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フィラデルフィア日本人キリスト教会での 礼拝メッセージ 

Sep. 21, 2014


メッセージタイトル
 
神の憐みと情け深さ
               
聖書箇所 ヨナ書310-4章4節 

「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。

NYに住んでいますと、毎年9月に、地元の人々の心の痛みを身近で感じます。9/11から13年経ちますが、イスラムの様々な過激派とアメリカのエンドレスのやられたらやりかえす報復状態はますます悪化しているようです。一方教会では、911の日、遺族のために特に祈りが捧げられています。聖書は悪にはどう対応するといっているでしょうか 神は復讐はご自分がすると言われ、イエス様は「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」ともいわれます。本日はヨナ書を通して、私達の悪に対する自然の反応に対して、神様の悪に対しても、憐みと情け深さを示す、”悪には善でかえす”をご一緒に学びたいと思います。

お祈りします


ヨナ書 あらすじと時代背景

 ヨナとは古代イスラエル王国が南北王朝に分裂した後、紀元前98世紀、その北イスラエル国王ヤロブアム2世の時代に活躍した預言者です(列王記第二1425)。当時の北イスラエルは真の神から離れ金の牡牛の象を拝み、異教の神も取り入れたため、神は何人も預言者を送ってその物質主義、貧しい者への搾取偶像崇拝に対し警告し、神に立ち返るように告げていました。


 アッシリアという国は当時の世界を軍事的に侵略した帝国で、遺跡の壁画にそのすさまじい他国への侵略の様子が残されていますが、その残虐な殺し方と死体のさらしかたをみせしめて、その恐怖で他国は降伏していったそうです。


 にも関わらず 神様はヨナにそのアッシリア帝国の首都ニネベ(現イラクの、バクダッド市の近く)へ行けとのミッションを与えました。ヨナは反抗。なぜアッシリアに?いやですよと。スペイン(タルシシ)へ行く船に自分で船賃を払って乗りました。すると船が大きな嵐にあい、乗船していた人々は、各々の神に助けを求めた中、ヨナは船底でグーグー寝ていたのです。そこで人々はくじ引きで嵐はだれのせいかを探し出そうと、そしてくじはヨナにあたり、彼らはヨナが神のみ顔を避けて、乗船していた話を聞いていたので、なんてことをしたのだ!とヨナを責めました。ヨナはそこで悔い改め、神に助けを求めればよかったのに、彼は嵐を治めるため自分を海に投げてくれと、水夫達に頼むのです。彼らが最後まで船をコントロールしようと試みた末、仕方なくヨナを大海に放り込む、するとてヨナは大魚に飲み込まれ、腹の中へはいったのです。すると嵐はぴたっと収まり、異教の神を信じていた船の人々はヨナの信じている神を恐れました。こうして大魚の腹の中で3日間ヨナは 神に祈り、「今度はあなたに従います」と誓います。するとヨナは魚の口から陸へ吐き出されて命を救っていただきました。そして神の指示とおり、ニネベの市を歩きめぐって「四十日を経たらニネベは滅びる」34節)と言いました。ところが ニネベの人々は神を信じて、己の悪行を悔い改め、上は王様から家畜まで断食して荒布をまとい、神を求めたのです。神は「その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。」310節)のです。ここまでがヨナ書の1-3章までのあらすじです。 


 実際 世界史をみると 多神教のアッシリア帝国の歴史で一人だけ一神教だった王がいて(アダド・ニラリ三世)、ヨナの話はその時代ないかと言われています。しかしその悔い改めた時代は長くは続きませんでした。そして神様はアッシリアを用いて、神様に立ち返らなかった北イスラエル王国滅ぼされました。その時イスラエルの人々を捕囚として他国へを一部連れ去り、代わりに他国民をイスラエルに住まわせて民族と宗教を混ぜこぜにした、これがサマリア人の始まりです。ですからユダヤ人はサマリア人を嫌っていました。


