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今日のわか ちあい


 
NY リンゴ園 (かぼちゃも陳列) Oct. 2015
♪Today's Sharing♪

 November 2015

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
キク: リンゴの新品種 一日で、何が時間を占めているか    
イスラム国から解放された神父 スタバのカップのデザインがなぜ問題となる? リラックマ効果
どうしたら強くなれるのか 感謝祭の日に 猫が獲物を見せる時
Nov,29, 15 "猫が獲物を見せる時"

「わたしは大いなる獲物を得た者のようにあなたのみ言葉を喜びます。」
詩編119編162節


 私は以前、家族で猫を飼っていました。ある朝、母が目が覚めて枕元をふと見ると、死んだ小ネズミが置いてあり、悲鳴をあげ、それをちょっと離れたところで誇らしげに見ていたのが猫のたーちゃん。ある時はアメリカで教会の上に住んでいた両親は、下に降りてくると礼拝所の床に羽毛が飛び散っているのを見てびっくりすると、そこへすーっと猫のエスターが鳥をくわえて寄ってきたそうです。猫はペットとはいえ、ライオンと同じネコ科で、小鳥、ネズミなどの小動物を見ると捕獲しようとする習性を持っています。そして、猫はそれを食べるわけではなく、自分が戦って捕えた獲物として、”見て見て”と自分の喜びを示したいのでしょうか。小鳥やネズミには気の毒ですが、私はそんな猫がかわいくて、憎めません。(ある人にとってはそれが恐怖かもしれませんが。。。) 
 とても不思議な表現だなと、冒頭の箇所を読んで、これらの猫のことを思い出したのです。聖書のことばを読んでいて、それにより喜びを得た時は、あたかも大きな獲物(戦利品)を得た者のようだと。一般に獲物や戦利品を得る時というのは、どういう状況でしょうか?大抵、戦争など、相手との闘いで勝った時、もしくは狩で獲物をしとめた後でしょう。つまり、ここでの意味は聖書を読む時は霊的な戦場にいるということです。戦いに勝たないと、戦利品が得られないように、聖書を読む時もぼーっとしていると、心に入ってきませんし、心に何も残りません。もしくは読んでいる最中にも他のことが突然頭に浮かんできてそちらに気をとられたり、「ああこれをしておかないと」と急にすることを思い出したりして、非常に集中力を散らされがちです。ですから、私も読み始める前に祈って、「集中して、今日読むところを理解し、助けてください」と祈ってから聖書を読むことにしています。そうでないと、読んでその時はいいなと思っても、すぐに他のことで忙しくなり頭の記憶から消し去られ、日の終わりには「今朝はどこを読んだんだっけ?」と思い出せない、つまり戦利品を得てない状態なのです。聖書を読む時に「戦場」という面があるというのは、その理解を妨げようとする、目に見えなあらゆる邪魔が自分の内側からも外側からも入ってくる、それらと戦うという点で、そのような表現をしているわけです。
 聖書というのは普通の本と異なり、神の霊感で人が書き記した神のことばの書で、霊的な物なので、信仰がないと中身を理解することは難しいものです。また、聖書の理解を助けるのが、神の霊:聖霊です。キリストを信じている人にはその聖霊が心に与えられていますが、聖霊は、信じていない人にも、その人の外側から働きかけてその人が理解出来たり、信じられたりするという現象を起こします。しかし、聖霊はやさしい方なので、求めていない人、拒否している人に無理やり語りかけてはこないのです。
 私はもっと、聖書からたくさんの喜びや励まし、慰めなどを得て、うちの猫ちゃんのように「見て見て」と他の人々へ分かち合いたいと。しかし実際は、自分でみことばを勝ち取るというより、そもそも神様が与えようとすでに用意している物を、私が手を伸ばして得させてもらえるに過ぎないのです。みことばは、すぐ手の届くところにあるのですが、それを自分で手を伸ばす:読んで心に留めるには、棚から牡丹餅ではなく、人のなすべきパート:聖霊に助けてくださいと願う、があるということでしょう。ですから頂いた恵みは、自身だけで留め置かず、他の方へも流したいと思わされました。
Nov,26, 15 "感謝祭の日に"

