Praise the Lord 本文へジャンプ

PTL Journal       Vol. 6  July  2010


障がいをもつ子とそのご家族への励まし

神様はなぜ全ての人を障がいの無い人に創られないのか?!という問い

この問題提起はあまりにも重く深いし、その人の立場によって(実際障がいをもつ本人、その親御さん、福祉の現場で働く人、普段ほとんど障がいを持つ人たちと接することのない人等)受け止め方、感じ方は異なる為、これから書くことはあくまでも私の個人的な受け止め方である。もちろん、本人とその親御さんにとってきれいごとでないのは充分承知の上、自身がその立場になく限界はあるがある程度その困難を共感したいと思いつつ、福祉現場で働いていた者として、クリスチャンとして、また障がいを持つ身内がいる立場としての見解を分かち合わせていただく。
 また、身内で障がいをもつ方をケアしている家族の方へ少しでも励ましのメッセージとなればと願う。

 
「神はわれらの避けどころ、また力。苦しむとき、そこにある助け」
聖書:詩篇46篇1節

あじさい@University City, Philadelphia

○都知事の発言

いつだったか定かではないが、8年位前に、当時の都知事が都立の重度心身障害児用の病院を訪問し、生まれつき身体に障害がありずっと寝たきりで、言葉も話せず鼻や気管にチューブがつながれて生きている子供がたくさん入院している様子を見て、「この子たちは生きている意味があるのか?」という公共の場での問題発言があったことがマスコミに書かれた。「都知事という立場でなんとむごいことを言うのか!」と怒りの反応もあったが、果たして日本に住む人の何%がこの都知事の発言に反論し、問題視したであろうか。もし大多数が反論していたら、彼はもう政権にはいられなかったはずである。しかしいまだに彼は現役である。

 

○高校生の時の障がい児との出会いと忘れられない手紙

私にとって、障がいのある方と接したのは高校生の時で、始めて知的障害児の週に一度のデイケアにボランティアとして参加した時だった。その時は何もわからず、学校がミッションスクールで、生徒会で何か地域のためにやろうということになったのである。学校を通して始めた活動で一年間だけだったが、当日いきなりその場所にいって、“これから皆で公園へ行くから、A君の(私より背の高い大きな男の子)と手をつないで付いていてね、どこかへ飛んでいかないように見ててね”と言われた。自閉症という障がいを持つ子で言葉が話せず、とにかく何か叫んで飛び回り走り回る子だった。私はどうしていいかわからないが、すごい力で私の手を振り払って走っていく子を一生懸命追いかけた。

夏のキャンプにも参加した。今度は同じ自閉症の子でもおとなしく何も言わない小学生だった。B君と一緒にバスに乗って、福島の山の方へ行き、手をつないでハイキングにスキーの山に登ったりする、1泊2日のキャンプであった。B君は話しかけても一言も話さない。夜になってやっとお母さんがいないのを認識したのかいきなり泣きだしたが、私はどうあやしていいかわからず非常に困った。しかし、そのキャンプの後、B君の母親が、キャンプでつきそってくれたことへの感謝と、“自分は障がいを持った子を与えられて、大変な辛いことも多いが、私はこの子の母親になれて本当に幸せです”と高校生の私に丁寧な手紙を下さった。当時の私にはよく理解できなかったが、重みのある言葉で、その手紙は一生忘れない、また私の将来の福祉職に関わるものとして多大な影響を与えた。

 

○福祉職は性格のいい・やさしい人のみができる仕事か?


 社会人として企業に就職してから数年経ち、ふと福祉の仕事をしてみたいと思ったのはこの高校生の時のボランティアの経験がずっと頭に残っていたからであろう。当時、福祉の専門学校にて一から学ぼうと思った時、両親に反対され「お前のようなやさしくない性格の人間に福祉の仕事はできないからやめろ」と言われた。福祉の仕事の人は性格がよくないと出来ないのか〜と、その時知人に誰も福祉職の人がいなかったし、自分では人当たりがよく社交的でやさしいところもあると思っていた私は親のこの発言に反論した。しかし、親は自分の性格を知っているのだろうとも思い、向いていないかもしれないと思った。替わりにアメリカへ留学することを勧められた。その時まだはっきりした目的意識がなかった私は、とりあえず英語もできないのにアメリカへ行ってみることにした。それに、本当に福祉の仕事をやりたいと思ったら、後からでも誰に反対されてもやるだろうとも思った。

それから留学・就職もし、アメリカで5年過ごし帰国してからまた日本にて企業で働いていたが、とても恵まれた職場であった。しかし、また7年前に思った思いが頭をよぎる。今まで何年も“なんちゃってクリスチャン”で信仰もないのに惰性で教会に行っていた私は、2000年の夏からある教会に行き始めて、再び真剣にイエス・キリストを信じるよう導かれ信仰を持ち始めた頃だった。確かに自分の性格は優しくないけど、要はその仕事をしたいという動機が大切。企業でいいお給料を頂いて利益のために働くよりも、一度しかない人生、社会で助けが必要な人をサポートする仕事をしたいと強く思うようになった。もともと慈愛の心にかける私、性格がやさしくないと親から言われてしまう私、それを認めつつ、性格的なことや慈愛の心は、私の中になければ神様が与えてくれるだろうと信じていたのがこのキャリア・チェンジに大きな助けとなった。

