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今日のわか ちあい

♪Today's Sharing♪

 October 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
女性の身に着ける飾り 忍耐のなさ 心配する相手  
生まれたばかりの赤ちゃん 視点のシフト 最後まで残るもの
満ち足りた生活 試練と共に深められる親しい関係
Oct 31, 2015 ”試練と共に深められる親しい関係”

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。」 エレミヤ書 29章11-12節

  私は2013年7月からハーベスト・クリスチャン・フェローシップというアメリカ人の教会に通っています。今年の春から夏にかけて、この教会にとって試練の時でした。この教会は1982年にNY市に開拓され、商業ビル内に教会オフィスと礼拝用フロアを借りて、33年以上礼拝を守ってきたそうです。ところが、今年の春にそのリース契約が8月で打ち切られるとオーナーより通告。現在NY市の不動産市場は、海外の投資家が投機目的で売買し、価格が高騰し、今迄の予算で新規に探すのは困難で、不動産会社にも「マンハッタン区内の物件はこの予算では無理です。」と言われて、更に次が見つかるまで猶予を依頼すると「教会にはもう貸したくない」とビルの事務局から断られたそうです。
 しかし、牧師はあきらめず、教会の信徒一同で新しい移転先が与えられるよう、また移転に伴う費用も莫大でしたので、その必要も満たされるよう皆で祈り求めてきました。すると神様は祈りに答えられ、小さい劇場ですが150人程が礼拝できる予算内の場所が与えられたのです。こうして8月に新しい場所での礼拝が始められました。逆境のなか、期日までに移転場所が与えられたことは奇跡的で、神様は祈りに答えられる誠実な方だと皆で喜び感謝をしています。
  今回の移転で失うものもありました。教会の事務所は別に離れた場所で借りなければならなくなり、今迄持っていた本屋やカフェがなくなったこと、またその劇場は時間貸しの為、礼拝後の交流場所が確保できないこと、また、この移転を機会に、何年も通っていた人々が他へ移っていったことです。実はこの移転の話がある前から、私が3年前にきた頃より人数は徐々に減りました。しかし残された人達は、去った人々に関しては全ったくあっさりしていて、むしろ将来のことに目を向けているのは、冒頭の聖書の言葉にある神様の導きを信じているからでしょう。神様はこの教会を次のステージに導かれるという信仰が残った人々に与えられ、更なる祝福を皆で期待するよう導かれていることは恵みです。
 私はフィラデルフィアからNYに引っ越して暫くの間、この教会ではお客さん状態でした。自分の日本人集会もあり、仕事をしながらと慌ただしく2年が過ぎ、体力もなかった為 ハーベストでの奉仕や集会へ行く気力も余裕もありませんでした。すると悪循環で、なかなか教会の皆さんと親しくなれず、挨拶程度でのつきあいに。日本の母教会の牧師や姉妹とはたまにスカイプで祈ってもらっていましたが、どうしても不定期で、タイムリーに相談できず、事実上独り状態で辛かったのです。
 私にとって、ハーベストがNYでのホームチャーチとなるまで時間がかかり、孤立状態が続いたことは試練でしたが、今回の教会の試練を通して、私自身が自然と、「教会の為に祈ろう、教会人々の必要を祈ろう」という思いが与えられ、平日の祈り会は優先して行くようになると、お互い個人的に知り合える様になり、もっと親しくなっていくことが出来たのです。また彼らも私の日本人向けのミニストリ―の為にタイムリーに祈ってくれるようになり、非常に心強いです。祈り会の大切さをもう一度確認しつつ、今後も、この地元の教会に属しながら、自身が霊的に養われて、益々、日本人集会にて喜んで仕えていきたいと、もう一度励まされました。 

「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」  マタイ18章19-20節
Oct 28, 2015  ”満ち足りた生活”

