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PTL Journal       Vol. 7  Aug.  2010

困った人を支援したいという動機とミッショナリーの活動

先日、訪問看護士をしているアメリカ人の友人が「今度ねハイチへ一週間、看護の仕事で行くのよ。」とさらっと言った。「わお〜、すごいね。いまでも医療スタッフは寝る暇ない程対応が大変だとNGOの通信で読んだよ!」と私の反応。「だから一週間よ、一週間。それ以上は無理(国内での)自分の仕事があるし。」 アメリカ人の素晴らしいと思うところは、ボランティア活動に熱心な人が多く、また気軽に参加するように思える。自分の仕事を休みとって短期間でも活動する。もう一人のアメリカ人の友人も、9/11テロ事件がニューヨークで起こった後、彼女の所属教会のチームでその支援に1−2週間仕事休んでいったと言っていた。また、ハイチ地震直後、被震地へのアメリカの教会・NGO団体からの義援金総額がアメリカの年間の国防費を超えたというニュースがあった。
フィラデルフィアによくいる鳥

“大地震から6ヵ月、いまなお100万人がテントにて生活、人びとの生活環境は改善されていません。膨大な医療のニーズ、また、現状への落胆や失望から発生する暴力への懸念、復興速度や他の援助団体の医療規模といった不確定要素大”(【国境なき医師団日本メールマガジン】2010年08月02日発行より)巨額のお金が動き、それも小さな島であるのになぜ現場の状態が改善していないのか。神戸震災の場合、被害がひどかったが現在ほぼ復興している。その答えは簡単には説明できないが、ハイチという国がもともと開発途上国であることと関係があると思う。日本にいると遠いカリブ海にあるハイチのことはあまり現実感がないであろうし、またハイチ以外に今でもアフリカ・アジアでは極度の貧困状態の人々がいることなど、考える機会もなかなかないと思う。最近、これらのことを少し考える機会が与えられた。

○アフリカ・ケニアの孤児を支援する活動

「わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。」イザヤ書58章6-8節

上記の聖書のことばは、前述の看護士の友人が通っている教会の“アフリカ・ケニアの孤児への支援の会“(Fruits of Vine, Int’l)のミッション声明である。先月、たまたまその記念会で彼女がそのバンケットのメニューの一つに日本のカレーを作るから炊飯器を貸してと言われ、そのついでに私も呼ばれたわけである。この会を始めた人はケニア人女性で、アメリカに来てアメリカ人と結婚したが、直後に夫を突然の病死で失う。彼女の夫は以前からケニアの孤児を助けたいという思いを持っていた。夫亡き後悲しみに沈む代りに、彼女は夫の意思をつぎ、2006年小さいながらもまずは孤児に奨学金を支援することから始め、現在は孤児たちの家の生活支援、また今後は雇用創出(学校出ても仕事がないため、小さいバンを購入し、地元の交通手段としてバス会社を設立しその運営に関する職を創出するというビジョン)をしていくとのこと。大きな政府間での開発援助プログラムやミッション団体の活動と比べるととても小さい働きであるが、愛にあふれている会であった。現地の子供たちの生活の様子のビデオも見られ、日本のカレーをみんなおいしいと食べていた姿もうれしかった。
この会のミッションは前述の聖書の教えに基づいて、物質的な支援と同時にイエス・キリストの示された愛を子供たちに知ってもらいたくて、また支援している自分たちの神様への感謝の表れとしてこの活動をしている。強制感とか宗教活動でなく、自発的に喜んで。目に見えない神様に感謝することイコール困った人を助ける。つまり神様に対して活動しているが、結果的には困った人への支援となる。多くのミッショナリー団体や教会の活動も基本はそうあるはずで、目的がキリストの福音を伝えることで一致しているため、規模は小さいながらも戦略的・効率的な常識を超えたところで、神様の導きを第一として祈りつつ活動を展開していくのである。
もちろん世の中に、キリスト教と関係なく、高尚な慈善的な方々がたくさんいて、多くのすばらしい支援事業を行っているが、根本的に異なる点は、彼らは人のためにやっていて、ミッション系は神様のためにやっている。自分自身の小さな慈善の心や良心、状況や環境、経済状況に左右されにくいところで、信仰にもとづき神様にささげようという動機でもって、実際の支援的活動もしくは金銭的援助、そして“祈り“の支援でも可能である。つまり動機さえ合えば誰でもいろんな形でミッション系は参加できる。

