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今日のわか ちあい
♪Today's Sharing♪

Apr. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
エイプリルフール 8つの「幸せの逆説」 @心の貧しい人 8つの「幸せの逆説」 A悲しむ人 8つの「幸せの逆説」B柔和な人
8つの「幸せの逆説」C義に飢え乾く人 8つの「幸せ」 D
憐れみ深い人
8つの「幸せ」E心の清い人 8つの「幸せ」F平和を作りだす人
8つの幸せG義のために迫害されてきた人は幸い マンハッタンの消灯期間 for 渡り鳥 オバマケア 文書管理のルール

Apr.22, 14 ”文書管理 のルール”

「どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」 ルカによる福音書13-15節

 本日は、仕事で某企業が主催する文書管理のセミナーに上司と参加してきました。これは販促の一環で、効率的に文書管理ができる商品を売るためのものでしたが、お昼においしいお寿司が出され、私はとてもエンジョイしました。どんなに優れた文書管理のツールがあっても、それをルールーに基づいて用いないと意味がありません。文書管理には社内の皆が検索できるよう、電子文書化する際にファイル名の付け方にルールが必要です。それを好き勝手につけると、社内の皆が検索できず共有できません。また何でも共有ドライブに保存してしまうと、不要なものまで保存され容量がかさみます。このツールには色々な機能があって興味深かったです。
 社会で人々が共存するにはルールが必要です。そのために法律があり、家庭の中でもそれぞれルールがあるはずです。それをかまわず、好き勝手にする人、自分がしたいことをし、それを開き直るという人もいるのが残念です。ルールは人を縛るためにあるのではなく、互いを守るために本来はあるはずです。しかしながら、時に人はルールの目的よりも、法律を守ることを強調してしまい、柔軟性がないとその弊害が出るものです。
 聖書ではルールのことを律法といって、神が選ばれた民、古代イスラエル人に神の律法を与えて守るようにされました。それが聖書に書かれていて、近代国家の刑法、民法の元になっています。しかし、イスラエル人はそれらを守れないし、だんだんルールを表面的に守ることに執着し、それで神に正しいと認められる、つまり心では何を思っていても外見だけ守っていればいいと、偽善的になりました。そこで今日読んだ箇所のように、イエス様はその当時の権威である法律家を偽善者と、真っ向から非難しました。神は表面上の儀式や行いではなく、心の動機、心が神に従おうとしているか、神に対して低い姿勢を問われますので、かなり厳しい基準です。
 二心は神が嫌われれるのです。また、人に対しても同様です。苦い思いを持って、影で悪口をいいながら、本人の前ではニコニコしておべっかを使うなど、私たちが立場上しがちな裏表のある顔を持ってしまうかもしれません。しかし、二心をもたないようにするには、神様に助けて頂く必要があります。自分の持ち前の資質だけでやろうとすると非常に難しいことで、日々失敗し疲れて嫌気がさします。しかし、その失敗してしまう自分のために、その弱さのためにキリストが十字架にかかってくれたことを覚えて、失敗したらその過ちを告白し、赦しを毎回受け取れることは感謝です。そして毎度仕切りなおせて、徐々に心が変えられていくことを聖霊の力で可能であると期待したいです。
 私たちは人を恐れるのではなく、私たちの動機を、心を探ることが出来る神を畏れるべきだと思わされました。キリストがいるおかげで、こんな高い基準で心を見られても、裁かれて責められて終わりでなく、いつでも悔い改めて赦しを受けとれる、これほど安心していられるのは幸いです。
Apr.19, 14 "オバマケア"

「あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で
あなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、
石に足を打ちつけることのないようにする。」  詩編91:11-12編

 昨日、地下鉄を乗り換える時に、階段をいそいで駆け降りた時、何がおこったか覚えてないのですが、つまづいて落ちてしまいました。幸いこの階段は両側だけでなく狭い階段ですが真ん中にも手すりがあったため、両手でそれを掴むことが出来、体は一回転して、すねとおしりをうつだけですみました。周りの人が「Are you OK?」と心配そうに声をかけてくれました。すねが膨れ上がり、痛みで足をひきづることに。私はよく転びますので、階段はかけてはいけない という意識はあったのですが、とっさにそれを忘れていました。もし手すりが真ん中になければあの状態だと、頭からおちて大怪我をしていたところです。
 私は今、保険がアメリカで非加入状態。今年からオバマケアといって、日本のように国民皆保険が導入し、強制加入を義務づけられました。低所得の人はそれなりに安い保険料でカバーされるのですが、私のような中途半端に収入がある中の下となると、日本のように所得スライド制でなく、あくまでも国が民間の高い保険会社に委託しているため、最低のプランでも月300ドル(3万)以上の保険料と算定されました。加入しないと罰金(年収の2.5%)も科せられますし、一応この国に住んでいる限りは義務は果たさなければならず、近々には入らなければなりません。病気によっては、最低のプランだと自己負担が巨額になることもあり、日本の制度と比べると非常に負担が大きい制度で、さらに税金を払うかの感覚です。
 今日ちょうど読んだ箇所を見て、私のこの転倒は、ああ天使が助けてくれたんだなと、本当に感謝しました。私の人生の中で、高速道路での居眠り運転、雪道でのスリップという何度か非常に危険な目にあいましたが、いつも見えない手で助けられていると冷や汗もので感謝です。今までアメリカで4年間、無保険で、大きな病気、事故をせずにこられたのは、本当に神様の守りとしかいいようがありません。しかし、これからは高い保険料を払い、病気事故を避けるために、危険な場所はいかない、危険なスポーツもしない、日ごろの食生活も最低限大事にするなども留意しないと、と今回の転倒で反省しつつも、いつも神様を避けどころとしている限り、安心してその守りの中にいられることは感謝だとしみじみ思わされました。
Apr.17, 14 "マンハッタンの消灯期間 for 渡り鳥"

