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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

June 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
洪水警報アラーム 干ばつから人々を救う、イスラエルの水革命
まぶしい光 愛するとは赦すこと
フォーカス 共に歩むむ道
June
28, 15
”共に歩む道”

「あなたの足の道に気をつけよ、そうすれば、あなたのすべての道は安全である。」 箴言4篇26節

 この週末は教会のリトリート(修養会)のためペンシルバニア州の緑深い、大きな川の傍の自然にかこまれたリゾートで過ごしました。折りしも、土曜は一日中雨でしたが、そのおかげで他のアクティビティをせずに、皆さんと屋内で話をしたり、お昼寝したり、聖書を読んで静かに祈る時間が与えられて、まさに日常生活からリトリート(”退却”という意味)ができました。今回のテーマは、「あなたの足の道に気をつけよ」。
 人生は道を歩いていくことにたとえられます。どの道へ行くのかを様々な場面で決断するのは自分自身であり、その決断には心にあること、つまりその人の優先順位、何を大切にしているかが大きく影響していくでしょう。私は知恵に欠けていますし、心にあることはいつも自分中心で、自分の利得になるように自動的に頭で計算し、こうしたほうがいいと決断する傾向性があります。しかしながら、果たして自分は正しい、行くべき道すじに進んでいるかどうかには自信がなく、すると、ケセラセラ、どうにでもなれみたいに行き当たりばったり、もしくは自転車操業的状態に陥ります。そして”独り”でこの道の責任を背負わなければという、重荷がありました。
 一方、自分で判断せず、どんなことでも神様の導きを求めて、聞きながら道を歩めれば安全なのです。神様は人のメーカーであるので、それぞれに何がベストか、その全能の力でご存知だから。私は今でも祈らないで、自分の感覚や経験、思いつきでぱっと動く衝動に駆られます。ですから祈って聞く、答えがでるまで待つ、たとえ決断の日が迫ってきていても、ラストのタイミングで聖書を通して答えが示されたり、また状況が別の方向に開かれること期待していこうと、少しづつ私の姿勢も変えられてきていることは幸いです。
 神の導きにそった道へ進むことには、先行き不透明であったとしても、平安があるのです。自分でなんとかする、運命に任せるというのは非常に不安定でしたが、神がなんとかしてくれるから、こちらの道へ行ってみよう、それも独りじゃない、助け主である聖霊(神の霊)が共にいてくれるというのは、なんともたのもしいものです。たとえ私が、行くべき道でないほうを選んでしまったとしても、神様はGPSのようにRe-calculate(再計算)してくれて、いくべき道に戻してくれるからです。私は今まで、回り道ばかりしてきました。違う方向へいっても回りまわって、神様が私にベストとして用意された道へ戻されている、と後から振り返って気がつくことが多いのです。失敗や障害を恐れず、神様に信頼して祈りながら一歩一歩、道を進んでいきたいと、今回のリトリートを通して改めて、示されました。
June
23, 15
”フォーカス”

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。 」 ヘブル人への手紙12章2節

 私は若い頃、スキューバ・ダイビングの初級ライセンスを取得し、数少ないですが何本か海に潜りました。しかしその後、何年も間が開いてしまってやり方を忘れてしまったのです。ある時、再び潜る機会があったので、事前にリフレッシュコースというプールでの講習を受けて準備しました。しかし、いざボートから海に飛び込んでみると、静かなプールとは勝手が異なり、波にもまれて一瞬あせり、うまく潜れないのです。すると横でインストラクターが私に落ち着くように合図し、手を引っ張ってくれました。そして落ち着いてようやく、潜水成功。2本目は大分楽になれました。
 急にこんな体験を思い出したのは、先日、牧師が同じような話をしていたからです。スキューバのライセンスを取得してた彼の息子は、ちょうど波が少し荒れていた時に潜ることになりました。彼は、「平気、平気、自分は資格もってんだし練習すみだから」と、いざボードから海へ飛び込むと、波にもまれて、うまく海底に沈んでいかずパニクったそうです。船上のインストラクターが彼に向かって「僕をみて!」(Focus Me!)とその慌てている彼に向かって叫びました。そして、彼はインストラクターに注目することで冷静になり、学んだ手順を実行し始めたのです。すると彼は、水面下に徐々に降下し、そこは海面上とはうってかわって、静寂な美しい世界が広がっているのでした。ダイビングで最も重要なことは、パニックにならず、落ち着いて習ったことを思い出してすることなのです。
 イエス様の弟子達も、ガリラヤ湖という大きな湖を小さい船で向こう岸に渡っていた時、嵐に遭い、てこづっていました。するとそこに、イエス様が岸辺から湖の上を歩い船に近寄ってきたのです。彼らは幽霊と思って大の男達が恐怖の叫び声をあげ、イエス様は彼らに、「しっかりしなさい、私だ」といわれました。弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と大胆にも言うと、「来なさい」とイエス様にいわれ、なんと彼も水の上を歩くことができたのです。しかし、すぐに足もとの波と風が怖くなり、とたんに沈んで溺れそうになりました。「助けて!」とイエス様に向かって叫ぶと、イエス様は手をとって助けられ、二人は船に乗りました。*
 イエス様にフォーカスしていれば、溺れないのです。しかし周りの状況に目を留めてしまうとパニックになり、自分でばたばた画策して動き、余計状況が悪くなることがあります。励ましは、イエス様なら溺れかけても、いつでも助てくれること、またこの状況をコントロールしておられるという聖書の約束、神のことばを思い出せば、落ち着いてまず祈り、神様の導きを求めつつ、やれることを行っていけます。また、たとえ心が溺れて死んだような状態になっていても、イエス様を信じれば、新しい命が与えられ霊的に生き返ることも可能なのです。
 人生で嵐は必ず来ます。しかしそれはづっと続くものではないし、治まります。しかしこの世に生きている限り、他の嵐はまたやって来るのですが、イエス様にフォーカスして乗り越えさせて頂くたびに、信仰が強められ、益々主であるイエス様に委ねて歩んでいけるのでしょう。