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」  ピリピ人への手紙4章11-13節

  満ち足りた生活。誰もが求める幸せ。なかなか「私は今、全て満足です!」と言い切れる人は少ないと思います。なぜなら、人は私も含めて「もっと、もっと」という思いが誰から教わらなくても備わっているので、きりがありません。み切りをつけられる分野とそうでない分野とあるでしょう。ある人は物欲、ある人は名誉欲、私は食欲と人それぞれ、何を一番満足したいのか欲求分野が異なりますが、共通していることは飽くなき追及でしょう。私の場合はいつも美味しいものを食べたいと考えるのに耽溺します。でも食べてしまうと、その満足感は消えていき、翌朝また 今度はいつ、何をと考えますから切りがありません。(いかに、普段まともなものを食べていないのが、ばれてしまいますが。。)満足の定義は人によって異なり相対的です。通常、自分の欲しいものを全て持つことかもしれません。
 冒頭の箇所を読んでいて、信仰の世界では「満足は学んでいくこと」なのだと知りました。持っていないものではなく、自分の今持っているもので満ち足りれる。これだとどんな状況でも満ち足りた心を持てるし、感謝できるという、そのような満足は学んでいかなければ得られない品性です。
 この書簡を書いたキリストの弟子パウロがどんな状況でも満ち足りることができたのは、すでに与えらた神様の恵みをいつも思って、それをすでに持っていることに喜んでいたからです。彼ほどキリストを伝道していて死ぬ目に何度もあい、迫害され、彼が仕えて建てた教会の人々からも非難されたりと、たくさんの苦労、貧しさ、患難を通ってきた弟子はいないです。これは彼が人格的に強いとか、偉いのでなく、キリストの力がいつも彼を通して現れていたし、最初から満足していたのではなくて、試練の中で与えられる神様の恵みの経験より学んできたからいえる言葉だと思うのです。
 「それは、パウロだから特別であって、私たちのような普通の人には当てはまらないですよ。」 と言いたくなるかもしれませんが、聖書を読んでいると、神様は普通の人、無学な人、世の中に取るに足らない人をすごいことに用いられることがあります。パウロは学者でしたから、聖書に関する知識はかなり高く、その知識はキリストを信じた後に与えられた神様からの啓示に用いられました。一方、彼は元キリスト教徒を迫害していた人なので、誇れないのです。つまり神様は才能のある人もない人も、前科があろうと、品行方正であろうと、どんな人をも用いるようです。もしその人がキリストを信じ、その愛に応答して、自発的に「自分を使ってください」と明け渡していれば。
 私も今持っているものに感謝したいと思います。こんな私が、神様の愛を知り、キリストを信じる信仰を持つことができるのは他の何よりも大切な、全ての満足の源です。私は、まだまだ持っていないものを欲しいと思う心は残っていますが、目指すは真の満足を学ぶこと、いっぺんにはいかないのですが、何か持っていないことに目を留めそうになったらキリストの十字架で示された大きな愛を思い出したいと、励まされました。
Oct 25, 2015 ”最後まで残るもの”

「たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」 第1コリント人への手紙13章2-3節


 「日本人ですか?」 2年前、ある日曜の朝、教会でたまたま隣に座ったアジア人女性が私と挨拶し、私の名前を聞くと、こう尋ねました。「そうですよ」と言うと、実は彼女はいつもは別の教会に通って言っているが、今朝はたまたま私の教会の礼拝に参加したというのですが、彼女の教会にも日本人の夫婦で宣教師がいるから、ぜひ私に紹介したいと言ってくれたのです。折しも、NYで一人で日本人向けの伝道活動を始めた頃、神様に「誰か同労者:共に働く人を与えて下さい共に祈りあえる人を与えて下さい」と祈っていたので、この彼女を通しての不思議な出会いに驚きました。そして このご夫婦の家で開かれていた集い(NYに住む日本人や東北が被災した時、救援活動にアメリカから石巻に行ってくれたアメリカ人チームなどが集まる)に招かれました。このご夫婦はNYのアメリカ人教会のスタッフとして働かれていて、お互いの状況を話していて、ああ日本人の祈りのパートナーが与えられたと、私の願いに速攻答えて下さる神様に感動したものです。
 ”人” という漢字が、支え合って立っている様子を表しているのは興味深いです。神様は、人が一人で生きられない、互いに支え合う存在として創造されたように、神様へのミニストリ―も一人では困難です。私は日本の母教会に祈りで活動を支えてもらっていますが、NYでは独りでした。ミニストリ―の問題というのは、実際その活動をしている立場の人にしか理解しにくい、相談できない事柄があるものです。独りだけで祈っていると、独りよがりになってしまいます。そういう時、同じミニストリ―をしている立場の人から、信仰に基づいて、タイムリーにアドバイスをいただくのが非常に励まされます。今は私のほうばかり支えて頂いていますが、私もお二人ためにも祈れたらと思います。
 「とにかく愛を示していくことが大切ですよね。」自分の問題で行き詰っていた私に、ご主人がこう言われました。私はハット気が付かされました。神様はご自分からのメッセージを、聖書のことばを通してだけでなく、ある時は人に言葉を預けて(預言*1)示されます。私は一番大切なことに目を留めていなかったのです。私のやっていることには愛がない。どんなに善行をしても、信仰があっても、自分の体を犠牲にしても、聖書の学びを開いていても、そこに神様の愛がなければ意味がないと。耳の痛い言葉。私はいつの間に愛を忘れ、責任感とかルーティンで活動をやってしまっているところがある、図星でした。
 幸いなことは、私に愛がないとわかったら、その都度愛を注いでくださいと祈れば与えられるという約束が聖書に書いてありますので*2 まずは神様に愛を与えて下さいと願うところから、初心に帰ろうと思います。これから求めればきっと愛が与えられて、仕える喜びも与えられると、再び励まされ感謝でした。 

