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今日のわか ちあい



June 2016 Women's Retreat of Harvest Christian Fellowship NY.
♪Today's Sharing♪

 July 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
  国のリーダーの為の祈り 自然を通して  
  アメリカ生活で守られたこと 苦い水甘い水
白虎隊の悲劇 逆境を機会にとらえる 新潟の海にて
uly 31, 2016 白虎隊の悲劇

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」ミカ書6章8節


 侍、腹切り。西洋人の古来の日本人のイメージはステレオタイプですが、敵に捕まり生き恥をさらすより、死を望むというのは、他の民族でもあることです。人は名誉・プライドのために自ら命を絶ち、欲と憎しみのために他者の命を絶つ。いずれにしても、人ひとりの命より、自分の中での価値基準のほうが重いのでしょうか。先日の障がい者施設での虐殺は、本当に胸が痛み、この犯人の価値基準では障がい者の命は軽く扱われています。
先日、夏の太陽が照りつける中、会津若松に観光に行きました。ここで有名なのは白虎隊。白虎隊とは、16から17歳の少年達で編成されていた部隊で、慶応4年(1868年)戊辰戦争が勃発し、劣勢となった会津軍において、この少年たちは飯盛山に落ち延びましたが、市中に火が上がるのを山上から見て、そこで自刃を決行したそうです。その飯盛山には彼らのお墓と記念碑がありましたが、戦争時における教育の仕方によってこのような幼い命が奪われるという悲劇を想わされました。
 一方、人のために自らの命を犠牲にする場合もあります。親だったら、子供の命が助かるために自分が代わりになれればと思うほどその子を愛しているからです。
命は神様が与えて下さったものであり、人は神様が一人一人に目的、計画を持って創造されという聖書の真理を信じる者にとって、理由は何にしろ自死・他殺ともあるべきではないと思います。
命の重みを考えると、神の子であるイエス様が私たち人間全ての罪に対する罰を代わりにうけて、十字架で死なれたこと。これ以上の大きな愛はないです。また、父である神様が自分の子の命を犠牲にしてまで人間を救いたいと思う気持ちは、人間の親子では考えられないことです。自分の子の命を犠牲にして、他人を救おうとする親がいるでしょうか。神様の愛は人の愛とは異なります。
 その神様の愛を受け取って、何もお返しが出来ないけれども(神様は豊かだから、人から物質的なものを捧げてもらう必要がない)、私たちがその愛に応答して目指すことがあります。それが神様が私たちに求めておられることとして、冒頭にあるように、公義、慈しみ、へりくだって神と共に歩み。
神様の公義:何が神様の目から見て正しいかを求めれば、人は命の大切さも同じ基準で共有できるでしょう。
July 29, 2016 "新潟の海にて"

