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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

May 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
即、答えられた祈り パンの魅力
人に合わせる:寒いオフィス編 音楽のパワー
一日700回開く口
May 27, 15 "一日700回開く口"

「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
死と生とは舌に支配される・・・。」 箴言18編20-21節 

 人は1日に平均、何度口を開くか想像されたことがありますでしょうか。これは一つの単語から文節をいうまで何度も空けたり閉めたりすること、またスマイルや、あくび、深呼吸も含むと思いますが、なんと平均で700回だそうです。寡黙な人からおしゃべりの人まで、押し並べてだと察しますが、ちょっと信じがたい統計です。(なおこれはアメリカ人の統計です。)私は英語だと寡黙になりがちですが、日本語だとおしゃべりなほうで、日本に住んでいるときは700回以上口を開いていたと思います。
 この舌は良くも悪くも非常にパワフルです。*1電車のホームを歩いてる時や、込んでいる車両に乗っていると、自分にとって邪魔な人に対して、”ちっ”と舌打ちをして通り過ぎる人がNYには多く、されたほうは非常にいやな気分となります。朝の混雑の電車の中ではちょっと押されただけで、大きな声で聴くに絶えない言い合いが始まることもよくあります。
 一方、美しい歌声で人々を感動させ、また励ましや慰めのことばや、楽しい気持ちにさせる麗しい言葉を発するのも同じ舌であります。「ありがとう」の一言はとても影響力があるでしょう。また、愛をもって間違った方向に明らかに向かっている人に、はっきり警告のことばを発することも舌の役割です。
 聖書では冒頭の箇所のように、舌に関する警告がいくつか記されています。同じ舌が神を賛美し、同じ舌が人を傷つけるのです。*2 一日に数百回言葉を発しているうちに、どれだけ良い言葉を話しているかどうかです。私が発する言葉が、批判的で辛口だったり、言わなければよかったという余計な言葉(しかし心にその思いがでてくること自体が問題ですが)もあり、後で非常に後悔します。神様にごめんなさいと謝り、そういう思いがでてこないように、聖霊により助けて下さいとお願いするしか方法がありません。これでもキリストを信じる前と比べると、かなり悪い言葉を発しなくなったのですが、まだ残っている部分が多々あり、つい口がすべったり、心にもないことを(いや心にあることが出てくる)言ってしまうのです。発した言葉は二度と取り返しがつかないので、自分でも気をつけなければなりません。そして言葉を発する前に、一呼吸おく、考えるために黙っていることも習慣にしていく必要があると思います。
 神に対しては賛美の歌が心から湧き出、人に対しては相手の徳を高めることや気の利いたことば、塩味のきいたことばを言えるようになりたいものです。口をコントロールするという道のり*3は私にとって遠いですが、神が助けてくれることが唯一の励ましです。

*1  「それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。 舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」ヤコブの手紙3章5-6節
 
*2 ヤコブの手紙3章9-10節 「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」

*3 ヤコブの手紙3章2節 「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。 」
May 25, 15 "音楽のパワー"

「正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。」 詩篇33編1-3節

 昨晩は、カリフォルニアからNYに観光に来ていた友人達と会いました。折りしも、翌日の月曜が祝日であり、彼女たちも学校でのコースを終えて日本にこの後帰国するところでしたの、夜遅くまで語り合ってしまい帰りが遅くなりました。NYは昨今は治安がよくなっていて、四六時中観光客で賑わい、夜中に地下鉄に乗っても安全です。(一部地域を除く)
 彼女たちの受講していたのはSchool of Worshipという聖書学校のコースで、特に礼拝をリードしたり、音楽の才能をもって神に仕えようという人が学ぶコースです(かなり大雑把な表現ですが)彼女達はすばらしい音楽の才能を与えられていて、一人の方は以前は一般のピアノの先生としてのキャリアを持つ方でもあります。アメリカでは音大を卒業すると、大きな教会から音楽主事としてフルタイムで奉仕ではなく、仕事として雇われる程です。
 音楽は非常にパワフルです。音楽によって人は励まされ、慰めされ、奮い立たせられ、リラックスさせられます。ゴスペルは歌のジャンルになっていますが、あれはまさに歌の内容は賛美歌であり、神を信じていない人にとっても、歌の内容がわからなかったとしても、ゴスペルは不思議とその聴く人々の心に触れるものです。
 古代より礼拝において賛美は、楽器を持って神様をほめたたえるという必須のパートです。賛美をリードする担当の人は、人々の心が神へのの賛美に集中できるようリードしますので、その伴奏するミュージシャンやリードボーカルだけが目立つというより、皆で一体となって心を神に注ぎだせるよう会衆に仕えてくれます。もちろん、すばらしい演奏や歌を一方的に聴くという形式もあります。その際も、ミュージシャンが凄い!とその人たちに栄光がいくのではなく、基本的には神が賛美にふさわしいすばらしい方だという思いで、聴き、感動を覚えるものです。
 若い彼女たちが、今後のそれぞれの教会で神さまがどう用いられていくのかを期待しつつ、祈って応援したいと思います。夏日のたそがれ時、皆でおいしいイタリアンを食べながら、私にとっても、楽しいひと時が与えられ、感謝でした。
May 19, 15 人に合わせる:寒いオフィス編

