。それこそ人間が作り出した、自分たちに都合のよい、偽の神々ではないでしょうか。

 私が信じている神は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」というメッセージを啓示する神であります。では、神が愛であるということはどのようにわかるのでしょうか。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」 と聖書に書かれています。独り子とはイエス様のことです。この分断・争いの中から抜けられず、罪の縄目から私たちを救い出すために、イエス様はこの世に人となって約2千年前に来て下さいました。そして十字架にかかり、私たちのすべての罪を負って、代わりに死なれましたが、3日目に神様が甦えらせ、死に打ち勝ちました。今は天におられ、私たちの祈りを日々神様にとりなしてくださっています。そして、お互い違いがあっても、一つになれる方法を可能にしてくださいました。その方法とは、

  「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こ「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」うしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節


 とあるように、皆が「新しいひとに作り上げられること」です。新しい人とは、外面的には同じですが、内面的に聖霊が与えられ、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生き、聖書が示すように「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」ということを自発的にやっていこうとする人です。一方、新しい人になったからといって、自分自身の人格・個性が消えるわけではなく、感情的には「愛せない」と思うこともあります。「もう、これ以上無理だよ」という状況になることもあります。しかし、「それでも愛そう」「神様がこの状況をなんとかしてくれる」と思いなおせるのは幸いです。神様に祈って助けを求め、導きを求め、神様の与える希望をもって生きていこうとするのが新しい人でしょう。

 この世に生きている間は、古い人が顔をだすことがありますが、徐々に新しい人の領域が心の中で広がっていく、つまり新しい人へ変えられていくという希望があるからこそ、この世でのキリストにある平和の実現、まずは自分の小さな世界から期待していきたいと思います。


 「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」ヨハネの手紙1 4章7-9節


  引用 新共同訳聖書



Jan. 14, 2023

 普段の生活の中での神様との対話

 

 最近、ある牧師さんと話していて、はっと気が付かされたことがあります。彼女はとても多忙な方で、それにも関わらず、月に一度、遠方から私たちの教会で開催している「親子ゴスペル」の講師として来てくださっています。彼女は「家事をしている時も、礼拝説教の準備のための、黙想しているのよ。時間がないからね」とさらっと言うれました。その言葉を聞いて、私は自分が家事をしている時、何を考えているかと問うてみたのです。人と比較するのは意味がないことですが、他者から学ぶこと、気づきを与えられることは大切です。どんなにやることがあっても、たとえ教会のためで、もしくは仕事のためだとしても、生活の中の根底に神様との対話をしていなければ、つまり主が共にいるという臨在を感じていなければ、心に平安を保てないのは当然だと思わされました。


 ブラザー・ローレンスという17世紀の修道士がいます。彼は「敬虔な生涯―ふだんの生活の中におられる神」の著者です。私は若い頃、この本を読むことを勧められ読んだことがあり、しばらく忘れていましたが、この牧師さんの言葉を聞いて今一度思い出しました。ブラザー・ローレンスは修道院の厨房で下働きをしていましたが、仕事をしながらいつも神様の臨在を感じることができたそうです。食器を洗うという動作一つ一つの中に、神様に対して喜んで行うという思いを込めていたと、つまり神様と対話しながら働いていた様子がこの本に記されています。彼は当時の修道院で、神学を学んだ社会的に地位の高い修道士ではなかったので、修道院では雑用、労働作業を担当したようですが、もしかしたら、その当時の中世の宗教社会の上層部の方々よりも、神様と共に歩んでいたのではないかと思います。


 古代イスラエル王のダビデは、若い時に羊飼いをしていた時から、神様を愛し、神様をいつも感じ、そのことを詩編として残してたのが、下記のみことばです。

「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
  主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。」  詩編27編4節


 ダビデの人生は波乱万丈で、多くの成功、そして失敗もありましたが、生涯神様への信仰は失いませんでした。それは、いつも神様と対話していたからではないでしょうか。だからこそ、彼にとって多くの問題、たくさんの願いがあったとしても、それらを全て覆う、根本的な一つの大事なことだけを願い、求めようと、自分自身にも語りかけていたのではないかと思います。「宮」とは神様のおられる場所、つまり神様の臨在するところ、そこにいつもいたい、喜びをもって朝を迎えたいと。神様の臨在を感じるところは、物理的な場所を示すのではなく、自分の心の内側のことなのです。

 パウロは、聖霊の住む宮は私たちだと言っています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」コリントの信徒への手紙1 13章16節

 神の霊、つまり聖霊が信じるものの心に与えられているので、その聖霊を通して神様の臨在を感じ、対話できるとは、なんと幸いなことでしょうか。

  現代社会の中で、キリストを信じる信仰を貫いて生きようとすると、力が入りますし、覚悟のようなものがいるように思いがちです。また心が忙しく、平安がないのに、表面だけ、言葉だけクリスチャンのようなふるまいをしても偽善となります。私は、もっとみ言葉を読み、手を動かしながら、歩きながらも神様に祈り、対話していけるよう、神様に求めていこうと思わされました。この、文章を討ちながらも、「神様、気づきを与えて下さりありがとうございます!」と。それが、私にとって生きる上で最も大切なことであるからです。


  引用 新共同訳聖書



Dec. 20, 2022

 信頼される喜び

 

 私の仕事は病院のソーシャルワーカーといって、患者さん、その家族から医療、介護の相談を受け、彼らの必要に沿って病院、施設、制度の説明をし、支援をする仕事です。ほとんどが困難な相談で、うまくいかないことが多い中、時々嬉しと思うことがあります。それは、患者さんが自分を信頼して、任せてくれる時です。先月も、身寄りがなく一人暮らしの癌術後の高齢の方のため、退院後の在宅生活で必要とされる医療・介護・様々の行政的手続きの準備をしていました。そのために本人の了解を得る際、「俺は今まで、お金のことで騙されたことあるから人を信用できないんだけど、あんたを信用して任せるから」と言い、さらに「あんたをかあちゃんだと思って任せるよ!」とまで言われました。「えっ、私はあなたより20歳も年下なのに、お母さん?!」と一瞬心の中で思い、横で医師が笑いながら「大下さん顔がひきつっているよ」と言っていました。私はひきつるどころか、それを誉め言葉として受け取らせて頂きました。その方が退院してから、外来に車いすに乗せられて受付に来られた時も、私を見つけて「おはようございます!」と元気に声をかけてくれました。長期間入院した後、自宅で少しでも過ごせて、その方の顔が明るくなっていました。


 私が仕事で出来ることはとても小さなことですが、人は信頼されるとうれしいものです。世の中は、SNSが発達しますます、巧妙なお金をだまし取る詐欺がまかり通り、人や企業、団体が本当に信頼してよいのかを判断するのが難しいです。私たちの住む社会は、信頼関係を前提として成り立っているといっても良いでしょう。しかし、それが機能しない場合が多く、結果的に多くの人がトラブルに巻き込まれ、辛く、悲しい思いを持つというのが現状でしょう。


 天の父なる神様は人間を大切な存在として創られ、ご自分と信頼関係を持ってほしい、神様が人間にその神様の愛に気づいてほしいと願い、神の子イエス・キリストをこの世に人として送って下られました。それがクリスマスの意味であり、良い知らせ(福音)であります。しかも、この世に来られたのは、十字架にかかって死なれるためです。なぜそんなことが必要なのかというと、超自然的、目に見えない神様の存在を信じるためには、神ご自身が私たちの視線、立場まで降りてこられて寄り添い、信頼してよい神だということ、人々を大切に思っていることを現わすためだからでしょう。キリストの十字架の死は、私たちが今まで神様の存在を否定し、自分本位の人生を歩んできたという罪が神様によって赦されるためです。しかも、死んで終わりではなく、キリストが3日後に復活され、天に戻り、また、新しい天地、世界が作られる前に再びいつか来られること、これもキリストを信じる者の信仰です。


 クリスマスとは、2千年前にイエス様が人として来られたことを喜び、感謝してお祝いすると同時に、いつか再びいイエス様が来られることを待ち望む、希望の時であります。この世ので不正が行われ、戦争が続き、悪がはびこり、いったい何時平和は実現されるのだろうかという、だれもが持つ問いに答える、希望を叶えるのがイエス様の再び来られる時です。下記の箇所にあるように新しい世界には、悲しみ、涙もなく、平和で互いに人々が愛し合い、天の父なる神様とイエス様を全ての民族で礼拝できる世界だということが、聖書の黙示録に書かれています。聖書に書かれていることは一部ですのでその詳細まではわかりませんが、すべてわからなくとも、神様に信頼し、任せることができるのは幸いです。なぜなら、将来に対する思い煩い、不安、恐れが神様の愛によって取り除かれるからです*。そして人が信頼されて嬉しいように、ましてや天の父なる神様はもっと喜んで下さるのではないかと思い、ますます、神様に委ねつつ、すべての人が受け取れる神様の祝福と恵が一人ひとりの心に届くよう祈り続けようと思います。

