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今日のわか ちあい

Brooklyn Botanical Garden, NY
♪Today's Sharing♪

Sep. 2014

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
都上り Do not give up: あきらめない USオープンより 眠りを愛する 残り物に福
国連混雑 闘病中の友人からの便り
Sep. 27, 2014 闘病中の友人からの便り

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」 第一テサロニケ人への手紙5章16-18節

 今朝、前回の日記"人生の嵐に動じない心"(July 17,14)に書いた友人から、嬉しい便りが届きました。キモセラピーを終え、結果は良好で癌が縮小、更なる転移もないと驚くべき回復を聞き、ああ神様が祈りを聞いて下さったんだと感謝しました。2ヶ月前にステージ3の大腸癌と肝臓へも転移と聞いた時、事態はかなり深刻でした。しかしその後も日曜の礼拝で彼女と会うたびに、顔色がよくなっていましたし、キモセラピーの副作用もミニマムで、今後はもう一度キモを続けて様子を見るそうです。彼女は仕事も家で続けられるようになり、外出も問題なく、体調もよいとの事。今回の彼女の信仰にもとづく、前向きな、明るい、思い煩いのない姿勢に本当に励まされました。
 クリスチャンにとって様々な試練があるとしても、彼女のように今日の聖書の箇所にあるようにいつも喜び、絶えず祈り、全てのことに感謝できるんだなあと彼女の困難への姿勢を通して証しされます。たとえ治療の結果が良くなかったとしても、彼女の姿勢は同じだと思います。喜び、祈り、感謝する、この3つは、イエス・キリストが十字架で私たちのためにして下さったことを思い起こすことにより可能で、これは状況に左右されないからです。ただ、イエス様に本当に信頼し、従って付いて行こうと、キリストのために生きるという決心を伴う信仰があってのことですので、これが不安定だと、小さいことでくよくよする、すぐに落ち込んで、感謝を忘れ喜べなくなってしまいます。
 一方、人は信仰を独りで持ち続けられるほど、強くありません。ですから神様は神の家族:兄弟姉妹を周りにおいて、一人が落ち込んだり、困難な状況にいたら、他の人が聖書のことばで励まし祈る、そしてそれを交互に出来るのが励ましです。抵抗力のない私は、日曜からひどい風邪をひいてしまいました。咳がとまらず、胃も働くなり、なんとか5日間の仕事は行けましたが(しかし職場の人に咳ゴホゴホ多大に迷惑をかけ、心配をかけ申し訳ない)癌の人に比べればなんてことはないですが、独り暮らしですし しんどかったです。しかし、昨晩の夜の聖書の学びで皆で楽しい時間を持てたので、体は弱っていても心が引き上げられ感謝です。このようなキリストにある交わり(フェローシップ)は本当にありがたいとつくづく思わされます。
Sep. 23, 2014 "国連混雑"

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」 エペソ人への手紙2章14-16節


 今朝はNYCの東側、ミッドタウンは本日から開催される国連総会のため、道路が非常に込み合っていました。国連の建物周辺はもちろん、オバマ大統領、安部総理も含む各国首脳陣が泊まるホテルが私の職場に近いため、通りは警官の大集合と、黒塗りの車、パトカーがづらり並ぶ。今回イスラム国に対する対応のことも国連で取り上げられるということもあり、警備は厳重なのでしょう。
 国連は、「国際平和の維持(安全保障)、経済や社会などに関する国際協力の実現」を目的とした、国を超えた国際組織です。国連の設立後も、戦争が世界のどこかで行われていない時代はなく、しかしながら、様々な面で紛争の調停、介入、国際的圧力活動等、その取り組みはすばらしいと思いますが、いったい何が良い事なのか、何をすれば平和につながるのかという普遍的なものが、各国の国益が対立するために、折り合いがつかないのではないでしょうか。
 敵対している両陣営をどうやったら和解にもっていけるのでしょうか?聖書にはイエス様がそれを可能にすると書いてあります。ポイントはキリストを信じて新しく互いに(内側が)作り変えられれば争わなくなる、と短絡的に言ってしまうと、そういうことになります。平和には縦と横の視点があり、縦の関係で平和(つまり神と各人の間の和解)がなされれば、横の関係の平和(人間同士の和解)がキリストにあって可能となり、縦の関係なしには横の関係の平和は恒久的にはなされない、これは人間の歴史、家族関係から政府間を見ても自明のことです。イエス様の十字架は平和を一人一人が得られるためになされた、大きな犠牲の死とそして死からの復活の力によります。
 キリストを本当に救い主として信じれば、心に聖霊が与えられ、よい行いをするように内側つくり変えられるはずです*。(ここでは、政治的なキリスト教国とか、自称クリスチャンといいつつ、暴力・人殺しに賛成している人について言っていません) もちろん、一晩で、良い行いをする聖人には人は変わりません。農業のように、種がまかれ、実を結ぶまで時間と手間がかかるように、徐々に変えられていきますが、基本姿勢はキリストの弟子としてキリストのために生きようと決めると、聖書に書いてあるイエス様の教えに出来なくても従おうと求めるものです。
 私は小さい者、何も世界には影響を及ぼすことはできません。徐々に神に内側の性質を造りかえられていく、開発途上で不完全ですが、基本路線:イエスの愛を目指して、何が良いことか何が平和かを見極めていきたいと、祈って求めたいと願います。