 「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」 ピリピ人への手紙2章3-4節

 私のオフィスはエアコンのせいでとても寒く、低体温の私はいつも重ね着をしています。今日は特に午前中、凍るような温度だったので少し上げると、”暑い暑い!温度を下げるようにビルに言って!”と、とたんに上司から言われ、しぶしぶ下げました。私は室内でユニクロのダウンを着なければならない程寒かったのですが、皆さんの温度に合わせなければならないので、風邪をひかないために着るしかないのです。考えてみると、寒ければ着ればいいですが、暑い人はそれ以上何もできないので、こちらが譲るしかありません。
 温度だけでなく、何事につけ人と合わせるのは至難の技です。合わせられないから、人は合う人同士でグループを作るでしょう。考え方や常識の異なる人とつきあうには、互いの違いを認め合い、時にはどちらかが譲歩しないとうまくいきません。たとえどんなに同じ、似通った仲良し同士の間でさえも考え方に違いはあり、結局人間関係においてうまくやっていく秘訣は、互いに尊敬する心をもち、傲慢にならず、自分がへりくだることではないでしょうか。(それが中々できないものです:笑)
 イエス・キリストは、非常に低い、謙遜な方でした。地上では師として、弟子たちに大切な神の国や真理を教えられましたが、”病気を癒してくれ〜”という群衆が押し迫ってくるため、寝る暇もあまりない程人々に仕えていました。そして神であっても人の体なので、疲れますので、移動の船の中で眠っておられたことも記録されています。また十字架に架かる直前の最後の弟子たちとの食事の時、当時の奴隷がする役割:足を洗うことを弟子たちにされました。弟子たちは驚き、弟子の一人は、”先生そんなことしないで下さい!”と言った程です。しかし、これは互いに仕え合いなさいということを示すデモで、イエス様は自ら模範を示されたのです。
 イエス様の究極的な謙遜の姿は、人を創造した神である方が、不自由な人となって生まれてきたことです。神が人となるというのは、人が蟻に生まれ変わるという次元ではないのです。なぜなら蟻も人も被造物、創られた物で、神の子であるイエス様の場合は創造した側が被造物に生まれ変わったからです。その人としての生涯は人々に仕え、苦しまれ、十字架で死ぬ道を歩まれるほど、ご自身を低くされたのです。*
 冒頭の聖書に箇所は、使徒パウロが、当時の信者達、そして現代の私たちへの、イエス様のように低くなって仕えあう心を持とうとの奨めです。これを、自分の持ち前の性格や力でやろうとしたら、挫折するでしょう。しかし、己の力に頼らず、聖霊の助けを求める者には、このキリストの自分を犠牲にして人に仕えようとする心に少しでも預かれるのではないでしょうか。些細なことで、内側の葛藤が日々あります。とっさに感情的に反応したりと、失敗ばかりですが、それでもめげずにキリストの心や思いをもてるように求めて、徐々に変えられていきたいと願いつつ。

*「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 」 ピリピ人への手紙2章6-8節
May 18, 15 "パンの魅力"

