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PTL Journal Vol. 8  May 2011

患難におけるクリスチャンの姿勢 - 東日本大震災において

 (JCFN-VIP集会での証し May 9, 11)


 この度、311日の東日本大震災において、多くの方が命を失い、また2ヶ月たった今でもまだ、避難所生活をされている方々(59日現在12万人)、福島原発への対応策が明確化されていないか中、また余震が続き不安な心境で生活をされている方々に、神様の慰めと励ましが、すみやかな復興が与えられるよう日々お祈りしております。

 皆様も、もちろんこの突発的な災害に日本人として心を痛めていらっしゃると察します。実際ご家族や友人が被災されている方もいらっしゃるかと。私はアメリカに在住する日本人として、またクリスチャンとして、人生でこの時ほど、日本人のために涙を流し、色々考えさせられたことはなかったです。世界でさまざまな災害や戦争のことをニュースで聞きますが、よその国よりやはり同胞への思い入れが強いのは当然だと思います。そして地震以来、アメリカ在米の私個人として、患難の中にある同胞へ対し、キリストを信じるものとしてどう向き合うかを、イエス様の姿勢を通して神様から示されたこと、また私の日本でも母教会や他団体の救済支援活動を通して励まされたことをこの機会に皆様にわかちあえればと思います。また私の話は長くならないようにして、皆様からのご意見、ご質問、分かち合い等をいただける時間もって、インターアクティブな会になればと思います。

今回イエス様の姿勢から学んだこと 3つのポイントにまとめました

第一に、イエスさまのCompassion かわいそうに思う、思いやりの心 

第二に、イエス様の地上でのミニストリーの姿勢より:物質的必要と霊的必要の両者に仕えられた姿勢、またそれを行っている支援団体について紹介(カルバリ東北リリーフ)

第三に、イエス様がいつも静かなところで祈っていた姿勢から、海外において祈りの重要性 キリストの体の一部として自分ができること



 まず、私は最初あの、ニュースで送信されるあの津波の画像、そして人々の泣いている、叫びが伝わってきたとき、もう涙がとらまらなくて、嗚咽しながら祈ったものです。すいません私は涙腺弱いし感情的な人なのです。なけばいいってもんではないですが、同胞の日本人があんなことになっている、神様助けてください!と叫ばずにいられませんでした。ちょうどその日は仕事が金曜で休みだったので、一日ほとんどPCの前で映像を良くも悪くも見れたのです。翌日土曜は仕事に行くと、逆にアメリカ人や中国人の患者さんから慰めの言葉を頂き励まされ、感謝でした。しかし、私の感情的思いは半年、一年、5年とこのときのように続きません。自分の持ち前の性質ではこの思いは長続きしないのです。

 イエス様は、とてもCompassionate憐れみ深い方で、人々のかわいそうな状態、困っている状態をいつも察し、それが動機で奇跡により人々を助けていたことが聖書に記録されています。

 イエス様がこの世に人となって生まれてこられたミッションは、十字架にかかって私たちの罪を背負い死なれ、3日後に復活されて、それを信じる私たちが罪赦され、救われ神の子として永遠に生きられるためです。同時にその3年半の宣教活動の間に、イエス様は神の国の福音を述べ伝え、人々を教え、病気の人を癒し、悪霊につかれた人を解放し、弟子たちを訓練されました。病人を癒されるとき、多くの奇跡をおこされる時に、英語の聖書ではこの”Compassion”という言葉でよく表現されています。そしてイエス様の友人のラザロという人が死んだとき、墓に入って4日もたって、みんながぎゃーぎゃー泣き悲しんでいるようすをみて、”Jesus Wept. ”「イエスは涙を流された。」とヨハネによる福音書11:35に書かれています。ある人はこの2文字(英語だと)が聖書でもっとも美しい短い文章だという人もいます。なぜ泣かれたは色々解釈されるところではありますが、それはさておき、単純にイエス様は憐れみ深い方で涙を流される方なのです。パウロはローマ12:15「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」も勧めています。