*「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」エペソ人への手紙2章10節
Sep. 14, 2014 "残り物に福"

「ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、『目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます』。」 創世記13章14-17節

今日は幼児の子達向けの教会学校のヘルパーの日でした。先生が子供達におもちゃのプレゼントを用意し、選ばせていると「僕はこれ!」「私はこれ!」と自分の好きなおもちゃを我先にと選んでゲットし、更にはある子は他の子の分(二つ目)もゲットしようとして、先生に「それはよくないことです、返しなさい!」と注意されていました。大人になってくると「先にどうぞ」と譲ることが美徳という教育のおかげで、少しは遠慮したりします。日本での”残り物に福がある”という諺をいつの頃か聞いたことがあって、私はそれっていいなあと思い、なるべく最後に残ったものを頂こうと後で選ぶようにしてきました。それでいて、損をしたことはなく、かえって目移りせず、選ばなくてもいいやとめんどくさがりやの私でした。
 図らずも、本日聞いていた牧師のメッセージでは(子供のヘルパーの日は礼拝に出られないので、ネットでとりあえず他の教会の牧師の話を聞きます)ちょっとこれと関連した内容でした。アブラハムという人(イスラエル民族の先祖)は、神に呼ばれて自分の故郷を出て、遊牧民のように神様の示す地へ移動生活をしていました。甥のロトという人も大きな家畜の群れと家族・召使をかかえ、アブラハムについてきたのですが、ある時、二人の間の僕の間で争いがおこり、それが二人の家畜の群れが大きくなりすぎて一つ所に一緒にいることが問題とわかり、平和的に、彼は甥に、「好きな土地を選んで、そちらのほうへ移ってほしい」と提案しました。アブラハムは立場的に自分が良い方を選べたし、その権利もあったのですが、あえてロトに選ばせて、自分は残ったほうを取ったと聖書に記録されています。結果、ロトは見た目がとても潤っている土地を取り、アブラハムの群れから離れていきました。しかし、神様はその直後にアブラハムを祝福して、彼に土地を与え、彼の子孫を塵の数ほど増やすと、最初に与えた約束に、さらに約束の確証を重ねられたのです。アブラハムの態度は、神が自分を祝福すると約束して下さったからには、どんな土地でも、どんな状態でも、また自分の失敗にも関わらず神様が良くしてくれるということを体験し、神様に任せて相手に譲るという選択をしたと、学ばされました。一方神様の経済学では「与えなさい、そうすればさらに与えられる」と不思議な法則もイエス様は言われていて、実際それも私は経験させて頂く幸いにあずかっています。
 何かを選び取らなければならないとき、単に譲るという消極的態度ではなく、握り締めてゲットモードでもなく、神様にあって譲る・任せるモードになりたいと。その動機は、神様がどんな状況で良くして下さり、自分の”こうでなければならない”という予定通りにならなくても、それよりも良い物を神様は用意していて下さるという信仰に立てるからと。また、神様ご自身がご自分の一番大事なものを、人に与えてくださった方で、それ程人を大切に思って下さる。その大事なものとは神様の子、イエス・キリストであることを思い出し、落ち込んで下を見るのではなく、目を上げて神様の祝福してくださることに期待したいと、励まされました。
Praise the Lord!
Sep. 13, 2014 "眠りを愛する"

