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今日のわか ちあい



          猪苗代湖
♪Today's Sharing♪

 Aug. 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
  自己吟味 祝福の伝播  
  オリンピック開幕@ブラジル TVの広告の変化
  選ばれる理由 救急車不搬送の増加
  「映画 『ガンジー』を見て」 婚約指輪
  「何を」食べるかではなく、「誰と」食べるか  
Aug.30, 2016

 

「何を」食べるかではなく、「誰と」食べるか

 

 NYのミッドタウンという場所で勤めていた頃、会社のビルの周りに作りたてのフレッシュジュースを販売するお店がありました。一杯1000円近くしますが、毎日たくさんの人々が並び、体に良い野菜とフルーツなどで作られたジュースを飲みながらオフィスへ向かっていました。NYは健康志向の人が多く、ダイエット産業は日本もしかり、不況知らずです。

 

 先日、私が以前フィラデルフィアで通っていた教会の牧師が、折しもニンジンジュースの話をしていたのをネットで聞きました。「健康のために、ミキサーで生のニンジンジュースをつくって毎日飲む。私はそこまでしたくない。健康は(牧師として)活動するために最低限必要レベルで良い。」と笑いながら話していました。(彼はニンジンが苦手な様子) 私の個人的最低限のレベルは、カロリーが高くても美味しいものを少量たまに食べ、神様に感謝して、後は質素なものですますこと。それでスタイルが良くなくても、多少、体に機能不全があろうと満足です。私はむしろ、心身の健康のためにも「誰と食べるか」のほうが大切ではないかと思います。なぜなら、食事は独りで食べると味気ないものだからです。私は今迄パソコンを目の前に、食事は独りですることが多い日々でした。今日本に帰国して、家族と共に食事ができる有難みを日々感謝しています。

 一方、味気なく独りで食事をしていた時も、「見えないもの」に希望を置けていたことが幸いです。目には見えないけれども、イエス様が共にいて下さる、イエス様が聖書を通して(時にはパソコンから流れる牧師たちのメッセージを通して)語られる、そして私のつたない祈りを通しても、確実にその祈りを聞き、神様のタイミングと方法で答えて下さるという希望が与えられているからです。

 

 下記の聖書箇所を書いたキリストの弟子パウロは、宣教活動において何度も死ぬほどの困難に逢い、孤独の時もありましたが、彼は落胆しませんでした。なぜなら、イエス様が見えないけれど共にいて下さったし、また目前の大変な状況も、これから彼が天国に行って遭遇することに比べれば、「軽い」(たいしたことない)と信じる信仰が与えられていたからでしょう。*

 どんな状況においても、この言葉を思い出し、見えないキリストに目を注ぎ、限られた時間のなかで優先すべきものに心を留め、状況に左右されない、キリストにある喜びと感謝を持ち続けていたいと励まされました。

 

 

 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」 第2コリント人への手紙418

 

*「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」第2コリント人への手紙416-17

Aug.26, 2016
「婚約指輪」

 先日、婚約者より婚約指輪を頂きました。指輪をすること自体は婚約しているという象徴のようなもので、私にとって実際には婚約式を教会で牧師によりして頂いた時に、結婚に向けての心が整えられ始めているように思えます。彼が牧会をしている教会の信徒さんたちにも証人になって頂き、神様の前で婚約の誓いが出来たことは本当に幸いでした。婚約式の後にまるで結婚式のように盛大にお祝いの会もしてくださり、本番の結婚式も同様に教会の皆さんが中心となって手作りで準備して下さる予定なので、とても楽しみであり、感謝でいっぱいです。

 聖書では神様が人間を創造された時に、結婚という関係を与えられたと書かれています*。 結婚という制度は家族、社会の単位として非常に重要な基礎的関係であり、多少のバラエティはあっても世界のどこの地域、どの時代でも、結婚のコンセプトが共通に存在します。今迄は私は独りで生きてきましたが、これからは二人で共に生きていくことになり、非常に楽しみです。一方、独りの期間が長かった私にとっては、相手をどれくらい理解し、支えられ、様々なことを二人で乗り越えられるのか自信がないのが正直なところです。しかし、二人の共通の信仰:神様に委ね、神様を中心にして共に歩んでいけることが、揺るぎない土台であることはお互いが確信し、簡単に言えば、「神様が助けてくれるから、なんとかなるでしょう」と一致しています。