 

  「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示録21章3-4節
 
 *「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」ヨハネの手紙1 4:18
  引用 新共同訳聖書




Dec. 10, 2022

 心が折れても、主にあって喜ぶ

 

 最近、心が折れることが続きました。そのうちの一つは仕事上の忙しさ。あまりにも忙しくて、頭をどんなに回転させてもついていけないほど、一度に多くの業務をこなさなければならない日があります。毎日、朝祈り、そして仕事が始まると終わるのだろうかと途方にくれ、「神様、助けてください!」と昼休みに祈り、夕方までにはなんとか終わります。今日も神様が共にいてくれて助けてくださったと実感し、感謝して家路につくことができるのは幸いです。一方で、仕事と異なり、他の問題はこのように一日で終わらないことであり、この状態がいつまで続くのだろうかと心が重くなることもあります。もし、私が神様を信じていなかったら、ストレスで心の病気になっていると思います。ですが、神様の恵みによって心が守られていることを実感し、感謝しております。


 神様は思い悩み、自分ではどうしようもない、そんな状態の私の心をご存じで、その悩んでいる状態のなかでこそ、神様は私に出会ってくださります。この憂いている状況のなかで、神様は私と向き合って下さり、導き、必ず、光を与え、心を引き上げてくださる方だと信じます。私はこの苦しみのなかで神様が共にいてくださること、弱い自分をも顧み、変わらない愛を注いでくださることを経験し、そうして神様への感謝と喜びを持てるようになると期待しようと思います。そう思える根拠はいつも聖書のみことばにあるからです。


 下記のみことばは、いつも幸せで、苦労もなく、すべてが順調に進んでいる状態においてならできる事柄として使徒パウロが書いているのではないと思います。むしろ 苦しみ、悩みの状況が生活のなかであるからこそ、神様に助けを求めていくと、問題にばかり目を向けている視野から、実は「神様から恵を日々与えられているではないか!」という気づきが与えられる、つまり視点が変えられる。そうして、状況が変わらなくとも、神様の平安を少しずつ与えられ、喜び、祈り、感謝できるように心が変えられていくのではないでしょうか。そして、イエス・キリストは「インマヌエル」という方:訳すと「神が我々と共におられる」*であることより、私がたった一人で向き合わなければならない問題においても、共にいてくださるということを信じ、それを実際体験させて頂きたいと願います。神様が必ず、私の心を変えて下さると信じ、思い煩いをいっさい委ねていこうとみことばで励まされ、感謝の思いで、少し心のおもりが軽くされます。


 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 」テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節


 *マタイによる福音書1章23節 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 
  引用 新共同訳聖書




Nov. 7, 2022

 なぜ軽井沢?

 

 

 先日、軽井沢にあるいくつかの教会を訪問しました。観光地にもなっているこれらの教会は、明治時代、19世紀後半以降に欧米の宣教師たちによって建てられた歴史的建造物でもあります。私は建物の古さよりも、この時代に海外から来て、この地に移り住んだ宣教師たちはどのような思いだったのかと、静かな礼拝堂のなかでしばし想いをはせました。


 私がアメリカに住んでいた時、部屋をお借りしていた時の家主は、若い時日本に在住していたことがあるそうです。彼女の両親は日本で宣教師として新潟に在住し、その影響もあってか彼女も宣教師を目指し、軽井沢にある宣教師訓練の学校に行っていたと話していました。しかし彼女は、自分の召命が宣教師ではないという結論に達し、アメリカに戻って看護師になったそうです。その時も、「なぜ軽井沢に宣教師訓練校があったのかな?」と思ったものです。そこで軽井沢の歴史を調べてみると、日本の開国と同時に入ってきた外国人宣教師たちが、蒸し暑い日本の避暑地として軽井沢を発見し、口コミで宣教師、外国人に広まり、参勤交代がもはやなくなり、さびれてしまった宿場町の軽井沢が、外国人別荘地として発展していったそうです。きっかけは暑さに弱い西洋人から始まったということでしょうか。


 日本という国は、世界の宣教師にとって伝道が困難な場所の一つだと言われます。現実的にはどの国も困難なはずです。なぜなら、その国独自の歴史、文化があり、西欧で発展したキリスト教の概念を理論的にも、精神的にも理解し、信仰に入るというのは常識で考えても難しいからです。ましてや、明治期のキリスト教が帝国主義を掲げる西欧の列強諸国とともに入ってくると、キリスト教を国の近代化に利用する人々もいれば、侵略者・外国の宗教と排斥感情を持つ人々もいたはずです。一方、似たような歴史を通過したインドネシアではイスラム教徒が多数派ですが、キリスト教徒の割合も多いのです。


 イエス様は下記のみことばにあるように、「人にはできないが神にできる」と弟子たちに言われました。私たちの常識で、「これは無理だろう」「誰が、2千年前に十字架にかけられて死んだイエスを、神だと信じられるのか?」と思うことでも、神に不可能なことはないということです。ある人がキリストを信じる信仰に導かれるということは、奇跡と言えます。奇跡でないと信じられない・不可能だと思える内容がキリストの福音だからです。しかし、イエス様が言われたように、何世紀にもわたり、イスラエル国のエルサレムという小さな町で、数人の弟子たちの伝道から始まり、世界に伝えられ、信じた一人ひとりの人生に多くの奇跡が起こっていることを思うと、神様には不可能はないということが実証されているのではないでしょうか。キリストを自分の救い主だと信じることのできる人は幸いであり、また超自然的な力、つまり聖霊の働きによってそれがどんな人にも可能であります。日々この奇跡が、人々の間で起きるように祈っていきたいと思います。

 
 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。  マタイによる福音書19章25-26節


  引用 新共同訳聖書



Oct. 29, 2022

 生まれつき目の見えない人の癒し

 

 毎週土曜日に、益子教会では礼拝に参加される高齢の方を車で迎えに行きます。いつもの時間、いつもの場所(その方の家の前)で待っていましたが、その方が出てこないので、家に電話してみても応答なし。今日はお休みなのかと戻ると、一時間後にその方から「今日はどうして迎えに来られないのか、何かあったのですか」と電話が来ました。その方には申し訳なかったのですが、何故かお互いが「見えなかった」のです。私たちの生活の中で、視力は見えているのに見えないことがあります。例えば目の前にあっても、「ない、ない」と探し物をしたりすることはないでしょうか。また「思い込み」という精神的な要素も加わると、探し物が見つからず、お互い会えない時があります。いずれにしても次回からは、出る前に電話して確認したほうがよいでしょう。


 イエス様はある時、生まれつき目の見えない人の目を見えるように癒されました。この人は他の人のケースと異なり、自分から「目を見えるようにしてください」とイエス様に頼んだのではなく、イエス様の弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」*1と言って癒されました。弟子たちの質問はこの当時のユダヤの人々の考え方であり、おそらくどの国もどの時代も、生まれつきもしくは途中で病気や不自由な体になると、「バチがあたったのだ」「行いが悪いからだ」と、思う人はいるかもしれません。酷い場合には「あなたの先祖の罪があるからこうなったのだ、だからそれを償うためにこの壺を買いなさい」といって、高額なお金を支払わせるカルト宗教の霊感商法につながります。


 聖書では、その人の罪はその人自身のことであるとして*2、また何か身体に障がいがあることイコール因果応報に結びつけません。そんな負い目に縛られる必要はないのです。ではイエス様が言われた「神の業がこの人に現れるためである。」とはどういう意味でしょうか。この人の場合は神様の奇跡の業がなされる、生まれつき目が見えない人の視力を回復されるということです。つまりこの人の目が見えていたら、この人はイエス様に出会うことはなく、驚くべき奇跡も経験することもなかったかもしれませんし、神様の超自然的な力による業が人々の前に現されることはなかったでしょう。


 一方、この時代も、現代の医学を持ってしても治らない病気もあり、すべての人がイエス様にお願いしたら癒されるわけではありません。しかし、神様の業は私たちにとって「良い」と思うことだけに現わされるのではなく、むしろ私たちが「良くない事、不自由なこと、弱さを覚えること、不幸だと思える状況」においても現わされます。つまり、病気が治らなくとも、その病を通してその人の信仰が強められたり、たとえその人が皆の必死の祈りにも関わらず亡くなったとしても、周りの人々に予期せぬ良い影響を及ぼすことがあります。それらすべて神様の業が現わされると言えるでしょう。