「『それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。 」エペソ人への手紙5章31-33節


「日本海は太平洋の海とはちょっと違うんだよ」NYでお勤めしてた会社の皆さんに送別会をしていただいた時、旅行の話が話題になってこう言われた方がいました。私は今迄日本海側には行ったことがなくて、今回が初めての旅行なのでとても楽しみにしていました。新潟市中心街から車で10分程走り、早朝の海水浴場脇に車を止めると、眩しい朝日の光の中、目前に濃い青い海が目に入ってきました。ああこれが日本海かと。その場所は海水浴場のため、想像した程特段変わりがないように見えましたが、その場所が私の人生で特別な日のステージとなるとは想像していませんでした。
 彼は、浜辺をちょこっと歩くだけなのに聖書を片手にたづさえてきたので、ビーチで一緒に聖書を読もうと思ったのかしらと私は思っていました。まだ人もまばらな静かな場所に腰かけると、彼は聖書を開いて冒頭の箇所ともう一か所と2か所を読み始めました。そして彼は
「僕はプロポーズの言葉を、聖書のことばと共に言いたいとづっと考えていたんだ。陽子さんと結婚してこのような夫婦になれたらと」
 涙が出ました。私たちの二人の出会いは日本とNYと離れた場所で始まり、想定外の、明後日の方向から、まさに神業としかいえない不思議な出会いとして与えられ、多くの方々に祈ってもらってきました。故に、この人が夫として神様が備えてくれた人だろうと確信を持ちながらお付き合いをしてきましたが、大きな決断の時には必ず聖書のことばでの確証を求め、そして与えられてきたので、今回もやはり神様は彼を通して、みことばでゴーサインを与えて下さったのです。不完全であっても、全てのことにおいて自分のことばではなく、聖書のことばをベースに考え、語り、行動しようとする姿勢を持つ、そんなパートナーを長い間祈り求めてきたので、改めて本当に嬉しかったし感動しました。もちろん答えはイエスです。
 夫婦になったら、おそらく、彼も私を自分自身のようにいつも愛せないし、私も彼を敬えない時があると思います。そんな時、このプロポーズの時の み言葉に立ち返り、神様が合わせて下さった夫婦だから、神様に助けて頂いて共に人生を歩み、人々に仕え、キリストを伝えられたらと願います。そして、キリストが教会(建物ではなくキリストを信じる者の集合体)を愛して下さっているという、その愛をいつも覚えて感謝しつつ、お互い一つのキリストの体の一部なのだから大切にしたいと。
July 24, 2016 "逆境を機会ととらえる"

「さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。」 ピリピ人への手紙1章12節

 日本に帰国して約一週間。母教会の国分寺にあるジーザスコミュニティの礼拝に久しぶりに参加することができました。折しも、NYで私の家庭集会を2年間ホストしてくれていた方が一時帰国していたため、彼女のお子さんたちとともに参加できたのは嬉しかったです。
 今日の礼拝のメッセージは、とても励まされる内容でした。人生で様々なことが起こる。良いことも悪いことも、辛いことも。そのような状況の中で「でもキリストの前進に役立つのであればいいや」と思えるような信仰を持てるようになりたいと。このことを記した使徒パウロは、当時信仰のゆえに投獄されていました。劣悪な環境で、いつ死刑にされるかわからない状況にあっても、彼は牢獄の中で周りに伝道してしまうのです。彼の身に起こった逆況を伝道の機会としてとらえ、喜んでいる、これは 私のような弱い者にはできないと正直思います。様々な問題、病気、患難があっても、パウロのようなキリストに在っていい開き直りと希望が持てれば素晴らしいなあと、そういう信仰が与えられたいと思わされました。
 一方、このパウロに対して競争意識で福音を伝えている人も当時いたことが、この聖書の箇所より伺えます。伝道活動に、縄張りとか、教区とか人間が作った領域があって、それを侵してはならず、それを気にせずに集会をしようものならやり玉にあげられるという現象が実際あることを、自分自信もアメリカで活動して目の当りにすることがあり、驚きとまた悲しみ、非常にくじかれました。そんなことを考えず、神の為に今そこにいる人たちにキリストをを証しする、それが牧師とか神学校を出たとか関係なく、各々がキリストのを信じて弟子として、周りの人々に伝えていければ、いいじゃないかとなぜ思えないのか。キリスト教会内で「羊泥棒」という観念があるのが、非常にくだらないと思わされます。そもそも誰の羊なのか。羊の世話をそれぞれが任されているのであって、羊の所有者はイエス様であります。
 特定の教派であるべきとか、そのしきたり・やり方でないといけないとか、そういう人間が作ったことに捕らわれず、かつ不必要な争いに関わらない知恵を上から与えられたいと、あくまでもキリストならどう思われるか、どうされるかの導きを求め、パウロのようにいつも喜んでイエス様に仕えられる強さが与えられたいと願います。
July 22, 2016 "苦い水甘い水"

「彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。ときに、民はモーセにつぶやいて言った、「わたしたちは何を飲むのですか」。 モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。」エジプト記15章23-25節