 今回の地震で多くの方が家族をなくされました。私たちは彼らの悲しみにどう対応したらいいのでしょうか?災害や事故、病死などで私たちは愛する人を失うことが人生であります。グレッグ・ローリーさんという、ハーベスト・クルセードという教会の牧師で、毎年夏にLosのエンジェルズのホームスタジアムで伝道集会をしたり、そのほか大きな伝道の働きをしている牧師ですが、その人が数年前その伝道集会の直前に、彼の息子が大型トレーラーによる巻き込まれ事故で即死という悲しい経験をしました。彼が数年後ラジオでこういっていました、あの時本当につらかった、多くの人が慰めてくれて助けられたが、一番慰められたのは、一緒に涙を流して悲しんでくれたことだったと、っていました。もし私たちの周りに、そういう悲しんでいる人が身近にいたらその人の話を聞き、その悲しみにそって悲しみを共有すること、そして、彼らの心に慰めが神様から与えられるよう、祈り続けることが必要だと思わされました。そして、何か被災者支援のために活動をする上でも、このイエス様の心、相手に対するCompassionを忘れずに、個々に接していく、そして祈っていきたいと思わされました。

 地震の話から少しそれますが、このイエス様のCompassionかわいそうに思う心が与えられ、仕事上助けられていたことについて触れますと、私は日本ではソーシャルワーカー(社会福祉士)でしたので、さまざまな問題を抱える患者さん利用者さんと接する機会がありました。仕事では感情的になってはいけない客観性が常に求められますが、時には教科書どおりにいかないときがあります。私がまだ駆け出しの頃、ある困難ケースに直面しました。ある患者さんは色々困難な状況がかさなって、戻る家もなく、その娘が「母と一緒に死ぬからとにかく今退院する」といいだしました。いくら色々支援や制度があることを説明しても追い詰められていて話が通じない状況です。母親である本人も、だんだん、”もう娘がそういうなら仕方ない”という投げやりの心境になり、私はその場で祈りつつどうしたらいいかと、思わず涙を流しながら、「そんな死ぬなんて思っちゃだめですよ、とにかくどうしもここを出たいというなら、私の家に来て暮らせばいいと」、とついワーカーとして不適切なことを言ってしまいました。すると急に本人がわれに返り、「あんたの家にいって世話になるくらいなら、私は退院しないでここに残る」と言い風向きが変わって、なんとか母娘心中の危機から逃れることができました。そのとき、どうにかこの母娘を助けたい、神様助けてくださいと心のなかで叫んでいました。これはひとつのケースですが、私は仕事で特に生死がかかわる危機的状況、危機介入が必要な場面に直面すると必ず祈って神様から助けが与えられ状況が不思議な方向で打開されることを経験しています。自分の力では無理なんです。そういう時、なんとか助けたい、気の毒だという思い、イエス様のおもいやりの心をいただけるのです。素の自分はどちらかというと、クールで、事務的な人間です。福祉をやるような情が深いやさしい性格ではないです。親によくお前の性格では福祉の仕事はできないといわれたものです。しかし福祉の仕事は性格がよければできるものでないと、現場で働く同僚とよく話しがでます。事務的な能力、頭の回転、現場での対応と冷静な判断が即座に求められます。プラスそれだけでは人が相手なので動きません。利用者本人の性格、生活暦、認知症や精神疾患があるかないかと複雑です。危機的な状況でない地道なケースであっても神様に祈りつつ、私は1件1件、利用者を訪問したものです。利用者に対する思いやりの心、なんとか助けたいという心は、自分になくても神様から与えられるのが感謝でした。

 話はもどりますが イエス様の動機をさらに深くほっていくと、イエス様が大勢の群集にパンを給食された奇跡の話:マルコによる福音書634節「イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。」2回目の給食は8章2-3節は「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある

