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今日のわか ちあい


♪Today's Sharing♪

 January 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
 
成人式と成長 キリスト教の中心    
映画「杉原千畝」唐沢寿明主演を観て ヘルパー:傍に寄り添うために呼ばれる 世界で一番安全な場所
首にひき臼    
Jan. 27, 16
首にひき臼

「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。
」 マタイによる福音書18章5-6節

 マザー・テレサというノーベル平和賞を受賞した女性は、インドで最も見捨てられて人達のために仕えた人で、たった一人でその活動を始め、その後組織となり、彼女が亡くなった今もその団体の活動は続けられています。彼女は食べるものがなく死んでいく人々を引き取って看取ったり、栄養失調の子供たちを助ける為にスラムを歩いて探し出し、抱いてこういったそうです「私はこの子の中に神を見ます」と。彼女の動機は全てキリストから示されたことばにより、それを聞くだけでなく、実行に移した非常に神に従順で誠実なクリスチャンです。彼女は自分を低くして、社会から見下され、見捨てられた人々の中に神を見、神に仕えるつもりでしていたことは、驚くべき信仰です。
 この冒頭のことばは、ここだけ取り出すとぎょっとしますが、ここでの文脈は、イエス様が彼の弟子たちが高ぶっていたので、一連の教えを話されたところです。”自分たちは全てを犠牲にしてあなたについてきたんですから、他の人と比べて評価されるべきだ”という思いから、「神の国では誰が偉いのですか?」とイエス様に質問した時、「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」と答えられました。まず、イエス様は弟子達に「自分を低くする」ことを教えられました。幼い子はその性質が純真無垢だから良いということを言っているのでなく、彼らのように社会的に低い地位のことをイエス様はいわれています。
 クリスチャンになった後も、急に聖人になるわけではなく、成長のプロセスがあります。救われたからもういいんだと、その恵みにあぐらをかき、聖書を通してイエス・キリストについて学び、従おうとすることがない人は、霊的にいつまでたっても赤ん坊であり、下手をすると他の人をつまずかせます。キリストを本当に信じていたら、自発的に不完全であっても従おうと思うものです。* 救いだけは受け取って、その先キリストから学ぼうとしない、その高慢な態度は周りにも悪影響を及ぼします。ですから、続くイエス様の教えは、「人をつまずかせるな」となっています。ここの意味は、人をつまずかせた人はみな、石臼を首に巻きつけられて海に放り込まれるという意味では決してありません。そうであれば、私も含め多くの人がそうなってしまいます。ここは比較の表現であり「そのほうがましだ」 ということです。つまり人をつまづかせることは、それ程重大なことだという強調表現です。私自身もいつも高慢にならないよう、聖霊に助けてもらうことを求め続け、すぐ忘れるので日々聖書のことばから魂の糧を得る必要があります。そうでないと、霊的栄養失調で、自分だけでなく、他者の成長を妨げたり、罪を犯させてしまうので、気をつけようと心がけています。またどんなに気を付けていても、相手の取り方次第で相手を傷つけたり、誤解される可能性もありますから、これについてはコントロールしようがないので、そのことが知らされない限り、神様にその方のことを任せるしかないでしょう。
 そして続けて、傷付いた人、またつまずかされた人の側にもイエス様は教えています。「相手を赦しなさい」と(マタイ18:21−35)。これは非常に難しいことです。しかし相手を赦さない心は苦さとして心に残り、結局その人自身の心を蝕み、神様との関係もおかしくなっていくのです。私自身も人を赦すことに時間のかかる、情けない者です。赦したつもりで、祈って「赦せますように、助けて下さい!」とお願いした後で、後から思い出してしまうことが多々あります。しかし、その場合はそのつど、神様の前にもっていくしか方法がありません。そのうち変えられるのが感謝なことです。首に石臼、強烈なイメージですが、忘れないでいたいと願いつつ。

*「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。 」 I ヨハネ5章3節
Jan. 24, 16 "世界で一番安全な場所"

「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は、主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
 主はあなたを狩人のわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。」 詩編91編1-4節

