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Bayridge Brookly, NY
フィラデルフィア日本人キリスト教会(JCCP)での礼拝メッセージ 

May25, 2014


メッセージタイトル 
「神と人との仲介者
               
聖書箇所 ヨブ記932-33節 

「神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し

入れることはできない。私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」


皆様 おはようございます。本日はJCCPにてメッセージのご奉仕をさせていただく機会が与えられ感謝です。先週末、私のNYの教会(Harvest Christian Fellowship)でカンファレンスがありまして、数人のスピーカーより幸いなメッセージを聞くことが出来ましたが、そこからも学ばされたこと、神様から示されたことを本日分かち合いたいと思います。


 まず本日の聖書箇所、ヨブ記というのは、旧約聖書の書簡の一つですが、書かれた時期が一番古いとされています。聖書の最初の創世記から申命記までをモーセ五書といって、BC1,400年ぐらいにモーセが書いたとされますが、一方ヨブ記は、アブラハムやイサク、ヤコブが生きていたときの族長時代(BC2000年)の時ではないかと一般に考えられています。


 ちなみに
JCCPともゆかりのある、日本で長年宣教師として仕えられたマクダニエルご夫妻は(私は彼女の娘さんJanieの家に一時お世話になりましたが)、この宣教師ご夫妻が日本で開いていた聖書の学びに、拉致被害者の横田早紀江さんが友人から誘われて来るようになり、彼女の信じたきっかけがこのヨブ記だそうです。突然娘さんが失踪し、そのことで自分を責め、自殺まで考え、いろんな宗教にも勧誘されと、絶望の淵にいた時、彼女の心に明けの明星のように生きる希望を与えたのがキリストでした。彼女が当時抱えていた苦悩と、このヨブの経験した苦しみとが重なったのでしょうか。彼女の証しにご興味がある方は「ブルーリボンの祈り」という本が出ていて、ネットでも販売されてます。


 ヨブ記は最初と最後は物語調ですが、後はほとんどが詩です。
11ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。 とあり、ウツは死海の南東、アラビア半島の北あたりだと言われます。ある時、天での神様と天使達の会合に、なぜか悪魔が登場し、その時ヨブのことが話題に上りました。神の目からみてヨブは正しかった人です。しかし悪魔がそのヨブを神に告発するのです、「ヨブが神を恐れるのは、神が彼に財産を与え祝福しているからであって、もし、それらがなくなったら、神を呪うでしょう。」と。これは、一種神に対するサタンからの挑戦状、つまり神がご自分のかたちにお造りになった人間は、はたして神ご自身を信仰で愛しているのか、それとも神が与えてくれる物質的なものによって愛しているのか、という問いかけともいえるでしょう。


 そこで、神はサタンがヨブの持っている者に手を出すことを許されました。ここから、この世で起こる艱難、苦難はある意味、サタンが引き起こし、サタンが悪を支配しているようでいても、その上に神がおられて、サタンの出来ることにも限界があることがわかります。 そして一日うちに、ヨブは子供全員
10人を失い、財産である多くの家畜も僕達もほとんど失いました。するとヨブはどうしたでしょうか?サタンのシナリオとおり、神を呪ったでしょうか? もしヨブが真の神でない他の人が作り出したご利益宗教を信じていたのなら、「これはたたりだ!お金で壷を買って厄払いしないといけません」と言われてお金を投じるか、進化論をとなえたダーウインのように、自分の娘の病気を治さず死なせてしまった神を、「神がいるならなぜなんだ!神なんていない!」と無神論に走ることもできたでしょう。しかし、ヨブは神を褒め称えました。
120節「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」悪魔の挑戦は失敗。ヨブはこんな辛いことが起っても神を呪うどころか、神を礼拝したのです。これはすごい信仰です。こんなの私には無理、これは信仰深い人だから自分には当てはまらないと思いがちです。もちろん悲しい時に、悲しむなというわけではく、ヨブも子供をいっぺんに失い、悲しみのどん底にいたから、着物を裂いてその嘆きを表したのです。しかしその悲しい感情のなかでも、真の神との関係は失われないのです。失われるどころか、ますます神への信頼関係はこのような試練を通して、結果的には強められるということを、多くのクリスチャンの証しからもわかります。ヨブの場合、神を自分を形作った創造主として信じ、信頼する時、全てはもともと神から与えられたものだと認める心をもち、自分が努力して自分で全て獲得したという傲慢から開放され、すべて恵みだったんだ、与えられたものだったんだと手放すことができます。例えば東北に起きた大震災ではヨブのように一度に全てを失った方もいたでしょう。これほど大きい損失でなかったとしても、人の受ける艱難、悲しみは他者と比較できないものです。実は、現代の私たちは恵みの時代にいますから、ヨブよりもっと有利です、なぜなら、イエス・キリストという、今日のテーマである仲介者がいるからです。少なくともキリストが自分にしてくれた大きなことを信じていれば、どんな状況でもそのことを感謝し礼拝できるのです。私たちも苦難の中で、信仰の態度が問われますが、ヨブのこの礼拝の姿勢を思い出せたらいいなと願います。


