Praise the Lord 本文へジャンプ
今日のわか ちあい

セントラルパークの眺め May 1, 2014 撮影
♪Today's Sharing♪

May 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
迷い道くねくね 健全な依頼心 新緑の季節@フィラデルフィア Windowsの買い替え
金曜日の楽しみ ホテルの視察 歌うオウム&褒める九官鳥 イヤホン、数年後は補聴器

May 28, 2014 "Windowsの買い替え"

「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」 第一コリント人への手紙13章2-3節

 昨今WindowsXPのサポートが終了といわれつつ、私のPCもすぐ固まってしまうなど不具合がありながらまだ作動していたので、新しいPCの購入のタイミングを価格やスペック等を検討しながら様子を見ていました。そしていよいよ、お買い得のラップトップの購入に踏み切った!のはいいのですが、やはり新しいPCの構造(メトロUIの画面とか←そんな言葉始めて知った)に慣れないのと、必要なソフトを色々ダウンロードしていくと、余計な?ものまでされていき、そのためかタッチパネルやAppsのアイコンが作動しない等が発生。解決方法をGoogleで検索し、結局最初の状態に復元してやりなおしたりと、まともに使えるようになるのに非常に時間がかかっております。もう当分新しいPCは買いたくないです。携帯電話をスマホに変えたときも、使い方に慣れるのに大変でした。
 新しいことは最初は何でも慣れるまで努力と時間が必要ですが、いったん慣れると快適になるものです。この時代に生きている限りできるだけ変化に何事も日々対応していかねばならないので、技術的にも、メンタル的にも柔軟性と前向きな好奇心が問われるようです。必要最低限のことは、ついていけるよう頑張らなければ。。。
 私のグループの教会の創設者の故チャック・スミス牧師は、「柔軟な人は幸いである」と聖書の有名な箇所*のいいまわしを真似してメッセージの中で言っていたものです。人が作り出した伝統や教義、儀式に拘ると、聖書の教えてと本筋がかけ離れていき、宗教として形骸化していくという悲しい現実があります。もちろん、聖書の大切な教え、キリスト教の中枢の信仰の部分はどの時代であっても、変わることはないです。しかし、その聖書の教えでさえも”愛”がなければ、その人がいくら信仰があって敬虔な人でも、相手を愛するという基本を忘れ、教義を無理に機械的に適応させようとすると意味がないと、使徒パウロも言っています。またクリスチャンは、自分の思いや狙い、計画に固執せずに、神様の導きに柔軟に対応することが問われます。それは結局自分よりも神様のほうがベストの道を知っているという信仰、主であるキリストに従おうという柔和な心が必要ですが、これがなかなか、自分を手放すのには時間がかかります。
 新しいPCは非常に軽量で小型。私の心の状態も、いつも神様に対してAvailable(何でもござれ!)と軽くフレキシブルでいたいと願いつつ。

*マタイによる福音書5:3-10  山上の垂訓、「幸いな人」シリーズ
May 25, 2014 "新緑の季節@フィラデルフィア"