 

○福祉の現場:ショックの連続、なぜ?という疑問

その後、そのまま企業で昼間働きながら一年は夜学で福祉の専門学校へ通い、2年目は企業を辞めて(社長も同僚も私が辞めるにあたり、“福祉という貴重な仕事、がんばってね”と喜んで送り出してくれたのも感謝!)昼間は福祉の現場でパートタイムの仕事を始めた。小学校での特殊学級(知的障がい児むけ)と福祉作業所での介助員の仕事である。慣れない福祉の現場で毎日驚きの連続。体力的にもきつかった。普段企業で勤めていると関わることのない方々と、その方の生まれつきの性格や障がいを理解しつつサポートするという、大変だったが本当にいい経験と実践の勉強をさせて頂いた。特に公立小学校のプログラムに部分的ではあるが先生たちの補助として参加させて頂き、先生方の熱い情熱と真剣さ、そして子供たちへの厳しさ、やさしさを見せて頂き多くのことを学ぶことができた。ある福祉職の人には“なぜあなたみたいな経歴の人がくるわけ?”と言われたり、この業界での経験がなく、子育てをしたことのないので “あの年で子供の爪もきったことないわけ?”と聞こえよがしに陰で言われることもあり悔しい思いもしたが、始めは誰でも経験ないんだと開き直り何を言われても忍耐し黙って従った。しかしこの業界で働く人々と接し、今思うと本当に素人の私を忍耐して訓練して下さったと感謝である。わかったことは、福祉の現場は、性格のいい、やさしい人だけでないということだ(笑)。つまりそれだけではやっていけない厳しさがあり、一歩間違えればその児童や利用者の命に関わることにもなりかねないからである。

衝撃的だったのは、実習先の知的障害者施設で重度のてんかんがある利用者が突然発作をおこし、白目をむいて体を痙攣させてしばらくひっくりかえっていたのを始めてみた時、かわいそうで、何もできない私は思わず涙をこぼした。「神様、どうしてこの人はこんな辛い障がいを持って生まれてこなければならないのですか?なぜですか?」と心の中で叫んだ。またこの施設には様々な事情により親が自宅で育てられないほど重度の知的障害児・者が生活しており、感情に流されると本当に悲しい場所であった。しかし、仕事というのはプロフェッショナルとして責任を持ち、感情に流されず、利用者を尊重しつつ、安全に一日のカリキュラムを通して出来ることから本人のサポートしていかなければならないのである。理想的は仕事に慣れてきて、利用者と接しながら楽しんで仕事をできることだろう、と始めて行った実習先で思わされた。この施設での実習は、その他いろんな意味で衝撃的な現場として一生忘れられないものとなり、多くのことを考えされられた。

 学校の卒業を控え、知的障害者分野では年齢制限等があって私は就職先が見つからず、神様に“どの分野でもこの年齢でも、経験なしでも雇ってくれる就職先を与えてください!”と祈って探しているとなんと2件だけ履歴書が送れるところがあり応募した。結局、療養型病院の医療ソーシャルワーカーというポジションに受け入れられた。知的障がいのサポートの分野で働きたいと思っていたが、希望とは異なる老人福祉分野で図らずも働くことになったが私の動機としてはどの福祉分野でも同じであり感謝であった。


○神様はなぜ全ての人を障がいの無い健康な人間に創られないのか?!

最近、聖書を読み、その箇所のコメントを読んでいて、この問題提起に対する私への答えを神様から示された。どうして障がいをもって生まれてくる人がこの世にはいるのかという疑問に対して。

示された内容:まず神様は人が母の胎にいる時から一人一人を知っていること。「それは、あなた(神)が私(この詩篇に筆者)の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」(詩篇13913節)そして、人がどんな精神的・身体的・感情的に障がいや問題を持っているかに関わらず、もともと神様は人を創った時、神と同じイメージに造られたと創世記という聖書の最初の本に書かれてある。「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとしてわれわれに似せて…神は人をご自身のかたちとして創造された。」(創世記126-27節)。神様にとっては人である限り、みな等しく、価値があり重要だと見て下さる。「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」(イザヤ書434節)そして神が造られた人全てに、特に神様は弱い人、心痛む人に慈悲・深い思いやりを持たれると聖書のいたるところにかいてある。「主(神)は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。主はすべてのものにいつくしみ深くそのあわれみは、造られたすべてのものの上にあります。」(詩篇1458-9節)よって、生まれても、長く生きられない赤ちゃん、なんらかの障がいをもって生きる子供、おとな、また例え母胎のなかだけでしか存在できなかった胎児であっても、すべて、神にとって、“高価で尊い”存在なのである。よって、“なぜ健康に造られなかったのか”と私たちが見なしている人々は、神にとってはみな同じ価値があり大切なのであるから、その質問自体、人の側の考え方なのである。人にはそれぞれ、神様が定められた計画があると聖書には書いてあり(エレミヤ書2911節、エペソ人への手紙111節、へブル人への手紙1140節)、その全ての計画について知ることは私たちは不可能である。一つだけわかることは、神様はすべての人を大切に思っていること。