 イエス様はどういう意味で群集を”羊飼いのない羊のような有様”といったのでしょうか?魂の羊飼いがいなくて途方にくれている状態のことです。これは実は現代の私たちにも適用します。つまり、群集というのは烏合の衆というほど、メディアで大衆操作されやすく、トレンドや流行を追い求め、生きる意味とか難しいことは考えず、今がよければいいと趣味や娯楽でごまかします。つまり、神様、イエス様をしらない人生を歩んでいる状態、生きる意味もわからず、自分がどこからきたのかも知らず、運命という説明のつかない言葉であいまいにごまかす、こういう状態の人々を”かわいそうに”と思いやってくださる。ましてや、人生がそれなりにうまく言っていればいいですが、今回の震災のような、家も、家族も、仕事も全て失うというような状態となると、神様に頼ることなしに、全て自分の力で、自分を信じて、自分が強くなって、イエス様なしの希望を設定して先に進んでいかねばならなくなる。イエス様はどんなに今の日本の人々にCompassionをもっていられでしょうか。自己中心で余裕のない私は、漠然的に日本の人が救われますようにとしか祈ってこなかったのです。私は、今回イエス様のこの同胞の日本人の霊的な飢え乾いている状態に胸が痛んだのです。これはイエス様から与えられたものでした。そして、これからもなくなったら、イエス様のCompassionの心を求めて与えられ続けたいと思いました。

 以前自分が、親がクリスチャンだからといって教会には通っていましたが、30歳までイエス様を救い主として本当に信じていなかったので、世の中の考えと聖書の知識とどっちつかずの姿勢で、片方の足を世の中に、またもう片方を神様にと二股状態でいた頃、神様に従わず、自己中心的に生きていて、何もかもうまくいかず虚しくて、その絶頂期が実はNYにすんでいた2年間でした。もうここまでいくと神様はもう自分を見捨てるだろうと、刹那的に生きていたのです。その自身の苦しかったことを思うと、羊飼いのない羊の辛さを思い出します。ましてや今の東北の人々、神様の愛を知らず、罪の赦しのない人生のなかで、さらに全て失った方々は、どんなにか苦しいことかと胸が痛みました。人々が物質的必要だけでなく、イエス様に出会い、悔い改めが与えられ、人生にキリストにある希望が与えられるように祈ろうと。それにはいつもこのイエス様の思いが必要だと。


2、イエス様の地上でのミニストリーの姿勢 霊的必要と物質的肉体的必要のバランス

 人道的支援活動はクリスチャンだけが行うのでなく、イエス様を信じていない人たちも、ボランティアも含めりっぱな働きをされています。たくさんのNGOや政府機関、国連等の働きがありま、困っている人々を助けたいと人々からの善意で募金を集め、それを開発途上国の貧しい村にて、病院・学校等のインフラを立てたり、職業支援をしたりとその働きはさまざまです。

 しかし両者には大きな違いがあります。それは動機です。簡単にいうと前者は神様のためにする、後者は人のためにすることです。もちろん、外見は同じ、クリスチャンも人のためにするのですが、目に見えない神様に対して、その神様の愛を目の前の人に向かってするのです。それは神様が自分をそこまで愛してくれたことへの応答です。よって強制でやるものではなく、人に評価されたり自分がいいことをしたという満足感をえるためでなく、全て神様のためにします。

 イエス様のご生涯、そしてその愛の行動は私たちクリスチャンの見本であり、その教えは私たちの価値判断、考え方の基準となります。何か奉仕・ミニストリーをするとき、イエス様がされていたように、まず人々に教え(→霊的必要のため)、そして同時に人々を癒し、食料を与える(→物質的・肉体的必要)とバランスそのニーズを満たされていました。そして優先順位はいつも霊的必要、つまり心の深いところでの助けが必要な部分、満たされていない飢え乾いている部分をみておられたのです。