 イエス・キリストを信じた時、クリスチャンは婚約指輪のようなものを心に与えられています。これは、神であるイエス様と人との関係が、結婚という厳粛な関係に譬えられていて、クリスチャン(の集まりの教会)はキリストの花嫁であり、その婚約期間の保証として心に神の霊(聖霊)が与えられていると今日の箇所は記されています。この「保証」と日本語に訳されている語が”エンゲージ(婚約)”と同じ語源だそうです。この譬えは、夫が妻を愛して守るように、キリストがそれ程にご自分を信じる者を愛し、大切に思っていて、そしていつか教会を天国に迎えにくることを表しています。聖霊は目には見えませんが、心の内に住んでいて、イエス様がどんな方を教えてくれますし、地上で生きていく上で多くのことを助け導いてくれます。そして聖霊は神様の私たちに対する約束の確信を与えてくれます。「今は婚約期間だけども、あなたはすでに私のものだよ、愛されているから、安心していいんだよ」と。
 人間同士の場合はキリストの持つような完全な愛を持てませんが、個人的には、今の婚約期間がとても幸せですし、結婚式が待ち遠しくもあります。神様が人生のパートナーに出会わせてくださったことに、私たちはいつも感謝しつつ、これから聖霊の助けにより、神様のなさることに期待していきたいと思います。

「神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」 第2コリント人への手紙1章22節


*「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離 れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」マルコによる福音書10章 6〜8節
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Aug.19, 2016
「映画『ガンジー』を見て」

  先日『ガンジー』(Gandhi) という、1982年に公開された、イギリスとインドとの合作映画をTVで初めて観ました。この映画は、イギリス領インド帝国の独立運動を率いた1人であり、「インド独立の父」として知られるマハトマ・ガンディーの青年時代から暗殺されるまでを描いた作品です。人々に非暴力を唱え、イギリスからの独立を成し遂げたガンジー。彼は独自の宗教観を持ち、全ての宗教は一緒で、人は皆神の子であると、だから人を殺してならないし、差別(宗教、人種、性別、階層:カースト制度による)もしてはならないと言っていました。キリスト教の影響も受けていた彼は、イエス・キリストが言われた聖書のことばも引用(「あなたの敵を愛せ。」*1)。南アフリカの時から、彼の活動に長年協力していたイギリス人は、牧師であったのも興味深かったです。彼はイギリス人の地主に酷使されて、貧困に苦しむインドの同胞の立場に立ち、庶民と同じ着物をまとい、自給自足の生活をしました。彼は死をも恐れず、勇敢に大英帝国の植民地支配に立ち向かっていました。彼はインドの人と共に喜び、涙し、戦ったのでしょう。

 「彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」イザヤという預言者は神様から言葉を預かり、来るメシヤ(救い主、キリスト)がどういう人か、どのようなミッションを担っているかを記しています。これはイエス様が生まれる約7百年前に預言されたものです。事実、イエス様の生涯は、ユダヤ人の人々の病を癒し、悪霊につかれている人を解放し、人々に神の国を告げ知らせました。彼は特に社会から差別、疎外されていた人々に接し、愛を示されました。この預言は、ユダヤ人だけのためでけでなく、全ての国民にも成就されます。イエス様が十字架にかかって死に、3日後によみがえることによって、このことが成し遂げられ、私たちを罪と死から解放し、救って下さったからです。

 イエス様が泣かれたことがいくつか聖書には記録されています。その一つは、彼の愛していた友ラザロが死んで、人々が泣いている時、共に泣かれました。(Jesus Wept<ジーザス ウエプッ>イエスは涙を流された*2 は英語の聖書の中で最も短く、美しい節と言われます。)イエス様は私が泣いている時、私の悲しみ憂い、辛さに同情してくださる方です。そして慰めと希望を与え、明日に向かって前進できる力を下さります。
 悲しみに沈んでいる時、他者からの励まし・慰めの言葉を頂けるのは有難いです。しかし、言葉がなくても傍にいて、一緒に涙を流してくれる友がいることは幸いです。神様はキリストを信じる者に、聖霊という助け主*3 をイエス様の代わりに心に送ってくれます。それは傍にいてくれる神の霊であり、イエス様がどういう方であるかを証ししてくれます。このイエス様の愛を頂いて、辛いところを通っている人の傍に送られ、共に泣き、そしてキリストから与えられる深い喜びも共に喜べればと願います。