『何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。』
マタイによる福音書7章12節

 夜景がすばらしいNYのマンハッタン。私は川向こうのBrooklynというところに住んでいるので、帰宅途中の地下鉄がちょうど橋を渡るために地上に出るので、ほんの少しの合間に川沿いから見ることができます。朝、橋を渡る時にも、感謝の祈りを心の中で神様に捧げながらマンハッタン島を眺めます。
 ところがこの美しい夜景の犠牲を被っているものがあると、今日、職場連絡で知りました。渡り鳥です。毎年4万匹の渡り鳥が、この夜景に引き寄せられて、明かりをめがけてビルの窓に衝突して死ぬそうです。よって、今年も4月下旬から6月くらいまで、夜間高いビルは消灯しようという運動があり、私の職場のビルもそれに参加します。遅くまでオフィスで働く人は、ブラインドを閉めるか、もしくはデスクの周りのライトだけつけて仕事をして下さいとの依頼が全館にきていました。
 渡り鳥は驚くべき野生の本能で何万KMも群れになって空を飛んでいきます。彼らは時に飛行機に巻き込まれたり、人間のシステムと共存するのは困難になってきているようです。”Save the birds, Save the energy”鳥を救い、エネルギーを節約。観光地という場所柄、節電と縁遠い街マンハッタン。24時間365日、光光と明かりをつけた店も多く、夜景のためにビルの電気がついていて、地下鉄も24時間走っています。この金儲け主義の世の中において、観光用の夜景よりも鳥を優先する期間を設けた団体はエライ!と私は感銘をうけました。
 聖書の初めの部分、創世記には神様がどのように天地を創造されたかが書かれていて、最初地球が作られた時、人と自然は調和して、人間が自然の管理を任されました。しかし、人が神様に逆らって罪を犯してから、この地は呪われ、また人間も霊が死んでしまい、自分の都合で生きる、自分で善悪を決めるようになってしまったと書かれています。この人間の堕落は自然界へも影響しています。現代は地球温暖化、巨大な地震、異常気象と、自然のバランスが崩されていることは、一般人にも明らかです。ですから産業化の行き過ぎを反省し、エコロジーという考えや、原発問題により代替エネルギーの開発、リサイクルも進んでいますが、やはり巨大な政治的権力がそれらも阻み、限界があります。人間に対しても第三世界の人々の労働力が搾取されています。
 ほんの身近な小さいところから、自然の動物、自然に対して配慮する、調和することはできるはずです。人間同士もそうでしょう。自分の都合よい、物事が特急に進むファーストフード化してしまっている中で、たとえ効率が悪くても、損をしても、相手に譲るくらいの気持ちを持ちたいと、今日の箇所でイエス様が言われたことを思い出します。イエス様は神の子なのに、自分が仕えてもらうのではなく、人々に仕えるために地上にこられて、十字架の死に至るまで従順でした。人が命をえるために、ご自分の命を犠牲にしてくれました。そのキリストの姿勢を、イースターの時期だけに思い出すのではなく、日常生活の中で日々思い出し、キリストの姿勢を見習いたい、そして実行できるものに、変えられていきたいなあと思わされました。
Apr.14, 14 ”8つの「幸せ」G 義のために迫害されてきた人”

「義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、天国は彼らのものである。」マタイによる福音書5章10節