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 」  第一コリント人への手紙13章13節

*1 「しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。」 第一コリント人への手紙14章3節

*2 「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」 ローマ人への手紙5章5節

Oct 22, 2015 "視点のシフト"

「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」 第一コリント人への手紙7章29-31節


 だんだん日が短くなり、朝起きるとまだ暗く、気分はそれにも多少影響されるのですが、今日も新しい恵みを聖書のことばを通して与えられて、一日が始められたことを神様に感謝します。
 冒頭のみことばは知的にはなんとなく理解できそうですが、まだ世の中の生活の影響を受けている私は、腑に落ちないところもあります。一つだけわかることは、神様の永遠の視点と、私の地上での生活、人生に対するのとは異なるのだろうということです。有難いことは、神様は地上にいるときから私に良くして下さるという信頼はあたえられていることです。なぜなら、すでに神様がイエス・キリストを通して私にしてくださったこと、そこに現れる愛を知っていると、それにも増して、全ての良いものを私にくださらないはずがないと知っているからです。
 ただ、この”良いもの”とか、”良くして下さる”内容は、この世の幸福とか、富、成功、楽しみではないのです。もちろん、物質的に神は祝福して与えてくれます。ただそれらは死んだら終わり、もしくは生前にも何かの災害で一度に失われてしまう、はかないものです。それに対して変わらないものは、内側のこと、キリストのような性質に変えられていき、それでもって周りの人に接していく、そして何よりも神様を礼拝することをいつも中心にする人生をもつことが、私にとって朽ちることのない永遠につながる良いこと、良くして下さる内容だと信じます。
 日々、世の中に生きている限り、時には感情的に心乱されることもありながら、しなければならないことを忠実に地道に行いつつ、目に見える世の中のことを中心軸に置かず、神様の視点、永遠の視点で見ることを学んでいきたい、環境に左右されない深い喜びと平安を持ちたいと思わされます。
Oct 15, 15 ”生まれたばかりの赤ちゃん”

