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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

Mar. 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
子供の好奇心 野球選手の精神力
帰省本能 故郷を失った人々
顔につばをかけられたら
Mar. 29, 15 "顔につばをかけられたら"

すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。」 ピリピ人への手紙3章1-12節 

 アメリカでは今の時期、レント(受難節)といってある人々はお肉を食べないで、金曜だけ魚を食べるそうです。私をクリスチャンと知った人から、「今はお肉は食べないの?」とよく聞かれます。私は最初なんのことを言われているのか、意味がわかりませんでしたが、アメリカに生活しているうちに、イースターの前の数週間(イースターとはキリストが十字架にかかって死なれ、3日後に復活されたことを祝う行事)ある宗派の人々はキリストの十字架の苦しみを思って、何かを節制する期間をとるとのことです。いくらその期間だけ肉を食べるのを我慢しても、信仰を持った生活をいつもしていなければ、意味がないのではと思うのです。逆にそれをしている人に「何でそうするの?」と聞いても、「よくわからないけど一応している」という答えが返ってくることもあるからです。私は、イースターの時期だけではなく、忘れてしまう日もありますが、365日、いつもイエス様の十字架と復活を忘れずにいたいと思っています。
 先日こんな話を聞きました。私の教会の友達があるイースターの朝、フロリダにいて独りでビーチを散歩していたそうです。すがすがしい海辺の朝、祈りながら歩いていると、前方からホームレスの人が歩いてきたので、「ハーイ」と通りすがりにその人に声をかけると、いきなり顔につばをかけられたそうです。その瞬間、頭が真っ白になり、顔にかかったつばを手で払いのけながら、電光のようにある思いが思い浮かんだそうです。「ああ、イエス・キリストは十字架にかかる前、人々にあざけられ、鞭打たれ、つばを顔にはかれて苦しまれたんだ。今自分に起こったことは、そのイエスの苦しみと恥と侮辱のほんのいったんでも、自分もそれを共有させてもらったと。そして涙があふれ出たと。自分はイエスの経験を共有させてもらうにふさわしくないものなになあと。イエスの受けた苦しみ、死はすべて自分が神から赦されて、救いを得るためであったことを思うにつけ、感謝の気持ちにあふれたと、話してくれました。
 私にとってこの証は、衝撃的でした。私は、イエス様の十字架と復活により、自分が救われたことを信じて感謝していますが、そのイエス様が受けた苦しみを共有することを思ったこともないし、もしつばをかけられたら「なにすんのよおお!」と英語で言えないから、日本語で叫ぶくらいが、私にできるせいぜいの反応でしょう。私がキリストを信じる信仰をこの世に生きている中で貫こうとすると、迫害まではされなくても、人からネガティブな反応に遭うことはあるかもしれません。その時に、それを悲しいと思うか、彼女のように感謝できるか。これは私の課題として祈っていこうと、このイースターの前の週に思わされました。
Mar. 22, 15 "故郷を失った人々"

「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。」「わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。」 第2コリント人への手紙5章1,5-6節

