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(聖書の中の女性達  No.5)
  
フィラデルフィア日本人キリスト教会での礼拝メッセージ 

July 10, 2016


メッセージタイトル

 
「心を注ぎだす祈り:ハンナ」
               

聖書箇所 サムエル上1章10-28節

 

ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」...   「ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。 この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。」


○心に悩みのある女性

 

 ハンナという名前は、「恵み」、「慈しみ」という意味です。彼女はエフライム人のエルカナ(「神が所有した」、「神が創造した」という意味)の妻でした。エルカナはイスラエルの堕落していた士師の時代にあって、「年ごとに、・・・万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。」(3節)とあり、当時の数少ない主に誠実な人の一人でした。彼は妻ハンナを大変愛していましたが、彼女の不妊の故、二人目の妻ペニンナを迎えて子孫が絶えないようにするという風習に従ったのでしょう。不妊の女性としての悩みと、ペニンナによる嫌がらせにより、ハンナは「心に悩みのある女」として辛い日々を送っていました。ハンナは、「泣いて・・・食べることもしなかった」(7節、10節)とあり、精神的に強いタイプではなかったようです。

 

○ ハンナの信仰

 

 聖書の中で不妊の女性の話しが多いことに気づかれると思います。アブラハムの妻サラ(創1130)、イサクの妻リベカ(創2521)、ヤコブの妻ラケル(創30章)、マノアの妻でサムソンの母(士13章)、ゼカリヤの妻でバプテスマのヨハネの母エリサベツ(ルカ1章)、主がこれらの女性たちを用いてご自分の栄光を表されていますが、ハンナの場合は特に、主への深い信仰が観察されます。主がその胎を閉ざされたから」5節)とあることより、そこには「神の意図」があり、ハンナはそれを知っているが故に彼女自身ではどうにもならないという悩みの中でも、主に恨み言を言わず祈り続けていた姿勢が注目に値します。サラのように全ての問題を夫のせいにし、ハガルに強硬な態度を取ることもできたし、またラケルのように夫に文句を言うこともできました。もしくは、もう祈るのを諦めて、他のことでその苦しみを紛らわすこともできた。しかし彼女はこれらのことをせずに祈り続け、その信仰は弱ることなく、かえってこの苦難の中で彼女の信仰は強められ、続く心を注ぎだす祈りに至ります。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇 119:7)という経験をハンナは通過しました。

 

 

イエス様の不正な裁判官の譬(ルカ18:1-8)のように、祈りが中々聞かれず、かえって苦難が増すような苦しい状況にあっても、神様に信頼し、諦めずに失望しないで祈り続けることをこのハンナの信仰からも学ばされます。

 

○ハンナの祈り:心を注ぎ出す(15節)

 

 ここで言う「心」とは、ヘブライ語では「魂、生命、全人格」を意味する言葉で、「心を注ぎ出す」とは「わたしの命、わたしの魂、自分自身を注ぎ出す」と訳せます詩篇102にも「苦しむ者が思いくずおれてその嘆きを主のみ前に注ぎ出すときの祈」とあります。ある姉妹がご自分の人生における苦難について、後にこう言っておられました。「この苦難が与えられていなかったら、自分は真剣に神様を求めず、日曜だけクリスチャンになっていたでしょう。」試練には主のご計画があり、本人にとっては非常に辛いのですが、そのことを通して心を注ぎだして真剣に祈ることへ導かれます。ハンナは苦しみが極みに達し、主の宮において涙の祈りをささげました。「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません。」11節)ここで自身を「はしため」としている表現より、ハンナが自分が何者でもない、低い謙遜な姿勢で祈っている姿を、私たちも忘れずにいたいと思わされました。

 これまでのハンナの思いは単に子供が欲しい、子供を授かれば自分の恥をぬぐうができ、ペニンナからもいじめられないと思っていたかもしれません。しかしハンナが心を注ぎだして神様に祈るとき、彼女の祈りの動機が変えられたのです。つまり主の側からは、サムエルという重要な預言者の母となる女性の霊的成長を待っておられた、彼女の祈りが神様のみ心と一つになるのを待っておられたのではないでしょうか。まだ身篭ってもいない、それも男の子という指定で「一生の間主におささげします」(12節)と宣言できるとは、ハンナの信仰理解の中に、与えられたものを神にささげることが祝福という確信があったと伺えます。そして遂に祈りが答えられた後に、ハンナはその感謝と喜びをハンナの賛歌として、素晴らしい主への賛美を捧げていますが、これは彼女の主への深い礼拝の心の表れです。Iサム2:1-10

 

 

 私たちが何か悩みや思い煩いが生じたときに、心の内を注ぎだして祈り、それが単に自分の狙いや希望のみを祈って終わるのでなく、イエス様が祈られたように、たといそうでなくても「どうか、みこころが行われますように」(マタイ26:42)と祈れるように変えられたいと願います。また「その顔は、もはや悲しげではなくなった。」(18節)とあるように、わたし達が全てを主に委ねた時、私たちの顔に、何かを確信したような余裕が表情に出て、以前のようではなくなるでしょう。

 

○預言者の母となるハンナ

 

 こうして、主が彼女を顧みられたので、ハンナには男の子が与えられ、サムエル(「神の名」という意味)と名づけられました。ある注解者達によると、ハガルがアブラハムに生んだ イシュマエルとヘブル語(「神は聞く」という意味)で似ていることから、サムエルは「神からの答え」、「神の聞かれた」という意味とする説がある。ハンナの敬虔な信仰の姿勢は、たとえ乳離れするまでの限られた養育期間(当時では3歳位)だけとしても、幼子サムエルに大きな影響を与えたに違いありません。

また ハンナには更に5人の子供たちが与えられたと書かれています。(Iサム2:21)「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)という約束の通りです。

 

 

  私たちの人生においても、ハンナのようにある時期、苦難による悩みの只中にあったとしても、これらの苦難は神様の摂理の中にあるものとして、肯定的な意義を見いだし、励まされて前進できるよう、聖霊に助けて頂きたいと願います。そして、何事も諦めずに心を主に向け、心からの信頼をもって祈り続けたいと、ハンナから学ばされます。この過程において聖霊により、自分の願いや動機が神様の願いに変られていけたら、どんなに素晴らしい主の栄光が表され、それが私たちにとっての喜びとなることでしょうか。私たちもこのハンナの信仰に倣う者になりたいと願います。

 

 

”聖書の中の女性達5 ハンナ” 「恩寵と真理」 201610月号 同信社 掲載

 


 

   
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