イエス・キリストの時代(2千年前)は、障がいを持って生まれた人、病気の人に対する因果応報的偏見が社会にはびこっていた時代でした。心ない弟子が生まれつき目が見えない人がなぜこうなのかという質問をイエスにされた時、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。 」ヨハネによる福音書9章3節と答えられました。
神のみわざとは何か?神がその人の人生を通して何か良いことをなされ、周りに影響を及ぼすことではないでしょうか


ところで、進化論を信じている方へ、ダーウインの進化論はいまだに“論”であって、法則になれないことをご存知であろうか?人がサルから進化したという仮説は “法則”として証明できないため、未だに“論“であって、進化論は科学的に証明された法則(例えば万有引力の法則)ではない。異なる種(例えば人とサル)での突然変異は未だ化石等で証明されていないのに、それがあたかも法則にように教えられ、信じられている。つまり進化論は科学的に法則として証明されていないので、”神が人を創造した“という創造論に対し、”非科学的だ“と批判する立場にないのである。我々は偶然に生まれて、運命という説明のつかないものに翻弄されて死んでいく存在でないと私は信じる。

福祉の歴史を勉強すると、欧米の福祉はそもそも教会が始めたこと、また多くの施設や病院・制度を立ち上げてきたのはクリスチャン達であることが知る。クリスチャンにとって、神を信じ愛するとは、まわりの隣人にその愛を実践せよ、孤児・やもめ(昔は夫に先立たれた妻は社会的に弱者であった)を助けなさいという教えは重要である。多くの人々が、“クリスチャンはたくさん戦争してきたじゃないか!”と批判するが、確かに宗教戦争を先導してきたのは“自称クリスチャン”という政治家たちであることも悲しい事実であるが、歴史的に福祉を造り上げてきたのもクリスチャンであることにも目を留めてほしい。


私にとって、障がいのあるかたに接しなければ学ぶことができないことがたくさんある。助けを必要としている人への思いやりの心、みかえりを求めない愛、生活の中での小さいことに対する感謝の心:これらに欠けている自分を自覚し、そして福祉の現場でそういう心の態度が必要とされることに迫られ、欠けているものを神から与えていただく。理屈では社会福祉の理念とか高尚なことを教えられてきても、現場では自己中心的で自分のことで精一杯、そういう思いをもつ余裕もなく、仕事を事務的にこなしてしまう自分がいて日々落ち込むのである。しかし、これらの心がなければ愛の源である神様に“下さい”と求めることが出来る、そして不思議と与えられる。こういう経験が繰り返えされると、希望がわき、キリストを信じる信仰により徐々にこれらが現実となっていく。すべて神様からの恵みとして与えられるのであって、自分で愛を造りだす必要はない。キリストが人となって地上に来られて示された慈愛、十字架上での人間全ての罪に対する罰をすべて代りに負って下さる程の愛、天国に帰ってもすべての人が神を信じてほしいと願って、四六時中全ての人の祈りを聞いて下さり、弁護してくださる、この愛の源である
イエス・キリストと神様に頼れるということは福祉の現場で働いていた私には大きな励ましと力の源であって、それが自分の慈愛のない弱さを認めつつ、偽善者にならずに働くことができた秘訣でもあった。

○最後に、障がいのある身内を持つ方へ
みなさんがすでにもっている親子の愛、兄弟の愛でその方に今まで接してきて、限界を覚え、苦しむ時、神様は相手をケアする愛をあなたに与えてくれます。
「神はわれらの避けどころ、また力。苦しむとき、そこにある助け」
(詩篇46篇1節)

イエス・キリストはこう、励ましてくれている。一人で重荷をしょい込む必要はないのです。
 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。私があなたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびき*を負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。私のくびきはおいやすく、わたしの荷はかるいのです。
(マタイによる福音書11章28-30節)

*くびきとは:牛が二頭並んで、荷物をひいたり、畑をたがやすとき頭にはめられるもの。通常、ベテランの牛と若い牛でペアを組まされて、ベテラン牛がまっすぐに荷物をひいていくよう先導し、若い牛はひっぱられて学んでいく。ベテラン牛であるイエス・キリストが99・999%重荷の比重をになって、一緒に歩いてくれる。我々はただついていく、愛を学んでいくだけでいい。人には限界であっても、神が愛する愛を与えてくれる。そこに希望がある。

inserted by FC2 system