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(聖書の中の女性達  No.7)
  
 

 「イエスの母:マリヤ」
               


「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカによる福音書1章38節) 

 

○マリヤ:苦難の人生

 
 マリヤという名はヘブル語のミリアムのギリシャ語音訳であり、モーセの姉ミリアム(出エジプト記15章20-21節, 民数記12章1節, ミカ書6章4節)、およびビテヤの娘ミリアム(1歴代誌4章17節)に由来します。マリヤはヘブル語でマラ(苦い)から派生しているだろうとされ、ルツ記のナオミが自分のことをマラ(苦しみ)と呼んでくださいと言ったことが思い出されます。(ルツ記1章20節)
 

 マリヤはガリラヤのナザレ出身で、田舎の普通の少女だったことでしょう。救い主の母親として神様から選ばれるという比類のない光栄を賜った女性ですが、処女で妊娠するということにより、当時、姦淫で石打ちの刑に処せられる危険性もあったはずです。当時のイスラエルでは、女性は10代で親同士が決めたいいなずけと結婚していたそうです。折しもヨセフ(ダビデの家系、大工で、正しい人;ルカ1章27節、マルコ6章3節、マタイ1章19節)と婚約中で、法的には結婚と同じ意味を持っていましたが、まだ同居を始めていなかったので彼女が処女であったことが記されています。(マタイ1章18節)その婚約期間に聖霊によっての妊娠を受け入れることは、ある意味死を覚悟することだったでしょう。よって全面的な信頼を神に持つことのできた、勇敢な女性でした。またヨセフと共に神殿で捧げものをした場面(ルカ2章24節)で、小羊を捧げることができず2匹の山鳩を捧げていたことから、貧しい家庭であったことがわかります。(レビ記12章8節)


 「そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」(ルカ2章35節)とある、シメオンの預言のとおり、マリヤはイエスの母としてどれ程胸が剣で刺し通される思いを体験したことでしょうか。そのことを弟子ヨハネは、十字架に架かるイエス様の御元にいたマリヤについて記していますが、母として息子の十字架刑を傍観しなければならない辛さは想像を絶します。イエス様の母親として彼女の人生は色々苦難が多かったことが察せられます。このようにイエス様の母親として彼女の人生は苦難が多く、よって彼女の名の由来がマラ(苦しみ)というのも関係があると思います。
 
 


○聡明で謙虚な心

 
 マリヤの極めて優れた品性として挙げられる点のまず一つ目は、その謙虚さと従順さであると思います。突然天使が目の前に現れて「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ12章7節)と言われ、聖霊で妊娠するという、あり得ないことが自身に起こることを告げられても、従順にそのことを信じて受け止めたことは驚くべきことだと思います。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1章38節)とあるように、自身を『はしため』であるとして、決して高ぶることなく、その通りに従いますという態度は十代の少女では突出すべき優れた姿勢ではありませんか。
 

 また、彼女はイエス様の公生涯においてなされる大いなる御業、奇跡や教えを目の当りにし、三十年前のお告げの通りやはり彼は神の子であるということを受け止めつつ、一方で三十年間普通の親子として過ごしてきた事実もあり、ははあとして彼女の中に多くの葛藤があったはずです。しかし、カナの婚礼に記されている記事からわかるように、彼女は決して母親ぶらず、イエス様の指示にそのまま従う態度は、彼をもはや息子ではなく、救い主(メシヤ)という存在として、謙虚に従うし姿勢の現れであると思われます。


 二つ目には、彼女が賢く聡明であったことです。イエス様の懐妊のお告げから12歳になって神殿に登った時までに、彼女の周りにイエス様にまつわる驚くべきこと、不思議なことが起こったにも関わらず「しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。」(ルカ2章19節)と人に他言をすることもなく、疑問を他者にぶつけることもなく、心に秘めていた点から彼女の聡明さが窺われます。またマリヤはみ使いから告げられて、親類のエリザベス(洗礼者ヨハネの母)をすぐに尋ねたのも賢明だと思います(ルカ1章36節)。当時彼女の不思議な立場を理解できたのは、夫のヨセフとこのエリサベツだけだったでしょう。不妊で年老いたエリサべツの奇跡的懐妊を目の当りにし、自身の不思議な喜びの報せを分かち合えたことは、どんなに励ましと慰めになったことかと思います。
 