 6月にNY州の郊外へ週末行ったときのことです。夜、芝生の生えた敷地内にボーっと小さな光の玉が浮かび上がっては消えていきます。蛍です。アメリカの蛍は日本の源氏蛍とは異なりサイズが大きいようで、初めて見たときは何だろう?と驚いたものです。蛍は水のきれいな場所に生息しますので
   ほ、ほ、蛍来い。
   こっちの水は甘いぞ
   あっちの水は苦いぞ
   ほ、ほ、蛍来い
童謡に歌われます。子どもの頃、水に苦い甘いがあるという観念がなかったのですが、日本だけでなく海外に住んでみると、世界で水道から水が飲めるというのはあたりまえではないとわかってきました。多くの国では飲み水はボトルで買うものであって、水道の水はまずくて飲めないし、また有害物質を含んでいる可能性があります。
 近年水質開発は様々な方法で進んでいますが、薬品ではなく、自然の微生物を用いて水を浄化するということが行われていると最近知りました。例えば、池や川において、ある微生物が水に含まれる銅・アルミ・カドニウム・PCB・ヨウ素・放射能他の有機化合物を取り込み、その微生物の世代が変わることでそれらを気化し、有機物を無機化するというのです。水道水さえも残留塩素などを含み、体には良くないように、私たちの都会の生活圏は危ない水だらけなわけです。私たちの生態系・環境の改善は結局、自然のものによるのが副作用もなく、ベストなのではないでしょうか。
 聖書で、神様が古代イスラエルの民がエジプトから脱出した直後、砂漠において水がなくなり、飲もうとした泉の水が苦くて飲めなかったため、民がつぶやき、それを指導者モーセが神様に訴えました。すると、神様はそこへ木を投げ込めと言われその通りにすると水が甘くなったのです。人々はそこから飲むことが出来ました。この世界を無から創りだせた神であれば、分子レベルの次元において、自然のものを用いて水を甘くも苦くも出来るでしょう。水は私たち人間の生存に必須ですが、人間の心には生ける水が必要です。私はイエス様を信じる前は、罪に縛られて、自己中心で、生きる希望がなく、心が苦い状態でした。その苦い心をきれいに、甘くしてくれたのは
イエス様の十字架です。十字架という木が心に投げ入れられると、心が甘く変えられたのです。つまり、私の内側に聖霊が与えられ、平安に満たされ、生きる希望がイエス様を信じることで与えられたのです。徐々に古い自分がキリストの愛の性質に変えられていくと聖書は約束していますが、それを遅々としたものですが体験させていただいています。その過程において、キリストを信じた後も私の心の苦い部分がよく顔を出してきます。しかし、聖霊がやさしく、その状態を示してくれるので、それを認めて悔い改めると、何度も軌道修正され、心を変えて下さるというのが本当に感謝です。
 心を変えれるこの生ける水は神様がキリストを通して、皆に求めれば与えられる、それもただです。ただですが、キリストの命というコストがかかっているのですが、それを信じるだけでよいのです。一人でも多くの方が、この生ける水を得て生きる希望を持っていただければと祈り、このことを発信し続けたいと願います。
July 16, 2016 "アメリカ生活で守られたこと"

「兄弟たちよ。わたしたちがアジヤで会った患難を、知らずにいてもらいたくない。わたしたちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい, 心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。 」第2コリント人への手紙1章8-10節