「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」詩編103編2−3節

  今年はこの地域では例年になく穏やかな気候で感謝祭の日を迎えています。今日はNJにお友達のお宅に感謝祭の夕食に招かれていて、初めて伺うお家なのでとても楽しみにしています。アメリカでは感謝祭などの祝日は家族で集まるのが基本ですが、私のような独り者は、大概教会の方が誰かしら家に招いてくださるのが感謝です。(フィラデルフィア在住の時は、自分がシェアしている家に人を呼んだことはありましたが)今回も私の教会で数人の方が、「感謝祭はどうするの?」と声をかけて下さります。お招きが本当にありがたく、一日に何か所も行けないのですが、その気遣いが神の家族なんだなと、特にこういう時期に感謝します。現在のNYの住居事情では人を招くことができないのですが、いつか招く側になりたいなと祈っています。
 アメリカのこの感謝祭の由来でいつも思いだすことは、最初にアメリカ大陸にたどり着いたクリスチャンの人々にとって、そこへたどり着くまでの航海中や新大陸での厳しい気候等で、多くの家族を失い、新しい土地での苦労も加えられ
感謝できないような辛い状況にあったことです。それにも関わらず、彼らはここまで彼らを導き、養ってこられた神様を賛美し、初めての収穫に感謝を捧げたことが感謝祭の由来だそうです。現在のアメリカは、様々な人種や宗教を持つ人々が住む国で、この由来は失われ、単に家族で集まるお休みとなっていますが、少なくともこの時期に、感謝することや、困った人を助けようという精神は残っているようです。
 私たちが不幸、失敗、困難と思うことでも、神様の大きな視野の中では、それを良いことに変えてしまうという約束が聖書に書かれていますが*、そのことは、後になって、振り返ると具体的にわかるという不思議があります。ですから、それが後になる前から、”なぜこんなことが起こるのか、どうして?”とわからなくても、きっとこの今の状況にさえ意味がある、神に任せようと、希望を持てることが感謝です。そして多くの気が付かないでいる、神様から与えられた恵みの数々、特にイエス様を与えて下さったことを思い返し、感謝をする時を持ちたいと願います。

*「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」ローマ人への手紙8章28節
Nov,19, 15 "どうしたら強くなれるのか"

「そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」 第2テモテへの手紙2章一節


  朝からの雨は、午後になり次第に激しくなってきました。午前中までは体調がよかったのですが、この雨のせいか仕事の帰り際にどっと疲れがでてきました。11月に入ってから行事と教会の集会が重なり、それは楽しく充実した時を過ごせたのですが、自分の体がイエローカードを出しているのがわかります。昨日は仕事を終えて家でゆっくりする予定でしたが、急遽入院された方のお見舞いに行って、帰宅が遅くなったからでしょう。今日は、木曜なのでいつものように仕事が終わったらジムへいって運動し、その後教会で夜の礼拝に行く予定でしたが、明日から週末まで予定がづっと夜遅くまであるため、帰宅することに。家で少しバランスの良い食事を作って食べ、分かち合いを書いて、早く寝ようと思います。
 この秋冬に、風邪をひかず、疲れないで普通の生活が出来るか、どうしたら強くなれるのかと試行錯誤をしてきました。貧血の治療を集中的にし、サプリを毎日取り、多少の運動をして筋力をつけて免疫力をUPということで、ジムにもこの9月から通い続けました。これらを継続するには強い意志が問われます。本当は家で寝たいのですが、それをなんとか自身を振るい立たせ、「昨年のように常時体調不良で、家と会社の往復で寝ている生活にはなりたくない」と。それが功を奏したのか、確かに風邪はひかずに、結果、昨年の2倍以上の活動量であることは、非常に感謝です。しかし、やはり無理はできないのです。
 心身の健康を保つ目的や動機は、なるべく多くの教会の集会に出て、教会の人々に仕えたいし、自分も聖書を学び、魂が養われ、自分が開いている学びの会で、参加する人に学んだ事を分かち合いたいというものです。そのためにも、運動をし続けなければならない、そこまでしないと健康になれないのかなあとちょっと重荷に感じてきました。
 するとタイムリーに聖書の言葉で、「そうじゃないでしょ」と示されるのです。神様の与えてくれる恵みは、私が努力して頑張らなければ得られないというものではないのです。わかっているつもりでも、ついこれを忘れてしまいます。私の行いによって、神様の恵みと愛は変わらないのです。評価されるために神様に仕えるのでなく、神様の憐みと愛に応答して喜んで、弱いところは強めてもらって仕えられるのです。神様との関係さえつながっていれば、つまり信仰があるかだけが見られるので、私の行いや心の状態にかかわらず、私が強くなくても、役にたたなくても、神様は私に良くして下さり、愛してくださる方なのです。ああよかったとホッとします。これに対して、「そうはいっても、神に仕えるためにやらないと!」という昔よく聞かされた強迫的観念が聞こえてきます。これは無視です。
 私は、神様の恵みの原理を徹底的に理解し、神様が与えようとしている恵みを感謝して受け取っていきたいと願う者です。それは、すでに日々与えられているのに、恵みだと気が付かないだけなのです。例えば朝起きられるだけでも、恵みなのです。そういう小さな、当たり前のことを恵みとして受け取って、感謝と喜びをもって、コツコツやっていこうと励まされました。すると恵みによって、神様の視点で強くされるのです。ジムにガツガツ行かなくても(笑)  
Nov,18, 15 "リラックマ効果"