 一人一人”だれに対して”心が動くかは異なります。しかし神様によって心が動くところへ、祈りから始まり、実際の行動へと、ミニストリーが始められます。例えば、生まれたときから内戦でいつも非日常にいるアフリカの人々をみて、「かわいそう、イエス様の愛が必要だ!」と、ある人は海外ミッショナリーになる人もいれば、ある人は国内でホームレスへのミニストリー、またクラッシュやサマリタンパース等のクリスチャン団体のように、ある人は災害時に現地へ赴きます。

 私は昨年、K.P. Yohannanという人が著者でインドの貧困農村出身、イエス・キリストを信じて後に自国へのミッショナリー団体に加わり伝道し、その後アメリカに留学し、アメリカにてアジアへのミッショナリー団体(Gospel for Asia: GFAを設立した方の本を読み、またフィラデルフィアのクリスチャンラジオでも彼の話を聞きました。彼は特にミッショナリー団体の優先順位はなにがなんでもキリストを伝えること、もちろん物質的必要も支援しますが、インドの多くの人々はお米クリスチャンといって、色々支援してもらったときはクリスチャンに改宗しますが、病院や学校が建って必要が満たされるとすぐにヒンズー教に戻ってしまうという現実を自ら宣教して体験し、これでは意味がない!となるべく、コストがかからない、現地の人を教育して現地の文化慣習を十分理解しているものが宣教を優先に活動しています。昨年の夏、私の教会で、”困った人への支援とミッショナリーの動機”というタイトルでこの話を私がした時、自分が直接アフリカや現地にいけなくても、その国へ思いが与えられたらまず祈りで支援できるし、またもし金銭的に支援をするならば、福音伝道に重きをおいているミッショナリーなり団体かどうかをよく調べることをお勧めしたのですが、あの時まさか日本が支援を受ける側になるとは想像もつきませんでした。私は豊かな時代に育ったものですから、いつも支援する側、募金する側としてしか自分の立場を考えていなかったのです。ところが今回の未曾有の災害で立場が逆転しました。世界中が日本のために多額の義捐金を下さり、そして多くの人が駆けつけてくれて医療や片付け、さまざまな支援をしてくださり、日本人として、本当に低くされ、感謝の気持ちでいっぱいです。

 ここで、今回の支援団体がたくさんある中、イエス様にならい、物質的必要と霊的必要のバランスをとり、現地で活動している、私の東京の母教会カルバリチャペル国分寺の牧師が、この地震後直後、神様から示されて、カルバリ東北リリーフチームという団体についてご紹介いたします。彼らはすぐに、新品の衣類やパンを大量に寄付を知人を通して頼んで物資を調達し、2トントラックに詰め込んで知人の仙台の教会をたずね、そこを拠点として、石巻の避難所暮らしの人々へ配給し、また賛美を歌ったり、聖書を配ったり、半壊の家を一軒一軒訪ね、相手に手伝う必要を聞き了承を得てからマスクをして掃除、瓦礫の片づけをしていき地元の人たちと人間関係を構築。そして避難所を取り仕切っている人ともコンタクトし、地震後毎週の前半、チームで東北へ向かい、今は現地での拠点となる物件を借りて、長期的に現地でミニストリーをする方向へと活動しています。私のHPにその活動のブログのリンクがはってありますので、ご興味があるかたはどうぞ。もちろん、そういう団体は他にもたくさん東北で活躍していて、政府からの支援が行き届かない部分に、地道な作業で支援していると思います。このチームはいつも祈って祈って行動し、物質的支援だけでなく、地元の人と親しい関係を構築していくアプローチを地道にしています。その過程を通して、相手の心が自然と開かれ、”なぜあなたがたはそこまでしてくれるのか?”→イエスキリストを信じているからその愛にしたがってやっているんだということが伝わって、心が開かれ信仰に導かれていくということが徐々におこっているという報告をブログで見るたびに、心が喜び踊るのです。毎回彼らの霊的必要に出会えるようにというのがこのチームのビジョンです。また、現地でサマリタンパースの人たちと出会い、なんと軽自動車やクリーニングの物資等をプレゼントしていただいたり、神様の祝福は毎回あふれていることを、その喜びを自分がその場にいなくても、遠くにいても、ブログを通してビジョンを共有し祈りでも支援する喜びをわかちあわせていただけるのが本当に感謝です。

