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ギリシャ・アテネの教会にて
癌!? 初めて死を覚悟した時、死の恐怖から心が守られた理由

とにかく、ガーンとショックがきましたが、死への恐れから守られたのは、自分にはキリストを信じる信仰が与えられていたからでした。信じている内容は聖書に書いてあることばです。たとえ私の寿命が何年であろうと死んだら終わりだ!という漠然とした考えでなく、肉体の死の後、天国で永遠に神様のもとで生きられるという希望が与えられていたので、不思議と心は平安でした。

相談員である自分が癌という病になってはじめて、ああ、私が普段接している利用者さん、患者さんにこの希望を伝えたい!キリストを信じることで、たとえ癌が再発・転移で死ぬ可能性があっても平安と希望が持てること、どんなに辛い病の中にあっても生きていることに希望が持て、また死後についての恐怖が取り去られ、平安を持つことが可能なんだということを伝えたいなあと思わされました。


○療養型病院の患者さんのこと・・・様々な進行性の疾患・認知症を患い意思疎通も困難な方々と出会って

私が初めて医療福祉の現場で仕事をMSW(医療ソーシャルワーカー)として駆け出しの時、毎日がショッキングだった。以前は通常の企業に勤めていたためなおさらである。通常の社会とは異種の世界であった。特に私が最初勤めたところは療養型病院であったため、患者さんのほとんどが高齢の方で、ある程度の治療を急性期病院で終えたが、自宅には帰れる状態でなく、療養のために転院してきた方々だった。寝たきり、常時おむつ、鼻や胃から栄養を入れるチューブをつけた方、尿管や点滴をつけっぱなしの方、床ずれができている方、認知症や精神疾患があり意思疎通がうまくいかない方。医療制度的な関係で(既往ではあっても)癌で入院している方はほとんどいなかった。パーキンソン氏病・悪性関節リウマチ等進行性の難病の方が多く、一人の人が抱えている病名は複数であった。100床弱の定員の病院で毎月数人が亡くなっていく。昨日まで会って、少しでもお話していた方が翌日亡くなってしまう。療養型病院では、患者さんの死と向き合うのは日常であった。初めは悲しかったが、次第にその感覚に慣れていき、自分が冷たい人間になってしまうのではと怖かった。過去10年以内に、医療保険制度改革、介護保険制度、緩和ケアユニット病床の導入が厚生労働省より次々と打ち出され、かなり医療制度的には改善されてきた。この“老人病院”と呼ばれていた療養型病院は寝たきりで進行性の治療が困難な病を持つ人々を最後まで受け入れていたが、医療保険制度の上、その質については限界があった。私の仕事は患者さん本人に対してというより、そのご家族と面談することがほとんどだった。本人はとても自分の意思を表明したりすることができない状態だったから。最近もなって癌患者のためのホスピス制度、終末期医療や尊厳死という言葉が普及し始めているが、ここの患者さんたちは、「より良い終末期」、あるいは「尊厳ある死」を迎えたくても迎えられる状況でなかったのではないか。この方々にこそ、イエス・キリストを信じれば、今の状況でも“生きている意味があること”、そして“死んだとしても天国で神と永遠に生きられるという希望があることを”伝えたかった。病のゆえに意思表明もできなくて、病状がよくなる見込みがない、力なくただ寝ているだけに思える患者さんに、その現場にいても私は何もできなかった。時折心のなかで祈った。神様、この患者さんたちを憐れんでください、助けてくださいと。この職種になって始めてこれらの患者さんたちと接する機会を持ち、死について否応なく考えさせられた。