 春の雪がようやく解けた日曜日の昼下がり、私の家の家主は(最近私は、以前のところから一軒家の一部屋に引越しました)夫婦で何かゲームをして盛り上げっているようでした。見てみると将棋でした。それも日本の将棋ではなく中国の将棋(そう、彼らは中国の方です)で、駒がみな円形で同じ大きさなのです。しかし、駒の上に書いてある表記はほぼ日本の将棋と同じようです。つまり、将棋ももともとは中国から日本に来て、今の形となったのだということを知りました。西洋はチェス、また日本では囲碁もあり、どこの国も、ボードゲーム(盤上遊戯)があるのだと、興味深かったです。週末、食事をしたあと夫婦で将棋を楽しめるなんて、素敵だなと思いました。そういえば、私のオランダ人の上司も、奥さんとなんとか?というゲームをすると言っていました。言葉がわからないので何を言っているのかわかりませんが(時には喧嘩もしているのかもしれません?!)、とても仲のよい夫婦です。ちなみにお二人は私には日本語を話し、良くしてくれます。
 先日、ドキュメンタリーを観ました。夫に病気で先立たれた妻が、絶望して自殺されたという胸の痛むものでした。彼ら高齢になって、3/11による福島原発事故で故郷を追われ、突然、都心の6畳二間の公営住宅に移されたのです。しかし、いつか故郷の家に帰れると期待して、住み慣れない場所で二人で我慢して暮らしてきたそうです。しかし福島ではなかなか復帰できる目途がたたず、ある地区では残された家を壊して処分することを役所から勧告されていました。彼らにとって故郷の家に帰ることだけが希望だったので、その希望が失われ、さらに長年連れ添ってきた配偶者も失い、その奥様は絶望状態となったのでしょう、お気の毒で涙がでました。一方、生きて行かなければと、家を手放して、新しい土地でやり直していく人々の姿も映されていました。
 ”絶望”という言葉とおり、人にとって大切な望みを絶たれることは、生きる支えを失うことになりかねません。希望の対象は目に見えるもの、故郷、自分の子供、配偶者との生活、仕事や趣味での成功等、人によって異なるでしょう。私も、もし希望がなかったら、やはり生きていく甲斐も支えもないと思います。私は天国という故郷にいつか行けるという希望があり、たとえ今の生活が、ヤドカリのように住む家を転々としていても、配偶者もなく孤独でも、いつか故郷にいけると目指してがんばろうと思えるのです。孤独は時には辛いものです。しかし今の状態は一時的で、永遠に続くものに目を留めて、それに期待出来るから、現状に満足し感謝して、一日一日なすべきことを祈って生きていこうと思わされます。この見えない希望を与えてくださる神様に、日々感謝です。ですから、この地上で、たとえどこへも行く所がなくなって全てを失ったとしても、絶望はしないでしょう。なぜなら、与えられている信仰により、天国の故郷にいつか行けると、あこがれがあるからです。以前は”あこがれる”と思ったことはありませんが、今はそれが理解できるようになってきたのも、感謝です。
 福島の方々が、たとえ故郷に住すめなかったとしても、生きる希望を持っていただきたいと祈るのみです。津波で家族を失った方々も、なぜ自分が生き残ったのか?という問いとその意味を探りながら、生きておられるでしょう。家や場所事態に価値を見出すのではなく、生きていることに意味があるということと、そしてその命を与えている神様の愛を知ることで、どんな状況でも希望を持てることを知ってほしいと願いつつ。
Mar. 14, 15 帰省本能

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 ・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。・・・」 ヘブル人への手紙11章13ー15節」