 日本でクリスチャンになって、家族から大反対をされたとういう話をよく聞きます。たとえば、檀家の長男の人がもしクリスチャンになろうとすると、「先祖代々の家をどうしてくれるんだ?」と。在る方々は内緒で洗礼を受け、教会に通う方もいるそうです。しかし、”家”というしがらみは、個人の信仰を妨げれません。家系はその人の人生に対して何か責任を取ってくれるわけでもなく、ましてや死んだ後のことを確実に保障してくれるものではないからです。
 今日の最後の8つの幸せの最後は、義のために迫害されてきた人は幸いである。反対されて、酷い目にあって幸いというのは逆説ですし、理解に苦しみます。しかし、ここでは”義の為に”とあるように、キリストを信じる信仰のゆえに迫害される場合をさしますし、また今までの7つの幸せの性質が形作られてきた人が迫害されるようになるという文脈があります。
 今までの7つの幸いな性質をもった人が周りにいて、関わりあうようになると、「いい人だな」と好意的にとる人もいれば、「なんであんなにまじめなんだ?付き合いも悪いし」と、避ける人もでてきます。もし、興味もないのに、聖書の話、神の話をされたら「宗教の話はやめてほしい」とドン引きする人も多いでしょう。私は信仰のことは、自分から積極的に話すというよりも、相手から質問されて説明することが多いです。興味のない人に説明するのは、逆効果と思うし、何につけても相手が嫌がっていることをしたくないというのが、私の姿勢です。しかし、ここでは逆説なので、ある意味、”逆効果”なことをして、嫌がられるリスクを負ってでもキリストを証しする人は幸いとなることになります。
 日本では、宗教イコール危ない、洗脳というまちがったイメージが、オウム真理教の事件以降形成されています。しかし、オウム真理教のようなカルト(反社会的な活動をする宗教団体)と、歴史的に病院や社会事業のほとんどを始めてきたキリスト教を一緒にしてしまうというのも、非常に悲しい現実です。なぜ、情報を得もしないで、危ないとか、洗脳ときめつけるのでしょうか。おそらく恐れだと思います。自分が一度入り込むと逃げられないという、実際そういう新興宗教も存在するからです。しかし、真の神を信じることは、洗脳とか、強制する必要がないのです。神は自由意志を人に与えたのですから、もし洗脳するつもりであれば、最初からロボットのようにプログラムして人を創れたのです。ですからキリスト教に関しては情報を得、聞いて、自分の意思で判断し、嫌なら撤退すればいいのですから、恐れる必要はないのです。
 なぜ信仰のゆえに迫害される人は幸いで、天国は彼らのものなのかというと、天国で報い(リワード)が大きいからだと、続いてイエス様は言われています。また信じて従う者は必ず迫害を受けるともイエス様は予告されていて、実際2千年前の初代の信徒達は、最初はユダヤ人に、そしてローマ帝国に迫害にあい、多くの人々が殉教してきました。現代でも、一部の国々、イスラム国においてもキリスト教に対する迫害は実際あります。信仰の自由が唄われている国々でも信仰ゆえに冒頭に書いたように家族から非難されたり、プチ迫害はあるでしょう。
 今のところ、私は迫害にあっていないので、天国でのリワードが小さい。しかし、天国ではもはや人と比較しない世界で、”あの人は行いがよかったら位が高い”とか”リワードが大きいからいいなあ〜”とうらやましく思う心が不在なのです。そういう罪の性質は天国の体ではなく、互いに喜べるのです。自分に任された小さいことを、迫害がくることも覚悟しつつ(正直自分では受ける自身ない)キリストを証しできる力を上から与えられたいと願うのみです。
Apr.13, 14 "8つの「幸せ」F平和を作る人"

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」 マタイによる福音書5章9節

 「反挑発法」という法律が現代のイスラエル政府にはあるそうです。他国がイスラエルのことに対してヘイト・スピーチ(憎悪に基づく発言)を表明しても、それに対して挑発された発言を公共でし返すことを禁止する法律なのでしょうか。*1 詳細については知りませんが、もしそれが適切に実施されれば、更なる紛争を避けうる、平和的な法律と思う半面、法律で禁止しないと抑えられないほど、互いの発言に挑発され、ますます争いがエスカレートする状態なのだろうと、その深刻さが伺えます。
 イエス様は「平和を作りだす人は幸い」と言われました。ここも一般的平和の意味を含みますが、クリスチャンにとって、平和を作る人となるためには、まず自身と神との平和が前提です。なぜ神と和解する必要があるのでしょうか。それは、神と人とは罪のゆえに断絶があり、その和解をさせるために神の子であるキリストが死なれたからです。十字架という形は縦と横の木の棒を交差させたものです。今ではアクセサリーとして美しく、また教会の建物の上に建っていますが、実際これは死刑の道具なわけで、いわばギロチン台のモチーフを首から提げているようなものです。しかし、クリスチャンはこの死刑の道具が、キリストが私たちの罪のゆえ、神から本当は責められるべく、怒りを受けるべく者なのに、代わりにイエスが十字架で死刑にされて神の怒り(全人類分)を受けた場所、神の愛が現れた場所のシンボルとして大事にしています。また、この十字架の縦の木の棒が神と自分との関係を示し、横の木が自分と他者との関係を示すとも言われます。つまり、キリストによって得た平和・愛の性質を頂いて、他者に適用しようとおのずと思うようになるわけです。
 キリストの使徒パウロは「全ての人と平和を保ちなさい」と書いています。*2 しかし、実際人間関係ほど難しいものはないです。親子、夫婦関係、職場での関係、友人関係、教会関係でされも、一度壊れた関係を修復するのは容易ではなく、だいたいあきらめて、距離を置き、会わないようにする方もいるのではないでしょうか。自分が悪気もなく相手を傷付けてしまい、そのことも知らず、相手が黙ったまま敵意を持って離れていってしまう場合は、どうしようもないです。神の平和の性質が形作られるのは、忍耐を要します。相手の感情があってのことですし、時間もかかり、最悪2度と会うこ機会もないかもしれません。しかし可能な限り、和解して、謝ることがあれば謝りたいですし、互いに仲良くできれば本当に幸いでしょう。
 平和を作る人は、神の子と呼ばれるとあります。これは神ご自身が平和という性質を持たれるので、キリストを信じている人は神の子供とされるから神の子と呼ばれます。ピースメーカーのもう一つの側面は、神と他者を和解させることに仕える、つまりキリスト伝道する人のことも平和を作る人になります。これはかなり、チャレンジなことですが、聖霊の助けを求め、自身が信仰の妥協をすることなしに、他者と出来る限り平和を保ちつつ、また他者にキリストを信じることが平和につながるということを、折にふれて伝えていけたらと願います。結局平和のあるところは、幸いもあるから。