「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」 コロサイ人への手紙3章9-10節


 先日、あるお宅に訪問した時、生後5週間の赤ちゃんに会う機会がありました。赤ちゃんはなんと愛らしいのでしょうか。見ているだけでも幸せな気分になります。まだ首が座っていないので、抱っこするのは私はちょっと怖いので見るだけでしたが、赤ちゃんのほうもお客さんたちが珍しいのか、一生懸命私たちを見ていました。一人の人が胎の中で命を受け、形作られ、世の中に生まれて出る、そして成長していくプロセスは、(親たちは育てるのは大変ですが)なんと神秘的なのでしょう。改めて神様のわざだと思わされます。
 折しも、そこでの聖書の学びの箇所が「新しく生まれる」というところでした。2千年前のユダヤで、当時の宗教家の一人が、夜こっそりとイエス様に会いに来た時、イエス様がいきなり相手に「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」* と言われました。「もう一度生まれる?こんな高齢でまた母の胎に入って生まれなおすってことですか?ありえないでしょう」とその人はイエス様に言い返したのです。
  人が新しく生まれるとは、輪廻転生のように生まれ変わる事でもなく、肉体的にまた胎から生まれなおす事でもなく、霊的に新しく生まれる事なのだとイエス様は説明されたかったのです。では どうしたら新しく生まれることができるのでしょうか。それは、イエス・キリストを信じることだけです。信じると、神の霊(聖霊)が心に与えられて住むので、霊的に新しく生まれる(Born Again)のです。
 霊的なに生まれたら、人間の子供と同様、徐々に成長していく過程があることを聖書は記しています。願わくば一瞬にして、全てキリストのような愛の性質に変わっていれば楽でしょう。しかし、脱ぎ捨てたはずの、生まれながらの罪を犯す性質を、この肉体で生きている限り、まだ片袖いれようとしてしまうことがあるのです。もちろん、その古い罪の性質は死んでいて、以前のように支配力はないのです。しかし、聖霊の力で、徐々に、古い自分の部分がアクティブでなくなり、キリストのような性質が心と思いに形作られて、新しくされていくよというのが、冒頭のみ言葉の約束です。私のようにそのスピードは遅々としている者でも、聖霊の導きに従う方向で進もうと決めていれば、神様の恵みによって、神様が成長させてくださり、完成に導いてくださるはずだと励まされました。

*ヨハネ3章3節
Oct 12, 15 ”心配する相手”

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。 」 詩篇55:22


 秋晴れの雲一つない、すがすがしい日の午後、教会の子供たちとその父兄、若い人々で市内の公園に行きました。その場所(The High line)は公園というより、マンハッタン市内の1マイルにわたる高架の遊歩道で、ところどころ子供が遊べる空間があり、眺めも良く、遊歩道の脇にはススキや草木が植えられていて素敵な場所でした。ススキを見て、日本での子供時代、野原で遊んだ時を思い出しました。子供達は特別な遊具がなくても、楽しく遊び、駆け回っているという、微笑ましい光景です。
 ところが、そのように家族づれの光景を見て、ふと独身であることに正直、寂しさを覚えてしまうのです。教会の皆で集まって出かけますと、家族づれ、もしくは30代前半以下の独身の若い方々となります。私の世代で独身は、アメリカでもあまりいません。私は家族で教会に集えるクリスチャンホームが与えられたいと、もう何年も神様に祈っています。個人的な将来の心配はないのですが、独りでいること自体が重荷に感じるときが多々あります。そんな重荷とは、家族を養ったり、家族のことで大変な思いをしている人にとっては想像し難いと察しますが、大変でも家族のために仕えられる、心配しなければならない、いつもケアする家族がいることは幸せだと思います。
 私の願いと神様の私に対する計画は違うかもしれないのですが、聖書にはそもそも「人が一人でいるのは良くない、彼にふさわしい助け手を創ろう」*と神様が言われて、女性を後から創られたとありますので、人が家族、配偶者を望むこと思うことは自然な感情ですし、両親は先に行きますので、自身の家族は必要だと思います。しかし、今は独身の時代を生かしてなすべきことをこつこつとし、いつか神様は私に対してベストのことをベストのタイミングで用意してくださることを信じて、神様にお任せしようと思います。独りでも、神様がいつも私のことを心配してくださると、また聖書のことばがタイムリ―に与えられ励まされました。

 

