「何を」食べるかではなく、「誰と」食べるか
NYのミッドタウンという場所で勤めていた頃、会社のビルの周りに作りたてのフレッシュジュースを販売するお店がありました。一杯1000円近くしますが、毎日たくさんの人々が並び、体に良い野菜とフルーツなどで作られたジュースを飲みながらオフィスへ向かっていました。NYは健康志向の人が多く、ダイエット産業は日本もしかり、不況知らずです。
先日、私が以前フィラデルフィアで通っていた教会の牧師が、折しもニンジンジュースの話をしていたのをネットで聞きました。「健康のために、ミキサーで生のニンジンジュースをつくって毎日飲む。私はそこまでしたくない。健康は(牧師として)活動するために最低限必要レベルで良い。」と笑いながら話していました。(彼はニンジンが苦手な様子) 私の個人的最低限のレベルは、カロリーが高くても美味しいものを少量たまに食べ、神様に感謝して、後は質素なものですますこと。それでスタイルが良くなくても、多少、体に機能不全があろうと満足です。私はむしろ、心身の健康のためにも「誰と食べるか」のほうが大切ではないかと思います。なぜなら、食事は独りで食べると味気ないものだからです。私は今迄パソコンを目の前に、食事は独りですることが多い日々でした。今日本に帰国して、家族と共に食事ができる有難みを日々感謝しています。
一方、味気なく独りで食事をしていた時も、「見えないもの」に希望を置けていたことが幸いです。目には見えないけれども、イエス様が共にいて下さる、イエス様が聖書を通して(時にはパソコンから流れる牧師たちのメッセージを通して)語られる、そして私のつたない祈りを通しても、確実にその祈りを聞き、神様のタイミングと方法で答えて下さるという希望が与えられているからです。
下記の聖書箇所を書いたキリストの弟子パウロは、宣教活動において何度も死ぬほどの困難に逢い、孤独の時もありましたが、彼は落胆しませんでした。なぜなら、イエス様が見えないけれど共にいて下さったし、また目前の大変な状況も、これから彼が天国に行って遭遇することに比べれば、「軽い」(たいしたことない)と信じる信仰が与えられていたからでしょう。*
どんな状況においても、この言葉を思い出し、見えないキリストに目を注ぎ、限られた時間のなかで優先すべきものに心を留め、状況に左右されない、キリストにある喜びと感謝を持ち続けていたいと励まされました。
「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」 第2コリント人への手紙4章18節
*「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」第2コリント人への手紙4章16-17節
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