*1 月間「ハーベストタイム」3月号「城壁の見張り人の祈り」より
*2 ローマ人への手紙12章18節
Apr.12, 14 "8つの「幸せ」E心の清い人"

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」 マタイによる福音書5章8節


 土曜の昼下がり、洗濯をするために向かいのランドリーに行き、ふと備え付けのTVの画面をみると、何の映画かわかりませんが、ブラッド・ピッドが目に入りました。イケメン。女性はこれに弱いですね。しかし、かっこいい人は女性にもてるので、その人が余程しっかりしていないと誘惑も多いし、人生しがらみも多いと察します。
 聖書の中に古代イスラエルの王様で、ダビデというかなりのイケメンで、勇士で、男っぽい人がでてきます。彼は戦いで先頭にたって敵を攻め、大勝利をもたらすため、当時の女性達の注目の的で、皆に愛されました。また竪琴も奏でて、詩も作れるという多才。しかし彼は他のイケメンの男性の例にもれず、女性には弱かったことがはっきり記録されています。彼が部下の奥さんを取って自分のものにする為に、部下を戦場でわざと死ぬように手配、事実上殺人を指示したわけですが、表面上で戦士した夫の未亡人を引き受けたかのよう、そんな卑怯な手を使ってまで彼女を手にいれました。すでに何人も奥さんがいたのに関わらず。
 しかし、彼はその卑劣な罪に対して、神に悔い改めて赦されました。そして、彼の作ったたくさんの誌は、詩編として残され、重要なメシヤに関する預言も含み、魂を励まし、ふるいたたせる、神をどんなに慕い求め、愛していたかを表す詩として、現代に生きる私たちがどう神に祈っていいかの手本として、残されています。神は品行方正でなく、欠点があり、酷いことをしたとしても、イケメンでなくても、魅力のない女性でも、ご自分の約束の実現のために長期的展望で、不完全な人々を使われるようです。以下は彼がこの悪事を悔い改めた時作った詩です「み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。わたしをみ前から捨てないでください。」(詩編51:10-11)
 清い心の人とは、文字とおり内側の心の清さ、二心のない、誠実な心を持つ人でしょう。皆さんの日常生活で周りに清い心の人はいますか?私の周りは、私を含めてあまりいないようです。この不条理な悪がはびこる世に生きている限り、自分の意思や性格で清さを保ち続けるのは不可能のように思えます。どうすれば心が清くされていくのかというのが、聖書に書いてあります。この幸いシリーズの文脈にそうと、神の性質が形作られていくプロセスの中で、自分が清くないことを自覚できる人は幸いなのです。なぜなら、自覚があれば、神に求め、悔い改めが示されます。すると神はその罪を赦し、全ての悪から清めてくれると書かれています(第一ヨハネの手紙1章9節)
 ご自身が清いと思っておられるかたは、それはご立派です。しかし、神の基準は高いです。自分でも気がつかない、自覚できない部分まで神は人の心を探ることができますから。「神よ、どうか、わたしを探ってわが心を知り、わたしを試みてわがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」 (詩編137:23)とこれもダビデの詩です。かれは自分の不完全さをよくわかっていて、そのまま神に心を探って、何か清くないものがあるか教えてくださいと、結局教えてもらうのは、責められるためではなく、赦されて清められるためです。よって、不義を赦され、責められることがない人幸いなのです。そして罪のおおっている心では神を見ることができません。神を見るとは、地上において実際神の姿を見るということよりも、神ご自身の性質、力、愛を体験し、知っていくということを意味するでしよう。私は一生かかりますが、徐々に清められて、幸いになりたいと、単純に清くないので、ダビデのように求め、もっと日常生活の中で、神の臨在を見たい、体験したいと思わされました。
Apr.10, 14 "8つの「幸せ」 D憐れみ深い人"