*  マタイによる福音書14章22-33節
June
17, 15
”愛するとは赦すこと”

そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」 ルカによる福音書23章34節
 1950年代、南米エクアドルのジャングル奥地。この地にアメリカ人の宣教師とその家族が分け入りました。しかし、その地で最も恐れられていたアウカ族に彼らの内5人は惨殺されます。エリザベス・エリオットの夫も殺されましたが、彼女はその悲しみを乗り越え、なんと生後10ヶ月の子供と共に、その地に残り宣教を続けたそうです。そして、ついには彼女の夫を殺害した人たちも救われていくという驚くべきストーリーがあります。彼女はアメリカに帰った後、神学校での教師、たくさんの本の執筆と、ラジオ番組で活躍され、先日88歳で、天に召されました。
 アメリカでは、5月にメモリアルデーという退役軍人のための祝日がありますが、その前の日曜礼拝で、日本人の真珠湾攻撃の話を今だに説教に入れ込むアメリカ人牧師がいることを何度か聞いたことがあります。確かに日本の軍隊はひどいことを戦時中にしました。一方、歴史の中で残虐なことをしたのは日本人だけではなく、どの民族も有史以来、残虐な戦争、殺人、暴行をしてきたはずで、ある特定の民族だけ悪いとはいえないはずです。だからといって、殺人・暴力は戦争であろうと、”仕方がない”と正当化されるものではく、神の前に罪は罪です。一方、戦後あえて宣教師として日本に志願してきて、日本人に仕えてくださったアメリカ人もたくさんおられることは、感謝につきません。
 イエス様は「敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい」*と言われ、ご自身が実際十字架刑に処せられている時、あざけっている人々のために、イエス様は冒頭のみことばにあるように「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と息も絶え絶えに天の父なる神に祈られたと記録されています。まさに、御自分の教えをそのまま実行されたのでした。天の父なる神さまが、まさに、自分に敵対する人間のために、自分の一人子の命を犠牲にされました。神なんかいない、と主張し、自分の基準で権利を主張し、正しいと言い続ける人々を、神さまは裁くのでなく、赦すためにイエスをこの世に送られました。ここに神の愛があり、愛するとは赦すことだと、イエス様を通して教えられます。
 家族を殺された人が、その加害者を赦すというのは不可能であります。しかし、エリザベス・エリオットを含む宣教師達は、このイエス様の愛に従うことができたという、まさに神様の御業の表れではないでしょうか。神さまが不可能を可能にするいうことは、かれらの生き様から証されます。その証しによって、様々な苦しみの中にいる人々の希望と励ましになることを祈りたいと思います。

マタイによる福音書 5:43〜44
June
10, 15
”まぶしい光”

「そのさばきというのは、光がこの世に来たのに、人々はその行ないが悪いために、光よりもやみを愛したことである。。。。しかし、真理を行なっている者は、光に来る。その人の行いの、神にあってなされたことが明らかにされるためである。」ヨハネによる福音書3章19, 21節

