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PTL Journal       Vol. 5  June  2010

成果主義VS恵み 恵みが全てを変える



○恵みとは?


小さい時から教会に行っていると、 何かうれしことがあったりすると“神様の恵みだわ!”とよく聞く言葉。わたしはその言葉が実はどういう意味なのかはっきり知らなくても、なんとなく会話に使っていたように思います。4−5年前に恵みとは何かと教会で改めて学んだとき、その人が頂くのにふさわしくなくても、その人の真価に関係なく神様より与えられる好意、贈り物”で、成果主義、律法主義との対照にて"頭では"理解できたと思いました。(But!自分の生活の中で体験を通してもっとわかるには後になってからですが)恵みのチャンピオンはまさしく、イエス・キリストを通しての救い。つまり私の良い悪いの行いに関わらず、自身は救われるに価しないのに、イエス・キリストが十字架上で私の罪のために代りに神様より罰を受けて、死んで3日後によみがえられて天国に帰られたことで、私は過去のどんな罪を犯していても全て赦され、神様の子供とされて天国へいけること、信じれば救われる、そんな虫のいい話し、つまりこんな私でもだれでも、救いが受け取れるというのが恵みなんだと。


○成果主義VS.神の恵み


キリストを信じて新しく歩んでいく中で、この恵みがすぐにわかって急に変われる人はそう多くないと思います。私の場合は何年もかかって、どうもこの“虫のいい話し”、本当にこんな状態で恵みをもらい続けて、いいんですか?こんなダメクリスチャンなのに。。。いいんですよ!を単純に受け取れないことが生活のなかで多々あるのです。

おギャーと生まれた時から、社会の一員として成長するなかで、どうしても子供のしつけ上、また社会で働く以上、成果主義は避けられません。“これこれをしたら、ご褒美をあげるから“、”ここまで、やり遂げたら次のグレードに上がれます“、”このプロジェクトをやりとげたら昇進・給料があがります“。もちろん、努力すること、忍耐をもって目標に向かってこつこつ勉強したり働くことは重要なことです。問題は、この努力することがある人々にとっては苦痛で、自分の力で出来ず、そのため精神的に悩んだり、うつになり絶望してしまうという現象です。逆に、そこそこ出来る人は、自分の小さな世界で培ってきた自分の価値基準で比較し、自分より出来ない人を裁いたり、見下げ、”この人たちより自分はましだ“と思うことで、自分のプライドを保ち、弱い人々に対して優しい心を持てないという現象もあると思います。成果主義のひずみは今の日本社会:毎年3万人近く自殺者が出るという恐ろしい現象を見ても明らかです。


それに対して、神様の恵みというのは誰に対しもオファーされているのです。何かをしたから、何かを守ったから、その報酬としてもらえるという成果主義ではありません。その人がどんな人でも、社会的有能な人・普通の人、病気の人・健康な人、子供でも大人でも、犯罪歴がある人でも、品行方正な人でも、誰でも。ただ、それを受け取るかどうかはその人の自由意思です。神様はロボットのように全てプログラムされた神様の命令を聞くように、人間を創りませんでした。自分の意思でその神様の恵みを必要として受け取るか、“いや別にいらないですよ、自分は偶然にサルから進化して生まれたんですから、神なんて信じられません”として無視するかは、人間側が決断するようにされました。神様の救いという恵みは、人間全てにオファーされていて、それを神様は受け取ってほしいイコール神を信じてほしい、キリストを信じてほしいと願ってますが、それを受け取るのは人間側の自由意思です。強制的に脅して“信じろ〜”とは言われないのです。


○良い・悪いの価値基準


クリスチャンでなくても多くの人はこう考えるのではないでしょうか:“あの人は立派な行い・慈善をしているし、いい人だから天国行けるよ”、“私は特に人様に迷惑をかけることしてないし、天国いけるでしょう” 、“あんなひどいことしたんだから、やつは地獄へいくべきだ!“と。しかし、何が良いことで、何が悪いことなのでしょうか?時代・人種・文化・戦争か平和の時かによって相対的な基準で、人は何が良いか悪いかを決めています。 しかし、神様の恵みとは、何かを守る・守らないで決められるのでなく、神様を信じる信仰によってのみ救われ天国へ行けるのです。それって不公平じゃない?という方もいるでしょう。ここが律法主義との違いで、救いは恵みなのです。人の目には不公平に見えても、その人が何を過去にしたとしても、死ぬ前にキリストを信じれば誰でも天国へ行けると神様は決められたのです。