 重要なことは、身体的な目より、その人の心の目が見えるようになること、つまりイエス・キリストを信じる信仰を持てることだと思います。この体はどんなに健康であってもいつかは衰え、寿命がきます。また人それぞれに、何かに対する負い目やしがらみに縛られて心が不自由な状態にいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いで、私たちのすべての罪は赦されて負い目を感じる必要はなく、縛られている心は解放されます。これは、自分の罪を自覚し、神様の前に悔い改めるところから始まります。人の魂・霊は永遠に続き、つまり心と心の目も続くとなりますと、このキリストに示される神様の愛を信じる信仰が与えられることは幸いです。将来のこと、死んだ後の事を心配する必要はなく、今生きている間のことも、たとえ辛い状況であっても、自分の弱さの中にあっても、神様の業が働かれるだろうと期待することができる、このような希望を持って日々生活できるからです。それぞれが置かれた状況において、神様の業がどのように現れるだろうか、キリストの力が私の弱さの中にどのようにあらわされるだろうかと期待して、恵みによって与えられている自由を感謝していきたいと思います。


 
 「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリント信徒への手紙2 12章9節


  引用 新共同訳聖書


  *1 ヨハネによる福音書9章2-4節参照
  *2 エゼキエル書18章14-20節参照

Sep. 25, 2022

 アメージング グレース

 

 先日、ウガンダ、ケニアというアフリカの国、インドネシアの留学生達の話を聞く機会がありました。彼らは、アジア学院という農業訓練指導者の専門学校の学生で、この度益子教会の礼拝に参加し、彼らの国のことを分かち合ってくれました。特に、ウガンダの学生の話が衝撃的でした。近年彼のフィアンセ(ウガンダ人)とアメリカ人の女性と3人で、”Girl’s Now”という、若い女性たちのためのNPOを立ち上げ、活動していることを話してくれました。新型コロナウイルスのパンデミックで、政府の政策であるロックダウンにより、国の経済は大打撃を受け、人々は仕事を失い、大勢の人が貧困状態になると、多くの10代の女性たちが親に売られてしまうという恐ろしい現象が広がってしまったというのです。彼らはこのことに心を痛め、女の子たちを守るための活動や彼女たちへの教育を、行政機関とともに協力して行っているとのことです。またアメリカなど西欧諸国の同世代の女の子と彼女たちが文通をできるしくみも作り、支援金を募るということもしているそうです。


 日本でもコロナで仕事を失い、多くの人が貧困状態になったとしても、親が子供を奴隷として売買することはできません。しかし日本では戦前はありました。現代でもなおそれが他の国々でまかり通っているということに怒りを覚えます。他国を責める資格はないのですが、資格がなくとも、人を売買し、所有物として何をしても良いという考え方を許してはならないと思います。残念ながら、まだ世界の国々で子供が教育も受けられず、働かされ、人身売買されることを取り締まる法律、制度が行き渡っていない地域があるという現実について深く考えさせられました。


 神様ははじめに人を創られた時、その愛のご性質からすると人と人との関係において、一方が他方を支配し、奴隷とすることを望んでいません。人が奴隷制度を作ったのであって、神様が作られたのではありません。神様は人を「良いもの」として創られ、互いに愛し合う、つまりお互いをいたわり、尊重しあう、平和な関係を持ってほしいと願われているはずです。遠いアフリカの国の問題としてだけとらえず、日本でも辛い思いをしている子供たち、大人たちはたくさんいることを覚え、神様の助けが与えられるように祈っていきたいと思います。また、一日も早く、人身売買にかかわる人たちが悔い改め、人をだまして搾取するようなことをやめるように祈ろうと思います。「アメージング・グレース」を作詞した英国人は、かつては奴隷船の船長でしたが、自分のしたことを悔い改め、こんな自分をも救った神様の驚くばかりの恵みを表し、今やクリスチャンでない人も耳にする有名な曲となっています。神の招きと恵はすべての人に注がれています。


 そして、この地域にて何かそのような方々と出会う機会が与えられた時、小さなことでも助けになることが出来たらと願っています。なによりも、日々与えられる聖書のみことばによって、他者に仕える心を持てるよう、神様に祈り求めていこうと思います。

 


 
 「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、 心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」エフェソ信徒への手紙1章17-18節


  引用 新共同訳聖書



Sep. 18, 2022

 リトミック教室見学

 

 先日、氏家キリスト教会ヒカリ園で月に一度開催されている、園児のリトミック教室に夫と二人で見学をさせて頂く機会がありました。折しも益子教会でこの9月から「親子でゴスペル」という企画を始めたことを、たまたま他の会議にて話すと、「うちも子供たちのためのリトミック教室をやっているので、参考にどうぞ見学に来て下さい」と、園長(牧師)先生が誘って下さったのです。


 見学してまず思ったことは、園児たちが皆楽しんで、自由に動いていたことです。先生のいう通りに皆が動かなくとも:つまりある子は駆け回る、ある子は太鼓をたたく、ある子は泣いていてスタッフやお母さんに抱っこされている、それでも不思議と音楽、リズムに合わせて全体が調和されている様子に驚きました。他の幼稚園だと、みながよく先生のお約束を守り、きちっと同じ動きをする、静かにするときは静かにするとして、秩序が保たれているでしょう。もちろん、それはそれで素晴らしいと思います。一方で、皆が同じ動きをしなくとも、子供が音楽に合わせて、それがどんなジャンルであれ、歌ったり、踊ったり、駆け回ったり、とにかく一人一人が自由に動く、子供たち一人一人が自分を表現し、何よりも「楽しんでいる」という形態が集団保育で成り立つのだと新しい発見がありました。子供たちのパワーに力を与えられ、益子の親子ゴスペルもいつか、子供たちがゴスペルに合わせて、このように楽しむ時間となればと、この見学によりイメージが与えられたことは感謝です。子供たちから学ばされることはたくさんあります。


 イエス様はこどもたちに対しては特別な眼差し、態度を持っておられたことが聖書にしるされています。弟子たちが、子供たちがイエス様の近くにくると、邪魔だから追い返そうとすると「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」とイエス様は言われて、子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福されました*1。イエス様は子供たちを優しさをもって受け入れるだけでなく、大人である弟子たちに対してこう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」*2 これは、弟子たちの「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」というイエス様に対する質問に対しての返答です。つまり、こどものように「素直に」イエス様を救い主として信じる態度、また弱い者であることを自覚する謙遜な態度を弟子たちに求めておられるのではないかと思います。この「偉くなりたい」という弟子たちの動機は何でしょうか?


 もし「偉くなれば、他者が自分に従う」、そのような優越感を持てることを期待しているのであれば、イエス様の治める神の国に入ることが難しいわけです。神の国では神様に従順に従い、人間同士では、他者を自分よりも優れていると思うほど謙遜な思いを持つようにと記されています*3。これはイエス様が言われた、多くの戒めを集約した二つの大事な戒め「神を愛する、自分を愛するようにあなたの隣人を愛する」*4に基づいています。神様に従わずに自分勝手な思いと行動をし、他者に対して高慢な思いでいるならば、尊敬しあうことも、平和を保つこともできません。争いは相手が悪いと思う、相手を見下し自分が上に立ちたい(マウント)という思いから始まるからです。

 このようなみことばは、日々自身の心に刺さります。自分はふと気が付くと、このような高慢な思いになってしまうからです。こどもたちから、いつもこの謙遜な思いを学ばされ、主イエス様に従い、高慢な思いを取り除いていただくよう日々祈り求めたいと思います。


 
 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」  マルコによる福音書10章13-16節


 
 *1 マルコによる福音書10:14,16節
 *2 マタイによる福音書18:3-4
 *3 フィリピ信徒への手紙2:3-5
 *4 マタイによる福音書22:35-40



Aug. 21, 2022

 親子ゴスペルクラブ始めます!

 

  益子教会では、2022年9月より 毎月第一土曜の午後3−4時に 親子で参加する「親子ゴスペルクラブ」を始めることになり、今準備をしています。


 ゴスペルを歌うことを通して、教会という敷居が高そうに思われる場所に誰でも気軽に来られるようにと、2年半前からゴスペル賛美礼拝を日曜午後に毎週開催してきました。折しもコロナが始まったころでしたので、人を集めて何か行うというのが難しい状況下。人はなかなか集まりません。私たちはどこかのクワイアに入ってきちんとゴスペルを習ったこともなく、CDを流して歌っていますが、それでも、礼拝として続け、いつか神様がゴスペルをリード出来る人を送って下さるだろうと期待し、祈ってきました。


 それから2年半たったある日、GP(Gospel Praise)というゴスペルクワイアのメンバーで(益子教会のゴスペル賛美礼拝では彼らの歌を取り入れています)、「益子でゴスペルを」とづっと覚えて祈って下さった方がいて、その方が6月に茨城県の常陸大宮チャペルでのゴスペル教室に私たちを誘ってくれました。そこでは、教会の近所のご婦人がたが集まって、お茶を飲んで話した後、ゴスペルを習って歌い、教会の結婚式でそれを発表するために練習していました。私たちはビジターとして参加させていただいたのですが、こんな風に、教会に人が集まって、楽しく歌う様子を見て、益子でもいつかこうなればよいなあという、ビジョンを神様から示していただいたようでした。そして、7月にもう一度参加させていただいた時に、突然その誘ってくださった方が、「益子でやり始めようよ!」と言って、勝田教会の牧師でもあり、GPのメンバーでもある先生を誘って、スタートの日にちまで決めてしまったのには、正直、驚きでした。私たちは、勉強のためにと参加させていただいていたのですが、実際益子に来てくださって協力してくださるということを即座に了解いただき、本当に感動しました。二人ともお忙しい身で、頼んでしまってよいのだろうかと恐縮しながら、これは神様の導き、プレゼントに違いないと確信し、この企画を進めることにしました。