 この後、さらに、サタンは神に向かって彼自身の体を打ったら、今度は神を呪うだろうといって、命を取ること意外はヨブの体に触ってもいいことを神から許可されます。
27サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。」ここで土器のかけらでかいたとあるので、全身痛みとかゆみ、その辛さは想像を絶します。さらに29節で唯一に残された家族までもヨブにに言ったのです「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。と。酷い妻!と思いますが、神を信じて希望を持っていなければ、彼女のようは反応はある意味ノーマルかもしれません。


 そして、このヨブの不幸を伝え聞いて慰めにきた友達らとヨブの問答がこの後の長い詩の形で続きますが、慰めるつもりで、結局友達はヨブを責めるのです。「こんなことがおこったのは、きっとあんたが何か悪いことをしたからだ」と。しかし、そう責められれば責められるほどヨブはむきになって自分の潔白を言います。最終的には神ご自身からもヨブにお言葉があり、ヨブのようなレベルの高い、潔白な人でさえ、己を知り、神の前に低くなって、「自分は塵にすぎません」と神に告白します。結末は再び、ヨブに多くの子供達が与えられ、家畜も増やされ失った以上に大きな祝福を与えられました。ヨブはこの詩を通して無限の神について語り、永遠の神であり、全能で全知であられる方を表しますが、一方、人間である自分は神の前に正しく潔白でいようとしてきたけど、完全ではない、神にくらべると自分は小さい存在で、この隔たりをどうやって埋めたらいいんだ〜と。そして今日読まれた箇所
933節、「私と神様の間に仲裁者してくる人がいないじゃないかあ。」とのヨブ、いや人間の叫びが出てくるのです。


 人間同士だったら、仲裁してくれる友人、もしくは司法機関がありますが、イエス・キリストが来られる前は、人と神の間を仲裁できる存在はいなかったのです。ユダヤ教の祭司は人と神様との間をとりもつ職務でしたが、所詮人間なので、神と人との仲裁者としては不完全でしたし、完全な大祭司であるイエス・キリストが来られるまでの影、型を示すものでした。結局、ヨブ記も他の旧約聖書のテーマと同様で、イエスキリストについて指し示しています。イエスはユダヤ人宗教指導者たちに「
あなたがたが永遠のいのちについて聖書を調べているが、聖書はわたしについて証言しているのだ。」(ヨハネの福音書539節)と言われましたが、ヨブ記にも人と神との仲介者であるキリストの必要性が現わされています。


 私たちは今、仲介者:大祭司であられるイエス・キリストが与えられています。テモテ第一2章5節には、「
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」とあります。万物の創造主であられる方、神が肉体を取られ、人々の間に住まわれましたとヨハネ1:16に書いてあります。この神の子イエス・キリストにあって、私たちはヨブが叫んでいた、大きな神様との隔たりを完全に埋めてもらえるのです。

 ピリピ2:6-8で使徒パウロはこう書いています。「
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。


 神様と人との仲介者は、100%神でもあり100%人でもあったイエス・キリストしか出来ないのです。仲介というのは両者の立場に立って初めてできることですから もし神が神のままだったら、人の痛み、誘惑、苦しみに同情できないし、隔たりは埋まりません。そこで神が人になられたのです。これは、蟻の気持ちを知るために人間が蟻になるのと次元が違います。どう違うのでしょう?人間も蟻も所詮、創られたものです。イエス・キリストがわざわざマリアさんのおなかから生まれて、成長して、大人になるということは、創造主が被造物作られたものにまで自分を落とすという次元です。なぜそこまでしてくれたのでしょうか。神はそこまでして人を愛しているから、なんとかして罪のなかから救いたいからこの方策をとられたわけです。神の子だからといって、釘を刺されれば人の体を持っていたので同じ苦しみがあるし、感情や誘惑もおこります、ただ罪は犯されなかったと書いてあります。人となった神の子だけが、人の経験しうるすべての苦しみ、痛み、そして肉体の死まで味わって初めて、神と人との仲介者、大祭司となることができます。そして死から蘇えり、死に勝利されました。よって、キリストを信じる私たちも同様に死に勝利できて、この体は死んでも、魂は残り、天で新しい体が与えられ、二度と死ぬことがないということが、死に対する勝利です。ですから死はもはやクリスチャンを恐れさせません。