「眠りを愛してはならない、そうすれば貧しくなる、目を開け、そうすればパンに飽くことができる。」 箴言20編13節


 床に就くときに”眠ったらこのまま目が覚めないかもしれない”、と思って寝る人は少ないと思います。寝たら目が覚めるのが当たり前と思うからです。眠りは心と体の休息のため必須ですし、安心して床につけるのは感謝です。私の父のように、寝たまま天国に逝ってしまった例もありますが、その父でさえ最期に布団に入る際、必ず明日起きると思って寝たことでしょう。しかし父にとっては目が覚めたら、なんと神様のもとにいる!と気付いた時ほど至福の瞬間はないと思います。クリスチャンにとって、この体の死は寝るようなもので、天で目が覚めることを信じているので、この地上での死は怖くないのです。逆に様々な理由で眠りにつけない方々、死の恐怖と戦わなければならないことほど辛いものはないでしょう。眠りを妨げている不安要因は、結局心の深いところの平安の欠如によるもので、死への怖れも関連し、それらの解決策はイエス様のところに行くのが一番です。
 しかし何でも過ぎたるは良くないもので、眠りもあまり多すぎると心身によくないそうです。病気の時はもちろん別として、健康な体なのに過度の睡眠を続けていると筋力が落ち、精神的に気力を失います。私は今健康が与えられていて、7−8時間もあれば睡眠は充分なはずなのですが、時折、疲れがたまっているわけでもないのに、気分が落ち込む時、悲しい時にたくさん寝てしまいます。いわゆるふて寝。やることはいくらでもあるのに、やる気がおきなくて、寝てしまうのです。寝すぎた後は、体もだるくすっきりしません。
 今日読んだ聖書の箇所は、そんな寝すぎな私に耳が痛いことばが与えられました。(私の場合順番に聖書を読んでいて、この箇所をと選んでいないのですが)眠りすぎは怠惰なのです。眠りを愛するという表現は興味深いですが、ここでは健康なのに働かないでだらだら寝てばかりいる人は、起きて働いて、自分の働きでパンを得よということでしょう。私は今働けて自分の生活を養えることができて、本当に感謝ですし、これが当たり前だとは思っていません。フルタイムの仕事がなかくて生活が苦しい時、病後で働く体力がなかった時、仕事が自分の能力にあわず努力しても報われなくて辛かった時期があり、怠けたら生活できないと承知しているので、仕事をしないで寝ているわけではないのです。
 私の場合働いていたとしても、眠りを愛してしまうほど寝てしまう、落ち込んだからといって眠りに逃げる傾向性があるのです。しかしながら、それには神様からやる気、元気も与えてもらわないと、自分では作り出せないのです。私は本当に精神力が弱い、だめなもの、孤独にすぐにさいなまれる者です。神様のために生きようと、心から思えない時があります。しかし自分に目を向けず、キリストに目を向けようといつも自分の魂を励まし、聖書を読むとき、耳が痛いこともありますが、それ以上に励まし、慰め、希望の約束がたくさん書いてあって、それを自分のものとして信じることができることを感謝します。同時に、心がなえてしまう時に正直に、それを助けてくださいと神様に祈るばかりです。すると必ず神様は私をかわいそうに思って、引き上げて下さるのは経験しています。もっと強い心に変えられたいと願います。
Sep. 8, 2014 Do not give up: あきらめないで USオープンより