「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである。」 ヨハネの福音書6章35節

 私の友人にパン職人の方がいて、NYのレストランでパンを焼いています。特に彼女の作るクロワッサンはパリッとしていて最高です。私がパン好きなのを知って、いつも金曜日に焼きたてのおいしい様々な種類のパンを、週代わりでプレゼントして下さり、私は本当に恵まれています。日本人のくせにご飯よりパンを好み、おいしいパンが目の前にあるとついつい食べ過ぎてしまい、メインの食事が食べられなくなります。それ程私にとって、パンは魅力的で、なくてはならないものです。
 古代から地中海沿岸地域では、パンとぶどう酒は食卓にいつもあるものだったようで、聖書に描かれている当時の食事の様子からもそれが伺えます。イエス様は生活の身近なものを用いてたとえ話を話したり、”私は何々である”という比喩でご自身のこと・真理を語られていましたが、「わたしが命のパンである。」*1とも言われました。
 クリスチャンは聖書を神のことばとして信じ、人が日々肉体を支える為の食事をとるように、霊的な糧を聖書のみことばによって与えられています。パンは置いておくと腐りますし、形あるものはいつかは朽ちてなくなります。しかし、命のパンは朽ちず、それを食べると永遠の命が与えられるという意味で、イエス様信じることをパンを食べることにたとえられました。
 最初から存在され、すべてを創造された神様とそのことばは「決して滅びない」*2 というイエス様のことばを、日々の忙しい生活の中でいつも覚え、形ある見えるものに拘らず、大事なみことばに目を留めたいものです。“ことば“であるイエス様を信じ*3、日々命のパン=みことばを読んで養われて、神の戒め(神を愛し、人を愛しなさい)を守れるように、聖霊によって助けていただきたいと願います。

*1 ヨハネによる福音書6章35節
*2 
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。」ルカによる福音書21章33節
*3 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 」 ヨハネによる福音書1章1節
May 7, 15 "即、答えられた祈り"

「また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬で教えられた。 」
ルカによる福音書 18章1節

NYに住んでいても仕事をしているので、行ってみたいと思うレストランや場所に、なかなかいく機会がないものです。折りしも先週から一週間、日本から旅行で来ている方とご一緒に、NYの大きな教会にいくつか行ったり、日替わりで様々なジャンルのレストランでお食事を共にしたり、とても楽しい時を過ごすことが出来ました。こういう時でないと、レストランで外食することはほとんどないですし、自分が通う教会以外の有名な他の教会に行くこともなく、今回一緒に色々満喫できて、とても感謝でした。
 最近、自分のもともとの知り合いではない、NYへの旅行者の方とお会いする機会がよく与えられています。それは、その方々の滞在するホームステイ先がクリスチャンのお宅なので、その方との連携が与えられているからです。そのホストがアメリカの教会に旅行者をお連れし、そこで興味を持ち、英語だと意味がわからないので日本語で説明をしてくれる会があるから、という流れで、私の開いている聖書の学びの会に紹介されて来られます。ほとんどの方が日本で聖書や教会とまったく縁のない人生を送ってきて、アメリカで私の聖書の学びにも参加され、初めて耳にする内容だとか、なるほどそういう意味だったんだと皆さん納得されて興味を持って下さいました。
 しかし、興味止まりで、なかなか「では、キリストを信じよう」とまでは行かないものです。私も、福音の種まきと思って、いつか人生のどこかで、神を求めるような時が来たら、”NYでそういえばそんなことを学んだなあ”と思い出して求めるように導かれたらいいなあと願っております。この半年で多くの若い女性たちにキリストの福音を話す機会が与えられ、こんな私が、自分で宣伝したわけでもないのに、向こうから興味を持った人がホストにより送られてくるというのは、非常にありがたいことで、なんの働きのないものにこのようなチャンスが与えられ、これも神様の恵みといつも感謝しています。
 ところが、今回の方は異なりました。お会いしてからの短時間で、私もたくさんの情報を話しましたが、なんと、学びの会の場でキリストを信じる決心してしまったのです!彼女は今までの他の方とは異り、求めてきたので、もしかしたら。。とかなり期待し、ちょうど彼女と初めて会う前日に、教会でお互いの必要を祈る会があったので、そこでも皆に彼女のために祈ってもらいました。ホスト側の教会サイドも祈りと、つまり、その皆の祈りが即聞かれたわけで、後から私たちは皆で大喜び、彼女に会った事もない人々が”すごい!ハレルヤ”と皆で神に感謝して感動しました。
 人がキリストを信じて救われるというプロセスは、時間がかかることが多いです。また、何年も、何年も祈り続けてまだ、答えられていない祈りのリクエストがたくさんあります。しかし、神さまのタイミングがあり、神さまは祈りを聞いておられるけど、かなえる方法とタイミングが私たちの思うとおりでないようです。ましてや、信じるという行為は、相手の意思が伴います。ですから長年祈っていることを失望しないで祈り続ける上でも、今回のようにすぐにかなえられることは、大きな励ましと喜びであります。彼女が日本に帰っても、よい教会に導かれ、信仰が成長するよう祈りつつ、またこのような奇跡を引き続き求めていきたいと思います。
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