○ハイチはなぜ? 昔学んだ第三世界(開発途上国)への開発援助のこと

私は20代後半に、世界で活躍している緒方貞子さんという方の活動の記事で読んで、自身も海外の開発途上国を支援する機構やNGO等で働きたいと思ったことがあり、留学してアメリカで学んだ。その当時はキリストの愛とかいうよりも、単に慈善事業的なものに関わりたいと思ったのである。しかし、アメリカで学んだことは開発途上国の貧困の現状、また先進国からのひも付き援助(西欧企業の現地進出のための開発)、政治的戦略、現地の人が援助をうけるばかりでなかなか自立出来ずいつまでも開発途上国のままである、つまり第三世界の国を“援助”で従属させてしまう従属主義。また、冷戦時代は特に先進国の政治戦略で援助を行い、ひとえに貧しい国を援助といっても様々な問題があるのだと驚いた。NGOでさえも国家の開発援助の方針の影響を受けていた。それでも1980年代に入ると、ようやく第三世界の独自の基本的なニーズの確保や草の根のレベルの開発実践が強調されるようになってきて、その当時提唱されていた問題は国連等を通しても様々な活動により大分改善されているはずである。
結局、勉強した甲斐もなく私の実力不足と能力的問題で色々応募しても書類審査落ち、最後にJICA(日本国際協力機構)で企画調査員に応募し初めて一時試験は通ったが、なんと2次試験の面接当日朝 高熱、肺炎になって行けなかった。やはり体も弱いし、根性もないので海外で実際働くのは向いていないのだと諦めざるをえなかった。そして、一般企業に勤めながら、この夢に関しては金銭的支援を出来る時にしようと考えを変えた。また、国内にも困っている人もいるから国内でと考え社会福祉の学校へ進んだ。
私が勉強していた時代から20年近く経っているが、未だにインド・アジア・アフリカの状態が変わっていないどうしてなのだろう?と久しぶりに思い返した。究極的には人間の欲がある限り、この問題は改善されないだろう。人間の欲が世界の富・資源をうまく分配しないように働き、企業利益が慈善事業・援助を上回り、特に国家レベルの開発援助は政治的戦略が関わる。例えばアメリカはハイチにはたくさん支援したが、エチオピアの難民の時には少ししかしなかった等、援助には我々の想像以上に政治と富、軍事産業がからんで政策が決断されるため、残念ながら世界の貧困は簡単に解決されない。それでも多くの小さいNGOレベルでは小さい分野にて成果が見られる。しかし限界はある。どうしようもない世界の貧困・不平等を“なぜ不公平なんだ?”と 持って行きようのない文句を神様のせいにする人がいたとしたら、まず現実の自分たち人間が過去にしてきたこと、資源枯渇・環境破壊、戦争等、すべて人間の欲が根であり、その原因と結果ではないかと問うてみてほしい。 正直私も自分のことで頭がいっぱいで、こういう海の向こうの困っている人のことを、また自分の身近でさえ困っている人のことをいつも考えられないし、支援もいつも出来ない。しかし、何もできなくてもアンテナを張って、そして彼らのために物質的必要と魂のケアが満たされるよう祈りたいと思う。