   私の住んでいる地域であるアメリカ東海岸は、昨日は非常に厳しい雪嵐(ストーム)が訪れ、多くの都市が交通機関ともダウンし、またこの大雪の事故で被害者がたくさんでたそうです。科学技術が発達しているとはいえ、このような自然の猛威には人は無力だといつも思わされます。私は家にこもり、外には出なかったのですが、働かざるを得ない職業(警察官、病院・施設スタッフ、軍隊)の方々は大変だっただろうと察し、その労苦に感謝します。また今回事故で亡くなられた方々のご家族に、慰めがあるよう祈っています。
 嵐はある程度「来る」ということが気象レーダーで予測可能で、それに備えることができますが、地震や洪水、飢饉などは突発的災害です。日本にいつまた巨大地震が起きるかとささやかれ、どこが安全な国なのか?と。一方アメリカや西洋諸国ではいつテロが勃発し巻き込まれるかと、結局100%安全な場所というのは残念ながらないでしょう。またそれをいちいち恐れていたら、生活できないものです。
 聖書では最も安全な場所は、”影”の下だと本日の箇所で言っています。影というと、厳しい太陽の照り返しの中、ちょっとした影の下で暑さをしのげる日陰がありますし、まためんどりが自分の翼を広げてその影の下に雛をかくまうこともあります。影は物理的に避けどころ、盾になる空間です。これは比喩的な表現ですが、要は全能である神様の陰に身を寄せることが一番安全だということです。神様の翼の下にかくまわれていると、恐怖も、暴力も、疫病をも恐れないのです。
 しかしながら、これはキリストを信じてクリスチャンになったから、全ての災害や病気、試練がおこらないという保証を意味することではないのです。なぜなら、この壊れた世界に不完全な体で生きている限り、誰にでも危険は訪れる可能性はあります。違いは、私たちは地上のことだけに固執せず、死んだ後、天で生きることへの期待があるため、この肉体の死を恐れることなく、神様に信頼できる関係が与えられているので、状況に関らず深いところでの心の平安を持てるからです。危険から守られることもあり、また事故で亡くなることもあり、病気が癒されることもあり、治らないで肉体の死を迎えることもあり、個々人によってケースは異なります。共通していることは、いつも神様の御翼の陰に自分は宿っているため、物理的場所に関係なく世界で一番安全でいられることは、本当に幸いであり、感謝です。

 今日は晴れましたが、多くの教会の礼拝はお休みとなっています。教会は通う人々の安全を第一と考え、各々家で神様と静かな時を持ちましょうということで、いつも予定がびっしりの我々も、強制的にこの週末は家で休む時間:安息日が与えられ、これも神様の恵みとして受け取れたのではないでしょうか。



Jan. 23, 16 "ヘルパー:傍に寄り添うために呼ばれる"

「わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。」 ヨハネによる福音書15章26節


 以前、ビジネスの世界で働いてきた私が、社会福祉という新しい分野で学び、仕事をしていったとき、今までの人生では考えてこなかった概念や立ち会うことがなかった状況に遭遇してきました。今はアメリカ在住で日本でのこの仕事から離れていますが、この知識と経験は様々な人と接するうえで、特に私のようにキリストの福音を伝道する時、たとえ相手に関心がなくてもその人の悩みや問題に耳を傾けることから、相手とのブリッジを作るのに非常に有用です。
 社会福祉の父と呼ばれ、そのケースワークの7つの原則を打ち出した、バイスティックスfelix p.biestekは20世紀で活躍した、アメリカ・シカゴにあるロヨラ大学の社会福祉学の教授でした。彼は社会福祉に従事する者(ケースワーカー)の訓練として必須の原則を打ち出しています。その中の一つに「制御された情緒関与の原則」というのがあります。これはワーカーが自身の感情を自覚し吟味しながら、クライアントが出す感情を受容的・共感的に受け止めることです。つまり相手に単に同情するのでなく、共感といって、一歩客観的な立場に立ち、自身が情に流されずに、相手が感情や抱えている思いをなるべく出せるように促して、受けとめ、その問題・苦しみを共に理解し、共に解決に向かおうとする態度です。これは経験を重ねないと全くできないことで、私は当初たくさん失敗しました。(患者さんごめんなさい。。)しかし、徐々に経験を重ねていくと100%うまくいかないとしても、自身の姿勢が冷静に保てるようになり、更に私の場合は神様に祈りながら相手と面談してこれたので、非常に助けられました。相手が私の存在を「傍にきて、心を打ち明けられる相談できる存在」という信頼関係をもってくれるには、時間がかかるものですし、最後まで心を開いてくださらないクライアントもいました。それでも支援できることはやっていくものです。
 バイスティックスは教会の神父でもありました。(カソリック系の大学は兼務の方が多いです)西洋の社会福祉の歴史はその起源が全てクリスチャンによる慈善事業であることは歴史を見ればわかります。なぜなら、イエス様自身が貧しい人、病気の人、社会から見捨てられていた人に仕えられ、弟子たちに「互いに愛するように」と教え、聖書には社会的弱者を助けるとの教えがあるからです。イエス様はご自身がこれから十字架にかかられようとする前に弟子たちに「自分はこれから去っていくけど、私の代わりに助け主(ヘルパー)が来るからね」と話されました。このヘルパーの原語(パラクレイトス)の意味は「傍にいるために呼ばれる」(called to one's side)という意味です。イエス様が去っていくと知らされて、弟子たちはどんなに不安だったでしょう。しかし実際、この後イエス様が復活されて天に行かれてから、弟子たちやイエスを救い主として信じる人すべてに、このヘルパー:聖霊が心に与えられて、彼らは人生が変えられて、大胆にキリストの福音を伝道していくのです。
 私には心に寄り添う形で、この聖霊(ヘルパー)がいて下さり真理に導いてくれることが、目に見えなくてもどれだけ安心で、心強いことでしょう。私自身は自己中心ですし、ポーカーフェイスでもなく、体力もないのであまり具体的なヘルプが出来ない者ですが、それでも聖霊に助けられ、導きを与えられつつ、心の助けを必要としている他者に仕えていくことが出来たらと願うものです。 
Jan. 19, 16