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」 ピリピ人への手紙4章4-8節

 今週末は久しぶりにフィラデルフィアへ行ってきました。ここは私のアメリカの故郷のような場所で、両親と共に過ごし、たくさんの方々にお世話になった場所でありますし、そこから引っ越しても、戻ってくるとほっとする場所です。NYに引っ越して一年半近く経ちますが、やはフィラデルフィア市のあるペンシルバニア州は”ペンの森”という意味であるように、森、木々が多いところです。この新緑の季節に訪れると、目が覚めるような緑の光景に圧倒されました。この緑のマイナスイオン効果により、普段NYの都会で生活している者からすると、非常に心身ともリフレッシュされたことが感謝でした。
 最近、私の小さな部屋に小さい観葉植物を置きました。私は植物を育てるのは上手ではないので、簡単に水だけで育つものを日本にいた時も家で育てたものです。すると何も手をかけなくても、日当たりの良い場所に置いて水をやるだけで、にょきにょきと大きくなり、手幅の丈しかなかったものが、数年後には私の身長くらいに成長してしまうものもあり、驚いたものです。植物の中にはもちろん、手をかけて世話をする必要のある種もありますが、ほとんどが外の木々も自然に雨が降って、日が当たれば季節ごとに装いを変え、美しく着飾ります。これもやはり、神様の造られたものだなとその美しさに感動します。
 一方、私たち人間は、自由意志を持ち、考える知能を与えられ、自然界の他の動植物より、より精巧に出来ている分、ことを複雑にしすぎるようです。そして思い煩いを増やし心身に負担をかけ、それを解決するために更に複雑な科学技術を駆使して対応しようとしてと、益々いたちごっこのように複雑に展開しているように思えます。神が創造されたものは、実はシンプルで何も手をかけなくてもかえってもおのずと、バランスがあり自然界の食物連鎖のもとに、育ったりすることを見るにつけ、私もシンプルに神様に日々感謝し、思い煩うことをやめ、神様と調和した心を求めたいと思わされました。
 人間関係というのは更にことを複雑にし、良いこともあれば、悲しいこともあります。しかしどんな時にでも、イエス・キリストの自分にしてくれたこと、大きな愛を思い出し、思い煩いの内容も、神がコーディネイトしているからなんとかなるぞ、というある意味神にあって超ポジティブ思考で、すでに与えられているもの感謝してい行きたいと。また複雑な人間関係から生じる様々な感情がわきあがってくる時にも、それに囚われずに、相手に対する苦い思いが出てきたら、神の前に告白して赦して頂き、心を健全に保ちたいなと思わされます。相手がどうであれば、自分の心が神様によって清められないと、心の毒素がたまっていきます。それこそ心へのマイナスイオン効果は日々必要。デトックス作用は、キリストを通して神様に祈り、告白し、聖書のことば心に留め、苦い思いに捕らわれず、もっと今日の聖書の箇所のように心に留めるべきことを追求したいなと思わされました。
May 20, 2014 "健全な依頼心"

「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから。」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」 歴代誌上4章9-10節

 聖書の中に”ヤベツの祈り”という箇所があります。ヤベツとは”悲しみ”という意味で、なんと母親が悲しみのうちにこの子を生んだからそう名づけたと。名づけられた子供はこの状況をどう逆手にとり、積極的にとれるかというチャレンジ、彼の人生観に名前は非常に影響を与えたことでしょう。母親の悲しみの原因が何かは書かれていません。誰かの死や家族の中での不幸の只中だったのか、それともこの子に生まれた時から障がいがあったのか、もしくは非常な難産で母体が苦しんだのか。
 人が悲しみに沈むことはいたしかたないです。しかし、いつまでも人はそのままでいられません。時間が癒すということもありますし、何かしら前向きに自身を持って行こうとおのずと動いていくでしょう。そうしないと心の病気になってしまいます。ヤベツは、その悲しみの状況のなかで、彼の品性は深まったに違いありません。人は逆境にあると、お気楽な状況でいるより、そういう試練を経て成長し、品性が練られて強くなるものです。ヤベツの場合は、自分でがんばると言う限度を越えて、神により頼むしかないほどのコーナーに追い込まれたかもしれません。そうであればそれはある意味、幸いだったとも言えます。人が全て自分でやろうと思い、ある程度出来てしまうと高慢になります。しかしそれにも限界があり、人が自分で全て状況を好転させようとあくせく動いても、必ずしも思うとおりにいかないものです。しかし、ヤベツのようにまず真の神に素朴な願いを祈りとして捧げると、それがかなえられたりするのです。もちろん、人間側のやる部分もありますが、まずは信頼できる全能の天のお父さんにカウンセリングする、そして委ねて待つ。この姿勢が私にはまだまだ練られていないなあと。人が人に依存すると大変ですが、人が神に依頼、依存するのは健全なのです。
 私も素朴に自分の状況を神様に祈って嘆願したいと思います。もちろん、私の欲のため、自分が成功する・金持ちに成る等の願いを祈るということはもうありませんが、神様の心と調和した願いに自分の願いが近くなっていったらいいなあと願います。神の御心に叶う祈りは、何でもかなえられるとの約束があるからです。神のみこころとは結局は、全ての人が救われて、天国へ行くことだとイエス・キリストは言われています*。つまりこれから逆算して、今の人間関係から、個人的必要もそれにそうことを願えば、御心にそうのでしょうと。
 本日も、そういう観点から、神様が一つ私の生活の上で必要なことをかなえてくださいました。私はそんな良いことを受けるにふさわしくないしのに、与えられ非常に感謝です。ふさわしくないのにいただけるプレゼントを聖書では”神の恵み”といいますが、感謝して受け取りたいと思います。