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」 イザヤ書59章1−2節


 私は入院した時に、リラックマ(ぬいぐるみ)をもらって、それを見ているだけで、なんだか癒されるような気分になり、ベッドの横に置いておいたことがあります。もちろん、一時的気休めでした。これは、人の(女性がほとんどですが)心理をついている癒し系デザインだと思いました。。。現代は癒しを求めています。それが一時的、ファンタ―だとしても。
 ある時、小学生の女の子が、自分の母親に対して、「あなたは私の母親ではない。このリラックマが私の母親なのよ!」と本気で言い出し、ぬいぐるみに向かって「まま、まま」と話しかけ、お願い事をして、大切に持ち歩きはじめ、自分の母親を無視しはじめた上に、「誰が母親かは、私に選ぶ権利がある。人それぞれの考え方があっていいんだ。」と言い出したとします。もしあなたが母親、もしくは父親で自分の子供が、こんなことを言い出したらどう思われるでしょうか。母親は自分が産んだ子から、その存在を否定され、挙句の果てには、命のないぬいぐるみを母親だと真剣に言い張る我が子に、「ああこの子はどうかしてしまった。。」と心を痛め、なんとか正気に立ち返らせようと思うでしょう。
 これは偶像崇拝を描写するたとえです。つまりイエス・キリストを通しての神が本当の唯一の神であり、この世界と人と全てを創造された全知全能の神であるとすると、他の「神々」「宗教」というのはあくまでも人間が作り出したものであり、人の手により作られた像です。そこに何の力もないのに、あると思って信じます。「イワシの頭も信心より」と、日本ではなんでも神々になりえるとは驚くべきことです。また像という形をしていなくても、その対象が目に見えなくても、現代では多くの偶像が存在します。偶像とはアイドルの意味です。アイドルとは、その人の心をいつも占め、慕っている相手や状況でもあり、その人にとって神のような存在で、全ての優先順位のTOPに立つものです。それは、歌手、尊敬する人、自分の子供・夫/妻かもしれないし、ご先祖様、お金を持つこと、名誉、恋愛などなど、偶像は何にでもなりえます。
 このように神様は、人が偶像を神としている様子をみて、心を痛めておられます。聖書は、真の神を神として信じないことを根源的な罪といいます。そしてその罪を認めず、自分の思いで突き進むのであれば、その祈りは聞かれないと。その罪自体が、祈りを答える力がある神との仕切りとなり、神の顔を隠させ、聞いてくれないようにしていると今日の箇所は書いてあります。そして、その状態からなんとか、救い出したいと、愛を基礎とした神様との信頼関係を回復させるため、キリストを信じてほしいと、神様は願っているのです。
 信じたあとでも、神様以外のことで頭が一杯になる、いつも何か思い煩って考えてしまうことがあります。それが神と様の仕切りとなって、うわべ祈っていても祈りは聞かれないとは、耳が痛いことばです。しかし、幸い、悔い改めれば、罪が赦され、仕切りが取り除かれ、神様とのコミュニケーションが正常に戻されることです。神様との信頼関係、コミュニケーションは重要です。これがあるからこそ、私たちはこの人生で様々な試練や困難が起きても、通り越せる力が与えれ、希望をもって生き続けられるからです。どんな小さいアイドルも、気が付いてすぐに取り除いてもらわなければと思わされました。
Nov, 14, 15 "スタバのカップのデザインがなぜ問題となる?"

「しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。」 第2テモテへの手紙3章1-5節


 アメリカでは、11月になるとホリデーシーズンに入り、街の飾りはクリスマス仕様になっていきます。しかし、ここ最近アメリカでは様々な宗教の人を考慮し、”クリスマス”という言葉を使わないようになっています。つまり、特定の宗教:キリストの誕生日を皆が祝うわけではないからということです。しかし12/25が依然として国民の祝日であり、アメリカはキリスト教徒が宗教的迫害から逃れて移民し、その建国を担ってきたという歴史は取り消すことはできないのです。それを中途半端に細工し、”Happy Holiday”と替わりに挨拶し、キリスト教的要素を省いた飾りつけで商売と行事をしています。確かに、信仰のない人に祝えと強制はできないのですが、私たちはこの時期を用いて、クリスマスの意味と福音を知らない人に、伝えられたらと願うものです。
 一方で、スターバックスが、この流れに沿ってカップのデザインを今年から変えたことを問題にしている人がいます。今まではクリスマスの模様でしたが、今年は真っ赤な背景にスタバのロゴだけにしたことに対し、来年の大統領選のある候補者が「自分の経営しているビルにあるスタバの売り上げが全米でトップではあるが、このことで、スタバの商品の不買運動をしょうか?!」と、公共の場で述べたそうです。更に「自分が大統領になった暁には、皆が”メリークリスマス”と言えるようにする」とも発言したそうです。これは彼がアメリカのクリスチャン層という大きなシェアを獲得するための、選挙向けアピールだろうと、ニュースでコメントされていました。スタバという一ビジネスのカップのことをいちいち取沙汰し、物議をかもし、自分には”メリークリスマスと人々が言えるようにする力がある”と豪語するような方の信じている神は どういう神なんだろうと、ふと思いました。私はアメリカ市民ではないので大統領選には関与できる立場にありませんが、その役職の世界にも及ぼす影響力を考えると、上からの知恵を求める、賢い人が選ばれるように祈っています。
 聖書はこのような人が世の中に台頭してくることを冒頭の箇所のように、あらかじめ記しています。これらが信心深いふりをした「クリスチャン」と自称している中からでてくると。先日、またパリで同時多発テロ行為が起こり、多くの人が命を失ったと聞き、本当に心が痛みます。しかし、戦争や、人々が互いに敵対しあうこと、大地震、ききん、クリスチャンへの迫害などが終わりの時代のサインであることは、イエス様が2千年前に地上におられたときに預言されていることなのです。いつ何が起こるかわからない時代ですし、明日自分がこの世にいない可能性もあるということを真摯に受け止め、今日祈るべきことは何か、日々神様に祈り求めて緊張感をもって一日を感謝しつつ過ごさねばと、今日の聖書の学びでタイムリーに学ばされました。
 私は小さなことで思い煩ったり、ああ疲れた、、とダラダラして寝てしまうの日があるのですが、目を覚まして(いつも起きているという意味でなく、霊的に)、人々がイエス様の愛を知り、救いに導かれ、自分も含めてこれから起こるべく大患難の時代から逃れて、天でイエス様の前に立っていることができるよう祈ろう* と思わされました。