"映画「杉原千畝」ひとりの日本人が世界を変えた 唐沢寿明主演を観て"

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。 」
ヨハネによる福音書15章16-17節

 

  久しぶりに感動する映画を観ました。「杉原千畝」第2次世界大戦中、折しもリトアニア駐在の日本人外交官が軍国主義に走る日本政府に背いて、ドイツ・ナチスの虐殺を逃れようとするユダヤ人難民のために、命のビザ(日本を通過して、最終目的地:南米のオランダ領へ渡航するための通過ビザ)を約6千人に発給し続けた事実を映画化したものです。彼のことは、私が1990年代にNYに住んでいた時、彼の奥さんがまだ存命中にNYで講演を開催されたことがあって、そのような人がいたことを知ったものです。その当時の私は未熟で、興味があまりなく、講演を聞きに行きませんでした。今思うと、なんと貴重な機会を逸したかと悔やまれますが、今日本で映画化されたこと、そしてこの夫婦がクリスチャンだったこともあり、非常にうれしいのです。杉原氏は、いつから信仰をもったのかは詳しくは知りませんが、彼が彼と彼の家族の命の危険を冒してユダヤ人を助けたことは、単なる人情的、人道主義だけではやり遂げられないことです。映画では彼の信仰のことは触れられていませんが、私はクリスチャンとして、彼の信念と覚悟が神様への信仰によると確信しています。神様は必ず助け出してくれるという信仰に支えられなければ、あの時代の日本軍の統治下にとうてい出来ないことですし、彼一人だけでなく、その他にもユダヤ人が脱出できるよう協力した人達がおかれたのは、神様の導きがあったからこそ可能であったと、映画を観て改めて思わされたのです。現代、この助けられた6千人のユダヤ人の子孫が世界に約4万人いて、ユダヤ人の中では彼は命の恩人として称えられてるそうです。
 ホロコースト。歴史上、これほど残酷な虐殺はないでしょう。しかしながら、ニュースとして取り上げられていないだけで、第2次大戦以降も、アフリカでの民族間の争いにより、一民族虐殺、Ethnic Cleasingと称して虐殺するという恐ろしい戦争の一環が行われてきましたし(ツチ族とフツ族間の戦争)、カンボジアの戦争時の虐殺もしかり、そしてベトナムでは大義名分をかかげ、どれだけ人が人を殺してきたことでしょうか。今から約2千5百年前、同じようにユダヤ民族が抹殺されるという政治的な企みがあって、それを一人の若い女性が立ち上がり、救ったという話が聖書に書かれています。(エステル記)当時はペルシャ帝国が世界を支配しており、ユダヤ人達は国を追われ離散しており、それでもある程度の自治は与えられ、彼らの宗教と文化を保持して生活していました。その策略がもたらされる前に、折しもペルシャの王様が民間から王女を募集し、一人の美しいユダヤ人の女性が選ばれた時でした。そしてユダヤ人に敵意を持つ王の側近が、ユダヤ民族を抹殺する勅令を王から取り付け、法令化してしまうのです。そこで、女王といえでも王の好意を必ずしも受けられる保証がなかったエステルが、命の危険を冒して王にその取り消しの嘆願をします。そしてその願いが見事聞かれ、ユダヤ人はその虐殺を免れたことが記録されています。興味深いことに、聖書であっても、この話には一言も「神」ということばやユダヤ教の宗教的なことがあまり出てこないのです。杉原氏の伝記にも、彼の信仰のことはあまり取り上げられていなくても、背後に神の御手があることは共通しています。彼が勇気ある行動をとったのは、実が残る為には、神が願いをかなえてくれるという冒頭のイエス様の約束を信じたからでしょう。
 残念なことに、中世以来キリスト教はユダヤ人を迫害してきました。大多数のユダヤ人は、2千年前に十字架で死んだイエスが、彼らの待望する神から送らた救世主だと信じません。キリスト教をもちろん認めませんし、厳しいユダヤ人の家庭ではもし親族内にクリスチャンになる人がいたら勘当です。しかし、彼ら中にはいつか、信じる時がくると聖書に預言されています。彼らの祖先が刺し通したイエスが、救い主:メシアだったことを知って嘆き、悔い改めて信じると。*ユダヤ人が敵対してきたキリスト教徒の杉原氏が、ホロコーストから救うために命をかけて働いてくれたことを知って、少しでもキリスト教に対する憎悪という偏見から離れてくれたらと願う者です。