○信仰の現れ:マリヤの賛歌
 

  ルカ1章46-55節の箇所はマリヤの賛美の歌で、マニフィカートと呼ばれ後に教会音楽の曲名としても有名であり、ハンナの賛歌(Iサムエル2章1-10節)に共通するところがあります。十代の少女が神様に対する賛美をここまで深く表せることにも感銘を受けます。この賛歌には、彼女の聖書のことばへの深い理解と、信仰心の深さ、神への心からの礼拝が表されています。マリアの賛歌の中には、律法、詩編、預言書の引用と思われる表現が多数見受けられるからです。例えば、48節はIサムエル1章11節と詩編102篇17節、136篇23節、マラキ3章12節と類似していますし、49節は詩編71編19節、126編3節と、また54,55節は詩編98編3節、イザヤ44章21節、詩編105篇5-9節と似ています。この賛歌では全体として神様がどんなに素晴らしい方かを讃え、彼女を心にかけてくださっていることへの感謝があらわされ、私たちも同様にこのような賛美をいつも神様に捧げたいと思わされます。



 
○イエスの母として


 イエスの誕生の記述以降については、聖書はマリヤについてあまり多く語っていません。特にイエスの公生涯においては、「マリヤ」もしくは「母として登場する箇所少なく、一つはヨハネ福音書で記されるカナの婚礼の時、次に「母上と兄弟がたが、お目にかかろうと思って、外にたっておられます」(ルカ8章20節)との知らせがあった時です。そして最後はヨハネ福音書が記すように十字架のもとで、イエスがマリヤを弟子ヨハネに託された時です。(ヨハネ19章26-27節)
 

 イエスの生きて働かれておられた時にもすでに、母親であるマリヤに対する崇拝的考えが起こっていたことが観察できますが(ルカ11章27節)、それに対してイエスは「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれ守る人である」(ルカ11章28節)と言われ、人間としての母子関係から切り離し、逆に神の家族という視点で、神の言葉を聞いて守る人、つまりイエスを信じて従う人が恵まれていて、神の家族であることだと明言され、マリヤの特別な位置付けを退けておられます。その他の箇所からも、マリヤも救い主を必要とする一人間であること、生みの母親としての想いを抱えながら葛藤していた普通の人間らしい面が観察できます。


 
○神に従う模範的女性

 
 イエスの十字架の死の後、ルカが「使徒行伝」にてマリヤについて記していますが、彼女の名が聖書ででてくるのがここが最後となります。そこでは、彼女はもはやイエスの母親ではなく、ペンテコステの時エルサレムで共に祈っている弟子たちの一人として挙げられています(使徒行伝1章14節)。彼女が聖書の中で非常に優れている女性の一人であることは、彼女自身が崇められるような女性だからではなく、「神」が彼女を特別に用いられた点であります。しかし、彼女の信仰深さと謙遜と従順をもって、神と御子イエスに従う姿勢において、優れた女性であります。
 


 生活の中で、私たちがどんな状況に置かれても、長期的に見通しが立たず希望が見いだせない状況においても「神には、なんでもできないことはありません」(ルカ1章37節)というみ言葉を素朴にそのまま信じつつ、神に従うという立場と態度を忘れずにいたいと学ばされます。人間的には胸が刺し通されるような苦難を抱えていた中で「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1章38節)と自分の希望や願いではなく、神の御旨がなるようにと祈り求めたマリヤは、神が特別に用られた、私たちが信仰の先輩として目指す女性として、尊敬の念を持ちたいと思います。
 


”聖書の中の女性達7 母マリヤ” 「恩寵と真理」 2017年2月号 同信社 掲載


 

   
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