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

 マタイによる福音書5章7節

 私は以前社会福祉士になろうと目指し、学校で様々な課程を学び、試験を受けて資格を取りました。しかし実際職につくと、机上で学んだようにはいかない、思ったとおりに対応できない自分に直面し愕然としました。先輩から習い、自分で場を踏み、失敗をしながら経験で身についていくものがほとんどでしたし、一人前になるには時間がかかったものです。そして更によい仕事をするために、常に向上・成長が要求されます。
 クリスチャンになったばかりの人が、必ずといっていいほど通る過程があります。最初、神様の愛がうれしくてうれしくて、救われた喜びで教会の活動に参加し始めて、「よし聖書に書いてある神の教えに従って生きるぞ!」と意気揚々となります。しかし、実際教会へいき始めると、教会の人たちが聖書の教えとおりに行動したり、発言していないことに直面し、相手を裁き始めます。中にはショックで、”結局教会も世の中と変わらないじゃないか”とつまずいてクリスチャンとしての歩みを辞め、教会に行くのを辞めてしまう人もいるのは悲しいことです。
 しかしこれは、等身大の己を知るのに必要なプロセスです。自身が愛しにくい人を愛せないという事実を学んでいくために、教会で他の信徒と、ごつごつしながらも関わりあう必要があり、これがある意味職場での実地訓練のようなものです。教会は仲良しグループの集まりではないのです。日曜に来て、礼拝をしお昼を食べながら会話を楽しみ、「じゃまた来週ね!」と帰るだけなら、問題もないけれど、成長もありません。実際、何か教会内で共に活動をに関わることで(これを奉仕活動と呼びますが)、皆互いに欠点がある不完全な者、だから神の救いを必要としている人々の集まりで、意見の違いや、相手の欠点があるのは当たり前、よってぶつかることを経験します。そしてぶつかった時、喧嘩別れして、もういや!となるのであれば世の中と一緒です。教会はそこで、キリストの信仰だけが共通点の集合体、皆違うのが当たり前、相手を赦すことの必要性、他者を裁かないことを知り、神に「出来ない!助けてください」と祈って叫び求めることを学びます。キリストの弟子としての訓練は”神に出来ないから助けて!”と出来ない自分を自覚し、祈りもとめることの訓練です。
 ”憐れみ深い人”とは、他者を裁かない人のことです。イエスはこの後「さばいてはいけません。さばかれないためです。(マタイ7:1)」 とも言われました。私たちは自分のことは棚にあげて、他者を批判し、裁きがちです。私たちは以前自分がキリストの十字架の犠牲で、罪を全て赦され帳消しにしてもらい、憐れんで頂いたことをいつも思い出す必要があります。そして他者に対しても憐れみを持つことが出来ないことを認めて、「助けてください!」と神に祈る、すると裁かないように内側が変えられて、次第に相手への断罪・裁きモードが薄れていきます。すると、自分が憐れみを受けるという約束が今日の箇所です。 
 一方、他者が神にそむくことをしていたら、愛を持って寛容な心で戒めなさいとも聖書に書いてあります。裁くのではなく、聖書にこう書いてあるよと戒めるのはOKです。ただ言われたほうは「裁かれている!」と取るかもしれません。お互いが、裁くことが出来るのは神だけだという共通認識の下、聖書に書いてあることで一致しようと、言われた方は反抗せず真摯に受け止め悔い改める、言う側は言い方を強くしないで、聖書に書いてある真理は曲げないで相手に伝えられれば理想です。これは互いに非常に難しいことです。不可能。キリストの弟子訓練は職場の訓練よりもかなり厳しいです。しかし希望は神が求めれば超自然的に助けてくれるということで、その点でも幸いだなと感謝しつつ。
Apr.9, 14 "8つの「幸せの逆説」C義に飢え乾く人"