  6年と7ヶ月。早いようでとても長かったアメリカ生活も明日で終焉。昨晩は、教会の家庭集会がダウンタウンで夜遅くまでありました。私が参加する最後の会だったので、牧師にも皆さんにも私の日本でのこれからのことも祈って送り出してもらい、とても感謝な気持ちで帰宅するところでした。この一ヶ月、NYを去るということで教会の人たちを中心にお別れの時が続き、非常に寂しくもありますが、これだけ祝福された人間関係に恵まれたことを感謝して、とても良い思い出を与えられて、日本に帰れるなあと思っていたところでした。
 ところが、最後の最後でちょっと怖い目に遭い、やはり気を抜けないということがありました。NYの公共機関は以前よりづっと安全になり、24時間運行していて真夜中でも人が乗れるほど安全になりましたが、やはり遅い時間に人がいない場所にいると事件に巻き込まれる可能性が高く、なるべく人通りが多い道を歩き、地下鉄も人が乗っている車両を選ぶようにしています。また、NYの地下鉄は朝昼でも精神的に病んでいる人が乗ってきては、独りで大声でどなっていたり、無差別に他の乗客にケンカを吹っかけてくることがあるため、挙動不審な人がいればそのそばには寄らない、また目を合わせないというのがここでの安全策であります。昨晩は車両にもたくさん人が乗っていたのですが、ちょうど私が端に座っていると、その手の男性が現れ、私の前に立ちはだかり、周りに因縁をつけ始めました。もちろん周りも無視し、私は彼の前に座っているので身動きできず、じっと目をつぶり、祈っていました。彼は私の前に立ったまま周りに怒鳴り始め、私がちょっと目を開けた時に、私の目の前でかなり危険な挙動をはじめていたようで、私の隣にいた人が席をたつと、私の隣にドスンと座りました。そのすきに私も席をたち、ようやく逃げることが出来、神様が守ってくれたなと安堵しつつも、NYを去る最後の最後まで油断はできず、気を抜けないと思っていた矢先だったので、ヒヤッとしな経験をしました。
 先日は、フランスのニースでまたテロ行為により、多くの人が亡くなり、負傷するという悲しい事件が勃発しました。テロは世界各地で頻繁に起こり、いくら警備を強化しても対応しきれず、多くの人々が犠牲になっていて心が日々痛み、ご遺族の方々に慰めが与えられるよう祈りを捧げています。テロでなくても、NYのような大都市では毎日のように事件はおこり、地下鉄の中には日々私が遭遇したような人がうろついています。今日も帰りが遅いのですが、地下鉄は、すぐ逃げられるよう座るのをやめようと思います。
 今日の箇所は、キリストの使徒パウロが他の信徒たちにあてた手紙の一節で、クリスチャンになったからと言っていつも事件や病気、災害、問題からフリーなわけではなく、パウロのように何度も死を覚悟する程患難にあうこともあると。だからお互い自分を頼りにせず、神のみにより頼もうと、神は必ず助け出してくださると、励ましています。問題や事故に遭わないというのは、この世に生きている限り不可能です。この世は罪がある人間同士が、神を恐れず、自分の好きかってなことをしているからです。クリスチャンはその問題や事故に遭った時、神に望みを置けるというところに励ましがあります。また、いつまでもこれらの悪が野放しではなく、いつかキリストが再びこの世に来られ、公正に、正義をもって悪を裁かれる時がくることを知っているので、今の状態に絶望することがないのです。
 私が今迄住んできた地域、フィラデルフィアとNYCは多くの人が銃を持っていて、比較的危険地域であったにも関わらず、また遅い時間に帰宅するということがあったにも関わらず、今迄守られたのは本当に感謝です。とにかく、危ない状態になったら祈るのが一番でした。
しかしながら、最後の最後で、強盗や事件に巻き込まれないで、無事に日本に発つことが出来るように祈るのみです。アメリカを去るのは多くの大切な友人たちとの素晴らしい思い出と、小さいながらも与えられたミニストリ―が祝福されたことを想うと、非常に後ろ髪はひかれます。一方で、生活している中での無意識にても緊迫感と、不自由な英語でのコミュニケーションから、少し解放されることを想うと少しホッとしてしますし、また日本での今後神様の導きに従っていけるよう、今迄以上に祈りつつ、弱い者ですが、一歩一歩歩んで行きたいと願います。
July 11, 2016 " 自然を通して"

