Praise the Lord 本文へジャンプ
今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

July 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
ヘイトクライム 重荷を担う 人が創られる時期
良い知らせ ビーチでの洗礼式 健康診断 自由と責任  

July 29, 2015
"自由と責任"

「愛する者たちよ。わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。」 の手紙1章3−4節

  自由というのは責任も伴います。例えば、言論の自由。その人の思想、考えを表現する自由は権利として多くの国の憲法で保障されていますが、この自由は公共の福祉に反する場合は制限されます。つまり、いくら自由といっても、社会に悪影響を及ぼすとみなされた場合は、その自由という権利は制限されます。このように、自由には責任が伴うため、その責任が取れない場合は制限されるのです。
 放縦という言葉はあまり、普通の会話ではでてこないのですが、これは「勝手きまま」という意味で、責任を持つことなく、その人の思うがままの発言、行動を指します。放縦は周りが振り回され、迷惑です。ネット上でも、どれだけこの無責任な放縦的発言により炎上していることでしょう。
 今日の箇所は、イエス・キリストのハーフブラザー(同じお母さんから生まれた肉の兄弟)であるユダという人が書いた手紙です。彼は、イエス様が生存中は、20代後半まで兄弟として共に育ち、普通に家族として生活してきたがゆえに、イエスをメシア(救い主)として信じることができませんでした。しかし、イエス様が十字架にかかられて死なれ、3日後に復活されてからイエス様を神の子キリストとして信じるようになり、後にこの手紙を信徒たちに書いたといわれています。この手紙より、当時、神様がイエス・キリストを通して与えてくださった救いの恵みを放縦に変えていた信徒がいたことがわかります。現在でもそのような”放縦クリスチャン”がいます。私も以前そういう時期がありました:教会には行って、活動に参加していてもイエスを主と信じていないで、この世の基準、聖書の教えと矛盾している生活をしながら教会には行くという2重生活を送っていたのです。私は洗礼を受けたし、一応救われていると思っていましたが、だんだんそう思えない程、この2重生活の乖離が大きくなり、苦しくなって、神様に助けを求めたのです。そして神様は優しいので、私をもう一度信仰を与えて下さり、今は失敗はあっても心に一貫性が与えられ、信仰にそって生きられるよう内側が変えられてきていることは本当に感謝につきません。
 放縦クリスチャンの問題は、信じたら救われるという部分だけ信じて、天国へ行けるから大丈夫とそこ止まりなのです。信じるとはイエス・キリストを主人として従い、新しく、キリストのために人生を歩むことです. 今まで自分の価値基準で、自分の判断で好きなように生きてきた状態から、Uターン(方向転換:これを悔い改めといいます)し、これからはキリストに従がって、天国を目指して生きるのがクリスチャンの歩みです。 しかし、ある人はこの”従う”という部分を忘れ、救われたんだ、罪が赦されたんだという恵みを、好き勝手なことをする権利にすり替えてしまうのです。聖書に書いてあることを、神の言葉としてそのまま従わず、いや自分の(社会が良いという)価値基準でいいんだ、神は愛だからと私的解釈を都合よくするのです.。ユダは、このような恵みを放縦に変えてしまう人たちに警告を与え、そういう人はいつも不平・不満を並べ(16節)、ついには裁かれると。放縦に走ることは、主であるイエス様を否定することだと、これは非常の重い警告として真摯に受け止めたいと思います。
 この箇所を読んで、「教会に来ている、だれだれさんはこれに当てはまる!」と思う人は、人を裁く前に自分を吟味するべきなのです。使徒パウロは、他人を裁くあなたは、自分が裁きを逃れると思うのかと指摘しています。(ローマ人への手紙2章1−2節)聖書の言葉は、他人に当てはめるのでなく、自分にそういうところがないかを吟味し、悔い改めに導かれる為にあるわけです。一方、クリスチャンと称する他者(クリスチャンでない人は別です)に放縦が明らかに見えたら、愛をもって戒める、遂に耳を傾けない人とは食事もしないつきあわないようにと手紙でパウロは指示しています。人情的には冷たいと思うかもそれませんが、そうするのはその人が悔い改めるチャンスを得るためです。
 日々、己の心を聖書の言葉で光に照らして、悔い改めて行きたいと思われました。神様から与えられた恵みは、単に天国への切符ではなく、神に従ってこの世で歩むための人間側の責任でもあるのだと今日の箇所から学ばされました。もちろん、私は神様の御心に従うのに、相変わらず不完全で、弱いものですが、心のうちに住む聖霊が助けてくださるという安心、保障があることで励まされます。