 なぜ親子でというと、まずは礼拝に来るというのはなかなか抵抗があるでしょうから、ゴスペル教室のように教える先生がいて、親子で歌って踊ってと、安心して、楽しいひと時を過ごせる場所を益子教会が提供できるところか始めたいと思ったからです。もちろん、親だけ来ても、子供だけ預けたいというケースも歓迎です。そして、参加される方々の中でもし聖書に興味があれば、聖書の学びの会へと発展させ、子供たちは横で卓球をしたりして遊んでいるという、そのような空間を益子でもつことができたらというのが、私たちのヴィジョンであり、構想です。私は、アメリカに住んでいいた時に、聖書の勉強会をいくつか開いていましたが、お母さんと子供で何組か集まる親子向けの会を開いていました。子供同士は横で遊んでいて、お母さんたちに私が聖書の話をし、その後、お茶を飲んだり、時には夕ご飯も食べたり、女性どうし話がはずみ、楽しいひと時を月一回開催していました。そこに来ていた日本人の女性たちはご主人がアメリカ人の人もいれば、日本人同士の夫婦もいましたし、クリスチャンでない方もママ友つながりで参加され、聖書に振れたのは初めてだけど、とても興味深いと喜んで参加しておられました。私たちの共通点は、アメリカという異国社会での日本人で、それぞれ生活に不便や不都合さを覚えることでした。その状況で、聖書のことばからヒントを得て前向きに、希望をもって生きていこうと互いのために祈って励ましあうことが出来、とてもよい会でした。もちろん、ここ日本では環境が異なりますが、厳しい社会状況であることは変わらず、その中でキリストの福音を夫婦でなんとか伝えていきたいと、日々祈り、その実現を求めています。

 というわけで、長く続くコロナ禍において、「マスクをしてても 楽しくゴスペルを歌おう!」と協力者を与えられ、益子で始めることになりました。ゴスペルの意味「福音、良い知らせ」をこの益子の親子クラブにて 一人でも多くの方が知ってほしいと願いつつ、神様がこれからこの会をどんな展開にしてくださるか、とても楽しみで、期待しいきたいと思います。


 
 「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」 コロサイ信徒への手紙1章6節


 


  チラシリンク   http://praisethelord.web.fc2.com/mashigos1.pdf



Aug. 11, 2022

 いつまでも残るもの

 

  栃木県の益子町では、毎年夏に「ひまわり畑」が見頃となります。遠くから見ると、広大な緑の田んぼの一角が黄色一色となっています。そこがちょうど私の通勤路にあたり、朝早くから多くの観光客がカメラを構えてそのひまわり畑を撮っている姿を横目にし、その美しい光景に癒されております。しかし、しばらくするとその黄色が茶色になり、秋に入ると突然その広い一角からひまわりがなくなり、整地され、翌年には畑もしくは水田に代わります。花畑は美しいけれども、いつまでも残るものではありません。それでもひと時の楽しみが味わえるのは感謝なことです。


 下記の今朝読んだ聖書のみことばによると、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。この三つのことは目に見えるものではありませんが、私たち人間の心にいつまでも残り、つまり続くものであると思います。その中で最も重要なのは愛であると記され、この箇所の前に愛とはどういうことかが具体的に書かれています。神様の人に対する愛は、人間同士の愛の中で、もし似ている部分があるとしたら、非常に優良な親の子に対する愛かもしれません。しかしどんなに良い親でも、人である限り限界がありますので、子供にとって良かれと思って親が行うことが、その子供に対して適切でないこともあります。


 しかし、神様の愛は、誰に対しても同じで、偏りがなく、人に見返りを求めません。そして、神様の愛は私たちにキリストを信じる信仰を与え、そしてその信仰に基づいて、生きる希望を与えることが出来ます*1。「神は愛である」*2と言われるように、神様のご性質そのものが愛であるからです。人がしたいと思ってもなかなかできないことのリストが、神様の愛:「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」*3ではないでしょうか。


 私は日々の生活で、なんとこれらの愛が自分のうちにないことを実感させられます。特に職場で、愛のない自分の言動に落ち込み「ごめんなさい」と悔い改めることばかりです。この進歩がない私を神様は日々赦し、恵みを与え、愛で包んでくださり、みことばで朝と昼休みに励ましてくださるから、前に進んでいけます。「神様助けて下さい。あなたの愛を、忍耐する心を与えてください!」と心のなかで祈り、叫ぶと、なんとか自身の感情を抑えられ、たとえ自分はこれ以上何もできない状況でも、結果的にことが進んだりすることがあります。そして「主よ、今日もありがとうございます!」と感謝の祈りを捧げられるのです。

 自分の中に愛がなければ求める、そうすれば神様は聖霊によって愛を与えて下さるというみことば*4により、私は支えられています。どんな困難な状況であっても、良い方向へと神様が導いてくださるという希望をもって、すべてはキリストのお陰であることを覚えつつ、たえず主に感謝と賛美を捧げていきたいと願います。


 
 「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 コリント信徒への手紙13章13節


 
  *1 ローマの信徒への手紙 5章1-2節 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 」
  *2 ヨハネの手紙第一 4章8節
  *3 コリント信徒への手紙13章4-7節
  *4 ローマの信徒への手紙 5章5節 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」



July 17, 2022

 収穫を期待する

 

  我が家では、毎年夏野菜をプランターに植えています。きゅうり、なす、トマト、ピーマン。台風などで枝が倒れてうまく実を結ばなかった年もあり、その教訓により、今年は台風が来たときは軒下に移動し、難を逃れさせました。毎日、とまでは行きませんが、実がなっているかなと毎朝プランターを覗いては、少しずつ収穫し、その日の食卓で感謝して頂いています。プランターですので小さな家庭菜園ですが、生ごみを肥料に変えるコンポストというものを使い、その肥料を使って苗を植えています。りっぱに野菜が育っているのを見ると自然と笑顔がこぼれ、幸せな気分になります。


 一方、農家で苦労して育てた果物や野菜が、夜中に泥棒に盗まれてしまうという被害をニュースに聞くにつけ、農家の方々がどんなにショックだろうと心が痛みます。工場で生産される商品とは違って、商業的に作物を育てることは設備投資がかかるだけでなく、人が一つ一つ手を使って、土壌から準備し、苗を植え、毎日その生育状況を見て大切に育てるという工程が伴います。それが、一晩にして奪われてしまうのは悲しいことです。


 イエス様はたとえ話で、農作物の話をよく用いられました。実を結び、収穫するということを様々なことにたとえています。私たちは、神様の愛を受けて、自発的に良い実を結ぶように神様から期待されていると言えるでしょう。良い実とは心の状態のことで、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制*1の心と態度を持つことを「御霊の実を結ぶ」とたとえられています。私は自分の心の中を覗くと、これらの実がいつも結ばれていないことを本当に悲しく思います。ましてや、神様が「実を結んでいるかな?」と期待して見てみると、逆の状態(怒り、イライラした思い、敵意、不穏)を私の心の中に見出すと、どんなにがっかりするだろうと思わされます。仕事の忙しさ、大変さにかまけて、私の心は実を結べる状態になく、すさんでおり、なんとか根がつながっているぐらいの状態で、そんな自分が情けなく、恥ずかしく、もう神様の前に出られないと思ってしまうほどです。

 しかし、私がどんなにひどい状態であっても、実を結べないだめな者であっても、神様は見捨てない、愛のある方であることが私にとって大きな慰めであり、また悔い改めて、仕切りなおそうと前向きに一歩踏み出すための、励ましであります。実を結ぶためには、どんな状況であっても、神様のみことばに触れ、祈り、自分の心の思いを全て打ち明け、助けを求め、委ねていこうと思います。そして、いつか、収穫を期待している主が「実がなっているぞ!」と喜んで下さることを期待して、木であるイエス様*2につながり続け、枝である私の心に愛を流し下さるよう求め続けようと思います。
 
 「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」 マルコによる福音書12章1-2節
 


  *1「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節


  *2「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書15章5節



July 10, 2022

 カニの看板が壊されても愛は建てあがる

 