「(パウロとバルナバは) 言った、『皆さん、なぜこんな事をするのか。わたしたちとても、あなたがたと同じような人間である。そして、あなたがたがこのような愚にもつかぬものを捨てて、天と地と海と、その中のすべてのものをお造りになった生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いているものである。神は過ぎ去った時代には、すべての国々の人が、それぞれの道を行くままにしておかれたが、それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである』。こう言って、ふたりは、やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた。 」使徒の働き14章15-18節()は追記

 小さい時に歌った歌は大人になっても忘れないものです。その中の一つは

  ♪ 美しいこの空を 愛らしいこの花を 浮かんでる白い雲、
      香りよき青草を、じっと眺めるだけで、ただ眺めているだけで ほら君もわかるでしょ、神様がわかるでしょ ♪

 子ども心に、この調和のとれた自然、その美しさがひとりでに出来たのではなく、これを創造した存在:神様がいるということを私は素直に受け止めることができました。逆になぜ、人は限界のある人間を神として祭り上げたり、何の意志もない山とか海を神として拝んだりしてきたのかが、全く理解できませんでした。
 今日の箇所でキリストの使徒達は、自然そのものが神を証しているということを語っています。ここでの背景は、使徒パウロが神の力で生まれつき足が不自由な人を癒したことで、当時のギリシャ地方の人々がパウロと仲間のバルナバを「彼らは現人神だ!」と二人に供え物を捧げ、拝もうとしたので、必死に彼らの行為を止めようとし、逆に真の神がいるんだと訴えたところです。
 人は生まれつき、神を求める心を持っているはずなのですが、間違った対象を神として拝んでしまう、そしてその対象は私たちを死から、罪から救ってもくれないので、信じていても確実な希望も保証も平安もありません。その対象物は神ではないので、限界があり、全能でもなく、何の人格的交流もなく、一方的に人間が祈りを捧げるだけ、その祈りも自分の都合よいことばかり、たんに願いをかなえてくれる存在であります。人は無意識に、何かを自分の中で神として作り上げてしまう。とりあえず、かなえられるかどうかわからないけれど、どれかの神々に祈っておくというような自己完結型宗教なのです。そしてキリストを神として信じない人々は、キリストもその神々の一つとしてみなし、すべての宗教は同じだと。だから互いに尊重しないといけないと主張されます。それが皆に理解しやすいからでしょう。
 おそらく、自然の美しさについては、人が作った宗教の神がこれらを創造したものだとすり替えことは可能かもしれません。また、この自然界の成り立ちを、科学的に証明できず(法則になれず)いつまでも仮説のままで説明しようとしているダーウィンの進化論も宗教のようなものです。しかし、一つだけ本物の神にしかできないことがあります。それは人が犯してきた罪(根源的な罪はキリストを神として信じないこと)の赦しと死からの救い(永遠の命を与える)が、神の子であるイエス・キリストの十字架の犠牲を通して可能になったという救いの方法です。
 神は、一人でも多くの人が自発的に神に立ち返って信じてほしいと何千年も待っておられます。先に恵みでもってこの信仰を与えられているクリスチャンは、この福音をパウロのようにはっきりと、叫んで発信していきたいと思います。もちろん、反論はあるでしょう、しかし私たちの責任は反論に対して議論することでなく、単に発信すること、そして祈り続けること。その後はその情報を受けた本人が応答するかどうかの問題ですが、私は諦めずに祈り続けようと、聖書の言葉を通して励まされ、感謝であります。
July 4, 2016 ”国のリーダーの為の祈り"