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
」 マタイによる福音書5章6節

 脳内科学者によると、人は危機や危険に直面した時だけでなく、何か達成したい目標に一生懸命取り組んでいる時、何かに渇望しそれを得ようと突き進む時、また慈善的な行いをする時も、アドレナリンという脳内神経物質が放出されてテンションが高く、通常より大きな力を発揮可能状態だそうです。皆さんは何か、アドレナリンがでるような、これがほしいという渇望するもの、これをやり遂げたいという情熱を注ぎ込むものを持っていますか?そんなに熱くなくても、密かに静かに持っているものはなんでしょう。
 このように何かに飢え乾くという状態は良くも悪くもその人の強い原動力となります。イエス様は”義に飢え乾く人は幸い”だといわれました。義というと”正義、正しさ”を意味しますが、何が本当に正しいのかと、この世の中を見ていると混乱します。戦争も正義という大義名分で行われます。またある人にとって正しいと思うことは、必ずしも他の人にとっては正しくないのです。だから家庭内から、国家レベルまでこの”正しさ”の見解の違いをもとに争うのです。
 イエス様の言うここでの義は、人の思う正しさではなく、神の義となります。自分の持つj正しさと神の義とを比較してみると、たいしたことではないのがわかります。聖書を読んでいると神の正しさというのはとても基準が高く時代を超えて壮大です。前述の3つの幸いからの文脈で、自身の心の貧しさを自覚し、自らの罪を悲しんで悔い改め、神の支配に任せようとする柔和な低い心に変えられると、その人の内に新しい飢え渇きが起こります。それが神の義への飢え渇きです。今までは、自分の義を通そうとして、それを原動力に、困難でも苦労を要しても突き進んできましたが、それよりももっと優れた渇望を見つけてしまうのです。
 一方、現実は不条理なことばかりで、戦争では残酷な暴力が行われ、麻薬のディーラーや兵器会社が裏社会でのさばり、人身売買が行われ、警察も国家権力もこれらを解決できない世の中。神様の義はどこに?いつになったらこんな、酷く、むごいことが続くのでしょうかと。自分のような小さい存在は巨大な悪に対して何もできないのです。一つだけできることがあります。祈ることです。また家庭の中でも小さな争いや問題においても、神の正しさを親子関係で、夫婦関係で、祈って求めることができます。すると満ち足りるというのが約束です。人間の義は不完全で、普遍的ではないですが、神の義を求め、よって飽き足りる結果へと導かれるのはなんと幸いなことでしょうか。時間はかかることが多いですし、一生かけて徐々に満たされていくものもあるかもしれません。会社で、学校で、家庭で、一つ一つ、神の正しさがなされることを祈り、求め、そしてそれが満たされていけば、幸いなのです。巨大な社会的な悪は、イエス様がいつか戻ってきた時に全て裁かれ、もはや何も活動が出来なくなる時が来ます。それを信じると希望がもてるのが感謝です。ただ私の考えているタイムラインではなされないことを理解し、神様のタイミングに任せようと、忍耐が求められます。
 もう一つ重要なことは、神様は人がキリストを信じたとき、その信仰のよえに義と認めてくれることです。私は神の義でみると、決して正しくない者ですが、キリストのおかげで、正しいと”みなしてくれる”というのが、大きな励ましと慰めです。あたかも、ぼろい服をきていても、立派なガウンを上に着せてもらって、豪華にみえるように、義の衣を着せてもらえるというのが、福音です。
Apr.8, 14 "8つの「幸せの逆説」B柔和な人"

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
マタイによる福音書5章5節

美術館へ行くと時代・国ごとの特徴を観察できますが、私はいつも中世ヨーロッパの宗教画等を見ると、「暗い」と感じます。キリスト教がローマ帝国の国教とされてから、もはや個人の信仰ではなく、国から制度的に決められ、幼児洗礼を受けクリスチャンとされ、神を信じるというより、政治と合体した儀式や形式に縛られていた中世は宗教が堕落していました。ですから芸術にも反映されるわけです。その暗黒時代から、もっと自由だった古代文化を復興しようという動きをルネサンスといいます。それ以来、宗教に縛られず、華やかに自由に人間の表現したいことを形へと、その後も現代に至っても、「芸術は爆発だ」状態。NYの現代美術館に行くと、時には、私には全く理解できない絵や彫刻があります。
 今日の箇所は、柔和な人は幸いというところですが、ここは一見逆説的ではないように見えます。なぜなら、性質や態度が穏やかで、おとなしい人は人と争うことが少ないでしょうから、幸いでしょう。私はよく、生まれつき柔和だったらなあと願います。もし相手から攻撃的に出られると、つい反撃したくなり、怒る、そして後で後悔するという始末です。いつも、神さまに祈って助けてもらう必要があります。
 イエス様の言われたここでの「柔和な人」というのは、普通の柔和とは少しニュアンスが異なります。単に柔和な性格の人なら別にクリスチャンでなくてもたくさんいらっしゃいます。ここでは前の節の「心の貧しい人、悲しむ人」と続いた文脈での性質です。つまり、神様に対して低くなって、自分のしたいことを横において、神のコントロールに任せる従順を示します。すると、先のルネサンスのように、自分の意思、表現したいことより、神にコントロールされるなんて冗談じゃないと反発がでます。しかし、真にイエス・キリストを信じた人は、その大きな愛・恵み・憐れみを受け取って、もはや自分の為に生きたいとう思いよりも、なんとか神の愛に自分なりに応答したいと、自発的に、意思を持って、神が喜ばれる方法を選択したいと思うように変えられていきます。これが柔和です。決して、中世の暗黒時代のように押し付けでないので、暗くないし、自由なのです。これは本当にキリストが自分にしてくれたことを感謝し、信じている人でなければ理解できない精神構造かもしれません。
 私も30歳代でキリストを信じたとき、最初は嬉しかったのですが、一時反動がきました。今まで数十年、自分の思うとおりに生きてきた古い自分が染み付いてるので、神の恵みを忘れて「聖書のこうあるべき」が窮屈に感じてしまったのです。そして他の信者の人で”神のために生きたい”と言う人を見て、そこまで思えない自分が正直いました。しかし、だいぶ時間はかかっていますが、今は逆に自分程信用できない、あてにならないものはないと、数々の失敗を通して、痛い目にあってわかってきました。やはり私を創られた神、良く知っている神様に任せて従順になるのがベストだと経験から学び、自然に神に従うのが一番だな(いつも出来ないですが)という態度でいられます。これは一生かけて、身についていき、そして「地を受け継ぐ」ようになるのではないでしょうか。地を受け継ぐとは、神様の信じる者への祝福の約束の実現です。神様がすでに用意して下さっている祝福を、自分のものとして受け取ることを意味します。
 中世のルネサンスよりも、もっともっと昔の時代への復興、神が最初に人を創られた時のような、否、もっとアップグレードされた人@神の国となれるという約束を待ち望めるのは、幸いです。
Apr.7, 14 "8つの「幸せの逆説」A悲しむ人は幸い"