July 27, 2015

 "健康診断"

「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。」 詩編139編23−24節

 

 年に一度の健康診断。今回数値に出てしまい、治療をしなければならなくなりました。一瞬、「アメリカでは医療費が高い上、私の保険は余りカバーしないので通院だなんて、無理、払えない。でもほおっておくと。。。」とネットで検索していくと最悪のことばかり書いてあるので、ますます暗くなりました。とりあえず、貧血等の治療は週一回、注射をうちに3ケ月通って、もう一つの内分泌系のほうは半年後にもう一度検査、要観察になりました。私は7年前から胃が3分の1しかない為、ミネラルやビタミンを吸収しにくいそうで、その積み重ねで色々支障が出てきたのかもしれません。他の栄養分は問題なく吸収し、体重は普通に増えるので困ったものです。とりあえず、ここで続けるのが困難であれば、その時に日本での治療も考えようと。一番良いのは、治ってしまうことです。先日教会の一部の方々に話して、このことをお祈りしてもらいました。すると一人の男性が近づいてきて「僕もその数値が低くて薬を飲み続けているけど、何の支障もないよ」と言われ少しホッとしました。しかし服薬は一度始めたら通常止められない。副作用のない薬はないし、避けたいものです。
 心の健康診断も必須で、これをほおっておくと重篤になります。どれだけ多くの、心の風邪と呼ばれるうつ病やその他の精神疾患を持つ方がいることか。そして、他の疾患の薬と異なり、向精神薬はその効き目について、非常に判断が難しいところです。
 クリスチャンにとって問題は、心のもっと深い部分、霊の健康です。霊的健康は必須であり、これがおかしいと、心、体とすべてに悪影響を及ぼします。自覚症状は、聖書を読む気がしない、忙しくて祈る暇がない、教会に行く暇と体力がない、イライラする等、これらが少しでもでたら自分から神様に祈って申し出ないと、どんどん悪化して、しまいには麻痺してしまうのです。予防策は、日々聖書を読んで霊の糧を得、牧師のメッセージを聞き、自分で祈るだけでなく、プライドや恥を捨ててクリスチャンの友人と、気づいたことを一緒に祈ってもらうこと。一人で祈れば平気と、祈っているつもりで無意識に問題を先延ばし、すり替えをしてしまい、結局神様から遠のいてしまうこともあるからです。何か、おかしいと気が付いたら、なるべく早く、神様に「私の心を診断してください」と祈るのが一番でしょう。すると、聖書のことばを通して、自分が気づいていなかったことが示されたり、時には他のクリスチャンに分かち合って共に祈るときに、神様はその人を通して気づきを与えられることもあります。

 神様だけが、私たちの心の病気を診断し、隠れた罪があればそれを示して悔い改めに導き、そして傷を癒して健やかにし、他の人に仕えられるように導いてくれます。霊の健康を保つことは結局自分のためだけでなく、キリストの体の一部分としてお互い繋がっている、他のクリスチャンの兄弟姉妹(教会)のためでもあるのです。神様との関係が良好であること、イエス様に信頼していろいろあっても喜んでいられること、このような霊的健康を常に保てるよう祈り求めようと思います。
 心身ともに、早期発見、早期治療が大事。あと、治療中は今までのように体に負担になる無理なスケジュールを組まず、ペースを落とすこと、ですかね。


July 25, 2015
ビーチでの洗礼式

「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。」 ローマ人への手紙6章4−5節

  雲一つない青い空と海、白い砂浜が延々と続くビーチ。本日はニュージャージー州にあるAsbery Parkというビーチで、私たちの教会の洗礼式が行われました。私は今まで、川で受ける式、教会の建物内で水をちょっと頭にたらすだけの式を見てきましたが、海での洗礼式は初めて参列しました。波が打ち寄せる中、ザブンと体を沈ませて、ザバッと水の中から起き上がる様子は見ていてとてもダイナミックでした。そして今日洗礼を受けた二人の顔は、夏の日差しで照り返す海をバックにキラキラ輝いて見えました。彼女たちは、喜びで満たされているからです。