 GPSが普及する昨今、携帯電話は私がいる場所の天気を瞬時に伝えてくれます。アメリカは大陸で、西から東へ雲や低気圧が流れてくるため、ほぼ時間通りに正確に天気を予報してくれるので非常に便利です。一方、GPSは車のナビゲーターとしては、都市部では問題なく機能しますが、あまり道のない郊外・山奥はとんでもないところに誘導していくという話をアメリカではよく聞きます。所詮機械なので、データが不足しているところではうまく機能しないのでしょう。
 それと比較して渡り鳥の本能的GPSには驚かされます。何千KMも誰も誘導しないのに、隊をなして正確にその地まで飛んでいくからです。渡り鳥の中で私が非常に興味をもったのは、マンクス・ミズナギドリ。彼らは北大西洋で繁殖し、冬季はアフリカ南部の海域、および南アメリカ東部の南を通って、ブラジル南部やアルゼンチン沖の水域へと、10,000km以上の渡りをするそうです。そして彼らの飛び方がまたユニークなのです。ほとんど羽ばたかずに翼を開いたままを左右に傾け、翼端が水面に触れるくらいに、水を「薙ぐ」 ようにして飛ぶそうです。飛行中は翼を体と直角に保っていてるため、ちょうど十字形に見え、写真をみると、十字形の白黒の体が隊をなして水面上ぎりぎりを移動しているように見えて、とても神秘的な光景です。
 人も本能というものが備わっていますが、キリストを信じる者はまた別の帰省本能のようなものが与えられています。帰省先は天です。地上では人生という旅をしていて、ゴール(天国)は目に見えなくても目標を目指し、導かれて歩んでいく様です。もともと神によって創られた人は、また神のもとへ帰ろうとするのでしょう。この世の旅路は色々大変なことが多いですが、神の霊(聖霊)が与えられて、それが心のうちに住み、その道のりを導いたり、助けたり、慰めたり、励ましてくれて、また神が苦難を乗り越える力を与えてくれます。すると、これが頭だけでなく、実際、その状況で神に頼って、助けられ乗り越えていくという個人的経験が積まれ、さらに信仰が増し加えられます。
 目標がこの地上でのことだけでなく、聖書にはっきり書かれている、神の治める正義と公平の愛のある王国に、将来、自分が新しい罪のない、天使のような体が与えられて永遠に住めるという希望が、キリストを信じる者には与えられています。だから地上で大変でも、それは永遠という長さに比べると、一時的、一過性と思えて、耐え忍べるという点で励まされます。天国での暮らしはどんなかんじなのかな?と昨晩も聖書の学びで食事時に話題になりました。たくさん人が天国にいる中で、空間的に私たちはどうやってお互いを認識しあえるのか、また一緒にいたいねえ、と想像を色々膨らましてみましたが、結局行ってからのお楽しみということで、話がまとまりました。同じ目標を持つもの同士で集まれ、話し合い、聖書を学ぶことができて、幸いな時間を与えられ感謝でした。
Mar. 10, 15 野球選手の精神力

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」 (第1コリント10章31節)

 アメリカ大リーグにて日本人選手が活躍し初めて20年以上経つでしょうか。初期の頃は野茂選手が米国で活躍していて、折りしもピッツバーグという都市に野茂選手のチームが来た時に、当時学生だった私は車を2.5時間飛ばして観戦しにいったものです。スポーツ選手はその能力と努力もさながら、精神力も非常に強さを要求される職業ですが、皆が皆自分の精神力でがんばっていけるのでしょうか。
 先日、NY・ヤンキーズとブルックリン・ネッツ(これはバスケですが)のチャプレンをしている方*がビジターで来ていた教会の礼拝に図らずも参加しました。一緒にいた友人が「チャプレンって何?牧師とどう違うの?」とたずねたので、「牧師というのは教会で信徒に仕える聖職者で、チャプレンとは教会ではなく病院、施設、軍隊等の特定の施設内でその人たちのために仕えるキリスト教聖職者だ」と説明しました。野球チームにもチャプレンがいるというのを私も今回初めて知り、さすがもとはキリスト教徒がヨーロッパから来て開拓したアメリカ国。現在は他民族国家で様々な宗教ですが、いまだにキリスト教的なものは根強いく残っているのだと思わされました。
 このチャプレンは自分の生い立ちについて、短く証しされました。彼は生まれも育ちもNYのブルックリン、幼い頃父親の暴力が酷くて、家から離れ、友達や親戚の中で育ち、ろくに学校も行かず、数十年間麻薬中毒状態でまともな生活はしていなかったそうです。しかしある日、33歳の時にキリストを信じて、神に仕えようと決心し、勉強して現職のチャプレンとなりその後30年以上、選手達の精神的な支えのために仕えているとのこと。彼のように自身がどん底で、そこから救われた経験、そしてその後のキャリアにおいても山あり谷あり、しかしいつも神が導いてくれたという生きた証しを持つ人は、勝敗に左右されざるを得ない、過酷な競争の中で戦う選手に、聖書を通して信仰上での励ましを与えられるのではないでしょうか。
 どんなに優秀なスポーツ選手も、スランプの時期があるはずですし、成果をだし続けるには人並み以上の努力と強い精神力が要求されるでしょう。自分の力で乗り切る選手もいるかもしれませんが、アメリカのような国では、信仰によって支えられてよい成果を収めている選手も多いのです。日本にもクリスチャン野球選手はいるそうで、マートン、スタンリッジ、サファテ、岡島秀樹だそうです。外国人がほとんどですが、日本の野球の世界でもクリスチャン選手は60人くらいだそうです。つまり、彼らはゲームで勝っても負けても神の栄光のために戦うのです。人の評価は気にせず、ただ神のために一生懸命ゲームで戦う、ということは自分の属しているチームのためにも戦うことになるから、それが結果的に勝利につながるわけです。
 神に仕えるとは、自分の職場の上司にも、同僚にも仕えるということなのだと、クリスチャンになった時学び、そのことが私の職場での態度を根本的に変えました。もちろん不完全で、頭でわかっていても失敗だらけですが、以前と比べると目的がはっきりしていて働きやすくなります。信仰とは日曜日だけではなく、毎日の生活の中での実践なのだと、日々学んでおります。