*ルカによる福音書 21:36「これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。  
 人の子=イエス・キリスト
Nov, 11, 15 ”一日、何が時間を占めているか”

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩編46編10節

 昨日からの雨も上がり、本日はすがすがしい秋晴れの日、本日は祝日でお休みとなり久しぶりに家でゆっくり時間が過ごしています。カレンダーに予定を書き込んでいると、出かけない日というのは1ケ月の内、1日あればいいほうです。しかも、私は一日のほとんどをパソコンの前で過ごしています。ごはんを一人で食べている時も。電車を待っている時やジムで運動しているときでさえ、スマホを使っています。24時間の内、就寝中以外いつも画面を見ているのかと思うと、脳がいつも刺激されていることになり、ちょっと考えさせられます。このような機器から離れ、いつ自分は静まっているのだろうかと。 また家にいるからといっても静まっているわけではなく、すぐに掃除をしたり、家事でバタバタ動きます。そうすると、静まって神様に祈りを捧げている時間は一日の内僅かではないかと。
 ダニエルというユダヤ人が紀元前にいました。彼は非常に政治的に優秀な人材として他国の王たちのに登用されて、バビロニア帝国、ペルシャ帝国での高官でした。彼は異教の国において、自分の信仰を守り通し、神の霊が共にいたので、王たちが見る夢の解き明かしも神から啓示され、預言も与えられ、また超多忙のスケジュールの中、彼は日に3度ひざまづいて神に祈りを捧げていたと記録されています。* 彼は忙しい中でも、静まって天の神に祈るために時間を優先していたことになります。
 神様の前に静まるというのは非常に大切です。祈りでさえ、自分の要求や思いを一方的に神様に述べまくる時となり、静まっていない時があります。外出中でも、オフィスでも、心の中で静まって祈ることはできます。どこにいようと、スマホと共にばかり時間を使わず、眼には見えないけれども、私が意識すれば共におられる神様との時間を静まって取る、神様がどういうお方かを思いめぐらし、感謝を祈るという習慣をもっとつけたいと思わされます。

*ダニエル書6章10節
Nov, 4, 15 ”イスラム国から解放された神父”

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
ヨハネによる福音書8章32節

 先日、ニュースでイスラム国に拘束されていたシリアの神父が解放されたという記事を読みました。彼を含めたクリスチャンが、今年の5月にシリア国内のキリスト教徒が多く住む街 al-Qaryatain に在住していた時、テロリストたちが周辺の街を攻略し、彼らを捕らえ、その後彼らの修道院も破壊し、その街も占拠。この神父は約5ヶ月間の監禁中、イスラム教に改宗するよう脅され、暴力をふるわれと過酷な状況の中にありましたが、いつか解放されると信じて祈り続けたそうです。そしてついに自由の身に。彼のために多くの人が祈ってきたことでしょう。詳しい情報は彼の安全の為開示されておらず、なぜ彼だけ解放されたのかは不明だそうです。
  イスラム国が台頭してきて以来、ニュースに出てこない人々を含め多くのクリスチャンが処刑されてきました。(ちなみに、日本人犠牲者、ジャーナリスト後藤さんもクリスチャン)クリスチャンは暴力で戦わず、逃げるか、捕まって処刑されてきました。紀元後1世紀のローマ帝国での、激しい迫害下のクリスチャン達を思い起こします。彼らは中世の十字軍や、旧教 VS 新教の戦争のように剣で戦わず、キリストの愛の教えに従い、肉体を殺されることを恐れない信仰が与えられていたのは、すごいとだと思います。悪に支配されいてるイスラム国の人々は以下のことを知らないのです。、キリストを信じる者は生きている間も、肉体が死んだ後も自由のままであること。そして、自分達がイデオロギー・宗教の奴隷状態であることを。
 私たちは自分が主体性のある、善悪を区別し選択して生きている自由な存在であると思っています。ある人々のように拉致され、拘束されることはめったにないし、物理的にも精神的にも自由だと。しかし、意識しているいないに関わらず、実は人は何かに必ず従属している存在であると、聖書は教えています。人間の歴史は、繰り返し自由を得ようと戦ってきましたが、残念ながら完全に人間が人間を自由にすることはできないことは明らかで、自分の利益、自分の主義を優先すると、誰かを支配する結果となりかねないのです。
 しかし、人ではなく、人を創られた方: 神が自由にしてくれれば、人は本当に自由になれる、他者からの束縛からも、罪と死に縛られている”自分”からも解放されるでしょう。なぜなら、イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、葬られ、3日後によみがえられた目的は、人間をこれらの束縛から解放し、新しい命を得させるためだからです。ですから、冒頭の「真理」とは、イエス・キリストのことです。置き換えると、もしあなたが、イエス・キリストが自分のためにしてくれたことを知ると、キリストがあなたを自由にします。
 私のような臆病の者には、「神は耐えられない試練に合わせることがない」*1 という聖書の約束のように、私に相応した小さな試練しか今迄与えられませんでした。それでもいっぱいいっぱいでしたが、いつも神様は脱出の方法を与えてくれたことを思い返し、これからも、このキリストにある真の自由と信仰が練られるための試練*2 とを、少しづつ自分の生活の中で体験させてもらえることが感謝です。神様、試練お手柔らかにして下さい。。。本音。