 洗礼式は、イエス・キリストを救い主として信じることを公に言い表す誓いの儀式です。これを受けたからといって、何かが感覚的に変わるわけでもないし、急に清い人間になるわけではありません。しかし、心の内側では、与えられた神の霊:聖霊によって新しく歩んでいくという、新しいスタートを意味するのです。洗礼は、キリストを信じる前の古い自分が水に沈んで死んで、そのお葬式を意味すると同時に、水から上がった自分は新しく生まれたことを象徴し、新しい自分の誕生日なのです。皆で二人をお祝いしました。私たちはこの式に参列して、マイク牧師のメッセージより、今一度洗礼の意味を自分自身に対しても思い起こし、彼らの誓いの証人として喜んで参加できたことが、私たちも喜びに満たされました。

 式が終わって、私は最近仲良くなった香港から移住してきた方とビーチの周りをお散歩したり、浜辺でお昼寝をしたりして過ごし、夕方マンハッタンに戻ってからついでにおいしい日本食を食べに行き、心もお腹も満たされました。神様の与えて下さった夏の素晴らしい思い出のページに感謝しつつ。


July 22, 2015
 良い知らせ

彼らは、{イエスを拝し、}非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえていた。」  ルカによる福音書24章52-53節

 Good News!(いい知らせ)とは何でしょうか。おそらく、状況的が好転するような情報を聞いたときに発する表現ではないでしょうか。音楽のジャンルとしても知られる、ゴスペルは、Good News:福音という意味です。この曲は、単に黒人霊歌として、黒人歌手と合唱隊が体をリズミカルに震わして、ダイナミックに歌う曲ではなく、歌っている内容はすべてイエスキリストにおける良い知らせなのです。
 聖書には、福音書といって、イエス・キリストの生涯を4人の人がそれぞれの視点で記録した書簡が含まれています。私は、自分の開いている聖書の学びの会で、それらの一つである、ルカという人の書いた福音書を順を追って学んできました。この福音書はギリシャ人の医者であるルカが記録したもので、その始まりは、喜びのニュースと神への賛美で始まり、最後も、喜びと賛美で終わっています。それは両方とも、イエスという救い主がこの世に人として生まれたことの喜びから始まり、最後はそのイエスが十字架にかかって死に、3日後によみがえって、弟子たちに現れ、これから福音を全世界に知らせるようイエスが弟子たちに任命され、イエスが天に帰るところで終わります。
 ここで、何がよい知らせなのでしょうか。それは、神の子であるイエスを知り、自分の生まれながらの罪の性質と死から救ってくださる方としてイエスを信じたとき、「福音」(ゴスペル)がその人に訪れ、それ以降、喜びがあふれるのです。福音を聞いた人々は喜びで満たされますから、クリスチャンと自称しながら、その人がいつも沈んでいるのなら、何かがおかしいのです。もちろん、人生を生きていると、つらいこと、悲しいことは必ず起こるので、いつも喜ぶという感情を持ち続けるのは無理です。しかしながら、このイエスを信じて、この世の人生だけでなく、体が死んだあと、天国で永遠に神様とともに生きるという将来の希望が与えられていると、その長い永遠に比べれば、今の患難は一時的であり、過ぎ去ることだからと、今の状態のままの感情に左右されない、心の深いところでの救いの喜びは、いつでもあるのです。
 この救いの喜びを忘れさせてしまう、妨げになっているものがあるとしたら、何でしょうか。思い煩い、ある人への苦い思い、赦せない思い、悲しみなど。これらの問題を神様の前に、祈って助けを求め、神様が何とかしてくれると委ね、重荷をイエスにともに負ってもらうことができます。すると、たとえ状況はかわらなくても、心の内側にまた、救いの喜び、神の子として愛されている平安が与えられるのが幸いです。 
 もし ゴスペルソングや賛美歌を聞く・歌う機会があったら、ぜひ、その歌っている歌詞に目を留めてみてください。希望が与えられる福音の力が示されていますから。