○在宅の患者さん・利用者さんの苦悩

その後、老人保健施設の相談員を経て、私は在宅で福祉サービス(配食・ボランティアによる家事介護サービス等)を受けている方々の生活相談員の仕事に就いた。私の仕事はこれらの方に、今利用している配食サービス等のフォローだけでなく、更なる利用可能な福祉サービスの情報を提案し、他福祉機関へ連携をしていく仕事でもある。入院中や施設入所中の方々に比べ、家で過ごせる状態の方々なのでほとんど利用者さんご本人と接し、話を聞く機会がもてた。しかし在宅だからこそかえって、精神的な不安感・苦しみを抱えている方々との出会いが多いのである。一人暮らしで家族とも疎遠の方、自分がだんだん認知症の進行していることを認識し恐れ悩んでいる方。その方々が介護保険等の福祉サービスを利用中であれば、まだ福祉関係機関が生活状況を把握し支援していける。一方、その利用さえも拒否し、不衛生な物が散乱した家に住み続ける方、徘徊し続ける方、自殺未遂を何度も繰り返すうつ病の方、日々幻覚に悩まされている精神疾患を持つ方。ケア・マネージャーや地域包括支援センターと連携し、なんとか福祉サービスを導入していくことでこれらの方々の生活を支援していけないかと模索する日々であった。本人から精神的な不安・苦しみ・死に対する不安、疎外感、孤独感をぽつりぽつりと聞き、相手を受容する。利用者さんたちは、とにかく誰かに聞いてもらいたいのであるから、とにかく傾聴する。私は無責任な励ましのことばを控え、言葉を選びながら対応する。私は仕事を超えて、本当は利用者さんに、キリストはこれらすべての心の悩み(心の病)を完全に受け止め、癒すことができる方だと、キリストを信じることで希望があることを伝えたい。しかし、仕事中にそれがダイレクトに出来ないというジレンマがある。私は一軒一軒、訪問する前に自転車にのりながらその利用者の方の為に祈って備える、この訪問で私が相手に支援できるように、仕えられるようにと。

「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒し、あなたの命を穴から贖い、あなたに恵みと憐れみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは鷲のように、新しくなる」(詩編10325節)

○自分の努力やお金をもってしてもどうしても解決できないことがある。それは誰でもいつかは死ぬということ。

アメリカの心理学者の研究によると、精神疾患のおおくは自分や他人を責める罪責感が起因しているとのこと。ましてや肉体の病気に付随する孤独・疎外感・虚無感・うつ的状況が起こるのは心理学者に言われなくても自明。もちろん意思が強い人は世の中にたくさんいて、病気を自分の力で乗り越えられる人もいるだろう。しかしそう出来ない弱者もたくさん存在するのである。自分自身が病気になって、自分の努力やお金をもってしてもおもうようにことがすすまない時、初めてこういう弱者の人の気持ちがわかるのではないでしょうか。例えば癌に一度なると、また再発するのでは?という不安について。癌治癒、再発を防ぐためにあらゆる民間療法を試し、病気を克服し、自信の強い信念と意思の力で病との戦いに勝利し、社会に復帰できる人もたくさんいる。しかし、自分の努力やお金をもってしてもどうしても解決できないことがある。それは誰でもいつかは死ぬということ。多くの人はこう言うでしょう「死なんか考えると暗くなるから考えるな、今現在のことを考えればいいんだ。死ぬまで自分で成すべきことを精一杯達成し、悔いのないように生きることが大切だ。死んだら終わりなんだから」本当に死んだら終わりなんでしょうか?このことを真剣に考えることを避けているのではないでしょうか?なぜ?考えれば考えるほど不安になるし、保障がないから。