*ヨハネの福音書6章40節 「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。
May 19, 2014 迷い道くねくね

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 箴言3章5-6節

 昨日はNYのロングアイランドへ出かけました。ここはNYの南東で車がないと電車やバスを乗り継いで行くのは大変でしたが、聞くところによると、もっと島の東のほうには観光名所がたくさんあるそうで、機会があればいって見たいです。今回はロングアイランドのお友達のお宅を訪ね、出張聖書の学び(家庭集会)をしてきましたが、久しぶりに都心から郊外に天気の良い日に訪れることが出来て、とても楽しかったです。
 ところが、せっかくの楽しさも、いつも帰りにまっすぐに家に帰れなくて、どっと疲れてしまうのがいつもの落ちです。私は新しい場所へ出かけたり、旅行へ行くのは好きですが、必ず帰りに迷うのです。車の運転はもちろん、公共の機関でも。今回も事前に路線を調べ早めに出たのに、目的の駅でなく、なぜか変な駅で降りてしまって(なぜ降りたのか自分でも思い出せない。。風邪を引いてぼーっとしていたからでしょうか)、次の電車は一時間後。結局ぐるっと遠回りして帰宅せざるをえず夜中になってしまいました。車での旅行の時も、地図を見ても必ず変なところへ行ってしまい、まともについたためしがありません。日本ではそうないのですが、アメリカ生活ではいつも回り道をして、時には疲れていたり、うっかりして運転で危険な目によく遭い、「ああ、守られたなあ」と今思うとぞっとすることが多々あります。
 周り道をする度に、自分の人生のようだなと、いつも思わされます。どうして10代の時に、キリストを信じて洗礼を受けたのに、そのまま全っとうにこれなかったのか、不信仰で、神から離れ、自分の好きなように進むとみな無駄なことばかりでした。せっかく、信仰が再び与えられ戻ったと思いきや、また頓挫となったり、そしてまた信仰が与えられ、しばらくたつとまた教会へ行っていても気持ちのアップダウンが続く。大病になり、与えられた命を今度こそ、神に捧げたいと、真剣に神を信じようと求める、という紆余曲折の人生。心の中で「主よ、助けてください!」と道から外れるたびに祈るのです。そして時間をかけて、ようやく元へ戻れる。その時間のロスを思い、いつも落ち込みますが、それ以上に戻れたことに安堵と感謝が大きいものです。
 人生の方向性に関しても、いつも回り道ばかりしてしまう劣等性の私を、見守り、忍耐を持って方向を戻してくれる方が、イエス・キリストです。時々変な方向をへ導くGPSとは異なり、私の意志を尊重しつつ、私の弱さを理解しつつ、もしベストな道から脇にそれてしまっても、最終的にはいつも元のトラックに戻してくれるのです。これは神様の憐れみで、元気にNYに住んでいること自体ありえないと思うことが多々あります。今でも道は相変わらず迷いますが、神様への道から大きくそれることがもうないのは、これも恵み(プレゼント)です。私の導き手であるキリストの声を聞いて判断するためにも、もっと聖書のことばを内側に蓄え、祈りをもって、あわてないで正確な判断ができるようになりたいと願います。
May 10, 2014 イヤホン、数年後は補聴器

「わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。」 ルカによる福音書1章47-50節

 私が通勤で利用する地下鉄はゴーっという轟音で、かなり音が聞き取りにくいものです。先日、地下鉄の中でイヤホンからのものすごい音漏れで音楽を聴いている女性客がいて皆困っていました。逆切れされて刺されたらと、怖くて誰も指摘できません。すると、傍に立っていた男性が「音を下げてくれませんか」と勇気をもって言ってくれたのです。すると女性は「まじ?この音のどこが大きいの?」と反論しながらしぶしぶ下げました。地下鉄の広告に、イヤホンのボリュームを大きくして聞きすぎると難聴になるという警告を、耳にかかったイヤホンが補聴器に変わるというポスターにて掲示されていました。しかし、すでに聞きすぎて難聴の人は、ますます音のボリュームを上げ、そんなポスターも見ないのかもしれません。
 私の脳は、音楽を容易に記憶させてしまいます。例えばお店に入ると、そこでかかっている音楽が2−3分もいると、頭の中でくるくる回るのです。私の苦手なジャンルの音楽を耳にする場合が困るので、音には音でと、別の音を聞いて私の脳に上書きさせるため、なるべくMP3プレーヤーを持ち歩くか、ネットがつながればスマホにつなげます。しかしあまりイヤホンを使いすぎると耳によくないので、注意が必要です。混んだ車両の中ではスマホの画面で聖書や賛美の歌を読むようにもしています。また、家にいる時も、意識して賛美歌を小さくかけています。そうすると、私の脳は賛美歌がぐるぐる回り、心に平安をもたらします。
 先日の聖書の学びで、賛美がどんなに大切かを改めて学びました。今日の箇所は、2千年前、マリアという15歳くらいの普通の女性に、突然天使が現れて、救い主を聖霊により身ごもると告げられ、それをそのまま信じ、そのことに対する神への賛美を彼女が表したところです。私はマリアのような特別な大きなミッションはまかされないし、普通の人です。しかし、マリアは自分のことに留まらず、自分も普通の貧しい家の10代の女性、そんな者を神は心にかけてくれたように、主(神さま)を恐れるものにも同じようにその憐みが及ぶよと歌っています。つまりこの普通の私にも、神様の憐みと恵みは、救い主イエスによって及ぶというのは励ましです。
 賛美は神が自分にしてくれたことに感謝したり、神様そのものを礼拝するのに詩と歌で、神様に向かってするものです。よく祈りと賛美は呼吸のようだといわれ、クリスチャンには欠かせない大事なことです。現実は日々の忙しさ、忙しくなくても何か色々していると、心に賛美を持つことを忘れてしまう者です。ぼーっとしているとどうでもいい音楽がくるくる回ってしまいます。また何か辛いことが起きたり、問題が生じると、神様への視点を失い、落ち込んでしまう始末。しかしどんな状況にあっても、イエス様がすでに自分のためにしてくれたことを思い起こすと、本当に自分は幸せだなと、ありがとうございますと感謝できます。もっと賛美を心の中でぐるぐる回したいと思わされました。私は以前は暗闇の中で、罪と死に支配されていたところを、キリストのおかげで光の世界に移されたからです。見えないものが霊の目で見えるようになり、喜びが与えられ、聞いていても記憶に残らなかったことが”聞ける”ようになっていること:この救いの喜びに対してはいつでも感謝し、それを賛美で表したいと願いつつ。
May 9, 2014 歌うオウム&褒める九官鳥

「わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ人への手紙5章2-5節

 私が幼い頃、近所の家の玄関には真っ黒な九官鳥が飼われていました。私は町内の回覧板を届けにそのお宅に行くたびに、そのしゃべる九官鳥を見るのが楽しみだったものです。「おばちゃんは綺麗だよ」とその九官鳥は言うのです。確かにそのお宅のご婦人は和服の似合う綺麗な方でしたが、今にして思うと、その家を訪問する女性達は、玄関でその九官鳥から「綺麗だ」といわれ、ちょっとうれしいくなっていたのではないかと。つまり、訪問客を喜ばせるために飼い主が覚えさせたのかなと思うのです。
 今日たまたまYouTubeで見た画像は、緑のペアのオウムが賛美歌の一節をはっきりとスペイン語で歌っていたもので、びっくりしました。オウムというのは人の言葉を真似ることができ、オウム返しとはよくいったものです。ただ音声をまねるだけではあまり意味深いことではないですが、モデルとなる人がいて、特にその人の良い人格的、性質的な面を真似ていくというのは、良いことではないでしょうか。自分の努力で性格改善をしてそれが成功すれば、自分のおかげです。しかしやろうとしてみればわかりますが、自分の力で品性を変えるのは、不可能に近いでしょう。品性というのは魂に関わるもので、小さい時から積み上げられてきたその人の本質だから。
 聖書では、キリストのような性質になりなさいと、様々な表現で勧められています。イエス・キリストは神だから、そんな崇高な方に近づくなんて無理、とあきらめてしまいがちです。しかし励ましは、聖霊がそれを助けてくれるということですし、いっぺんに変われと強要されません。自発的に、こうなりたいなあという願いをまず心の中に起こし、そして祈って願っていくと変えられて行く、ある意味プロセスを通って練られた品性が作られる、というのが今日の箇所でも示されています。一生かかると思いますが、変わらない自分に目を留めず、変える力のある神に目を留めて、希望を持っていきたいと思わされました。求めれば神の愛は私のような愛のないものにも注がれる、との約束に目を留めて。そして、ある日、ああ変わっていると気が付いた時、やはり神の力はすごいなと、神をほめたたえ、オウムのように真似をしなくても、おのずと賛美が歌となってでてきます。
May 2, 2014 ホテルの視察