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
 マタイによる福音書5章4節

 先日、日本にいる母と電話で久しぶりに話しました。E-mailはよく交わしますが、やはり電話で声をきいて元気だと確認できるので安心です。特に父が召天してからは、母が一人でいるので気になるものです。今年で3周忌。当初は、突然思い出したように父を思って涙したものです。また天国で会えるとは信じつつも、感情では悲しみが癒えるのに時間がかかるものです。誰でも悲しみは、避けてとおりたいことです。身内を失った悲しみ、裏切られた悲しみ、期待したことがうまくいかなかった悲しみ、家族の病気や障がい、親・配偶者の認知症等、傍でみていても心が痛みます。人は悲しみをどのように慰められるのでしょうか。
 今日の箇所、イエス様が言われた「悲しむ人は幸い」というのはなんとも合点のいかない話です。「なぜなら慰められるから」と続きます。いくら慰められるからといって、そもそも悲しいことがおこらないでほしいと願うものです。ここだけぶつ切りにして、解釈すると全然理解できないのですが、文脈があるのです。前回、「心の貧しい人は幸いである、天国はかれらのものである」について触れましたが、心が貧しと自覚した人は悲しむのです。では何に対して悲しむかということです。つまり、イエス様に出会って、イエス様の光にてらして自分の内側をみて何も良いものがないほど、罪深さを知り、それに対して何もできない無力さ、心が倒産状態となるので、悲しくなるのです。しかし、悲しんで終わりではなく、今まで自分が神に逆らって生きてきた人生を神の前に悔い改め、全ての罪、咎、負い目のために、キリストが変わりに死んでくれたことを信じると、赦される、ああ、赦されてよかったと慰められます。
 一方、神様はどんな悲しみに対しても、大切な人を失った悲しみを、人から傷つけられた心をも慰めて下さる愛のお方です。イエス様は聖霊のことを助け主、慰め主だと言われました。神様からくる慰めというのは人が与えうる慰めより、心の深いところの悲しみを取り扱ってくださいます。これは経験して初めてわかることですが、私は父のことでどれ程神様に慰めを与えられたことでしょう。
 自分は幸いだと本当に感謝しています。なぜなら悔い改めに導かれたので、もう自分の過去のことを思い出して悲しみに浸る必要がないからです。私はキリストを信じる前は、よく昔のことが脳裏に突然蘇り、嫌な気持ち、あんなことをしてしまったと非常に落ち込み悲しみ、よく夜中に泣いていたものです。しかし今はそれらを悔い改めて全て赦されたので、慰められました。たとえ人は後ろ指をさしたとしても、神は私がしたことを全てなかったかのように、きれいな状態として見てくれるからです。こんな幸いはないです。自分の良心さえも自身を責めることがありますが、それからも開放されます。私は日々もっと悔い改めて、罪が赦され、清められ、慰められたいと願います。
Apr.6, 14 "8つの「幸せの逆説」 @心の貧しい人"