「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」ローマ人への手紙12章15節

*1 マタイによる福音書  5章44節
*2 ヨハネによる福音書11章35節
*3 ヨハネによる福音書14章16節 助け主:ギリシャ語の語源は"called to one's side" (その人の傍に呼ばれる).
Aug.17, 2016
「救急車の不搬送の増加」

 今朝の新聞で、119番通報で出動した救急隊が、誰も運ばずに引き返す「不搬送」が、2014年までの10年間に約5割増えたとの記事がありました。それに対してのコメントの多くが、「救急車は有料にしたほうがよい」というものでした。つまり、重症でない人は呼ぶな、さもなくば料金をいただきますということです。これはとても短絡的な考え方だと私は思います。まず、一般の人が重症かどうかをどこまで判断できるのか、次に有料化した場合、本人が重症であっても「お金がかかるから」ということが本人もしくは家族の頭をよぎり、搬送が遅れ手遅れになる危険性を生み出すことです。
 対策としては、緊急性の内容を告知していく広報活動を徹底させる、また通報の時点で、119番通報回線に相当するかしないかをかかってきた時点で専門家に判断させ、他回線に振り分けるなど、有料化を議論する前に検討できることはあるでしょう。基本は、救命はビジネスではないし、お金や保険がなくても、瀕死の人が病院に搬送されたら救命処置をするという原則を忘れてはならないと思います。

 では心の緊急性に対してはどうでしょうか。日本は世界でも自殺が多い国として有名です。心の病については、表面化するのに時間がかかり、本人の病識がないことが多く、手遅れとなって自らの命を絶つに至るという胸の痛い現実があります。
 イエス・キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」*1 と言われます。人は自分で何とかやり切れる、頑張れると過信し、人や神に頼るのは弱い、弱いことは悪いと、社会からも刷り込まれています。例え人に頼ろうとしても、カウンセリングや薬物療法も限界があります。

 しかし、人を創られて、創られたものを大切に思っている神様の存在を知れば、その神様に頼れます。真の神様は全能で、不可能を可能にし、私たちの想いや計画、願望を知ったうえで、様々なことをオーケストラして私たちを救い出し、最善の道に導くことができる方です。それには、自身のプライドで心の奥底に隠しがちなこと:自分の限界、弱さ、負い目、苦い心を認めるところから始まります。どんな問題でも、そのままの自分をイエス様の前に祈りで持っていくと、必ずその祈りは聞かれ、助け出され、罪は赦され、傷ついた心が癒され、希望が与えられます。イエス様による救急活動は、自分で重症かどうか判断する必要もないし、お金もかかりません。何か奉仕をしろとか交換条件もないのです。ただ、信じてより頼む、するとイエス様という方から必要なことを学んで、魂に休みが与えられます。*2

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」
詩編46編1節

*1,2 マタイによる福音書11章28-30節
Aug.13, 2016
「選ばれる理由」 

 学校の受験、就職活動など、人生において何度か大きな活動があり、そこで選抜という厳しい過程を通ります。一般に自分の希望の学校、会社に選ばれるよう努力し、行動を自ら起す。一方、自分の才能や努力以外で選ばれるという要素もあり、それを一般に運と呼びます。
 もし一国の王妃に選ばれるコンテストがあるとしたら、選ばれるために何をしますか?外見の美しさを磨いたり、知性も身に着けるために必要なことを学んだりするでしょうか。モナコの王様は女優に、日本の現在の皇太子は才色兼備の外交官に目を留められました。これらはコンテストではありませんが、彼女たちには選ばれる理由があったのでしょう。