 人が作った宗教は政治やイデオロギーの道具に使われ、人を殺し、お金を搾取し、時代はますます悪い方向に言っていることはニュースを見れば自明です。しかしキリストを信じる者には希望があることは幸いです。このまま悪は続かない。必ず神様は最終的に悪を裁かれる方であり、そして人には最後まで真の神に逆らい、悪を行うことから悔い改めて、救い主であるキリストを信じるチャンスが与えられていることです。その為に益々、祈っていきたいと思わされます。

 

*ゼカリヤ書12章10節

Jan. 18, 16 キリスト教の中心

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」 イザヤ書53章5節

 昨日、暖冬のNYでは今シーズンの初雪が舞い降りました。積もる程には至りませんでしたが、やはり雪の降る街の様子にNYの冬の季節を感じます。
 年末年始に短期間ですが日本に一時帰国することが出来、それからすぐに年明け仕事に戻り、期日が迫っている仕事を無事に終えなければという緊張が続いていました。ようやく先週の金曜に、たくさんの書類の発送を同僚と共に終えて、郵便局からの帰途にて、たまたまこんな話が出たのです。私がクリスチャンであることを知って、同僚は「教会って、日曜に行って慈善活動、ボランティアをするんでしょ?うちの近所は、日曜の朝はお店がガラガラなんで、皆教会に行っているんですかね」と言われました。これがキリスト教についての一般の人のイメージなのかなと、ふと思わされました。教会イコール、奉仕活動の場。
 その日の夜、折しも教会の皆であるお宅に集まって、ディスカッションによる聖書の学びをしていた時のテーマは、「キリスト教の中心って何?」でした。西洋諸国ではキリスト教が歴史的文化的に普及してきたという経緯があり、そのイメージは、愛、慈善活動というところでしょうか。日本人の彼のイメージもあながち西洋人と違いがないようです。しかし、私たち信じる者にとって、何が中心かというと、やはり十字架なのだという学びでした。
 十字架。教会の建物に掲げてある綺麗なクロス。もしくはクリスチャンと関係なくファッションでネックレス等にされています。しかし実際それはローマ帝国時代の処刑の道具です。それも木に手足を釘で打ち付け張り付けて、数日間さらされ、苦しみながら最後は心肺停止、出血多量で死に至る残酷な処刑方法です。そして実際は真っ裸でつけられ、人々からの屈辱を受け、「ローマ皇帝に逆らうことをするとこうなるんだ」という権威のみせしめの道具でした。イエス様はそれにかかる様な罪は全くされなかったのですが、当時のユダヤ人の指導者達が妬みで彼を殺したい、それも他の殺し方でなく十字架刑でと、ローマの総督に無理に迫り、ローマへの反逆罪にでっちあげられて処刑されたのです。
 イエス様の十字架は、人の側ではユダヤ人たちの妬みでしたが、神の側では今日の箇所のように、イエス様が生まれる数百年前に預言者によって預言されていたように、神様の計画であったのです。その目的は、イエス様が十字架で罰せられることによって、ユダヤ人だけでなく、人であれば全ての人の不義、罪が赦されるためでした。真の神を信じないことが、根本的な罪だと聖書は書いてあり*、いわゆる犯罪や倫理的な罪はその派生的な罪で、それら全てを含めて誰かがその罪に対する罰を受けなければならず、永遠に死ぬべき人間のために、代わりにすべての人の罪にたいする罰をうけられるという神様の目的がありました。だから、キリスト教の中心は十字架なのです。この代わりの死によって私たちが、神様との壊れていた関係が修復され、結果平安が与えられて、永遠の命が与えられるという、そのための犠牲の死であったことを信じること、そして3日後に復活されて天に今はおられること、これを信じることがクリスチャンの信仰の中心なのです。他者に対する良い行いとか、慈善活動は、その神の大きな愛に対する感謝の応答の結果の現れであり、本質ではないことを、改めて思わされ、いつもこの十字架を忘れないでいたいと思わされました。

