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♪Today's Sharing♪

 Sep. 2016

聖書のことばを通して
生活のなかで示されたことや
インスピレーションが
与えられたことを一言
  繰り上げ合格 心の憂いが賛美へ  
フードバンク 上にあるものをいつも想う    
Sep..17, 2016

上にあるものをいつも想う   


 先日、私が東京で通う教会(キリスト同信会)で、ある高齢の方が天に召されました。彼は体が弱り、亡くなる直前の礼拝にも携帯酸素をつけて参加し、それまで毎回礼拝でのメッセージに立たれてきました。彼の家族は心配して無理をしないようにと本人に言っていたようですが、本人にとって最後の最後まで神様にお仕えして天国に行けるのは本望だとおっしゃっておられたそうです。

 私が約16年間通っていたアメリカの教会のグループ(カルバリー・チャペル)の創設者チャック・スミス牧師も、3年前、80歳前半で天に召されましたが、彼も肺がんを患い、晩年は携帯酸素をつけ日曜のメッセージに立っていました。彼の最後の日曜のメッセージをネットで聞きましたが、ひとフレーズ話すごとにぜーぜーする音が録音に聞こえる程の状態で、聞いていて私は涙が出ましたが、同時にこの東京の教会の兄弟同様に、最後まで神様に仕える姿勢に私は感銘を受けました。チャック牧師は生前から「自分は死んだでなはく、天国に引っ越したとアナウンスしてね」と教会の信徒に言っていたそうです。


 「メメント・モリ」というフレーズが古代からあります。ラテン語で「自分が(いつか)死ぬことを忘れるな」という意味で、芸術作品のモチーフとしてまた警句として使われていたそうです。後にクリスチャンの間では違った意味合いで用いられるようになった、つまりこの体はいつか死んでも、神様、イエス様と永遠に生きられる天国での人生に思いをはせ、それがとても楽しみだという想いです。ですからクリスチャンにとって、「メメントモリ」は、死後”良い人”が行くことができる、素敵な場所という不確かな観測でもなく、現実が辛いからという逃避的な考えに基づくものでもないのです。逆にこの肉体の死の後には、永遠の世界が主イエス様と共にあること、先に天に召された人々や家族と会えることを楽しみに想えることであります。クリスチャンのお葬式が他の宗教と異なり、明るさがあるのはここに由来します。

 クリスチャンはいわば、国籍を天に持ちながら、この地上で寄留者として生きる存在です。*1 地上の生活では、古い自分の中の肉の欲望、罪、この世の流れとの日々戦いです。だからこそ、上のものを想うことが必須です。この世での生活においてうまくいかない時、辛い、苦しい時、不条理・不公平な状態においても生き続けなければならない時に、この上への想いが土台になるのです。また、自分の力や実際の武力で戦いません。神様の与えて下さる愛の力と、聖霊の力で導かれ、助けられ、この戦いを勝ち抜いていける、前進していけるからこそ、希望があるのです。

 キリストの使徒パウロは 今の時の辛いこと(患難)は来る天国での永遠の栄光のすばらしさと比べると軽いと言っています。*2 従ってこの世での患難にに耐える力と気力も与えられ、永遠に続く天に目をとめられると記しています。


 明日この体が朽ちるとしても、死後の天でのことを楽しみにしつつ、一日一日を、目に目えない神様に仕える:イコール目に見える目前の人々に愛をもって仕えることを続けた、信仰の先輩たちの姿勢を想い、聖霊の力でそのように自身も徐々に変えられていきたいと思わされました。


「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。」コロサイへの手紙31


*1 へブル人への手紙11章16節

*2 第2コリント人への手紙4章16-18節 

Sep. 15, 2016

 

フードバンク」

 

 ニューヨークに”プレタ・マンジェ(Pret A Manger)” というカフェがあります。ここのサンドイッチ等の軽食はオーガニック(自然食品)を用い、更に当日作った商品の残りは、全てその日の内に近隣の生活困窮者に寄付するそうです。他のお店は賞味期限まで店頭に数日間おき、過ぎたら廃棄します。この商品の単価は多少高めでしたが、代金の一部が寄付される分に充当されると思うと、支援にもなると思いよく利用していました。