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
 マタイによる福音書5章3節


 本日日曜日は、とても良いお天気。教会の帰りにUnion Squareという小さい広場を通りかかると、出店も出ていて、たくさんの人で賑わっていました。こんな陽気の日に街を歩いていると、気分はHappyです。しかし幸せだなあと感じることは一時で、状況が変わると辛いなあ、嫌だなあに変わってしまうものです。皆さんはどんな時に、幸せだなあと思いますか。家族と過ごしている時、仕事が順調な時、天気がいい時、健康な時でしょうか。私はもっと単純で、美味しいものを食べる時、一日の終わりに布団に入って寝るぞ〜という瞬間を至福の時と感じたりします。
 「たとえお金がなくても、心が豊かならいいよね!」と経済的に苦しくても、家族に恵まれているとか、支える友人がいる等で心が満たされていることは、幸せではないでしょうか。しかしイエス・キリストは弟子達に非常に逆説的なことを話されました。「心の貧しい人は幸いである」と。心が貧しいことが幸い!? どういう意味でしょうか。もちろんこれは経済的に貧しいことを指しません。原語ではpoor in spirit 霊の乞食、霊的な倒産です。倒産、つまりもう自分では手に負えない、自分の持っている資源、人脈、資質、お金全てを投入しても解決できない問題があると自覚し、神に助けて〜と憐れみを請う状態のことを言います。これはどういう時に起こるかというと、その人がイエス・キリストと真に出会った時です。
 普通は私たちは人間同士を比較します。あの人に比べれば自分はましかな、あの人には到底及ばないと。もしくは自分の中で作り上げた基準で己を裁決する。人間同士の比較の基準がその人によって、時代によって相対的です。実は人や自分自身の基準との比較では本当に自分の真価、性質は見えてこないものです。しかし、私たちがキリストに出会い、キリストの光に照らして自分を見ると、自分の貧しさが分かります。キリストの光で、神の善悪の基準で自分を見ると、自分の心は何もない、あるのは負い目や償うことの出来ないたくさんの罪があることを自覚するに至るのです。自分がいい人だとか、良いことをしていると思っている内容、または自分は正しい、と思っていることを、キリストと比較するとそうではないとわかるのです。
 実はこの心の貧しい状態の自覚が、この後の箇所に続く7つの”幸せ”の始まりなのです。この幸せは表面的ではない、心の深い部分での霊的繁栄、満足を意味しますので、普通の幸せのように場所や環境状況に左右されません。自分が貧しいと気がつく人は幸いなのです。なぜならば、これから豊かに与えようとしてくれるイエスを信じて求め始めるからです。そしてイエスを信じると、救われて、神の子供として神の国、天国に入れるからです。
 逆に「自分は心が豊かだ、別に神に助けてもらう必要もないわ」と高ぶっている人は、本当の自分の状態、自己象に直面していないかもしれません。これはクリスチャンになった後でも、キリストを信じ続けていないとおこりうるのです。ラオデキヤという街の教会(つまり信者)あてのキリストのメッセージは厳しいものでした。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(ヨハネの黙示録3:17)
 良い知らせは、気がついたらいつでも悔い改めてイエスのところに戻れることです。イエスに助けを求めて、イエスを信じて成長していくと、キリストの性質に内側がかえられ、神の国はその人のものになる、こんな幸いはないと感謝です。こんな不完全な私でもこれを享受できるのは、神の恵みだからです。
 このあとも「〜な人は幸いである」という逆説が続きます。続きは次のブログにて。
Apr.1, 14 ”エイプリルフール”

「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」
出エジプト記20章16節

 本日はエイプリルフール「嘘をついていい日」という慣習の日。私は個人的には嘘をついていい日など作るべきではないと思うのですが、その起源を調べてみると様々でした。一つの説には、中世ヨーロッパでは3月25日(Feast of the Annunciation)を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたのですが、1564年にフランスで1月1日を新年とする暦が公式に採用された時、これに反発した人々が4月1日を「嘘の新年」とし、ふざけたのが由来だそうです。他にも多くの説があり、どれが正しいのか不明。
 人はなぜ嘘をつくのでしょうか。心理学の本で「平気で嘘をつく人々」(M・スコット・ペック著)という本によると、多くの普通の人々が、実は心の中で無意識に、記憶のすりかえ操作により嘘を事実にしてしまっていることがありうるとのこと。自分をいい人に見せたいという虚栄心や、自己正当化、時には相手を傷つけないための”嘘も方便”としてつく、相手を陥れるための嘘等、色々な場合があります。病的になると、笑えるほど面白い嘘をとうとうと話す人がいます。嘘は奥が深く、やっかいな心の機能ですので、私はどんな小さな嘘もつかないようにし、記憶が定かでないことは忘れたと認めるよう心がけています。『悪は生に対置されるものである。生命の力を阻むものが悪である。簡単に言うならば、悪は殺すことに関係がある。」とペック氏は本のなかで書いているよう、悪は嘘という作用をとおして相手や自分を精神的に殺すことに関係あり、それを端的にあらわすのが、”悪”という言葉は英語でEvil、これを逆さにするとLive、つまり生きるとか生の逆なのです。この論点からすると”必要悪”など存在し得ない、それは単なる言い訳です。
 聖書の中で、最初に嘘をついて人間を惑わしたのが蛇(悪魔)で、その嘘にだまされ、神が食べていけないという実を最初の人間アダムとイブが食べました。その時から、人間に”罪”が入ったと書いてあります。その結果、霊的に人は死んでしまったのです。嘘は悪を導き、悪は死をもたらすのです。そんな堅いことを〜ちょっとくらいの嘘はいいでしょ。冗談もいってはいけないのでしょうか?冗談というけれど、人は心にあるものが口からでるわけで、冗談というのは半分本心が入っていると、次回自分の心を探ってみるとわかります。相手を傷つけたり、利害関係をひきおこさない冗談はいいでしょう。しかし嘘はつかないのが誠実なことです。嘘のおかげで霊的に死んでしまって、神との関係が断絶されてしまっている人間を、なんとか再び霊(聖霊)を与えて生きさせるために、キリストが送られました。その大きな犠牲と愛を思うと、安易に嘘や冗談は私は言えなくなりました。
 私の中にはまだまだ、誠実でない部分がたくさんあります。ミスを犯したら責任転嫁せず、謝り、防止策を検討する、言い訳をしない等日々の生活のなかでの積み重ねを続け、誠実を目指して、内側が変えられていきたいと神に願うしかありません。
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