 紀元前のペルシャ帝国において、王妃コンテストが行われたことがあります。当時のペルシャ帝国は地中海からインドまで及ぶ大帝国で、全国から美しい女性が選抜されました。優勝したのは、ユダヤ人で孤児のエステルという女性。彼女が選ばれたのは、運がよかったからでも、何か努力したからでもなく、神の摂理が働いたからでした。なぜなら、その後、帝国内のユダヤ人一掃(虐殺)の策略が起こり、それを阻止する役目を果たすため、ユダヤ人の彼女が王妃となるよう、見えない神の摂理が働いたのです。
 一方、神様がある人を選んでおられたとしても、選ばれた側の人間の応答もあります。エステルは王妃という地位があったとしても、当時、王に直訴して国の政策を変えさせるということは、命をかけた行為であり、うまくいくという保証はありません。しかし、彼女は自分が選ばれた理由を信じ、断食をし(断食とは神へ祈るためにする行為)、王にユダヤ人救済の嘆願をし、様々な事が折り重なって成功しました。

 現代に生きる私たちは、一生のうち、犠牲を払って他者の為に何かをしょうとする場面に遭遇するかもしれません。そこで、無理だからと断ることもできます。もしくは自分には不可能だが、神様のみ心ならば信仰で踏み出してやってみよう、後は神様に任せようと受けることもできます。神さまは強制されないし、その人が断れば、他の人を選んでその役割を回されます。
 私は保身をすぐ考える臆病者で、何も才能もありません。しかし、私がそんな者でも、神さまが何か私に役割を考えておられ、そのチャンスを与えようとされます。それを信仰で受け取ると、想定外にドアが開かれて神様のすばらしさを皆で味わえるという、小規模でしたがそのような幸いに預かれてきました。これは、私の中には選ばれる理由はなく、全て神様の恵みと、神様の選びなのだと低くされます。これからも、自分を差し出すかどうかを問われるでしょう。それには日々祈って求めていこうと思わされました。

「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」 エステル記4章14節
Aug.12, 2016
「TVの広告の変化」

 アメリカでテレビを観ない(家にない)環境で何年も過ごしてきた私は、現在日本の自宅に戻り、テレビを見る機会が増えました。暫くテレビから離れていたので、放映されるCMの変化に気が付きました。ゲームのアプリの広告の頻度が、ひと昔前より多くなっているのです。
 ITの普及で、今は小型のゲーム専用機器を携帯する必要がなく、スマホでいつでもどこでも多彩なゲームができます。日本の電車内で8割近くがスマホ画面を見ていて、そのうちゲームをしている人の割合は高いと推察します。仮想空間の戦い、探求などでポイントを挙げ勝敗をきめていく。このようなゲームを常習的に長時間し続けることが、人の情緒や精神にどのような影響を与えるのか、製造者側は考えたことがあるのでしょうか。

 「この世と調子を合わせてはいけません。」*1 と、キリストの使徒パウロが、二千年前にクリスチャン信徒に手紙で書いています。この「世」の原語的意味は、哲学、世界観、信念、戦略だそうです。ゲーム会社は利益を上げるためにもっと広告を出し、多くの人がこの戦略に乗らされてゲームをむさぼります。そこには企業の利益が人の精神衛生より優先するという「この世」があります。アメリカでは自己防衛の権利として、個人がマシンガンを簡単に購入できます。また世界で戦争が絶えないのは、人の命より武器会社の利益という、「この世」が横行しているからです。私たちはこのような世に惑わされてはならないのです。

 この世、現実の中に生きながら、情報を識別し、この世の価値観、哲学に流されないようにする。逆に、聖書のことばという良い情報で日々心を満たされ、キリストのすばらしさを伝え、他者に影響を及ぼす側になりたいです。その為に、神様に私の心を日々変えていただかないと、「何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」*2 が分かりません。幸いに、その識別力は、祈り求めれば神様から与えられます。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。」  ピリピ人への手紙1章9-10節

*1,2  ローマ人への手紙12章2節
Aug.6, 2016
「オリンピック開幕@ブラジル」

 今朝ブラジルオリンピックの開幕式をTVで観ました。
 リオといえば、カーニバル、また有名な、コルコバードのキリスト像です。この巨大な像は、世界7不思議の一つで、1931年にブラジル独立100年を記念して建設されたそうです。クリスチャン人口が80%以上と言われるブラジルを象徴しているようです。 
 この像の正式名称は Christ The Redeemer (贖い主<あがないぬし>キリスト)です。日常生活のなかで贖いということばはあまり使われないと思います。Redeem(レディーム)という言葉は、ポイントを還元するという時に使われます。