 NYは6月に入り ようやく夏の日差しがまぶしい季節となってきました。今年の初夏は5月入っても涼しい日が続き、夏はまだかと、待ち遠しかったです。日の光というのはまぶしいですが、私達の生命に必須です。暗い部屋で睡眠をとっていて、朝日が入ってくるとまぶしいもので、一瞬反射神経で目をつむりますが、徐々になれ、光を受け続けて目を半開きしながらも起き始めるものです。
 心理学のカウンセリンラーが以前このように言うのを聞いたことがあります。悩みがあってカウンセリングに来る人の中で、結局、自分の問題をカウンセラーに吐き出すだけで、いざ何かアドバイスをしても、なかなか受け入れない。その問題で苦しんで辛くても、そこから脱出し新しく変わることへの一歩を躊躇してしまう、自分の心の問題を持ったままでい続ける人がいると。自分の心に暗闇を持つことに心地よさを感じるという、自虐的な心理状態に陥ってしまうのでしょうか。
 イエス様は光として世に来られました。しかしある人々は、光であるイエス様の方に行こうとしません。なぜなら、光がまぶしく、自分の心に持つ暗闇に光を照らされたくないからです。そういう人はまぶしい光を除こうとします。もしくは最初から光があてられることを避け、心の暗闇に蓋をして、そのまま生活し続けるのです。
 2千年前のエルサレム(イスラエル国)で、何の罪もないイエス様を「十字架につけろ!」「除け!」と人々はイエス様をねたむ宗教家達に先導されて、裁判官に叫びます(この時代はすでに裁判製度が存在していましたが、イエス様の裁判では、なんと裁判官に傍聴席の人間(群集)が求刑を要求して通ってしまうという、司法制度の崩壊です)。 この様子は、まさに心の中の暗闇を愛し、暗闇にい続けることを望んで”光”を除こうした現象でした。イエス様を十字架につけたことは当時のユダヤ人だけの話ではなく、現代に生きる一人ひとりに光のもとへ行くか/除く(避ける、というのは除くと同じ。自分の前から見えなくするわけですから)かのどちらかが問われます。自分が正しいと思ってきたことが全否定されるようで、光にさらされるのを怖いと感じるかもしれません。しかし太陽の光のように、最初は暗闇状態にいますと、光が突き刺さるように、心に痛みや悲しみを感じますが、そのうちよりはっきり見えなかったことが見えてくるものです。イエスの光の中に入るとは、自分を責める思い、人を責める思い、失望感、恥、心の傷などがキリストの十字架上ですべて帳消しにされて、赦されて裁かれることがなく、暗闇から解放されることを意味します。
 真理であるイエス様をその暗闇・罪からの救い主として信じる者には、罪が赦され、神の子とされ天を相続させて頂くだけでなく、地上での行いにおいてもイエス様の真理に預からせて頂けるというこの箇所の約束があることは、なんと幸いなことでしょう。転んで失敗はしながらも、起こしてくださる方がいるので、日々イエス様とともに光の中を歩んでいけるよう 互いに励ましあい、祈り続けたいと思います。
June 3, 15 干ばつから人々を救う、イスラエルの水革命

「イエスは女に答えて言われた、『この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう』」。 ヨハネによる福音書4章13-14節

 節水。小学校の水場にはこのサインがありました。島国の日本で育った私は、資源は無駄に使わないようにというメンタリティが与えられ、幸いだと思います。今アメリカのカリフォルニア州は非常な干ばつとなり、ダムが干上がってる様子を写真に見るにつけ、生活している方々は大変だろうと察します。
この水不足への画期的解決があるという記事を読みました。*1 イスラエルという中東の国は、国土のほとんどが砂漠または半砂漠で降雨量も少ないにも関わらず、現在食糧のほとんどを自給でき、農産物の輸出も行う農業大国だそうです。なぜなら、この国は海水をリサイクルする技術を持っているのです。その排水、海水のリサイクル率は世界一(70%超)、費用も既存の脱塩技術よりはるかに廉価な技術が近年開発、実用化されたそうです。(ちなみに米国の水のリサイクル度はわずか1%、スペインは、イスラエルに次いで17%)アメリカもこの技術を導入すれば人々の生活や農業も助かるのではないでしょうか。しかしながら、政治的・経済的関係でそう簡単にはいかないのでしょう。
 水は私達の生命に必須です。身体の平均して50〜60%は水分だそうです。問題は、一度水を飲んでも再び渇くので、補給し続けなければならないというシステムです。昔は(今でもある地域では)水を井戸から重い思いをして運んだり、雨水を溜めておいて洗濯や洗面に利用するので、水は非常に貴重です。現代のように蛇口をひねると難なくでてくる社会に住んでいると、水の有難味・貴重さを感じにくいのではないでしょうか。
 2千年前のイスラエルのサマリアという地域に、一人の女性が毎日井戸に水を汲みに来ていました。彼女は町の人からのけ者にされていた為、人が集まらない日中の暑い時間に、人目を避けて一人で汲みに来ていたのです。そこにイエス様が現われて、彼女と会話を始め「私はあなたに、飲んでも渇かない水を与えることができるよ」と言われたのが今日の箇所です。女はそれを聞くと「わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」*2 とイエス様にお願いしました。しかしイエス様は物質的な水のことではなく、いくら何かで満たそうとしても渇いてしまう心の状態を、唯一潤せる霊的な水の話をしていたのです。このイエス様からいのちの水を頂くと、最初はいずみのように水が湧き出て常時自身の心を潤し、永遠の命にいたる水へと湧き上がるというのです。またイエス様は、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」*3 とも言われました。つまりイエス様が下さる水というのは、神の霊=聖霊のことで、それを頂くと自分が満たされるだけでなく、外に勢いよく流れ出る水のように、他者に影響を及ぼすと言いわれているのです。
 聖霊で満たされ続けると、最初は少しづつしみでる泉の量であっても、いつか川の流れのような影響力となり、他人に神様の恵みを流せることができるのでしょう。聖霊を頂くためには、水を得る為のような労働、良い行いや修行は必要ないのです。求めれば与えられると約束されています。*4 ただ、一度だけでなく、聖霊に満たされ続けるには、求め続ける必要があります。私ももっと求め続けて、イエス様の愛・恵みを人々に流せる管として、少しでも変えられていきたいと思わされました。それにしても、世界の干ばつの救済となりうる革命的水技術の場所と、2千年前、神の子・イエス様が魂の救いを宣言された場所が、同じイスラエルというのが偶然とは思えないのです。