July 20, 2015
人が創られる時期

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」 エレミヤ書1章5節

人の生命はいつからかという議論には、国の法律によって、時代背景によって相対的で、これが正しいという絶対的で皆が納得する定義はないようです。アメリカはプロライフ(中絶反対)、プロチョイス(母親が生むかどうかは決める権利がある)と政治的なスローガンともなっています。
 一方で聖書はなんと、神がひとりひとりを母の胎の前の段階(精子と卵子が結びつく前)から知っていると、本日の箇所にあるように書かれています。これは何も、偉大な神の預言者のエレミヤさんだけ特別に当てはまるわけではないのです。彼には預言者というプランがあるように、ひとりひとりに神はその人の地上でのプランを持っておられ、みなが預言者、牧師、有名な人になるわけでないですが、一人の人しかできないユニークなプランをそれぞれに用意している、と本日のDevotionに分かち合われていました。("Daily devotional" From Pastor Ray Stedman, July 16, 2015)
 神は各々にギフト、賜物、個性を与えて、まさにこのタイミングのためにと生まれる前から計画されているというのは、生まれてきた価値が最初からあることを知ると非常にうれしいものです。これを受け止めるとき、世の中的に自分がどう評価されているかとか、役割があるとか、価値があるとか、必要とされているとかいう視点は全く吹き飛んでしまうからです。かわりに、私を創った神はそもそもどういうプランを私にもってくれているのかな?と、それを分からなくても 求めていこうと励まされた。
 神に従って神の用意されている道を歩きたい、でも自分の罪や肉が邪魔します。何も意識せず、だらだら日々自分の歩きたい欲求に流されるからです。ですからその自分中心のプランを聖霊により、自発的によけてもらって、神が子として訓練しておられるという視点で、辛いとき、寂しいときもがんばろうと励まされます。
July 11, 15 ”重荷を担う”

「彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたはただひとりで負うことがないようになろう。」 民数記11章17節

 仕事で一つのプロジェクトもしくは、ルーティンにおいても、役割分担をしてチームワークで働くことは、その仕事を効率的に成功させる鍵となるものです。一人の人がその仕事を全部抱えてしまうと、当人も辛いですし、ミスも発生し効率が悪いです。しかし、物理的に人出不足で仕事を他の人に振ることが出来ない状況や、振り分けにくい業務内容もありますので、現実は大変な状況で残業が続き、体を壊す寸前まで働いている人も世の中多いのではないでしょうか。会社の利益優先により、多くの人々がその犠牲になっています。一方、人はいるのに、うまく仕事を振り分けられないそのチームリーダーに問題がある場合もあります。これは改善の余地が大いにありますし、その上の上司が介入していく必要があるかもしれません。いずれにしても仕事の負荷は軽くしていかないと、社員はストレスと心労で長くは続かないのです。
 今日の箇所は、古代イスラエルの国で、モーセという指導者が約数百万人のイスラエルの民を神様に聞いて、裁いていく上で、一人ではあまりにも負担で、悲鳴を神様にあげました。すると、神様はそのモーセの訴えに応え、彼の下に70人の長老(リーダー)を置き、モーセが全ての司法的・行政的業務を追わないですむようにされました。神様は、どうしたら人々が神を信じ、秩序を持って、平和的に互いに暮らしていけるかを具体的に考えてその決まり事(律法)をモーセに与え、彼のリーダーシップの下に、さらに管理を任せる長老をおいて下さったのです。神様はモーセ一人で重荷とならないように、考えて下さる優しい方だと思わされます。
 何かをするとき、独りでやる方が楽なときもあります。しかしあえてそれを誰かと共にチームワークでするからこそ、そこで互いを配慮し、互いに意見交換しアイディアも広がっていく、また互いに譲り合う必要もでてくるというプロセスを通して、互いの徳が高まったり、互いに仕え合うことができます。
 聖書では、イエス様が「互いに愛し合いなさい」@ という命令を弟子たちに与えたのはこのためなのでしょう。独りで神様を信じています、礼拝していますと言ったとしても、「互い」という相手がないと、独りよがりの宗教となり、そこに愛は生まれないし、自分にも他人にも成長はないのです。それも自分とうまが合わない人と互いに愛し合うのは不可能ですし、そんなことは非常な重荷となります。神様の命令は重荷にならないA とも書かれているのは、神様がキリストを信じている者同士が、互いに愛し合えるように徐々に私たちの心の内側、態度を聖霊によりが変えてくれるという信仰によって、重荷に感じなくなるという、不思議な法則が神様の側にはあるようです。自分の持ち前の性格でやろうとしたら、重荷でつぶれます。私もいつもつぶれそうになりますので、神様にゆだねる信仰をもっと増していただきたいと願うものです。祈りも求めれば神様は物理的にも、精神的にもその重荷を必ず軽くして下さるかたであることを信じて期待したいと思わされました。