 もし、人々が苦しむのはすべて罪のためであり、悪者が苦しみ、正しい人は栄えるのであれば、因果応報で説明がつきますが、現実はそのようになっていません。災害や家族の死は突然、誰にでもきます。
なぜこんなことが起るのかという問いには、この世では答えは与えられないかもしれません。しかし、キリストを通しての神様の自分への愛を受け取れると、その大きな愛への感謝のほうが勝り、全て神からのことを受け止めようと、天国で全てが分かるからと委ねることができます。自分の境遇がなぜなんだと、その答えが与えられないからと神に文句を言うか、他人を責めるか、自分を責めるか、これらを続けている状態は、ご自身が不自由です。酷い場合は精神疾患につながります。いつも暗い苦い思いが心のそこにあり、あきらめがあり、そしてそれに蓋をして、忙しくしてごまかして日々過ごしてしまうこともできるからです。しかし、イエスはご自分を「
私は道であり、真理であり命である。誰でも私を通してでなくては父にもとへいけない。」ヨハネ福音書146節といわれ、「真理はあなたを自由にする」と真理であるイエス様が言われました。皆さんには自由がありますか?プライドが邪魔して、今話したことが認められないかもしれませんが、そういうプライドを取り除き、低くなって「ああ自分は神の前に正しくなかった、反抗してきたなあ」と認めることも可能です。するとそこでイエスに出会えます。そして真理があなたを自由にすることをどんどん(いっぺんではなく、徐々に)経験していけることでしょう。


 なぜ自分が存在するのか、なぜ自分が苦しみを、楽しみを味わうのか、生きる意味は何かと、それを真剣に問いかけれ、求めれば、キリストに出会おうことが出来ます。哲学者も他の宗教はそれを求めましたが、彼らは何か説明できたでしょうか。人間の脳で考えうることには限界があります。しかしながら、人は己が神のように、自分が心の中で王様として座っているものです。キリストを必要としない人は、自分で全て解決しなければならないし、自分の頭で理解しうることしか理解しようとしないという”高ぶり”があることに気がついていません。自分が一番、つまりそれは結局プライドなんです。人の脳がどんなに優秀でもどんな科学をもってしても解明できない分野はまだまだたくさんあり、無から有が偶然にできたと考え、その上の崇高な存在、
神を否定すること、それが根源的な罪です。そしてその罪に対しては、永遠の死、裁きが結果となります。「
罪の報酬は死である。」(ローマ人への手紙623節)と厳しいですが、愛である神は同時に正義の神でもあるので、いつまでも罪をそのままにはしておられません。終わりの時まで忍耐を持って神は一人でも多くの人がキリストを通して神を信じることを待っておられると2ペテロにも書いてあるように 神はご自分が造られた人が永遠に自分と生きてほしい、ご自分の存在を信じてほしいと、そのためにイエス・キリストをこの世に送られ、十字架でその罪の罰を私たちの変わりにうけさせて、私たちが赦されて神と和解ができて、永遠に生きれるようにと計画されました。これが神の御心です。「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」と続くローマ人への手紙623節は続けて希望を書いてあるのです。


 どうかこの神のプレゼントである、イエス・キリストを信じていないかたは、信じることを求め、受け取ってください。先延ばしにしないことを勧めます。今は恵みの時です、今日という日に、キリストを信じてくださるよう、願っています。またすでに信じている方で、今、ご自身の中で苦しみを通っておられる方がいれば、私たちには仲介者であるキリストがおられるのですから、苦しみさえも神様の支配に委ね、神さまがすべてコントロールしておられるという、大きな視点、たとえそれが今私たちに理解できないとしても、神様に信頼し、かえってヨブのように神を讃え礼拝する、感謝する心を持てるよう、信仰が成長するチャンスとして求めていきましょう。神様は、乗り越えられない試練は与えらないし、試練を通して練られる品性、そして希望が与えられるとローマ5章にあります。このことを互いに励ましあい、祈っていきましょう。また落ち込んでも、慰め主である聖霊が慰めを与えて下さります。
そして神は永遠の愛をもってすべてのことを益と働かせてくださっています。この神を知ったときに、今っ抱えている苦しみをまぬかれることはできないとしても、人間の理解を超えたところにある神の平和によって支えられます。

 

   
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