*1 ”メガスケールの淡水化:毎日627,000m2の水を生産”, MITテックレビュー, May 2015
*2 ヨハネによる福音書4章13-節
*3 ヨハネによる福音書4章15節
*4 ルカによる福音書11章9-13節
June 1, 15 "洪水警報アラーム"

 「あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。」 ヘブル人への手紙12章26-28節

 昨晩、夕方から滝のような雨が降り始めました。折しも、教会で午後の礼拝を終え帰宅しようとした時で、傘を持っていなかった私は、駅までの短い距離だけでもずぶ濡れとなりました。道行く人々の携帯電話からは、洪水警報のアラームの音がビービー鳴り響いていました。現代は、洪水や嵐、地震などの警報アラームが各々の携帯電話から発せられ、手元にラジオやTV、PCがなくても人々に伝わり、被害を最小に食い止める助けとなっています。
 アラーム・警報とは”これから何かがおこるから注意して下さい!”と、人々の注意を喚起するために発せられます。うるさいくらいな大きな音で、皆に気づかせる役割があります。寝ている時に誰かに「おきて!」と体を揺さぶられると、はっと目が覚めるものです。夢心地の時に起こされるのは嫌なものですが、気がつかないで大変なことになってから目が覚めても遅いのです。震わされるというのは、アラームのようなもので、個々の人生においてもこの”震わす”ことが起こることはないでしょうか。
 この聖書箇所の文脈は、今ある世界は(いつかは朽ちる被造物)が滅びて、新しい天と地(震われない国)が現われる時に天地が震えることを書いています。キリストを信じる者は、震わされて残った新しい場所で永遠に生きることが保障されているので、地上にいる間は(霊の)目を覚ました状態でいつつ、神に感謝して、仕えようとの励ましです。
 一方、神様はこの世で生きる間でも、何か新しいこと、思いがけないようなことを個々人に現わそうとされる時に、人々を震わす何かが起こるのを許可されます。自分のコントロールがもはや効かないこと;死に至る病、災害、家族の死、戦争など。震わされた時は 「なぜ、こんなことが?もう無理だ、もう終わりだ」という境地に陥り、あきらめようとします。しかし神はその災難を、その先に何か、新しい経験に、新しいステップに導くための警報として用いられることがあるのです。今までの心地よい慣れた状態から、次の霊的なレベルへ移行する前のアラーム・警報として、自分を神が揺さぶっている。これは、神様が良いことも悪いことも総合的にコントロールしているということを信じて、次のステージを待つという信頼がベースにあります。
 私もNYに移って以来、”震わされている”と、この箇所のメッセージから気がつかされました。何度も、もう無理ですと、泣いて神様に訴えたり、体調不良の時がほとんど、孤独のなかで寝ていることもありました。一方、毎週集会に来てくれる人々に、聖書を通して神様の愛をわかちあわせて頂くことが毎回うれしくて楽しみであります。この集会を通して私自身が励まされ、落ち込んでいた信仰が引き上げられ、神様に仕える喜びが与えられています。こんな者が、アメリカでにやっていけるのは奇跡としかいいようがありません。神様はこの軟弱な私に、何か想定外の次のステップを示そうとしているのかもしれません。先行き不透明であっても神様に信頼しつつ、その間、イエスキリストに目を留め、喜んでその与えられている恵みに日々感謝し、目の前の人々にこつこつと仕えていこうと、大雨の降る夜にタイムリーに励まされました。
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