現在、ほとんどの国が法治国家(つまり法律に基づいて国民がコントロールされている国)です。実は多くの国が導入している法律:民法・刑法のもとは、神様がモーセというイスラエルの預言者に約3300年前に与えられた10戒(映画“十戒“、ディズニーの映画“Prince of Egypt”にも出てきます)や、その他の細かい律法の影響を受けて作られています。(一応、法学部卒なので、ひと通り法律勉強し、その後聖書を読んだので確認すみです)つまり神様が、人間が社会の中でみな平和的に共存できるように、基準や決まりをくれたので、その律法自体は良いものであり必要であります。法律を知らないとトラブルや事故が起こるし、それを破ると罰金や処罰が科されます。実際、神様の古い契約は(旧約聖書は旧い契約という意味)“神様の律法を守れば祝福される”となっていまして、それを人間の代表として選ばれたイスラエルの民族に与えられましたが, ことごとく彼らは守れませんでした。神様は人間には完ぺきに守れないとわかっていましたが、律法が与えられた目的は、その後の一民族でなくて全ての国民が恵みのゆえに、信仰で救われるという、イエス・キリストによる新しい契約(新約聖書)へと導くプロセスなのです。つまり、“人には自分の力では神様の与えた良い基準(法律)を守れない”ということを自覚させるため、何が罪で、その罪の罰から逃れる方法はキリストによるということを神様はっきり示すため、事前に律法を人間に下さったのです。

神の基準は外側の問題だけでなく、内側:心の状態に関わることなので私にはとても守りきれません。例えば:互いに愛し合いなさいという愛の基準があって、これから少しでも外れるとアウトなわけです。神の愛とは「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 1そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える134-7節)これを完璧に自分の力で、自分の持ち前の性格で守れる人がいるでしょうか?しかし、この基準が守れない人のためにキリストは代りに十字架で死んで下さったのです。罪に対しては罰がともない、誰かが罰せられる必要があるとしたら、私の犯した罪なので私のはずが、代わりにキリストが罰せられて死んでくれました。それで、どんな罪も(現在過去未来の一生の罪もいっさいまとめて)赦され、無罪放免、そして天国へいけるということなのです。このことを信じるだけで、救われるというのが福音です。自分の力で変わろうとしなくていいし、神様のほうが責任をとってくれます。私の責任は“信じる”という意思です。



○神の恵みを受け取りにくくする成果主義・律法主義とその処方


私はキリストによる救い:行いとか法律を守ることでなく、信じれば救われるという最大の恵みを受け取り、神様を信じ始めましたが、その後無意識に成果主義・律法主義にはまっていました。律法主義とは、要は法律・基準(〜をしてはいけない、〜をしなければならない)を守ることで、よいクリスチャンになる、神様から愛される、天国へ行けるというような主義です。つまり〜をしたという自分の行いの報酬として神に受け入れられる、人からも認められるという主義です。結局、気がつくと信じる前と同じ原理で自分の力で守ろうとし、律法主義を自分の信仰生活、つまり神様に対しての関係に導入してしまうのです。これは本当に疲れました。奉仕をしてもバーンアウトとしてつぶれるのです。クリスチャンやるのを疲れてしまいます。


しかし、感謝なことに、神のことば(聖書)にそうなってしまった人が過去にもたくさんいて、その処方箋も書かれています。つまり、自分の力で清くなろうとか、罪を犯さないようにするのではく、神様のほうが自分を変えてくれる、神様の愛が自分に注がれる時、自分の内側が変えられ、外側の言動・態度も変えられていくという希望が書いてあるのです。そうすると、肩の力が抜けます。イエス様こうおっしゃっています「すべて疲れた人、重荷を負っている者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負って、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイの福音書1127-30節)”。キリストから何でも学べばいいのです、そして、神の愛が注がれて、(自分で造り出すのでなくて)変われるのという希望が約束されています。「…希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ人への手紙55節)