  先日テレビの番組で、あるレストランのカニの看板を酔って壊した二人の男性とそのオーナーの美談が目に留まりました。彼らの看板を破壊している様子が防犯カメラで録画され、それがニュースで全国に流れ二人への批判がネットで炎上しました。そして、二人は恐れおののいて、レストランのオーナーに謝罪に行きました。オーナーは二人が謝りに来たこと、また二人がコロナで仕事をくびになった直後でイライラしていて酔ってしてしまったことを聞き、二人を赦し警察への被害届を取り下げたそうです。オーナーは一言、「俺は教会に行っているから」と言っていました。それがきっかけで、二人もオーナーと一緒に教会に通い、またそのレストランの仕事を手伝ったりして、とても良い関係になったそうです。


 日頃どんなに神様がよくして下さり、恵まれているかを感謝していないと、小さいことに不平不満になります。不平や不満は何もよいものを生み出さず、争いの火種となります。私たちがキリストにならって、人の悪口をいわず、損をしても文句も言わず、犠牲をいとわず働いていたとしたら、他者は不思議に思うでしょう。なぜなら世の中は損得で判断され、損なことはなるべく避け、損害があれば賠償を請求するのが当たり前だからです。もしこの放送を観てこの話を知れば、「教会へ行っている人は、あんな損害をうけても、赦してしまうのか?」と世の中の人が思うかもしれません。それが、「あの人はクリスチャンだからだ」と、自分から言わずとも、他者がその違いを認識してくれれば、幸いです。


 紀元一世紀のキリストの教会が出来た頃、コリントという町にある教会の信徒同士の間で何か損得に関する争いが起こり、当事者たちがそれを教会の外の、この世の裁判沙汰にしていたことをパウロは知り、こう述べています。

 「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。 」  コリント信徒への手紙6章6-7節
 
 イエス様が「あなたがたは世の光である」*1と言われました。イエス様を信じる者はこの暗い世にあってイエス様の光を反射して輝くことが可能となります。また、「光の子として歩みなさい」*2と使徒パウロは記しています。私たちは、この犯罪や不条理がはびこるこの世の暗闇の中で、小さい光となりたいものです。キリストの光の反射を受けて星のように輝き、そして「命の言葉(命に導くみことば、福音)」をしっかり持って日々過ごしたいと願います。このレストランのオーナーのケースは、他者に影響を与えられる例の一つではないかと思います。暗闇の中で輝く小さな星がたくさん集まれば、平和につながる大きい光となることを望みつつ祈っていきたいと思います。

 
 「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。」フィリピの信徒への手紙2章14-16節


  *1 マタイによる福音書5章13-16節
  *2 エフェソの信徒への手紙 5 章 8 節


June 25, 2022

 時間の表現:永遠

 
 今年は梅雨を通り越し夏が訪れたかのような、早くも猛暑の日が続いています。私たちは季節の移り変わりを通して一月を、一年を5感で認識します。一方、私たちが意識する・しないに関わらず時は刻々と過ぎていきます。未来がどうなるか予測はつきませんが、必ず予測できることは、夕が来て朝が来ることです。時の流れの中で、今、していることが次の瞬間過去の出来事になります。しかし私たちの活動の中で、一つだけ過去にならずに、続いていることがあります。それは、生きるという活動で、私たちの体は生命が与えられてから死ぬまで、心臓は止まることなく動き続けています(病気で一時的に止まる人もいますが)。人が寝ている間も、体の臓器の動きは続いていると思うと、100歳以上長生きしている方々は凄いと思わされます。しかし、いつかはこの体の活動は停止する、それを死と言いますが、私たちはその死がいつ自分に訪れるのかはわかりません。明日がくるのは確実ですが、その明日に自分が生き続けているかはわかりません。

  聖書には「永遠」ということばが出てきます。この永遠という言葉は時間の流れでいうと、点ではなく、線がずっと続くというイメージでしょうか。キリストを信じる者は、神様がキリストを通して与える「永遠の命」を信じて、この世の生活を続けています。この体が死んだら私という存在が「過去」になるのではなく、その後も魂が存在し続ける、そのことを信じているからです。ただ、どのように魂が存在し続けるのかが問題となります。もし、体がなくなり、自分という存在が生前と変わらない性格のままで、魂だけがふらふらとこの世に目に見えなくとも存在し続けるのであれば、私は個人的にそんな形で永遠に存在したくないと思います。今の体のままで、つまり私の罪ある性質のままで、またいつになっても戦争が終わらない不条理が多いこの世で永遠に生きなければならないのであれば、それこそ永遠の苦しみです。


 下記のみことばのように、天の父なる神様が、弁護者を一人一人に与えてくれて、永遠にわたしたちと一緒にいるようにしてくれると記されています。つまり、私という存在は変わらなくとも、真理の霊(聖霊)がともにいて、心の内側に住んでくれるというのですから、そうであれば永遠に存在したいと願うのです。「私」という存在はあるけれども、神様が送ってくださる聖霊がともいてくれるのであれが心強く、永遠に生きようと希望が湧きます。聖霊によって神様の思いを知り、神様の愛が注がれるよう願い、様々な状況で忍耐する力が与えられるのは幸いなことです。「弁護者」と訳されていることばは「ヘルパー」とも訳されるように、助けてくれる存在がともにいるというのはなんと幸いなことでしょうか。


 ある時、イエス様は弟子たちにこう言われました。


   「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」*


 心が貧しい、悲しい という状況は普通で考えれば幸いな状況ではありません。しかし、キリストを信じ、聖霊が心に与えられて、その聖霊の助けを日々求める者は、心が貧しい、つまり心が破綻するほど苦しい、辛い、悲しい状況であっても、神様がともにいて慰め、ヘルパー(弁護者、聖霊)を送ってくれているので、その叫びを神様に訴えることが出来ます。そしてその渦中にいる時は幸いといえなくとも、その過程において慰めや助けが与えられていき、後になってであっても「幸いだ」と感謝が出来るのではないでしょうか。私たちの生活は物価上昇、戦争と世界の分断、コロナ以外の感染症の世界的拡大の脅威、犯罪の増加等不安定な要因は尽きません。しかし、永遠の命が与えられている幸いを覚えて感謝し、日々、聖霊に導かれ、神様に祈り求めていきたいと願います。
 


 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 」ヨハネによる福音書14章16-17節 


 *マタイによる福音書5章3-4節*


June 12, 2022

 30年ぶりの再会

 
 先日、突然、夫の高校生時代の親友が益子教会の土曜礼拝に訪ねてきてくれました。30年振りの再会で夫は仰天。30年間連絡を取り合っていなかったので、彼は夫の名前を検索し、ホームページだけを頼りに遠路はるばる訪ねてきてくれたとのこと、夫は大変喜んでいました。30年という時間はお互い人生でいろいろあったことでしょう。高校生の時から風貌は変わっていたとしても、声は同じで、目元に面影があるよねと、お互い再会の時を楽しんでいるようでした。

 するとふと、自分は学生時代から成長しているだろうかと思わされました。外見的には年を重ね変化はありますが、内側の成長や変化はあるのだろうかと。若い時、イエス様をまだ信じていない時は、一言で言い表すと「暗闇」でした。社会人として仕事をし、交友関係もそれなりに広かったのですが、希望がなく、いつも孤独でした。一時的な楽しみを求めていろいろ試してみたりはしましたが、いつも心の中に空洞があり、それを埋めるものに出会えなかったため、虚しさだけが残っていたのです。


 感謝なことに、キリストを信じる信仰が与えられてからは暗闇から光に移されました。困難なことが起こっても、生きる希望によって支えられているからです。イエス様を知り、イエス様の十字架に示される神様の深い愛によって救われ、2度と暗闇に戻ることはないという安心感が与えられていることは、なんと幸いでしょうか。一方で、暗闇に戻そうという見えない力もあり、誘惑も常にあることは否定できません。しかし、いったんイエス・キリストによる救いの喜び、聖霊の内住を経験すると、以前の古い生き方にとどまり続けることが困難になり、光の方へと導かれます。


 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 ヨハネによる福音書3:16


 上記のみことばにあるように「神の独り子」(イエス様)を信じる者が滅びず、信じた時から永遠の命が与えられて続けているおかげで、暗闇ではなく光のなかに日々歩めます。この与えられた「命」とは、日々内側を新しくされることを経験していくことだと思います。なぜなら、一回信じたらその後自動的にすべてがバラ色になるわけでなく、環境も、人間関係も自分の人格もしばらくは同じままかもしれません。新しい命には、私自身が様々な困難な状況に遭う度に、神様の心と同じ思いを求め、そして与えられて、内側が変えられていくという体験が伴います。そして、祈って助けられる度に、「神様の約束は聖書に書いてある通りだ」と神様に信頼し、これからも委ねていこうとする人生のあゆみが繰り返されていくからです。つまり神様によって信じた時から与えられる「永遠の命を持つ」*とは、神と共に日々新たに歩むことと言い換えられるかもしれません。

  日々みことばを読み、神様に祈り、また同じ信仰を持つ友と交わりの時(ともに思っていること、感謝、喜び、悲しみをシェアする)を持ち、もっともっと内側が新しくされ、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着け続けていけるよう、祈り求めていこうと思います。