*1 「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることはないません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」コリント人への第一の手紙 10章13節

*2 「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」ヤコブの手紙1章2-3節
Nov, 3, 15
”キク: りんごの新品種”

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」 ガラテヤ人への手紙4章22-23節


 先日、ス-パーで買い物をしていると、見慣れないリンゴが陳列されているのに目が留まりました。「KIKU」。小ぶりで、赤く、美味しそうなリンゴで、名前からして日本の品種だろうと思い、試しに一つ買ってみました。アメリカではすでに、「ふじ」「むつ」などのリンゴは出回っていて、私はアメリカの品種より、長年食べてきた日本の物がやはり好みです。早速キクを食べてみると、なんと美味!歯ごたえが良く、甘くて、ふじの味に近いですが、それよりもさっぱりした甘みです。調べてみると、イタリア人が日本の果樹園で見つけた、非常においしいリンゴの枝を国に持ち帰り、品種改良を重ねて作ったリンゴだそうで、まだできて20年。私はこの新しいリンゴのファンにすっかりなってしまいました。
 おいしいリンゴの実が一つなるのには、手がかかります。外見が問題なくても、中を割ってみると悪くなっていたり、味も食べてみないと美味しくないものもあり。土壌、肥料、気候、手のかけ方など様々な要因が相まっておいしい実がなるのですが、植物の実と工場でつくられる製品との違いは、一日では出来ないこと、実がなるのに時間がかかることです。 
 クリスチャンは、信仰の歩みのなかで、冒頭のような良い実をすぐには結べないものです。これらは、聖霊の力でその人の品性が変えられていく結果です。もともと性格の良い人、品性が良い人がいたとしても、ここに書いてある全てをいつもは保てないでしょう。しかし、その人の持ち前の性格ではなく、聖霊が変えてくれて、実を結ぶようにしてくれるというのが励ましです。自分の意志でこれらを目指して、努力して良い品性を持とうとすることほど重荷はありません。ただ「御霊の実を結べるようにして下さい(具体的に、例えば「自制できるように助けてください!」)」と願えばそれがかなえられるとの約束があります。* 願わないとそのままですが、願い続ければリンゴの実のように時間がかかっても、いつか実がなるはずです。
 なぜ願うのかというと、イエス様が人間関係の中で、互いに愛し合うために、これらの実を互いに結び、その実が残る様に求めなさいと弟子たちに命令されたからです。キリストを信じるとはキリストの弟子として、キリストに習い続けることも伴います。しかし、神の側が成長させてくれるので、人間のサイドのすることといったら、神の力を信じて、祈り求めることでしょうか。私は時間のかかることは苦手ですが、私のような出来の悪い弟子でも、イエス様にすがって、これらの実を結べるよう一生かかっても求めていこうと思います。

「・・・それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」 ヨハネによる福音書15章16節
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