救いは決して神様の基準・法律を守ったから救われるのではないとはっきり聖書に書いてあり、信仰による、つまりただ信じるだけで恵みとして救いをもらえるのです。しかし、信じた後も、この恵みをきちんと理解していないと、また頭では理解しているつもりでも、自分の側のプライド(これだけ努力したんだから)もしくは“こんなことをしてしまったのでもう駄目だ”という自己憐憫が恵み→報酬・法律順守の結果として変換してしまうのです。



○恵みが全てを変える


振り返ると実は神様が今までものすごくたくさんの恵みを私の人生のなかで、職場でも、教会でも、家族の中でも与え続けて下さっていたのに関わらず、自分のなかで、100%自分には原因はない、ふさわしくないのに頂いてたという意識が欠けていたのではと気付かされたのです。例えば、お恥ずかしい話しですが、福祉の国家資格試験を受けた時、自分なりに学校にいって勉強しなんとか合格した時、また経験がその分野で全くないのにかなりの倍率の中から選ばれて病院に就職出来た時、神様に感謝しとっても嬉しかったのですが、一方で心の隅に“あんなに勉強したり、こつこつ頑張ったんだもの”、 “自分は採用されるにふさわしい経歴が少しはあったのだろう”というおごり、成果主義が潜んでいたと正直思うのです。こういう思いが少しでもあれば、もはやそれは恵みでなくなってしまうのです。仕事上で非常に困難なケースの時、自分ではもうコントロール不可能状態の時は、“神様助けてください!”と祈って不思議と解決に導かれた時はまさに恵みだと感謝していました。その他の時は体外、自分の自信やプライドが神様の恵みを、恵みとして受け取れないよう邪魔していたのだと思うと非常に悲しくなりました。


今までは、いつも自分で計画をたてて、「神様これこれをしたいと思っていますので、助けて下さい。」と自分が人生の航路の舵を握っていました。そんな私に神様は病気や転居等、生活の中に想定外のことを起こし、“いい加減、舵とりを神様に任せなさい”というレッスンを与えて下さったんだと思います。また、自分は何者でないということを認め、ちっぽけなプライドがどんどん取り去られ、自分には全く原因はない、神様の恵みのゆえにこんな良いことがもらえて恐縮だという経験をもっと頂きたいです。また受け取るばかりでなく、ただでもらったのものなのだから、ただで他の人へ分かち合えればと思います。それを実践で学ぶのは一生かかると思いますが、すこしずつ学んで行きたいと思い、今アメリカでの生活を神の恵みのゆえにエンジョイしています。


アメリカでの生活はまさに神の恵みのゆえです。昨年のような否定的な思いや恐れが神様の愛によって締めだされているということは驚きで、一年前の自分からは想像できません。人から見ると不安定で計画性のない状態かもしれませんが、神の恵みが道を開いたら、神様が私の生活を支えてくれると。これを読んで下っている方々にも、神様の恵みがすべての人に用意されていて、もし受け取っていなければ、ぜひ受け取られることを超お勧めしたいです。信仰は下さいと祈れば、不思議と心が変えられて与えられます。恵みがすべてを変えるということが分かり始めると(いっぺんにはわかりませんが)、人生の見方がすべて変わります。それは恐れや不安ではなく、安心と希望、神様に頼れるという愛の信頼関係によるものです。人生に起こるすべてのことが、偶然や運命ではなく、神様のコントロールのなかで起こることが許される、良いことも悪いことも。それはもしかしたら、“わたしはこんなに真面目にやってきたのに、うまくいっていたのになぜこんなことが起こるの?”という怒りがあるかもしれません。困難なこと・災害事故が人生のなかで起こることが許されるのも、人生のなかで神様の私たち一人一人の上の計画の一部が、他人の人生もあわせて全体的に織りなされる、まるでキルトや絨毯の一部だったと、神様の大きな絵柄が後になってわかると思います。そのことを通されて神様私たちに伝えたいメッセージがあるはずです。たとえそれが自分の過ちやミスで起きた“まいたものを刈り取る”という結果で、そのことで自分を責めている方もいるかもしれません。それさえも後から“神に従う人には、神様は良きに変えてくださる”程、神様は憐れみ深い方なのです。


「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」エペソ人への手紙2章8-9節



   
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