  「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。 だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、 心の底から新たにされて、 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」 エフェソ信徒への手紙4章21-24節

 

 *「そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 ヨハネによる福音書17章2-3節






May 22, 2022

 邦画「マイ・ダディ」を観て

 

 ムロ ツヨシさん主演映画の「マイ・ダディ」を観ました。彼が演じる主人公は牧師で、彼の愛する娘が白血病となり、そこで初めて自分と娘との間に血縁的親子関係がないことが判明、骨髄移植のドナー候補の本当の父を探すことになるというストーリーです。すでに他界した妻と愛し合っていたと信じていた牧師の苦悩と、娘の命を助けるために追い詰められていく様子を描く親子愛のヒューマン・ドラマでした。おそらく監督はクリスチャンではないと思いますが、キリスト教のことをよく調べストーリーが作られています。

 映画の中で、教会でホームレスの人たちに炊き出しが行われている時に、ある人が「神なんか信じねえよ!」と言われながらも、牧師が笑顔で「〜さん、礼拝に来てくださいね」と優しく接する場面、白血病と告知された娘が「神様は耐えられない試練は与えられないよね。。」と父に訴えるシーン、何度も礼拝堂で静かに牧師が独り静まって祈る場面がありました。その祈りの場面を通して、人間同士の愛の背後で、目に見えない神様がその祈りを聞き、困難な状況の中でもあきらめずに生きようとする親子を導いている、そういう印象を受けました。


 今日与えられた聖書の箇所が試練についてでした。試練は、誰にとっても喜ばしいものではなく、出来れば避けたい、苦しみや悲しみを伴うことです。もし利益だけを与え、災いは退散させるという都合の良い神のイメージを求めれば、試練が起こった時「神がいるならなぜ、こんな事が起こるのか?」と不信仰にもなりえます。しかしキリストを信じる信仰の目でとらえれば、試練は私たちの信仰が強められるために与えられ、その信仰が本物であることが試されるために通る道であると記されています*。また、たとえ大切な人を失ったとしても、信じる者には天国で再会できるという希望があります。死んだら終わりではなく、またこの世でのことがすべてではなく、キリストの十字架を信じる者には永遠の命が与えられていることを「知識として」とらえるのではなく、自分自身が試練に直面する時に初めて「本当にそのことを信じているか」が問われます。もちろん、感情的には悲しみと寂しさ、苦しい思いは伴いますが、神様から与えられる深い慰めや励ましを受けて、その時期を乗り越え、これから先の神様の計画を信じて前進できる力が与えられることは幸いです。神様は試練を通るその真ん中で、寄り添ってともに歩んでくださる方です。神様は私たちの弱さもご存じですから、耐えられるように力を与えて下さいます。このことを体験すると、「やはり、神様は真実な方で、乗り越えさせてくださった、感謝!」と神様への信頼関係が増し加えられます。


 この半年の間に、自身の身内の間に次から次へと病気と怪我がおこり、心配なく平穏に過ごしていた時から目を覚まされた時期でした。まさに信仰が試され、覚悟を迫られたこともありました。またこれからも何度も起こるでしょう。神様は真実なかたであり、み言葉の約束とおり、私たちは神様に励まされ、強められ、さらなる試練も乗り越えると希望が与えらます。これは、本当に主イエス・キリストにおける神様の愛と恵によるものです。日々、様々なことが起こり、心が揺さぶられ、未熟な私は正直、時には叫びたくなることもあります。その都度イエス様がともに試練を乗り越えさせてくださるという、大きな恵、励ましを思い出し、すべてのことに感謝し、賛美を捧げていきたいと思います。


 
 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」 コリント信徒への手紙一 10章13節 (新共同訳聖書)


 
 *「それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」ペトロの手紙1 1章6-7節




May 4, 2022

 自然そのものではなく、自然を創られた方へ

 

 私たちの住む益子町は自然豊かな里山に囲まれていて、ちょっと行けば散策や短時間の登山ルートにアクセスが出来ます。先日も根本山という場所を歩き、鳥のさえずりを聞きながら、新緑の美しさや沼を泳ぐオタマジャクシを見ながら、心身ともにリフレッシュされて、この自然を創られた神様に感謝しました。近所にこのような場所があるのだから、もっと定期的に里山を歩く時間を取りたいと願いつつ、日々の忙しさでたまにしか来られない現実を思い、時間はあえて作ろうと努めなければ過ぎてしまうものと実感します。

 私はどちらかというと森林派ですが、海が大好きだという友人がいます。海へ行くと、癒され、パワーがもらえるからだと言っていました。確かに、海や山にはマイナスイオン効果というのが目では見えませんがあるそうで、空気も良いし体には良いので、癒し効果はあります。しかし、人間という者はこの自然を破壊することで都市生活の利便さを追求し享受してきました。自然を破壊しておいて、限られた自然に癒しを求めるという、自分でもなんとも矛盾した生活のように思えます。


 自然の癒しを感じる時、忘れてはならないのは、この自然を創られた神様に感謝することです。自然の営み、その調和を知れば知るほど、これらを総合的に設計された神様の業は素晴らしいと感じます。さらに、この自然を創られた目的は、私たち人間がこの地上で生きられるように、そしてキリストにあって救われるようにとあらかじめ天地を創造する前から計画されていたことが下記の聖書の箇所より知ることができます。また人はその与えられた環境を適切に治める仕事を神様から任されていることも聖書には記されています1*。この人の責任は重いということを覚えつつ、そもそもの人を創られた神様の目的、御心にいつも焦点を戻したいと思います。


 神様は人を愛する存在として創られ、人間同士も互いに愛し合うようにとイエス様は教えられましたが*2、現実はどうでしょうか。それが出来ていない理由は、人間の欲、自己中心な心、また創造主である神様の存在を無視し、勝手な神々を作り上げて拝んでいるという罪からではないでしょうか。この私を含む人間を救うために、神様はイエス・キリストをこの世に送って下さり、十字架で私たちの罪のために代わりに罰を負って死なれ、それゆえに信じる者が罪を赦され、神様と和解させてくださいました。このことは自然を創って下さったこと以上に重大な神様の業であり、今も復活されて天で生きて私たちの祈りをとりなして下さるイエス・キリストに感謝し、賛美を捧げるべき理由であります。いつも自然に触れることができなくとも、心身共に疲れていたとしても、キリストにあって、今与えられている恵とその救いの業に感謝し、たたえつつ、心の内側に神様からの愛と生き続ける力を求めていきたいと祈ります。


 
 「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」エフェソ信徒への手紙1章4-6節 (新共同訳聖書)


 
 *1 創世記1章29節
 *2 ヨハネによる福音書13章34節


May 3, 2022

 ウクライナ支援のバザー

 

  GWが始まり、初日は嵐のように激しい雨が降りましたが、2日目は良いお天気となりました。その日、茨城県土浦市にある教会でウクライナ支援のためのバザーを開催するということで、私たちは少量の物品を持参して参加しました。ここ数年の間コロナ禍でイベントの開催がされていなかったので、教会で行うバザーに参加するのは久しぶりでした。この売上金が少しでもウクライナの戦禍にある人々の支援に役立てばと願っています。

  ロシアによる侵略戦争として、ウクライナの惨状が毎日のように報道され、心が痛み、平和への祈りを続けています。一方、メディアに報道されないだけで、世界では他の国々でも内戦が続き、人々が苦しんでいます。私たちの教会関係の友人はアフリカのカメルーンという国の出身で、日本に宣教師として来ている夫と共に日本に在住しています。彼女の国は植民地時代の名残による内戦が続いており、同じ国民同士が残虐な殺し合いをしており、その見せてもらった写真には、ぼかしなしの死体がたくさん写されていて、衝撃的な映像でした。国連も、関与していません。また、ウクライナでの戦争が始まる以前から続くミャンマーの軍事政権の状況は、報道されなくなりました。私たちは、世界で起こっているすべてのこと全てを把握できません。どんなにインターネットが普及していても、報道統制があり一部だけなのです。


 聖書に「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」*としるされています。完全なものが来た時には、部分的なものが廃れるとあります。しかし、いつまでも残るものがあり、それは信仰と希望と愛だと記されています。


 私が今生きている時代も過去も、情報が開示されている部分しか知ることができず、ましてや未来を知ることはできません。一部のことしか把握できないし、日々新しい情報と入れ替わっていき、それらに信ぴょう性があるかも疑問です。しかしながら、どんなに時代が変わろうとも、この体が滅びようとも、私の魂が持ち続けられることは神様への信仰、希望、愛であり、そしていつか部分的にしかわからなかったことがすべて知られるようになるという、この神様の約束が与えられているのは幸いです。この愛は神様の愛であり、感情に左右されてしまう人間の愛ではありません。神様の愛は無償で与える愛、忍耐する愛、柔和な愛であり、私は自分の持ち前の気質で表すことは困難です。日々、部分的な情報や自分のその時の感情に支配されないように心がけ、神の言葉である聖書を読み、平和を祈りつつ、すべてのことにおいて、そこに愛はあるのかと、神様の導きを求めて過ごせたらと願います。