@ ヨハネによる福音書13章34節
A 第一ヨハネの手紙5章3節
July 2, 15 ヘイトクライム

「私は悪者の死を喜ぶだろうか。−神である主の御告つげ− 彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか」  エゼキエル書18章23節

 ヘイトクライム。。。ある特定の人種、宗教、思想、嗜好を持つ人を憎悪し、危害を加えたり、殺害する犯罪。アメリカのKKKはその代表で、この21世紀にもなる現代に、黒人教会が放火されたり、20歳そこそこの男性が銃で乱射し、教会の信徒達を殺したという事件が、アメリカ、サウスカロライナ州で6月にたて続けに起こりました。非常に心が痛みます。しかし、戦争で人を殺すのとヘイトクライムは何が違うのでしょうか。結果は両方とも人殺しです。かなりおおざっぱに言いますと、これらの根底の動機は: ねたむ、自分のものにならないからほしがる、うらむ、支配したい、自分と違うから気になる。だいたいの犯罪、いじめはこれらから始まり、その行為が法的に正当化されれば無罪、されないのが有罪、刑罰となります。
 人を処刑することを楽しんでいたと告白した元ISISの戦闘員の一人が、キリストを信じたという証を先日読みました。彼はもちろん、今までしていたことをやめて、悔い改め、そして人生が変わったのですが、この回心はまさに神業と、驚かされます。神の赦しは、残虐な元ISIS戦闘員にも例外ではないのです。そして、今後彼は自分と同だった人の気持ちがわかる分、様々な理由で暴力に走ってしまう人々への伝道に用いられることでしょう。もちろん、今まで自分がしてきたことを、社会に大しても謝罪するでしょう。
 本日読んだ箇所は、神が選んで建てた古代イスラエル民族が、神から離れ、ますます悪に走っていく状況で、その民に対し、預言者エゼキエルを通して神が呼びかけたところです。これは忍耐を持って、憐れみ、赦そうとされる神の愛の表れです。どんな罪でも、どんなことをしても、悪かったと神の前に告白し、悔い改めると赦されるのです。たとえヘイトクライムでも。
 一方、神は正義でもあるので、罪や悪をそのままでOKとされません。赦されたは良いが、では、その罰はどうなるのか?それは、私の罪に対する罰、元ISISのしてきたことへの罰もすべて、キリストが十字架で、代わりに神から罰を受けてくれたのです。このことを信じた人は赦され、罰を免れます。信じたとき救いが自分のものになります。そして最終的にキリストを信じることを拒否し、悪を行ってきた人々はその行いに応じて裁かれると聖書に書いてあります。しかし基本は、神は一人でも多くの人が滅びてほしくないと待っておられるのです。*
 このような大きな憐れみ、寛容を受けて、私は何も神に返すことはできない、ただただ感謝するのみです。そして、やれることは、キリストが復活されたと同じ神の力で、キリストのような愛の性質に変えられることを願い、新しい方向転換された生き方をキリストに従って生きようとするのみです。その態度には、自分の敵、自分に良くしてくれない相手、過去に自分を傷つけた相手を同様に赦すことも含まれます。自分のしたいことを控えて、神のなさりたいことを選び取ることも。しかし、これらはなかなか出来ません。そういう心に変えられるよう、祈り求めることはできます。すると聖霊の働きで奇跡は起こるでしょう。神に不可能はないと信じ続けたいと思わされました。

*第2ペテロの手紙3章9-10節 「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。」
   
inserted by FC2 system