* Chaplain: Willie Alfonso
Mar. 2, 15 "子供の好奇心"

イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。 ルカによる福音書19章9節

 子供というのは好奇心旺盛です。私は月に1-2回、教会で大人が礼拝に出ている間、幼稚園児たちのクラスのヘルパーをするので、子供達と接します。目が話せなくて大変なところもありますが、色々学ばせられ子供達の素直さに感動させられます。「なぜ?WHY?」と聞いてきますし、「これは何?」と何でも触ってみようとし、何も考えず走り周ります。(ですから幼児は目が離せません。。)しかし、聖書の話をすると、疑うことなくそのまま受け取るので、その素直さに驚かされます。この好奇心と素直な心を大人になっても持ち続けたいと思います。三無状態:無感覚、無感動、無関心になってしまうことは悲しいことです。何かをもっと知りたいと関心を持つこと、そして知った時の感動、またあることに心が痛んだり、悲しんだり、喜んだり、怒りを覚えたりする感覚は大切です。
 ザアカイという人がいました。彼はイエスが近所に来た時、背が低かったため、群集にさえぎられてイエスを見れないので、ある行動にでました。なんと大の大人が突然木に登ったのです。すると、その横を通りかかったイエスが木の上のザアカイに目を留めて、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」*1と彼に言われました。もちろん、イエスとザアカイは初対面ですし、ザアカイはどんなに驚いたことでしょう。聖書のなかで、イエスは人々に食事に招待される場面がありますが、御自分から「家に行くから」と言ったのはここだけです。そして、ザアカイはイエスを喜んで家に迎えて食事を共にし、イエスと接しているうちに、彼は自分の今までの悪い行い(取税人として、人々から税金をぼったくって金持ちになっていた)を悔い改めて、人々に奪ったお金を返すと言ったのです。
 このザアカイの改心は、ちょっとした好奇心、木に登ってイエスを見てみようというところから始まりました。彼はイエスの噂(社会からのけ者にされている前科人、自分のような税金の取立て屋、売春婦達に近づいてくれる方、イエスの弟子の一人が自分と同業者なのに、弟子にスカウトされた等)を聞いたかもしれません。そんなイエスを知りたい、一目見たいと思ったのでしょう。しかし、イエスはこのザアカイに目を留めました。ザアカイは神から失われた状態の者で、罪の中にいましたが、彼の求める一歩に、イエスは尋ねだして、救いに導かれたのです。
 「信仰の最初のステップは好奇心と素直さ」とジョン・カルバン(神学者)は言ったそうですが、イエス様ご自身も「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」*2 .と言われています。これは子供っぽいという意味でなく、子供が自動的に天国に入れるという意味でもなく、子供のように神を知ろうと求め、そして単純にそのまま受け入れて信じることです。イエスを自分の救い主として素直に信じると、罪が赦され、神との関係が回復し神の子となれ、天国にいける、結果として行いが、生活が、人生が変えられていく、問題があっても耐えられるよう心が変えられ、生きる希望が与えられる。求める心と素直に受け入れる心が何時でも大切だと、ザアカイの木登りから学ばされました。ちなみに、全くこれとは関係なく、5年くらい前に、私も年甲斐もなく登りやすい木があったので、つい登ってみたりしました。(笑)

*1ルカによる福音書19章5節
*2 ルカによる福音書18章15〜17節
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