 
 「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」コリント信徒への手紙1 13章12-13節 (新共同訳聖書)


 
  *コリント信徒への手紙1 13章8-10節


Apr. 10, 2022

 解放の年:ヨベルの年

 

 「まっ、過去には戻れないんだから」私が職場から帰ってきて、その顔色や様子で今日も大変だったのだろうと夫が察します。私は具体的内容について言いませんが、うまくいかなかったことで私が落ち込んでいることは分かり、夫がよく言う言葉です。そのとおり、落ち込んでも時間を戻すことができないので、気持ちを仕切りなおして前に進むことにしています。日々、悔い改めることは祈り、すでに起きてしまったことは神様に委ね、今後も助けてくださいと祈りながら、今の職場に勤め続けられるのは、神様の憐みと恵によります。

 昨日参加した、アジア学院という農村指導者養成専門学校の入学式の校長のスピーチの中で、創立50周年であること、この50という数字は聖書的に「ヨベルの年」といって、解放の年*1であることが話されていました。50年目ごとに、奴隷として売られた人は自由人になれる、借金が免除される等、神様がイスラエルの民に解放すべき年として律法に制定された年です。またこの解放が、後に救い主であるイエス・キリストによってなされる解放の予表であることを下記の聖書の箇所から思い起こしました。


 主がわたしを遣わされたのは、
捕らわれている人に解放を、
目の見えない人に視力の回復を告げ、
圧迫されている人を自由にし、
主の恵みの年を告げるためである。*2


 現代のように人権が尊いとされる時代であっても、物理的に奴隷状態の人がいますし、さまざまな障がいにより不自由な状態の人もいれば、精神的に縛られている人がいると思います。それが他者による束縛である場合と、自分自身で心を縛っている場合もあるでしょう。いずれにしても、イエス様は捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にして下さる、救い主であると、聖書は記しています。このことを信じれば、すべてのことからの解放が与えられるからです。


 もちろん、クリスチャンになったからと言って、すべてが順調にいくわけではなく、また信じたからといって突然性格や人格が変わるというケースはそう多くないと思います。多くの人は、キリストを信じて、救われた喜びを味わい、心が生まれ変わっても、その人をとりまく環境や状況が変わらない場合もあります。しかし、周りがかわらなくとも、信じた人の内側が聖書のみことばによって整えられ、徐々に神様の力で変えられていくという希望が与えられます。それが神様の約束だからです。内側から外側へとその影響が現れるのには時間がかかると思います。しかし、時間がかかっても、神様は忍耐を持って徐々に変えて下さり、過去を振り返って悔やむという後ろ向きな姿勢や、昔の他者に対して苦い思い出からも解放してくださる方であります。そして、なすべきことは、ひたすらキリストのために生きるという目標に向かって、時にはつまづきながらも、時にはうずくまって止まってしまうことがあっても、この世での歩みを聖霊の力によって助けられ前進していこうと、今日のみことばから示され、励まされました。

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。 」フィリピ信徒への手紙3-13-14 (新共同訳聖書)


 
  *1 レビ記 25章8節〜10節
  *2 ルカによる福音書4:18-19


Feb. 27, 2022

 ウクライナの平和のために

 

  誰も戦争を望んでいません。しかし一部の政治家たちの間でことが始められてしまい、多くの人々が犠牲になる。これほど理不尽なことはありません。多くの人が反戦を訴え、話し合いを呼び掛けていますが、一度始まってしまうと止めることが困難となってしまいます。また当事者以外の国は、どうかかわるべきか問われます。戦争の難を逃れて隣国にいる人々のために、たとえば物質的支援を送ること、これが日本国のとれる立場ではないかと思います。国連もNATOも両国に休戦を呼び掛けることをしてほしい。しかし現実は、火に油を注ぐこと:戦っている国に武器を供与することが始まってしまったのは非常に心が痛みます。ウクライナの人々は世界が彼らのために何もしてくれないと思い、失望しているかもしれません。ナチスがポーランドへの侵攻を始めたとき、またユダヤ人虐殺がなされていた時、世界は何もできなかったこと、結局、世界大戦という戦争に発展してしまったという歴史を鑑み、同じことを繰り返してはならないと叫びたいのです。

 今祈ることは、一日も早く終戦となること。そして日本が破壊されてしまった街の復興を経済的に支援していければと願います。日本に在住のロシア人も、ウクライナ人も祖国の家族を思い、心が張り裂けそうな思いで過ごしているのを、ニュースのインタビューからも知り、ウクライナの平和のために日々祈り続けようと思います。そしてその祈りは必ず神様が聞いてくださることを信じて。


 キリストは私たちの間に平和が造られるために、十字架にかかって死なれました。それは、キリストを救い主として信じる個人が広がり、コミュニティとなり、そしてもっと大きな団体となって、単なるヒューマニズムでの戦争反対ではなく、キリストを信じる信仰に基づき、互いに赦しあおう、争いはやめようと決意と祈りが、国をも動かす原動力となるように、神様の御業がなされるように祈りたいと思います。



 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節


 
 
   (引用:新共同訳聖書)





 

 キリストは私たちの間に平和が造られるために、十字架にかかって死なれました。それは、キリストを救い主として信じる個人が広がり、コミュニティとなり、そしてもっと大きな団体となって、単なるヒューマニズムでの戦争反対ではなく、キリストを信じる信仰に基づき、互いに赦しあおう、争いはやめようと決意と祈りが、国をも動かす原動力となるように、神様の御業がなされるように祈りたいと思います。


 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節


 
 
   (引用:新共同訳聖書)





 

Feb. 6, 2022

 一人より二人、二人より三人

 

  益子教会では木曜日の夜に聖書の学びとお祈りの会を毎週開いています。最初は二人でしたが、徐々に一人、二人、三人と加えられ、多いときには六人集まることもあります。聖書を学んでみたいという方で、祈り方がわからない、人前で祈るのを躊躇される方は、祈ってもらいたいことを分かち合い、他の人が祈るのを聞いています。この会に集まることで、お互いの今困っていること、悩んでいること、また感謝したいことも含めて話せる範囲で分かち合い、お互いのために祈りあうので、自然と親しい間柄、家族のようになれるのでとても幸いです。

 独りの祈りも大切ですが、このように複数で祈るともっと力があります。最初の教会ができた頃、使徒ペテロが迫害のゆえに、ヘロデ王により投獄されました。すでにヤコブが捕らえられ殺害された直後でしたので、信徒たちは一つのところに集まって熱心にペテロのために祈りました(使徒言行録12:5)。すると、その祈りは聞かれ、天使によって奇跡的にペテロは牢から脱出でき、また公然とイエス様の福音を皆に話し続けることができたのです。イエス様は下記のみ言葉にあるように、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 」と言われました。そしてイエス様は目に見えないけれども、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあり、心を一つにして祈っているその祈りの中にいてくださっているという約束は、複数で祈る強みに確証を与えてくれます。


 複数で祈ったとしても、祈りの聞かれるタイミング、方法は私たちの思った通りではないことがあります。また、上記の迫害の時代に、皆が殉教しないように互いに熱心に祈っていたことでしょう。しかし、現実は信仰のゆえに殺されたクリスチャンは大勢いました。それは祈りが聞かれなかったのではなく、その時は悲しいけれども、神様はその殉教された人々を通して次の世代へつながる何か計画があったのだと信仰で受け止めたいと思います。その悲しみはいつか天国で再会できるという喜びに変えられるという希望も与えられています。一方、もし自分に都合の良い祈りがすべて、すぐにきかれてしまったとしたら(例えば今すぐ100万円宝くじ当たりたい)、世の中はどうなるでしょうか。自分には把握できない多くの他者の都合や願いが、私の思いと都合と相反する可能性があります。その相反する人の祈りも、イエス様のみ名で同時に神様に祈られているのです。結局、すべての人の状況を把握できるのは、神様だけであります。祈ったことは必ず聞かれていて、神様のタイミングと方法でその祈りが答えられるのは感謝です。その神様に委ね、どうなるか任せるのが一番だと思います。


  私は個人的にこの数か月、様々なハプニングが起き、どうなるのだろうかと思うことが同時多発、仕事の忙しさも倍増し、今この時期をどうやって乗り越えられるのか思い煩いが多くあります。しかし、その都度心は不安になったとしても、祈ったことは神様に必ず聞かれているという信仰が与えられているので、不安で寝られなくなるということはありません。自分の思う通りにならなくとも、神様に委ね、「たとえそうでなくとも、神様の導かれる道へ進んで行こう」と聖書の言葉に日々励まされて、歩んで参りたいと思います。