*創世記2章18節

Oct 8, 15
「忍耐のなさ」
 
「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」  ローマ人への手紙5章2-5節

  先日、3ヶ月に渡る通院がようやく終わりました。週に一回仕事の合間に行っていたのですが(その病院は平日昼間のみ開院)、病院では予約しても必ず待たされる、時には地下鉄が動かなくなりじっと中で待ちと、早く戻らねばと気があせり非常にストレスでした。しかし職場にも理解をして頂き、なんとか終了できたのは本当に感謝です。
 私は元来短気です。何事も先にさっさと出来る事をすませておかないと、気がすまない傾向性があります。こんな私が多くの面でスローでいい加減なアメリカに、よくも好んで住めるのかと思うと、これも奇跡だと思います。しかし慣れては来たものの、未だイライラしてしまう時があります。例えば交通機関の遅れ、車の渋滞に対しては待つ間に他のことをして時間を有効に使おうと工夫はしていますが、イライラが始るとそれさえ集中できなくなります。私の忍耐のなさは「もう嫌だ!」と独りで密かに切れることに現れます。今の与えられている状況はこんなに恵まれていることばかりなのに、そんなこと位で、なんと感謝のない者なのでしょう。
 忍耐は、良い品性のひとつです。この聖書の箇所「忍耐が練られた品性を生み出し」は、人間一般的・道徳的お話ではありません。単に希望も無く、自分の頑張りで忍耐することが美徳だという考え方とは異なります。違いは、自分で獲得する忍耐ではなく、忍耐も求めれば神様が私に与えて下さるということです。忍耐は愛であり*、この愛は、神様が私の心に聖霊により与えて下さる(聖書では”注がれる”)ものです。また前後の文脈では、神様から救いを与えられた者が、逆境(患難)を通る中で、時間がかかっても必ず神様の約束されたことはなるし、守られると信じ、その辛い時期を耐え忍んでいると、品性が練られ、そして希望を生み出すとつながり、これらすべてが聖霊によって与えられるものです。
 信仰を持つ持たないに関わらず、誰でも人生のどこかで、困難や自分でもうコントロールできない状況に遭遇するでしょう。私も個人的には、途中で投げ出したくなりそうになることが色々あっても、振り返るとよく今迄耐えられたなと思わされます。これは自分の努力ではなく、まさに神様が耐えられる力を与えて下さったからですし、また私のキャパに耐えられない試練は与えられないという約束によって、今進行形のことに対しても励まされるのです。
 
自身の内側は全く発展途上です。時間待ちという小さな事だけでなく、様々な状況に対しての私の忍耐のなさも、そのうちに「あれ、通りこせたわ!」と思う日がくると期待します。この期待は自分にあってではなく、聖書に書いてある約束に基づく、キリストにあって可能だと。

 *コリント人への手紙13章7-8節 「(愛は)すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 愛はいつまでも絶えることがない」 ()は追記
Oct 7, 15
 "女性の身に着ける飾り"
「あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。」 第一ペテロの手紙3章節3-4節

  「適度の運動、バランスのとれた食生活」という健康指針は常識として聞いていますが、実際それをするかどうかは個人次第です。私はもう何年もこれらをせず、中年太りもあきらめ、風邪をひき、体調を壊しては寝る・食べるの悪循環でした。一方、いざ重い腰をあげて運動を少し始めると、健康の為というより、私の場合は「痩せなければ」という昔の脅迫観念がよみがえってきます。ダイエットは物心ついたときからの私の中で「脅迫」として存在し、総じて悪い方へ心がもっていかれる為、減量をしたいと思わないのです。
 世の中はメディアを通して、モデルのように痩せてきれいな女性が美しいとされています。商売においてもダイエット、美容整形業界に不景気が影響しないかのように儲かります。なぜなら女性の美しくありたいという欲求は、個人差はあってもみなにあるからです。他の欲求もしかり、それ欲求自体は悪いことではないのですが、それに「支配」されてしまうと危険です。
 最近、人類最初の女性(エバという人)について、聖書では彼女の外見的美しさや性格についての描写が全く無いことに気が付かされました。他の女性について、美しい等なにかしら描写されている箇所はあるのですが、このエバに関しては彼女が関った事実や神がデザインした役割しか書かれていないのです。
  聖書に書かれていないことは、逆に「書かれてていること」にフォーカスをしてねという神様の意図もあると私は信じますので、冒頭のみことばにあるよう、外見より、これらの内なる飾り(悲しいかな私の性質には皆無)を聖霊の助けにより身につけられるよう祈り求め、健康管理も励みたいと思わされました。それにしても適度の運動、バランスよい食事を続けるというのは、強い意志が問われ、私はいつまで続くかわかりません。。。
 
*「さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。」(創世記3章20節)
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