○ミッショナリーの優先順位

先月、教会の聖書の学びに参加していて、ある人の本(”Revolution in World Mission”)を頂いた。K.P. Yohannanという人が著者でインドの貧困農村出身、イエス・キリストを信じて後に自国へのミッショナリー団体に加わり伝道し、その後アメリカに留学し、アメリカにてアジアへのミッショナリー団体(Gospel for Asia: GFA)を設立した。彼はアメリカで留学中、その贅沢な生活とアメリカのクリスチャン達の貧しい国の人たちへの無関心さに驚き、またミッショナリーを現地でサポートするお金と現地の言葉を一から覚える労力といったコストのかかる典型的西欧型のミッショナリーより、コストのかからない現地の人もしくは同じアジア人をミッショナリーに育てることを提唱し、当時の新しい宣教方法のパイオニアであった。現地に福祉的施設を創設するだけでなく、聖書学校をたて宣教師を養成。そのための資金集めにアメリカ中の教会をかけ周り、プレゼンをしてGFAへのファンドレイジングしてきた。
彼のもう一つ重要なポイントは多くの西欧ミッショナリーが病院・学校等をたて社会福祉(Social Work)で終わってしまって、最終的に福音が貧しい人に伝わらない場合があり、それでは意味がないと書いている。そもそも、ミッショナリーとはキリスト教の宣教団体もしくは宣教師のことである。もちろん、飢えている人・倒れている人が目の前にいて、何も彼らの必要をみたそうとしないでいきなり福音を伝えるのが良いわけはない。(その間に死んでしまう)だから、学校・病院を建てるのである。つまり両方必要だと彼は述べてもいるが、優先順位はあくまでも福音を伝えることを彼は強調していた。
その点イエス・キリストはいつも我々のモデル。当時、彼は社会福祉(困っている人を物質的・肉体的ケア)と伝道(魂のケア)を完璧なバランスで両方実践された。イエスはまず福音、神の国について民衆に話し、そしてコンビニがない当時、イエスの話を聞いていてお腹がすいた5000人に奇跡でパンを全員に与えた、また医療が発達していない当時、神様の力で病気を癒し、悪霊につかれている人(今でいう閉鎖病棟の精神疾患を持って暴れているような状態の人)から悪霊を追い出した。まさに当時貧しい人・社会からアウトキャストされている人達に対する社会福祉的な活動をなさっていた。しかしイエス・キリストの優先順位は神の国・福音についてであった。そしてイエスの究極のミッションは十字架で処刑されることによって 全人類分の罪への罰を代りに受けてくれたこと、そして3日目に神様がキリストをよみがえらせ、今は天国にいて、一人でもこの神様の計画した救いを信じることを願い、日々わたしたちの必要にたいして祈りを聞いて下さっている。「人がその友の為に死ぬこと、これ以上の大きな愛はない。」と聖書にある。キリストは神の子だけど、私たちの友でもあって、この肉体が死んだ後の魂のケアを今でもしてくれているとはすごいことだなあと。

○ミッショナリーやNGOの活動を支援しようと思う時

私たちは、自分たちが実際アジア・アフリカ等の第三世界へ行って活動できなくても、ちょっとした優しい気持ちで、教会や病院を立てるミッショナリーやNGOを金銭的に支援できる。さらにクリスチャンにとってその動機は、先に述べたケニアの会のように、神様に喜ばれたいと思って、ミッショナリーの活動を支援する。
ではなぜ、神様に喜ばれたいのか?私の場合、神様がイエス・キリストを通してどれだけ私を愛してくれたということが分かった時、感謝の思いがわき、自発的に神様に感謝をささげたい、喜ばれたいという思いが与えられるからそうしたいのである。つまり神様への感謝の気持ちの表れは、自分が神様にどれほど愛されたかに関係があると思う。例え、何年教会にいっていようと、洗礼をうけていようとも、自身が神様に愛されているという自覚があまりないという方がいたら、今一度、神様の愛、イエス・キリストが十字架上でしてくれたことを思い、その救いを確信されることをお勧めする。(かくいう私自身もいまいち、自覚というか神様から愛されているというのが漠然としていた時期があった。)そうすれば、神様へのあふれる感謝、こんな者を救って下さってありがたいと、イエス・キリストを信じる信仰により 自分の今の立場で出来ること、祈りでだけでも、困った人を支援しようと自然に思える。
また、クリスチャンでない方も、もし海外の貧しい国や災害が起きた国へ金銭的に支援しようと思われた時は、どの団体を通してするかよく調べられることをお勧めする。人道的NGOでも、その資金の流れは定期的に監査されているかどうか、またミッショナリー系であれば福音を述べ伝えることに優先順位高くしている団体か。少なくともそういうミッショナリー系であれば、政治や主義で動くのでなく、純粋にキリストの福音を伝えつつ、人々が自立できる支援の具体的活動をし、監査もされているはずである。
キリストの弟子のパウロはこう聖書で書いている。「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」 (IIコリント人への手紙9章6-8節) 。

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