 私のフィラデルフィアの教会で集められた義捐金は、教会員からよりも、外部の方々からの献金がたくさん集められました。アメリカ人のミュージシャンでチャリティーコンサートを開いてくれたり、またアメリカに在住の日本人の方々で、”大きい団体に送ってしまうと使われ方が不明となってしまうので、教会を通して、実際直接、被災者の人に支援している団体にお金を送ってほしい”という要望の方もあり、そのご希望に添うようにどの団体に送るかを教会内で検討され、昨年示されて教会で話した内容がこんな形で反映されるとは、本当に神様の導きなんだと思わされました。


3 海外において祈りの重要性とキリストの体の一部として自分ができること

 イエス様は地上におらえるとき、群集に囲まれ、どんなに忙しくても必ず一人静かなところに退かれ、天の神なる父に祈っておられたと聖書は記録しています。神の子であるイエス様が祈るなら、私たちはなおさら祈ることは大事だというのは私が言うまでもなく皆様もご存知かと思います。

 今回、地震直後、私は祈りを毎日していたのですが、友人でフィラデルフィアのお母さんの会の人たちがバザーやベイクセール、コンサートと慈善活動を積極的に始めているのを見て、正直”自分も何かしなくてはいけない”というあせりみたいなものを感じました。しかし自分は主婦ではないし、平日・土曜も仕事、日曜は教会なので彼女たちの団体のお手伝するのは時間的制約もあり、体力的に仕事と両立するのは無理でした。私は何も芸がないですし。私の教会は今高齢化がすすみ、60〜80才台の方ばかりで、40〜50才台は私だけです。30才台から下は時折来る方々という状態。新しく日本から来られた牧師夫妻とともに、これから一から若い世代に伝道していかなければならない状態。教会としても何かイベントしなければいけないのかと思いましたが、神様からの思い、Compassionで心が動くのでなく、人がやっているからというプレッシャーみたいなもので心が動かされたことを認めざるをえませんでした。

 このあせる思いはよくないと、そのままを神様に祈りました。そして、こう示されました。キリストを信じているものならば、その同じビジョンを持って活動するチームの必要を祈りで支援することも、キリストの体の一部としての働きだろうと。パウロはとてもわかりやすくこのことをIコリント人への手紙12章で書きました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互にいたわり合うためで。もし一つの部分苦しめば、全ての部分が共に苦しみもしひとつの部分が尊ばれれば全ての部分が共に喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりは各器官である。」(1225-27節)みなが目でないし、ある人は内臓の一部分、目立たない部分だけど、皆必要だろと。また人の体は本当に精巧にできていて、ひとつの部分がかければ他が補うのです。ですから、大きな意味でのキリストの体の器官の一部として、目立たない、人からわからなくても祈りのバックアップという役割として、長期的に祈っていこうと思わされました。

 そして具体的に祈る。日本の政府のために、知恵が与えられてすみやかな原発への対応、復興政策が進むように。上におかれた権威、国の指導者のために祈りなさいともかいてありますから。