「正義は国を高くし、罪は民をはずかしめる。」箴言14編34節

   毎日送られてくる日々のみ言葉とその解説(デボーション・メイル)は違う人がそれぞれみ言葉でしめされ、そのコメントを執筆しますが、アメリカの独立記念日ということで、冒頭の同じ聖書箇所が引用されアメリカの為に祈ることが書かれていました。アメリカは世界の超大国で日本とも外交上非常に影響力のある国ですが、私の母国ではないため、アメリカではなく日本の為に祈りたいと思います。もちろん、世界の全ての国の人々が、イエス・キリストを信じ、互いの平和を得て、天国に行けるという神の大きなみ心を毎日願っていますが、日本人として日本人が救われることを切に願っています。そして日本の政治的リーダーが神を知らないとしても、国のリーダーに正しい判断と知恵が与えられるようクリスチャンは祈る様、聖書に書いてあるので*1 特に祈りに覚えたいと思うのです。
 昨日ある方と礼拝後ランチをしていて、一緒に聞いた午前中の牧師のメッセージから質問をされました。クリスチャンは自分たちの神に他の宗教の人々を改宗させるために伝道しようとするが、それは他の宗教の人々にとっては脅威なのではないか?伝道する/改宗させることはクリスチャンの皆がしなければならないのか?と。おそらく(分からないですが)、質問をされた方は宗教は色々あり、他の宗教の人をも尊重すべきで、自分の信じている宗教を強制するべきではないと思われたのかもしれません。
 国同士の争い、テロの歴史は、確かに宗教を大義名分としてなされてきたのが事実です。一口に正義といっても、各国の正義の基準が異なります。しかも宗教と政治が結びつけられると、キリスト教でさえもはや聖書の愛の教えとはかけ離れ、するとそこで「改宗させる」という恐怖を伴う国家的強制が行われたりするわけです。そのコンセプトで、個人ベースで牧師から伝道しろと言われたら恐れが伴うでしょう。宗教戦争というのは、本当にキリストを信じて従っているリーダーや国民であればあり得ないことですし、国のリーダーの国民に対する影響力は強く、ゆえに私たちは彼らの為に祈っていく必要があるわけです。
 今回牧師がなぜ伝道することを一人一人にチャレンジしたかという理由は、聖書でイエス様が弟子たちに「全世界に出て行き、全ての人に福音を宣べ伝えなさい」と命令(大宣教命令:Great Commission)*2 を託されているところからきておりで、キリストを信じて弟子となる者には、これはオプションではなく命令なわけです。しかし、その命令は強制されてやるものではないし、相手を「改宗」されるというような恐怖をもたらすものではあってはならないのです。まず、この命令は自身が自発的にそうしたいと思って、自分の周りの人々にキリストの愛、福音を分かち合うのであり、決して強制されてやるものではないことを質問した方にに説明しました。
 強制されたところに、真の信仰は起こりませんし、長続きしません。神は恐れで支配する方ではなく、愛、それも見返りを求めない無償の愛を私たちに与えようとされ、それを受け取ることによってはじめて、自発的にその愛に応答して、この喜びの福音を他人に伝えようと思うわけです。福音を相手に話して、たとえそれをその時信じなくても、相手を愛しつづけ、仕えることがキリストの教えです。これが多くのキリスト教ベース、ミッション系の病院、福祉団体、宣教団体、学校の基本でもあります。彼らはキリスト教徒以外の人々に実際仕えて働いていますが、彼らの信条はこのキリストの大宣教命令に基づいているはずなのです。
 もちろん、相手が求めていない、心を開いていないと、みことばの種(福音の情報)を心にまけません。ですから、タイミングや機会を祈り求めて、聖霊の力が上からその時与えられて、自然に説明できればいいなあと、私自身もいつも祈っています。福音を伝えるのは、誰でも出来るのです。話し方がうまいとか、口下手とか全く関係なく、自分がシンプルに知っていること、信じていることを話せばよいし、自分が話せなければ話す人のところ連れて行けばよいし、全部自分でしなくてはというプレッシャーがありません。同じ目的にそって教会の中で、お互いがある機能を任されているため(賜物)、チームワークで伝道していけばよいのも、ありがたいです。
 その質問された方が、キリストの愛と、その愛に応答して、自発的に神に従おうという従順をいつか理解してくださるといいなあと願いつつ。

*1 マタイによる福音書28:19-20  マルコによる福音書16:15
*2 「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。」
第一テモテへの手紙2章1-2節
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