 「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 マタイによる福音書18:19-20


 
   (引用:新共同訳聖書)





 

Feb. 5, 2022

 キリストにある自由

 

  自由という言葉をどうとらえますか。逆に自由の反対語は何でしょうか。束縛、不自由、奴隷。生活の中でどんな時に、自由がないと感じるでしょうか。一般的に自由とは、人から強制されず、自分の意思で選択肢がある中から何かを選べる状態といえますが、社会という共同体の中で生きている限り、何かしらの制約があります。また、自由や権利の主張は、責任を果たせるかどうかも関わります。

 一方、自分で自分を不自由にしてしまうケースもあります。例えばある人に対して敵意や憎悪、イライラする思いを持ち続けると、その苦い思いが心を支配し、それに囚われてしまいます。また「あの人は私に対してこう思っているに違いない」と被害妄想にもなりかねません。しかし、相手と話してみると、そう思っていないことが、そんなつもりはないということが分かるということがありがちです。しかし、対面で話合わず、ネット上でのコミュニケーションだけで放置しておくと、疑心暗鬼となり関係が悪化してしまいます。また、病気・障がいのために自由が利かない生活もあります。しかし、ある状況を自由ととらえるか、不自由だと思うかはその人次第という面があるでしょう


 キリストの十字架による救いは、そんな私たちの人生を変えます。私たちの状況にかかわらず得られる、心の自由を得るために奴隷状態から解放して下さったのです。しかしクリスチャンになった後でも、不自由だ、何かに束縛されていると思うことはあるかもしれません。その不自由さを、前述のように自分で作っているというケースもありますし、もしくはある人の影響が強すぎて、束縛されているケースもあるかもしれません。もしそうであれば、神様に祈り、心を自由にしてくださいと祈る必要があるでしょう。


  また私たちを不自由にする原因の一つは、自己中心的思いとです。使徒パウロは下記の箇所でも、「愛によって互いに仕えなさい。」と言っています。私たちは基本的に何をしてもよいですし、当時のユダヤ人が律法という生活の隅々にわたる細かな守らなければならない規定に縛られることもないのですが、パウロは自由であっても、益にならないことをすべきではないとも言っています。* つまり、自由なのだから何をしてもいいのではなく、平和をお互い保つために、互いに配慮しあう必要があるからです。


 イエス様の教えで「神を愛すること」、「隣人を愛すること」が律法のなかで一番大切だと教えました。しかし、各々に与えられている自由を乱用すると、神様をも隣人をも愛することができません。私を含めた人間は肉の思い、自分が損をしたくない、気分を害されたくない、自分が好きなことをしたいという思いをもってしまうものです。しかし、争いのあるところにキリストの平和はありえません。多くの争いの原因は、「自分が正しい」と互いに言い合うことから始まります。争いは罪を犯させる機会となってしまいます。私たちはみな考え方も異なるし、立場も違い、利益が相反するものです。しかし、キリストが私たちに忍耐してくださったように、私たちも互いに忍耐しあい、仕えあうことを目指したいと願います。これは、本当にハードルが高いことです。日々、自分が自己中心であることを悔い改め、仕切り直し、寛容な心を神様から与え、キリストがその尊い命をかけて与えた下さった自由を、他者との関係で愛する機会に用いていけるよう、聖霊に導いていただきたいと願います。


 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。 」 ガラテヤ信徒への手紙5章13-15節


 *「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」 第1コリント信徒への手紙10:23-24
   (引用:新共同訳聖書)





 

Jan. 10, 2022

 土壌のたとえ

 

  自然に熟成してできる肥料が土に撒かれれば、手間はかかりますが作物にとってよい土壌となるでしょう。先月、アジア学院という農業指導者養成専門学校へ見学に行ったときに、「ぼかし」という有機肥料がどのように作られるか説明を受けました。大量生産をする農場では人工的に作られた肥料を散布して作物を植えますが、ここではすべてを循環させ、無駄なく再利用されているという説明を受け、まさにSDGsにのっとった生活が行われていると感銘を受けました。しかし、この作業には手間と時間がかかります。現代はスピードをもって大量生産・大量消費という、利益優先のもとに行われているので、結果的に自然の循環を崩して食料を生産している社会であります。便利で効率的、スピーディの半面、自然の循環にひずみを生じさせ、また人は何事においても時間をかけることをマイナスととらえ、短気になり、忍耐力を育てていくことができないという現象がある、このことにどれだけの人が気づき、問題意識をもって、改善しようとしているでしょうか。

 聖書の中で有名な「種まきのたとえ」があります。イエス様は人々に何かを伝えるとき、身近なことをたとえて話をされました。この種まきのたとえは、種をまく人が、いろんなところに撒きます。道端、岩地、茨の生えている地、そしてよい土壌の地。常識的には、種をまく人は作物を育てるためには良い土地にしかまきませんが、このたとえでは、とても作物が育たないだろうという場所にさえ、種がまかれます。私はこの「種まきのたとえ」が「土壌のたとえ」でもあると思います。種は聖書のことば、み言葉のことです。み言葉は一部の人々だけではなく、すべての人に伝わるように神様はその人の人生の中で、必ずみ言葉に触れる機会を与えて下さるはずです。しかし、そのみ言葉を受け取る側の心の状態によって、芽がでないもの、出ても枯れてしまうもの、成長して実を結ぶものがあります。そのことをイエス様はこう解き明かしをされました。「だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」*1


 クリスチャンになった時、つまりイエス・キリストを救い主だと信じた時はいわば霊的に生まれたばかりの赤ん坊です。そこからスタートであり、大人として成長していかなければ実を結ぶまでいかないでしょう。聖書でいう実とは、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」*2とあり、その人の品性がキリストのように愛ある心と行動に移せる者へと変えられ、他者に示していくことだと思います。この霊の実は工場ではなく、有機栽培の農場で生産される実であり、一晩では実を結ばないし、時間がと手間がかかることです。時間と手間をかけて、心の土壌を耕し、豊かにしていくことは私たち人間の側がすることです。日々み言葉にふれ、祈って神様とのコミュニケーションを続け、神様を礼拝する、これらは最低限の必要な「手間」なのではないでしょうか。


  幸い、神様は寛容で、忍耐深く、情け深い方であるので、今の心の状態が道端であっても種をまいて下さる方です。私自身、短期で、忍耐がなく、失敗を繰り返すものでありますが、神様の愛を注いでくださいと求め続け、この愛の実を結べるように心が変えられて、周りの人と接していきたいと忍耐をもって祈り続けたいと思います。

 

 「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。 」マタイによる福音書13章23節


 
  *1マタイによる福音書13章19-23節

  *2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節  (引用:新共同訳聖書)





 

Jan. 9, 2022

 新しい年における望み


   朝起きると、外は一面銀世界が広がっていました。昨晩から降り続けた雪が、益子の町の里山と畑を真っ白に覆い、車を運転していてつい見とれてしまう程ですが、スリップしないように慎重に運転をしなければなりません。毎年一月の中旬は大雪になることが多く、降雪による不便もありますが、それでも雪景色の美しさには感動します。神様の創造された自然をしばし堪能できることを感謝いたします。

 先日、黙想のために読んだ箇所がこの詩編でした「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」。日々の生活の中で、自分はどれだけ黙って、心静かにしていられる時間があるのだろうと思います。ニュースを見れば、感染拡大のニュースが不安をあおります。私の周りにはまだ感染した方がいなくとも、勤務上3回目のコロナワクチンを打たねばならず、今朝はその副反応の頭痛もあり朝起きるのが辛く、いつまでこれを繰り返すのかと思うこともあります。それでも一日が終わる際に床につき、今日一日を振り返ると、神様がともにいて下さった、感謝だなあと静まって神様に祈る時間が短くともとれて、安心して眠りにつけるのが本当に幸せだと思います。こんな不肖の私にも拘わらず、神様は日々良くしてくださり、恵みを下さるので、ついこんな愛の神様に甘えてしまいます。


 日常生活のあわただしい中で魂が静まっていられるのは、容易なことではないです。それでも私が主を信頼し、心静かになれるところに戻れるのは、何もできない赤ちゃんが、時折ギャーと泣いて自分の不安を訴えますが、その後母親の世話のもと安心して眠れるかの如くです。自分は体と気持ちは大人ですが、今自分の力では何もコントロールできない、無力であることを実感せざるをえない社会的状況におかれています。ですから基本は母親に頼る赤ん坊のように、神様にゆだねるしかないのです。私はいろいろなことが起こっても、この信頼のもとに天の父なる神様の御手の中にすべてゆだね、平安に過ごしたいと願います。


 私たちが信じている神様は、誠実で、約束を守られる方なので、聖書に書いてある平安の約束に基づく希望と、わたしたちに注がれる神様の愛を信じて、今年も一歩一歩歩んでいきたいと思います。


 「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。 」詩編62編5節

 

 




 

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