○ホスピスや在宅での終末ケアは、死ぬ迄のよりよく生きるケア。神とキリストを信じる信仰は、生きている時から死んだ後へも続く希望

人は死ぬことがわかると、生きることの本質と意味、苦悩し、死にゆくことの理由に関する疑問がわき上がると言われます。しかし信仰なしで、こうした根源的な問いに答えを見いだすのは難しいのではないでしょうか。死と終末期研究の先駆者、エリザベス・キューブラー・ロス氏によれば、死期を迎えた人は典型的に、拒絶、怒り、交渉、うつ、受容の5つの感情段階をこの順番で経験するとのこと。死んだ後のことがわからないのに、死をどうやって受容するのでしょうか?死んだらおわり、意識がなくなる。もしくは、人様に迷惑かけるようなことはしてこなかったから運良ければ天国に行くかも?ぐらいの漠然とした不確かなまま、死を迎えるとしたら、究極的な心の平安は得られるのでしょうか?確かにその過程で、その人なりに家族やホスピスのスタッフとともに、その方の過去の痛みを忘れ、過去にうまくいっていなかった人間関係を修復することにより、過去に対しての心の平安を得ることは可能かもしれません。では未来には?死にゆく人が今まで悔いなく生きてきたという過去の清算だけで、真の平安は得られるのでしょうか?ホスピスでは“宗教関係者”というスタッフを置くのは、このためでしょう。(“ホスピスは元来中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。”:Wikipedia“ホスピス”より引用)過去に対してだけではなく、死んだ後に対する永遠の希望に対してのケアこそが重要だとおもいます。イエス・キリストがこのように言われました。「私は、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。あなたはこのことを信じますか?」(ヨハネ福音書112526節)私自身はこれを信じているので、たとえ癌が再発、またはどこかへ転移して死ぬかもしれないが、死んだ後のことの確証が与えられているゆえ、ものすごい感謝なことだと思います

○自分が生きている(生かされている)意味

もちろん、「神様、私はまだ40代です、もう少し生きさせてください。」とも祈るし、癒しを願えば神は癒してくださる方だと信じています。2000年前、キリストは病気を癒してほしいと願う人、貧しい人、社会から罪人として疎外されている人々に近づき、心と体の病を癒された。神の子なのに我々人間をなんとか救うために、人としてわざわざ生まれてきて、30歳の頃3年半の間人々に罪の悔い改めと福音を伝えられた。その期間、多くの病気の人が癒された。人間を創造された神に対して、神なんかいない、自分が一番なんだと生きる姿勢、それこそが一番大きな根源的な罪です。神はご自身が造られた人間一人一人をどんなに大切に思って愛されているかを、キリストを通して知らせたい、この罪を赦し神と人との関係を和解させるために、キリストは私たち人間全員の罪に対する罰を代わりに受けるために十字架刑で死なれました。そして3日後に神がキリストをよみがえらせ、天国に帰り永遠に生きておられます。このことを信じるだけで救われ、自分が生きている意味を知る、つまり神のよい働きのためにひとりひとりの人生に神の計画があること、死んだ後も永遠に天国で神の子供として生きられるという希望が与えられこと。正直にいうと、私は信仰が与えられていても感情のアップ・ダウンがあり、この信仰が弱り悲しみに落ち込むこともありますが、必ずあとで引き上げられるのです。それが聖書のことばであったり、他のクリスチャンからのこの信仰を思い起こさせて励まされたり、弱い私は一人の力ではとても固く信仰を持ち続けられないのです。それでも、私がどう祈ったらいいか分からないほど失望したり、悲しみに沈んだりする時、信じた時に与えられる聖霊が私のために天の神にとりなして、かわりに祈ってくれるので安心です。(ローマ人への手紙826節)どちらにしても自分の寿命は自分でコントロールできないのです。私はキリストを信じた時から、もはや自分のために生きるのではなく、神の子であるイエス・キリストを通して、私を死と罪から救い、神の子供として永遠に天国で生きられるという恵みを与えられていることがどんなに嬉しく、感謝でいっぱいで、心に平安を与えられることか。私はそもそもこんな恩恵を与えられる資格や価値がないものなのに。でもそれこそが神の恵み、見返りを求めない無償の愛が神の愛。この世で生きることは永遠の世界のことと関係していて、今の生かされている間神のために何か役に立ちたい、この福音を知らない人に伝えていきたいという思いがあります。寿命をのばしてもらうとしたら、自分のための寿命でなくて、神のために私にも少しなすべきことがあるから延ばされると信じています。



   
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