今日はヨナ書で神様が示されていることを3つにまとめました


@まず最初に 異教の国、アッシリアを救われたという話は イエス・キリストが来られる以前にも、イスラエル人だけでなく全世界の国民を救うという 神様のご計画をあらかじめ示しています。「旧約の神は怖い、新約の神はやさしい」という人がいますが、神様は同じです。ましてやアッシリアのような残虐な国民でさえも、神様は彼らが滅びるのを望まないのです、神の憐み愛のご性質はエゼキエルにも書かれています。わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」。エゼキエル1823


Aつぎに、ヨナが魚の中で3日いて陸に吐き出されたこと。これはイエス様の十字架の死と3日後の復活を指し示すしるしです。マタイ12章でイエス様がそういわれてます「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に人の子も三日三晩、地の中にいるからです。(マタイ1239-40節)

しるしとはあることを指し示すサインです。つまりヨナの記録は、イエス様を指し示すサイン。このイエスの十字架の死とよみがえりがあるおかげで 私達はいかに恵みの時代に生きているかを改めてヨナ書から理解できるのです。つまり 私たちは当たり前のように福音を享受していますが このニネベの人々は バットニュース(あと40日したら滅びる)だけで神を信じて悔い改めたケースです。どんな神かも、信じたら救われるという情報もなし。海から吐き出された異様なヘブル人がわめいたことばをただ信じたのです。一方、イエス様の十字架以降の時代の我々はグッドニュースが与えられています。「神はその一人子を賜ったほど、世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びず、永遠の命をえるためである。」(ヨハネ316節)イエスを信じれれば救われる、滅びない。私たちはイエス・キリストのおかげでヨナの時代よりも信じる上で大きなアドヴァンテージが与えられているのです。ヨナの記録は、イエス様の福音のしるしを、約900年前に予兆していました。


B3つ目は とうごまの示すもの 悪に善で報いる というヨナへの(私たちへの)レッスン


ヨナの話は3章で終わっていればHappyEndだった。しかし、このあとヨナの神様への文句、反抗、死んだほうがましだ!と神様にむかって 駄々をこねる様子がかいてあります。ニネベを滅ぼすことを思い直した神様に文句を言い、ニネベの人が悪に戻って 神がやはり滅ぼすかもしれないと期待して、街の東の方に小屋を建てて見物をしようとまでしたと書いてあります。なんという預言者でしょうか!魚の腹の中の悔い改めて、救われた経験はなんだったのでしょうか?


ヨナの不信仰、逆戻りはヨナだけのことでしょうか?このヨナが人間らしくて好き というクリスチャンは多いです。それは神様に文句を言いたくても言えない、でもヨナは大胆にも言ってしまう。つまり私たちがお笑いの人が毒舌を放つのを笑うのと同じで、ヨナが自分達の代わりを投影しているからです。つまり、ヨナの反抗、無慈悲は実は私たちにもおこりうることで、一度悔い改めて 神に従って歩もうと思っても、また何かあると 肉の自分のもどってしまう。神様に「なんでこうなるんですか?」と自分の思うとおりにいかないと文句をいう。自分が憐みで救われたのに、悪人が救われたりするとそれに納得いかなくて、神の慈愛、情け深さに文句をいう、敵に裁きが下されることを望んでしまう。これは私たちの弱さでもあるのです。


しかしそんなヨナに神様はどう対応されたでしょうか? 神様はやさしく「どうしておこっているんだい?」と 逆にヨナの山の上での暑さの苦痛をへらすため とうごまの木を一日ではやすして日陰を造ってあげたのです。つまり反抗するヨナによくしてあげました。するとヨナはいい気分! 神に反抗するなんて裁きが下ってもおかしくないのに、神はやさしく、よくしてあげました。悪に対して善で報いているのです。


さらに なぜそこで神様は虫を送ってとうごまの木をからしたのか? これは、ヨナのその愛のない心を露呈させるために木をからし、神様のレッスンを教えたいためです。とうゴマがかれて、日陰がなくなり怒っているヨナ「死んだほうがましだ!」に神様はやさしく こう問いかけます 「とうごまのことでおこるのはよくないよ」ゴマの木が枯れたことをおしむのか? ヨナの視点の狭さ、一時の感情に支配され 目の前の状況に一喜一憂し、神が自分をどんなところから救ってくれたかを忘れてしまう。

