「心の憂が賛美へ」
7年ぶりの日本の夏、久しぶりに日本で一般企業にて働き始めました。一週間の研修が終わり、OJTと、まだまだ仕事が一人前にできない状態で非常に気づかれし、毎日帰りが夜遅いので疲れがたまってきます。そのせいか昨晩ふと、ネガティブな思考が頭に思い浮かび、気持ちが沈んでしまいました。
アメリカ在住の7年間、引っ越は10回、転職も数回といつも環境の変化がありましたが、神様に助けられてなんとかやってこれました。今後、今の仕事、結婚、引越し、そして新しい場所での就職と目まぐるしく変わっていくことを考え、ふと「胃の治療が必要で日本に帰国したのに、ストレスや疲れで悪化してしまったら。。やっていけるのだろうか。。。」と悲観的な思いに捕らわれてしまったのです。
今までの人生のように独りではなく、今は優しく、頼もしいパートナーが与えられていますし、いつもなら、神様がなんとかしてくれるからと楽観的なのですが、どうしたのでしょうか。イエス様は”先のことを想い煩うな、神がケアしてくれるから” *
と言われています。実際、私が計画したようにはことが進まず紆余曲折ながらも、結果的には神様が最善に導いて下さったことを今迄経験してきているため、心配はないはずなのです。おそらくアメリカを引き上げる直前まで多忙でしたし、帰国後は結婚の準備など休む暇なく出歩き、そして遅くまでの仕事と心身ともに疲れているのでしょうか。私は予定が詰まると、魂の栄養失調を起こします。今回も、神様との静かな時間が十分とれなくなり、喜びや平安がそがれて、代わりに心の憂い、つぶやきがでてきてしまったのだろうと、昨晩気づかされました。
その晩も、タイムリーに聖書の言葉を通して、落ち込んでいた心が徐々に引き上げられ、自分の思い煩いの罪(不信仰)を悔い改めて眠りにつきました。そして翌朝与えられた下記の聖書の言葉が、私の中で実現されていました。昔の辛いことを思いだして悲しみに沈んだ心や健康への懸念が、神様の愛を思って静かな平安と喜びに変えられ、思い憂いの心が神様の御業のすばらしさへの賛美に変えられてきました。
おりしも、本日は出勤予定だったのが直前でお休みになり、家で久しぶりに聖書を読んで、神様の祈る時間がゆっくりとれたことは、本当に感謝です。神様がこんな状態の私に、休みを与えて下さったのです。心の糧である聖書のことばと、神様とのコミュニケーション(祈り)、クリスチャンとのつきあい(共に分かち合い、祈り合う)、これらがかけると心が萎えてしまいがちです。神様が今までもそしてこれからも、どんなに恵み深く、良くして下さるかを思い、感謝する心に留まりたいと願います。
ある程度の忙しさは生きていく上で避けられないことです。しかし「心が亡ぶ」と書くように、忙しさは要注意です。予定を入れすぎると、大切なことがおろそかになります。そしてなすべきことが出来なくなり、心もまた自己中心的な悲観的思いに捕らわれてしまいます。特に私のように気弱な者は、共になんでも祈りあえるパートナーと毎日コミュニケーションが必要です。これから、体調管理と心の管理をしっかりしてなんとか乗り切れるよう、神様に感謝しつつ、助けを求めて一日一日を過ごしていこうと思わされました。
「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。」 イザヤ書61編3節
*「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
」 マタイによる福音書6章33-3
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