 日本でもフードバンクという制度があり、企業や農家、一般家庭より余剰の食料の寄贈を受けた団体が、生活に困った人々へ届けています。2002年にセカンドハーベスト・ジャパンが先駆けでこのような事業を始めたそうで、現在では同様の団体が全国に約39あるそうです(2014年現在)。日本は他国に比較すると貧富の差がそれほど激しくはありませんが、それでもたくさんの母子家庭、生活困窮者、低所得者が多いのです。賞味期限といっても食べられるものも多く、大量の余剰食料の廃棄というのは資本主義社会の悪の一面です。国が補助金を出すなどしてこのような事業をもっと支援してほしいと願います。

 私の婚約者は彼の教会の方が開催する、小中学生の子ども達の支援の会に関わっています。この会では、親たちが様々な理由で子供の世話を十分にできない、食事もまともに与えず、放置(ネグレクト)状態の子どもたちのため、週に一度夕方集まって、手作りの食事を皆で食べ、遊んだりする活動です。ここでの食材はフードバンクからの寄付によって賄われているそうです。


 聖書では生活困窮者(当時では、やもめ、孤児、寄留者など)に施しなさいと、神様は法律(律法)を通して古代イスラエルの民に命じています。「落穂ひろい」というミレーの有名な絵画がありますが、この聖書の律法がモチーフとされています。つまり畑で収穫する際に、畑のすみずみまで刈りつくさないで、落ち穂を残しておくというきまりがあり 1*、やもめや寄留者がこの落穂を食料として拾えるためでした。いわゆる当時の福祉制度です。神様は、いつも弱い貧しい人、社会の中で虐げられている人をケアし、社会の貧富の差が生じないような仕組みを作っていて下さっていたことが、聖書を読むとわかります。一方、人間は良心もありますが、自分の利益も求めてしまいます。

 

 私は自己中心なので、他者のために自分の時間を捧げたり、金銭的に寄付したりいつもできない者です。良いことをやろうという動機が、自分の頑張りや崇高な志では限界があります。しかし、自分がまず神様にイエス・キリストを通して大きなプレゼントを頂き、憐れんでいただいたこと、また何の働きもなく受けるにふさわしくないのに、たくさん良くして頂いたことに感謝して、神様のために何かしたいとは思います。このような神様の大きな愛に応答して、目に見えない神に仕えることがイコール、目に見える人々に仕えることだとイエス様が言われたからこそ*2、やろうと。そのような動機で機会がある度に、喜んで実行に移せればと願います。とりあえず結婚して引っ越したら、彼と一緒にその地元の子供達のために、お手伝いをしたいなと思います。


父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。 」ヤコブの手紙1章27節
 
*1 レビ記19章9-10節
*2 マタイによる福音書25章40節

Sep. 10, 2016

 

心の憂が賛美へ」


 7年ぶりの日本の夏、久しぶりに日本で一般企業にて働き始めました。一週間の研修が終わり、OJTと、まだまだ仕事が一人前にできない状態で非常に気づかれし、毎日帰りが夜遅いので疲れがたまってきます。そのせいか昨晩ふと、ネガティブな思考が頭に思い浮かび、気持ちが沈んでしまいました。

 アメリカ在住の7年間、引っ越は10回、転職も数回といつも環境の変化がありましたが、神様に助けられてなんとかやってこれました。今後、今の仕事、結婚、引越し、そして新しい場所での就職と目まぐるしく変わっていくことを考え、ふと「胃の治療が必要で日本に帰国したのに、ストレスや疲れで悪化してしまったら。。やっていけるのだろうか。。。」と悲観的な思いに捕らわれてしまったのです。

 

 今までの人生のように独りではなく、今は優しく、頼もしいパートナーが与えられていますし、いつもなら、神様がなんとかしてくれるからと楽観的なのですが、どうしたのでしょうか。イエス様は”先のことを想い煩うな、神がケアしてくれるから” * と言われています。実際、私が計画したようにはことが進まず紆余曲折ながらも、結果的には神様が最善に導いて下さったことを今迄経験してきているため、心配はないはずなのです。おそらくアメリカを引き上げる直前まで多忙でしたし、帰国後は結婚の準備など休む暇なく出歩き、そして遅くまでの仕事と心身ともに疲れているのでしょうか。私は予定が詰まると、魂の栄養失調を起こします。今回も、神様との静かな時間が十分とれなくなり、喜びや平安がそがれて、代わりに心の憂い、つぶやきがでてきてしまったのだろうと、昨晩気づかされました。