「そして彼(キリスト)は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」 エペソ人への手紙4章11-13節

 私の今の仕事の一つに、日本からの出張者向けのNYでのホテルの手配という業務があります。旅行会社を通して予約をするのですが、どのホテルが良いかという情報を知る上で、ホテルの視察会というのがありました。ホテルの客室や、ロビーの様子、会議室、ラウンジ等を担当者が見せてくれて、どんなレベルの食事を出すかも軽食を通して少し味わえます。NYは観光地なのでホテルは異常に高く、部屋も地方に比べれば狭いです。しかし、上の階ですと、このお金を払う価値のある眺めが最高な部屋もありました。ホテル滞在というのは非日常です。観光、出張、訪問等、普段の生活空間から離れ、その目的のために滞在するので、やはり快適さとホスピタリティ、良いサービスが求められます。人は他者から”仕えてもらう”ことが日常でない状態であればあるほど、非日常でサーブしてもらうことを求めるのではないでしょうか。
 イエス・キリストは師として弟子達に教えましたが、その教えでは、”人に仕えなさい”とあり、自ら多くの人々に仕えました。しかし弟子たちはいつも12人のなかで誰が偉いかと言い争っていました。皆自分が仕切りたいし、リーダーになりたいのです。世間でも、大企業や大きい事業をしているトップの人というのは非常に謙遜な人が多いと聞きます。逆に中途半端な人は偉ぶりますし、傲慢です。イエスはまさに、人に仕えられるために、神の子なのに、この世に人となってこられました。そうする必要もなかったのに、あらゆる面で人の模範を示されたのです。自分の権利を主張するのでなく、逆に損をしたとしてもそれに甘んじ、その沙汰を神に委ねる。これはやってみようと実際して始めて、非常に難しいとわかります。なぜなら、人は他人に従うとか、仕えることより、自分がリーダーになって、自分が決め、人をあごで動かしたいからです。
 神の前に私たちは皆平等です。そして神の前に正しい人はいない、義人は一人もいないと聖書にかいてあります。自分が高ぶりそうになったら、イエスの姿勢を思い出さなければならないと思います。イエスは最後の晩餐の時、弟子達の足を洗われました。これは当時奴隷がする仕事ですが、互いに仕えあいなさいということをデモされました。やりたくないこと、面倒なことはあります。しかし、自分のパートはしなければなりません。その動機は、イエスが私にどれだけ仕えてくれたか、どれだけ私の救いのために犠牲を払ってくれたか、また今も仕えてくれているかを感謝する時、師であるキリストに従う態度を、人との間でも実践していかなければならないのです。
 一方で、キリストを信じる信徒の集まりには、秩序というものがあります。奉仕をするために各リーダーが立てられ、チームで教会の任された仕事にあたるものです。そうでないと、一人一人が勝手なこと、自分のやりたいことを言い出し、組織として機能しません。リーダーシップというのは教会の霊的リーダー(多くの場合牧師)が役員や、執事、奉仕のリーダーをその人の信仰状態にあわせて直接、間接的に任命していくことが健全で、聖書にもそうしていたことが書いてあります。リーダーシップというのはその人が偉ぶるためでなく、聖徒を整え奉仕の働きに間に合うようにするため、キリストにあって一致するため、キリストのような性質になるためだと使徒パウロは書いています。比較にしようがありませんが、世の中の組織でさえもCEOが二人いると指揮命令系統に混乱を引きおこします。パウロ自身もあれほど当時の世界を周り伝道し、教会をたてたのに、その建てられた地方の教会の中で、使徒であるパウロの権威に文句を言い出す人がいました。あんたの権威を認めないと。パウロは第2コリントの手紙という書簡で、彼に反抗してくる人々へ向けて忍耐を持って説明をしています。
 それぞれの教会で、各々の上に建てられた権威を認めその働きに同意して、そのリーダーシップに従うというやり方は、私自身も日本の教会で経験してきて、秩序があり分裂がおこりませんでした。もちろん、それに同意しない人は去っていきます。去っていく人は残念ですが、教会では無理に同意させることはできません。一致のためには秩序は必要なわけです。クリスチャンも弱いものです。特に今日のプロテスタント教会に至るまで、何度も教派の分裂を繰り返していることからも観察できます。その弱さを自覚しつつ、上からの知恵を求め、組織としては別々であってそれぞれユニークさ、ダイバーシティがあっていいですが、信じる信仰は一つの方向に導かれたいと、聖霊の力で求めたいと思わされます。
May 1, 2014 "金曜日の楽しみ"

「イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった。」  ルカによる福音書5章12-13節

 4月が終わり、日本は今GWの最中でありますが、こちらNYはここ一週間気温も低く、雨も振り肌寒い日が続きましたが、ようやく今週末から春に戻れるようです。
 私は日常生活の中で、毎週金曜日の楽しみがあります。それは、NYで2011年9月から小グループで聖書の学びをリードしておりますが、準備する時も自分が非常に喜びに満たされますが、それを参加される方々に分かち合う時、またそのフィードバックを互いにシェアできる時、本当にお互いに心が満たされるので、この喜びを味わってしまうと、辞められません。今月から、テキストは約2千年前、当時医者であったルカという人が記した、イエス・キリストの生涯とその福音の書簡を順に学んでいきます。このルカによる福音書の特徴の一つには、イエスの人々に対する哀れみ深さ、情け深さを読み取ることができます。また”喜び”ということばがたくさんでてくるように、喜びの知らせ"Good News"が書かれています。このらい病(ハンセン氏病)にかかっていた人はイエスと出会い、イエスの力を信じてお願いし、病気が奇跡的に癒されました。どんなに喜んだことでしょうか。
 私は、聖書の学びを開く目的は、単なる、なんとか講座のように知識を得るためというより、参加する方々が聖書を通して毎回キリストと”出会える”ように祈りつつ、準備をしています。なぜなら聖書は神のことばなので、生きていて、不思議と一人一人の状況にタイムリーに適応されてしまう、心に響くものがあり、それをその人が自分で同意できれば(強制でなく)適応することで、生活、人生に変化があわられていくものです。私自身も、表面的には変わらず(年はとりますが)、性格もかわりませんが、内側の根本が変えられて、そして徐々に内から外へと影響が及んでいくのを体験し、それが神の力により、神の恵みによりなされていくことだと、実感するのです。
 最初の動機はただ興味があると、皆そこから始まります。しかし、その人が求めている、期待していた以上のものを、聖書は与えてくれるのは確かです。このグループが少人数ですが、細々と続けられていることは神様の恵みです。毎回お互いに、聖書を通して何かを得て帰れたり、励まされたり、それは結局イエス・キリストのことを知ることで与えられるものですので、神の恵みなのです。私の役目は単に管のように、自分が熟練の牧師達から学んだ聖書の喜び、神の恵みを参加者の方々に流していける、その特権を感謝しています。私の能力は関係なく、シンプルに自分の考えを入れずに、聖書は聖書で解釈できるところはし、歴史的な文献の情報も入れつつ、何よりも聖霊の導きでこれからもリードしていきたいと思います。また興味がある人が、この会を知ってどんどん参加してくださるよう願っています。
 金曜日は、平日お忙しい方は週末となり一番疲れている日。ビールでも飲んで、おいしいものを食べてリラックスしたいと思われる方が多いと思います。そのような肉体の糧も必要ですが、どんなに疲れていても、聖書を学ぶことにより、魂の糧が元気を与えてくれます。落ち込んだり、何か失望していたら、励まされます。一時的な不確かなものではなく、永遠に残るものを知ること、それはイエス・キリストとの出会いから始まります。聖書を通して出会えるのです。普通の本屋でも聖書は売っていますし、教会では贈呈用のもあり、どこでも手に入れることができますので、読んだことがない方、もしくは教会にいっていても普段あまり読まない方は、ぜひご飯を食べるように、毎日読むことをお勧めいたします。もし興味が持てれば、金曜でなくてもお近くの教会で聖書の学びの会はやっているはずですので、ぜひ足を運んで見てください。もしくは今はネットで礼拝のメッセージが行かなくても聞ける時代ですが、やはりライブでメッセージは聞かれことをお勧めします。
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