 「わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。」第一ヨハネの手紙5:14-15

 NYで開催されていたUS Openが本日終了しました。今回アジア人初の決勝入りとNYの日本人の間でも盛り上がっていまして、普段はスポーツ観戦にあまり興味がない私も、さすがに日本人選手を応援しました。残念ながら優勝はかないませんでしたが、今まで強豪を相手に決勝までよくぞ勝ち抜いてきた!と、ぜひ次回も健闘してほしいとエールを送ります。この24歳の選手は、最後まであきらめない不屈の精神力が備わっているなあと。もちろん技術や才能、頭脳プレーもさることながら、前半劣勢でもあきらめずに挽回して勝利するという、特に準々決勝の試合は感動でした。
 私は小さい頃からすぐにあきらめてしまうくせがあります。自分で出来るだけ努力はした上で、神様にお祈する時も、”だめかもしれないけどせめてこれくらいはお願いします”という、消極的な祈りが多かったです。それは最初から望む結果を低く設定しておけば、それよりいい結果がでれば落胆しないからと、誰が教えたわけでもないのに、そんな合理化をしてしまうのです。すると粘り強さに欠け、すぐあきらめる、そうすると勝負事には弱いものです。ですからあきらめずにがんばる人を尊敬します。
 古代イスラエル人の先祖のヤコブという人は、頭の回転が速く、人を出し抜いてでも自分の望むものをゲットする、自分より上手にだまされても、決してあきらめずに忍耐して目標のものを獲得していくタイプの人でした。しかし彼は神を信じて従っていたので、神は彼の性格が悪かろうと、彼を通してイスラエルの民族を祝福して増やすという約束は変えられませんでした。一方、彼のその傲慢さを砕くため、ある晩ヤボクという場所でヤコブが野宿をしていると、ある人が(この方は実はイエス・キリストが人としてこの世のこられる前に、一時的に現れたといわれています)突然相撲をしかけてきて、夜が明けるまでそれが続きました。その方が止めて帰ろうとすると、「あなたを放しません、私を祝福してくれるまでは!」と引き留めたほど、相手が神様であろうと、最後まであきらめなずに自分の願いを訴える姿が聖書に描かれています。
 この箇所から学ばされることは、神に対する祈り、嘆願はこれくらいづーづーしく、あきらめずに祈るという姿勢が大事だと。その嘆願の内容が神の御心にかなえば必ずかなえられるという約束が書いてありますが、私たちはえてして、この願いが神の御心なのかどうか分からないことも多いと思います。しかし、わからない場合でも祈り続ける、するとハンナという女性の祈りのように、祈りの内容がおのずと変わってきて、同じ事を祈っていてもその動機が変えられたり、方法が変えられたりと、祈り続ける過程で神の願いに近づけられるということをよく聴きます。私の長年祈っていることも、そのようにあきらめずに、神の願いに変えられて、最終的にかなえられることを期待しつつ。キリストにあって、”あきらめない”という態度を身に付けたいと思わされました。
Sep. 2, 2014 都上り

「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」 詩編121編1−2節

 上り電車下り電車。子供の頃、この区別がつくのには時間がかかりましたが、「東京に向かう電車は上りなんだよ」と説明され(じゃあ環状線は?)分かった様な分からないような、つまり都に上る方向ということでしょうか。ちなみに、アメリカでは南方向、北方向と方位で示されている路線もあり、とても分かりやすいです。
 その昔、現イスラエルのエルサレムの山の上に神殿がありました。(AD70年にローマ軍に破壊される)エルサレムは地形的にも周辺より高地で、地形的にも当時のユダヤの人々にはどこにいてもエルサレムへ向かう道は上りだったのでしょう。巡礼ということばがありますが、ユダヤ人たちは宗教的な祭りが年にいくつかあり、とくに3大祭り(春に2回、秋に一回)は必ずエルサレムの神殿に隊を組んで、普段は他国に住んでいても礼拝をしに家族で都上りをしたそうです。
 今日読んだ箇所は、その巡礼の時に歌う詩です。山にむかって目を上げますが、山自体が神ではないのです。一方日本人も古代から自然崇拝があり、山が神様だったりします。でも山は言葉を発しませんし、山が「どうしたのか?」と個人的な悩みから救ってくれるという話は聞いたことはないでしょう。自然とは人格的な関係を持つことができません。自然の美しさ、恐ろしさ、偉大さを崇高と感じ、人間は神々を自然から作りがちです。
 自然を含めて天地を創造された真の神は、個々人の必要をご存じで、具体的に助けを与えてくれると信頼できる存在であることが、聖書を通して示されています。真の神は人間の思うとおりのお願いをかなえてくれる単なるご利益の神ではなく、もっと根本的な心の内側の問題から取り扱ってくださり、何よりも一人一人を大切に、個人的に神の愛で愛してくれるので、信じるに値すると思うのです。どうやって神が個人的に私を愛してるかとわかるか?というと、神が、その神の子を人として生まれさせ、神と人とを隔ている罪に対する神の怒りを十字架で死なせることで代わりに受けさせて、よみがえさせられた、このことで、神がそんな犠牲をかけても自分を愛していると”解る”、これはなんともミステリーです。これが不思議と自分の罪のためだったとわかって、信じれるのは聖霊の働きしかありえません。その聖霊は憑依したり、その人を強制してコントロールしません。あくまでもその人の意思を尊重して、神に導こうと心の内側に働きかけるやさしさがあります。そのような愛のある神様に信頼して、まかせればいいんだと!大船に乗ったつもりで、日々色々ありますが歩んで生きたいと思わされます。
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