神は こんな預言者ヨナにたいして、忍耐深くつきあう。そして 彼の神への不従順にたいして単に罰を与えるのではなく、彼の悪の行いに対して、良くしてあげる つまり良い行いで悪に返す パウロは箴言を引用し、悪に善を返すのは相手の頭に炭火を積むことだと手紙に書いていますよう(箴言25章)に、ヨナの悪い思いを清めるためによい行いを積むのであります。彼の 非情さをしめし、悔い改めに再び導く、そして赦す。また神の哀れみ、慈愛を教えるレッスンであります。 


悪い良心 堕落した良心には 何が効き目があるでしょうか? 神の与える霊的お薬は 悪に対して善で報いる 相手によくする これは どんなねじけた良心の持ち主に対してもたいがい作用するものです。


皆さん、昨今のイスラム国のような首を切り落とした映像を送りつける、クリスチャンの子供の首を串刺しにしてさらす、そんな残虐な過激派は ほおっておいてはならない、裁きを下さなければならない!と思っている人が実際アメリカにいるのではないでしょうか?統計ではアメリカの約半数が空爆に賛成しているということから、人の自然の性質が示され、そしてそれが全く解決になっていないのは歴史を見れば明らかです。ヨナがニネベは 滅びなければとある意味Obsessionが入っていたように、こういう思いはクリスチャンになった後でも、ふつふつと心の中から出てきてしまうのではないでしょうか? しかし、私たちは どんなときにも神様の慈愛を思い出さなければならないのです。


世界政治から、私たちの生活レベルに落とすと、私たちの敵とは誰でしょうか?自分に良くしてくれない人、自分を傷つけた人、かかわりたくない人が敵です。実際相手が悪いかもしれませんが、しかしそれを憎む心、赦せない心、苦い思い、無関心は罪なのです。そんな私たちの罪が示されるのは責めるためではなく、赦されるためです。ある事が皆さんの人生に起こる時、ある嫌な人が自分の前に置かれる時、そのことでキリストのような性質(人のした悪を思わない、怒らない、恨まない、忍耐する、親切にする:第一コリント人への手紙13)が作られるために通るプロセスの場合もあります。赦せない憎いという思いから救ってくださいと、その点は自分が悪いと認めるところが始まりなのです。認めれば赦されるからグッドニュースなわけで、また、相手を赦せるように心が変えられていくのはまさに奇跡です。これは聖霊に力であり、そこに神の栄光が現れます。それはこの体で生きている間、神に用いられるため、清められていくプロセスでもあります。


そしてポイントは、真の神を知っていても神に従おうとしない、冷酷で人が滅びるのを喜ぶような預言者ヨナと、また真の神もしらずに右も左もわからない残酷な良心が麻痺しているような当時12万人のアッシリアの人々に対しても、悪人が滅びるのを惜しまれる方です、悔い改めるチャンスを与え、罪を赦され、悪に対して善を報いられる方。このような神様の愛のご性質はを示すためにこのヨナの4章以降は記されているのです


このような大きな神の恵みは 結局イエス様の十字架に現れています。受けるにふさわしくないものが受け取れるフリーのギフト その神様からのギフトは イエス様ご自身です。そのギフトは全ての人々に提示されていて、神はそれを信じて受け取ってほしいと願われています。どうかまだ受け取られていない方は、神の恵みを受け取ってください。すると内側が変えられ、生きる希望がキリストにあって与えられます。


そしてすでにこの恵みを受け取られている私たちは、一人一人がこの神様の恵みを受けたものとして、福音を知らせていくことが責務ではないでしょうか。「こんな人にはキリスト教は無理」と思わずあきらめず祈れます。それに 皆さんご自身が実はイエス様を信じられたこと自体が 奇跡なのですから、神が私たちを かわいそうに思って、哀れんでくれて信仰さえも与えられたのだと。私たちがふさわしいから 救われたのではなく、神の一方的なめぐみ、憐みにより救われた、つまり自分で選んで信じたと思う信仰でさえも プレゼントなのです。イエス様のような憐み深い性質を 素の自分が持っていなくても、聖霊の働きにより、求めることで形作られていくことを期待したいと思います。


最後にエペソの手紙28-9節をお読みします

あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。

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