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(聖書の中の女性達  No.6)
  


 
「命をかけたとりなしの祈り:
エステル」
               

「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」(エステル4:14) 

○神の摂理

 エステルというユダヤ人の女性は、前478年にペルシャのクセルクセス(アハシュエロス)王の王妃となりました。これはユダヤ人がバビロニアの捕囚後、エルサレムに宮が再建されてから40年後であり、エルサレムの城壁が再建される約30年前となります。エステル記には「神」という言葉や、礼拝的な用語が一切記されていませんが、明らかに神の摂理が働き、メシヤが生まれるへブル民族を絶滅の危機から救う役割が彼女に与えられています。

 エステルはペルシャ語で「星」という意味で、ヘブル語名は「ハダッサ」(2:7)であり、ミルトスという灌木(ゼカリヤ1:8)を意味します。ミルトスの花が星の形に似ていることも彼女の名前に由来していると言われます。彼女は幼い時に両親を失い、年の離れた従兄であるモルデカイが養女として引き取っていました(2:7)。モルデカイはシュシャン城の門を守る役人であったのか(2:21, 5:13)、宮に比較的自由に出入りが出来る立場であったようです。王妃ワシテの失脚退位後、多くの美しい女性の中からユダヤ人のエステルが王妃に選抜されたのは、まさに神の御手が働かれたからです。ユダヤ人にとって、この王妃エステルのユダヤ人救済のストーリーは、プリムの祭りとして毎年祝われ続けています。

 彼女には王の目に留まる容姿の美しさだけではなく、モルデカイの言いつけを守る従順さ(2:10, 20)、人格的美しさ(「すべて彼女を見る者に喜ばれた。」2:15)、また、後に彼女が断食を伴う命をかけてとりなす姿(4:16)には、神への信仰深さが伺えます。


○モルデカイの信仰とユダヤ人存続の危機

 時に王の寵臣ハマン(アガク人*1の子孫)は、自分にひれ伏さなかったモルデカイに怒り、ペルシャ帝国内全てのユダヤ人虐殺の法令を王より得ます。唯一の神にのみを礼拝するユダヤ人にとって、ここでのハマンの前にひれ伏す行為は、単なる会釈ではなく礼拝に相当する行為であり、彼は決して妥協しませんでした。ここに彼の強い信仰心が見受けられ、養女エステルへの影響があったと察せれます。20世紀のホロコースト同様、ユダヤ人虐殺の背後には、いつもサタンの働きがあります。

○タイミングを待つ

 モルデカイより同胞のために、勅令取り消しを王に願い、命乞いをするようにとエステルに伝えらえました。エステルの最初の反応は常識的なもので、王の召しを受けずに王の内庭に入るものは殺されるという法律への恐れです。また、虐殺の法令施行まで11ヶ月あるということを考慮し、王から呼ばれてからでも遅くないとの安全策を考えたのかもしれません。しかし、彼女の伝言を聞いたモルデカイのエステルに対しての返答は厳しいものでした。「あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(4:14)。事の緊急性を信仰で受け止めたモルデカイは、エステルにこのようにチャレンジしました。あなたが今しなければ、他の人を通してユダヤ人救済の手が起こされるからと。エステルは選択に迫られ、神に祈ったことでしょう。そして祈りの結果、「(このために)わたしがもし死なねばならないのなら、死にます。」(4:16)と自分だけではなく、同胞の民と共に断食をして祈りを捧げ、全てを神に委ねようと行動を起こしたのです。ここに、彼女の強い献身者としてのとりなす態度が示されています。


○徹底的勝利の実施

 こうして彼女は神の守りのうちに、王の召しがないのに王宮の内庭に立ちましたが、王に金の笏を受け、嘆願するチャンスを得ました。しかし、彼女は与えられた機会にすぐに飛びつかず、二回も王とハマンとの宴会を催し、嘆願を先延ばしにしました。もし彼女がすぐに王に嘆願をしていたら、モルデカイの栄誉とハマンとその子孫の死までに至らなかったでしょう。エステルがこのことを全て計算した上ではなく、ただ神に祈りながら、機会を待つという知恵を与えられたのだと思います。また、一見冷酷ともいえる、ユダヤ人の敵を徹底的に滅ぼすという彼女の願いは、再び起こりかねない反ユダヤの残党による報復を根こそぎ絶つためであったと思われます。

 ここで示されたことは、人間中心の世的な思想、哲学や主義と、自分の内に残る古い性質の部分に対して「これくらいは大丈夫。」と妥協をせず、聖書の言葉を第一にし、神様に従うことの重要性を学ばされます。その結果、批判されたり、嘲笑されるかもしれません。しかし、小さなパン種が大きく膨らむように(ルカ13:20, 1コリ5:6-8)、少しの妥協が神の民全体や教会に悪影響を及ぼしかねないのは、キリストの教の歴史を見ても明らかです。


○とりなしの人エステル

 エステル程の大きな役割でなくとも、現代に生きる私たちは、生活の中で、犠牲を払って他者の為に何かをしょうとする場面に遭遇するかもしれません。そこで、無理だからと断ることもできます。もしくは自分には不可能でも、神様のみ心ならば信仰で踏み出してやってみて、後は神様にお任せよしようと受けることもできます。神さまは強制されないし、その人が断れば、他の人を選んでその役割を回されます。

 エステルという女性を通して学ばされることは、自己犠牲を伴う他者のためのとりなしの姿勢と、神の御手において全てのことが良きに変えられるという神の摂理に対する信仰(ロマ8:28)がたとえ欠けていたとしても、ないままの自分を神様の前に差し出し、祈って求め続けようと思わされます。

 私たち教会はキリストの花嫁ですから、キリストの王国の王妃として、まだキリストの救いを信じていない人々のためにとりなす役割が与えられてるのではないでしょうか。エステルのとりなす者としての姿勢は、モーセとパウロのように滅びゆく同胞の救いのために、自分の名が命の書から消されようとも(出32:32)、この身が呪われようとも(ロマ9:3)救ってくださいと祈った姿勢と共通しています。

 日本人として同胞の救いのために真剣に祈るには、まず自分の中にリバイバル(信仰復興)が起こる必要があるのではないでしょうか。また、エステルのように、知恵と分別を神様に求め、あせらずにタイミングを待ち、ここぞというところで自分を差し出す時がくる迄、日頃から祈り、み言葉により示され、神の導きを求めていきたいと思わされました。(口語訳)


*1 アガク人はアマレク人(出17:8,Iサム15章)の子孫。   

アガクはアマレク人の王の名もしくは称号(民数記24:7,1サム15:8-9)。                 


参考文献: 新聖書公開シリーズ 旧約9(エステル記) 藤原忠明 

工藤弘雄 著 いのちのことば社 1989


 

 

   
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