*「罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。」ヨハネによる福音書16章9節
Jan. 10, 16 "成人式と成長"

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」へブル人への手紙12章2節

 

 2016年も開けて、日本では成人式が本日各地で行われていることと思います。成人式というのは、や民族によってその時期や、しきたりが異なります、成人で共通する点は自分のことに責任を持つ立場になること、いつまでも子供のままでなく、成熟した、訓練された大人になっていくことの節目となる儀式ではないでしょうか。成熟するために、または成長するために人は訓練が与えられます。それが組織的なプログラムだったり、もしくは、個人的に災難や予期せぬことがおこり、その試練と向き合う課程で成長させられることがあるでしょう。何か事がおこって、そこから単に逃げていても、問題が先送りされるだけで再び同じ問題にぶち当たりますし、これは人が自分の代わりにしてくれる類のものでもないのです。

 イエス様が地上におられた時、彼の弟子がいました。イエス様の弟子は社会的には地位の高い者ではなく、かえって低く見られていた人も多く、決してエリート集団ではなかったのですが、彼ら失敗しながらも、イエスの弟子として従ってきたことが聖書にしるされています。イエス様は人々に宣教され、人々に仕えつつ、同時に彼らに弟子訓練をされました。たとえば、弟子だけでに乗っていた時、嵐がおこって舟をコントロールできないで悩まされていると、その嵐を静めて助けて下さります。これはあえて彼らに嵐が起こることを許可され、神の子である、力あるイエス様に信頼することを学ぶためです。イエス様はその嵐の最中、岸辺から弟子たちの船に向かって水の上を歩かれた時弟子のひとりのペテロはそれを見て、私にも歩けるように命じてくださいとイエス様に願い、なんと、彼も水の上を少し歩けたのです。しかし直後にペテロは波をみて恐れ、沈んでしまい、イエスに助けられたとあります。*

 苦しい時、投げ出したい時の励ましは、この試練には意味があるという確信を持つことです。それは師であるイエス様ご自身も私たちとはレベルが異なりますが、試練にあわれ、そのことには意味と目的があるため、喜んでそれを受けられたと今日の箇所にあり、キリストを信じる者はその弟子ですから、師にならうわけです。更に、自分自身が乗り越えなければならないのですが、結局その背後で神様の見えざる手により守られ、実際は乗り越えさせてもらっているという安心感が与えられています。私はたいした試練を今迄通っていませんが、それでもここまでこれたのは全てイエス様のおかげだと感謝しています。私は自分の弱さを知り、それを認められること、自分のプライドを捨てて、キリストに頼れるという信頼関係が与えられていることを感謝しています。
 私も「イエス様がなんとかしてくれるから大丈夫だ!」と信仰で踏み出すことがあっても、その直後に現実を見て、また実際何か妨げが起こってくじかれ、その信仰が沈んでしまうことが多々あります。他人は起こった困難に対して、「逃げなよ、もうやめればいい」と言うかもしれません。私も過去に、逃避したことは何度もありますが、結局また違う形で課題は戻って来るのです。しかし、私が不信仰で沈んだり、逃げたとしても、ペテロの時のようにイエス様は必ず引き上げて助けて下さるということを、自身の体験からも与えられていることは本当に感謝です。訓練は厳しいけれども、師であるイエス様は本当に優しいのです。
 個人の成長は一生かかってなされるものだと思います。己に頼らず、先が不透明でも、どんな状況にあっても、いかにキリストに信頼するかの訓練です。私の場合は成長の速度は遅く、度合いは弱いのですが、波を見て溺れそうになったら、信仰を導いてさるだけでなく、完成してくださるイエス様を見上げてまた一歩進んでいきたいと、新年につき励まされました。

 

*マルコによる福音書14章22-33節


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