 その晩も、タイムリーに聖書の言葉を通して、落ち込んでいた心が徐々に引き上げられ、自分の思い煩いの罪(不信仰)を悔い改めて眠りにつきました。そして翌朝与えられた下記の聖書の言葉が、私の中で実現されていました。昔の辛いことを思いだして悲しみに沈んだ心や健康への懸念が、神様の愛を思って静かな平安と喜びに変えられ、思い憂いの心が神様の御業のすばらしさへの賛美に変えられてきました。

 

 おりしも、本日は出勤予定だったのが直前でお休みになり、家で久しぶりに聖書を読んで、神様の祈る時間がゆっくりとれたことは、本当に感謝です。神様がこんな状態の私に、休みを与えて下さったのです。心の糧である聖書のことばと、神様とのコミュニケーション(祈り)、クリスチャンとのつきあい(共に分かち合い、祈り合う)、これらがかけると心が萎えてしまいがちです。神様が今までもそしてこれからも、どんなに恵み深く、良くして下さるかを思い、感謝する心に留まりたいと願います。

 ある程度の忙しさは生きていく上で避けられないことです。しかし「心が亡ぶ」と書くように、忙しさは要注意です。予定を入れすぎると、大切なことがおろそかになります。そしてなすべきことが出来なくなり、心もまた自己中心的な悲観的思いに捕らわれてしまいます。特に私のように気弱な者は、共になんでも祈りあえるパートナーと毎日コミュニケーションが必要です。これから、体調管理と心の管理をしっかりしてなんとか乗り切れるよう、神様に感謝しつつ、助けを求めて一日一日を過ごしていこうと思わされました。


「シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。」 イザヤ書613


*「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」 マタイによる福音書6章33-3

Sep. 6 2016

「繰り上げ合格」

 


 数年前私が福祉分野で働いていた時、ケアマネージャー(介護支援専門員)の試験を受けました。社会福祉士の試験の時と同様、働きながらベストをつくして勉強し、それでもギリギリで合格できたので、心の底では「これだけ努力したので受かるだろう」と予想していました。結果は不合格でした。私はその時「これだけやったのだから受かって当たり前」という高慢な想いが自分の中にあったことに気が付きました。かなり落ち込みましたが、折しもその直後、アメリカに移住する機会となり、アメリカではケアマネは使う必要がないからと、すっかり忘れていたのです。
 試験発表から一ヶ月後、日本の妹から電話がかかってきました。「お姉ちゃん、ケアマネ合格してるよ。試験問題が一問不適切だったので、その分が差し引かれ繰り上がって合格したって通知がきてるよ!」 私は耳を疑いました。本当は不合格なのにまさにお情け合格です。アメリカにいる間は使わない資格であっても、将来日本に帰国して働くときに使う必要があるから合格できるように神様がプレゼントいてくれたのだろうと、感謝して受け取りました。そしていつも教会で聞かされていた「神様の恵み」(何かをしたからではなく、かえって受けるにふさわしくないのに、神さまから頂くプレゼント、良くしてもらうこと)ということをはっきりと理解しました。

 

 神様と人との関係においては成功報酬ではなく、親が子を愛するように、私の出来の悪さ、不敬虔にも関わらず、神様は私に良くしてくれる、恵みを与えて下さるというのが安心でもあり、幸いです。また神様は一人一人に計画があり、それに必要なものであれば与えられるし、そうでなければ、試練をも用いてもっとよいものを与えて下さる方なのです。

 神様からの恵みのプレゼントの最大のものは、イエス・キリストです。この方を信じるだけで(この”信じるだけ”、というのが人間にとって理解が難しく、何かした結果の方がわかりやすいと言われますが)、つまりキリストを受け取るだけでいいのです。するとキリストによる永遠の命が与えられます。赦しが与えられ、もう過去に何をやってきても責められることがない、なぜならキリストが十字架で一切の罪と責め、恥を代わりにおって死んでくださり、そして3日後に復活なされて今は天におられて、引き続き目には見えなくても共にいて、助け導いてくれると聖書に、その約束が書いてあるからです。

 

 あれから7年経ち、日本に帰ってきました。あの時には想像も及ばない人生がアメリカでも与えられ、良いことも悪いことも恵みとして与えられたと感謝であり、全てが恵みだとわかると謙遜にさせられます。日本でのこれからも、神様はどんな恵みを与えて下さり、私の信仰が成長させられるように様々なことが起こるのかと思うと、楽しみです。


「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」 エペソ人への手紙28


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