 今自分が置かれたところで何をしていくかを考えたとき、一人一人が呼ばれているところは異なるはずです。皆様もキリストを信じて、その愛に応答するには、どんな小さいことでも自分に与えられている才能・立場があれば、また職場におかれているのもそうですし、とにかく心が動くところに、導かれるはずですので、自発的に喜んでできればいいと思います。私の場合、そもそも、日本でも福祉のキャリアをいったんやめてなぜ、もう2度と住む機会のないと思っていたアメリカに11年ぶりにやってきたのかというと、神様からみことばではっきり、アメリカにいけと示されたからです。3年前抽選でだしたことも忘れていたグリーンカードの抽選があたったこと、それも手術後で一番苦しいときに連絡がきたのです。こんな病後で、アメリカにて医療保険もないし、仕事もないのに行くんですか?と決心はかなり時間がかかりましたが、(グリーンカードの手続きも半年かかりましたからちょうどいい)牧師にも相談しました。すると、「アメリカの日本人に、働きながら一信徒として伝道すること、これは神からきているならば道が開かれ仕事も与えられ、伝道する場所も与えられると思うから、信仰で踏み出すしかないよ、みことばで人々に仕えなさい」と示されました。またいつか神さまが日本へ帰国しろと言われたら帰ってくればいいしね、と励まされ2009年末から引越しました。

 4年前、ちょうど両親がフィラデルフィアの教会で仕えてていた時、3ヶ月間滞在して教会のお手伝いをしていたこともあり、そのとき、”あ〜フィラデルフィアの若い人たちにイエス様のことを、福音をもっと伝えたいなあ”と思ったのですが、現実的にビザがないし発行も困難で日本に帰国したのです。しかし神様はこの小さい思いを覚えていてくださって(私はすっかり忘れていましたが)、アメリカへいく道を開いてくださったのです。しかし、私は牧師でもないし、ただの人、それも一人で、女性で何ができるのかと。しかし、神様は昨年からこんな私に、学生や社会人向けに聖書の学びを少人数ですがはじめる機会を与えてくださり、今年からは女性の聖書の学びも始められたのは、まさに神様の力、恵みです。自分ではない。やはり神様の導きならば道が開かれるんだと本当に驚きと感謝です。ですから、震災があっても、今の私の優先順位は、みことばで今集まっている人々に仕えることをたんたんとやることだと示されたのです。

 今回,艱難にあった当事者としてではなく、日本人という同胞で海外にいるものとして、イエス様からどういう姿勢で祈るか支援するかを私なりに学ばされたことをわかちあわせていただきました。しかし、これからも人はだれでも艱難:災害や病気、失業、大事な人を亡くす等試練はあります。それを自分の力で乗り越えるか、神様を信じ、神様の力でその試練を乗り越えるかのどちらかです。前者は本当に厳しいし、真の平安が心にありません。キリストを信じていれば、神様がなんとかしてくれるという希望があります。しかし信じていても、艱難にあうと信仰が弱く落ち込むこともあります。私個人としても、2年半前胃癌になったことは本当に大きな試練、苦しい経験でしたし、検査の度に胃だけでなくほかの部分も再発・転移がと怖くて、信仰もかなり弱っていましたが、一方で必ず神様が引き上げてくれるという希望はいつも与えられていました。そして神様はそのとおり、いやそれ以上に身体的にも霊的にも回復の機会を与え、アメリカに私を連れてこられるという想像もしないことをなさり、今回も海外在住の日本人として、被災地の人々への思い Compassionが与えられてるのは不思議です。すべて神様の恵みです。恵みがすべてを変えるという経験をこれからもさせていただきいと求めています。

 一人でも多くの人がイエス様の十字架での愛を受け取って、罪を赦され神の子となり、生きている意味と喜びを知ってほしいと願います。そうすれば、このみことばでこれからも支えられるからです。「あなたがたを襲った試練で人間として耐えられないものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に会わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(第一コリント人への手紙1013節)そして東北で実際現地の必要のために働いている人々のために祈りつつ、日本で救われる人が東北地区からはじまり、全国へどんどん増えますように、キリストにあって期待しつつ、祈っていきたいと思わされました。長くなりましたが以上にて、証しを終わります。

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