 聖書で贖(あがな)うとは、買い戻すという意味で、奴隷制度が存在していた時代、奴隷を自由人にするためには、お金を支払う必要がありました。その支払いのとき贖う、買い戻して自由にすると使われます。また先祖代々の土地が売られてしまい、それを買い戻す時も贖うが使われます。
 ではイエス・キリストは何から人々を贖う、買い戻すのでしょうか。人の罪という奴隷状態から解放するためです。イエス様はご自身の命を代価としてすべての人間を贖い、人を罪と死の支配から自由にするためにこの世に来られたので、贖い主という別名があります。広げられたこの像の手は、キリストの招きです。わたしのところに来なさい、わたしを信じなさい、そして自由になりなさいと言っていられるかのようです。

 オリンピック開催は、スポーツを通して世界が平和を求め一つになるためでもありますが、歴史を見てもオリンピックを通して平和を構築できません。観光名所でもあるこのキリスト像の名前の意味を何かで耳にし、キリストの贖いを通してのみ、お互い罪が赦(ゆる)され、互いが赦し合い、隔(へだ)ての壁が壊され、敵対している民族が一つとなれるという福音* へと導かれる人が、一人でもおられることをこのオリンピックの開催に願いつつ。

*「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き」 エペソ人への手紙2章14節

Aug.5, 2016
「祝福の伝播」


 アメリカでは文化的にも「May God bless you!」(神の祝福があるように)とよく言われ、大統領の演説など公式な場から、日常生活にいたるまで挨拶的にも用いられます。日本では一般に結婚の際など、幸福を喜び祝うとき、もしくは幸福を祈る時に祝福ということばは用いられるでしょう。

 聖書での祝福とは、人が人に授けるものではなく、あくまでも神ご自身が人へ恵みを授けることを言いますし、また、神への賛美や信仰の共有を前提に、神の恵みが他者にあるように祈る時に使います。クリスチャンは特別な時だけでなく、いつも互いに「God Bless you」と言いあえるのはとても幸いなことだと、特にアメリカ在住時は思わされました。

 一方、神が祝福された人を見て聞いて、他者が神のなさることが素晴らしいと神があがめられ、「神の救いの力がすべての国民に知られる」と冒頭の聖書の箇所は記しています。ここは先に書かれている、イスラエルの祭司が神の祝福を民の為に祈る祝祷*と共通しています。

 同じ神様の祝福が、タイミングや方法は異なっても各々に与えられるよう、互いの祝福のために祈りあいたいと思います。そして与えられることを目撃して神様をあがめ、と神の祝福が伝播していくということを信じつつ、互いに辛い時も嬉しい時も励ましあえたらと願いつつ。

「どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、そのみ顔をわれらの上に照されるように。〔セラ これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに知られるためです。」 詩編67編1-2節

*民数記 6章24-25節
Aug.2, 2016
「自己吟味」


 「成長は自己満足で止まる」とよく言われます。スポーツでも、会社の仕事でも努力しなくなって現状維持にとどまると、それ以上には進まないでしょう。しかし過剰にもっともっとと求めるとそれは貪欲となります。現状に感謝して満足しつつ、自分の中で改めるとろこはないか、改善するべきところがないかと常に自己吟味をすることは、謙遜な態度を保つためにも必要だと思うのです。

 冒頭の箇所は古代イスラエルのソロモン王が神様に神殿を奉献し、祈りを捧げた後、神様からソロモン王に託された言葉です。キーワードは「へりくだって祈る」だと思います。自己満足、傲慢なままでは、神様への心を注ぎだす祈りはできないでしょう。

 信仰者の霊的成長は一生です。自分は霊的で、信仰が深いと少しでも思うのであれば、その人の内で神様の働きは止まるでしょう。キリストを信じる者はいつでも聖書のことばを通して養われ、日々の生活の中で神様の恵み、神様がなさったことに満足し日々感謝して行きたいものです。

 一方で心を探っていただき、神が喜ばれない心(苦い思い、不満、他者批判など):罪を悔い改める必要があります。私も他のことにかまけて、これをすぐ怠ってしまいがちですので、今日示された言葉をとおして改めて聖霊によって罪を示され、悔い改めたいと思いました。


「わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。」 第2歴代誌7章14節
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