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(聖書の女性達 No.10)
  
 

 「マリヤとマルタ」

 

○主イエスの愛された姉妹

  マルタとマリヤは、ベタニヤというエルサレムから 3キロメートル離れた村に住み(ヨハネ11:18)、イエス様に従っていた女性たちで、彼女たちの兄弟ラザロは、病気で死んで四日経っていたのに、イエス様に生き返らせて頂いた人です(ヨハネ11章)。この家族とイエス様の関係は「イエスは、とその姉妹とラザロとを愛しておられてた」(ヨハネ11:5)とあるように、とても親しかったようです。またイエス様は、最後の一週間はベタニヤとエルサレムの間を往復されていました。この二人の女性は単独でも聖書の中の女性として特筆することはたくさんありますが、いつも二人組で出てくるというのはそれなりの意味があるはずですので、イエス様がこの二人と関われた時の3つのエピソードから学びたいと思います。
 
○仕えるマルタとみ言葉に聞き入るマリヤ

  ルカ10章では、イエス様がベタニヤへ来られると、マルタが迎え入れたと記されています。マルタはこの大事なお客様のもてなしのために、どんなに張り切っていたことでしょう。その時代では(現代でも)、女性たちが食事の用意をして、家の主人(男性)がお客に対応していました。しかし、当然手伝ってくれるであろう妹のマリヤは、主の足もとに座り、御言に聞き入っていたのです(ルカ10:39)。おそらくマルタは、弟子たちを含む大勢のお客をお迎えし、接待のことであれやこれやと忙がしくて、台所で料理の準備に独りで大奮闘していたと察します。とうとうマルタはイエス様のところにきて「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」(ルカ10:40)と、皆の前でイエス様に訴えるまで心を取り乱してしまったようです。
 
 マルタは他者(妹)との比較により、自分だけあくせく働いて不公平だという不満が高まったとからとは言え、主賓であるイエス様に対してこの発言はあまりにも非常識です。そこまで取り乱す前に「マリヤ、ちょっと来て」と台所に呼び、彼女に直接手伝うように言えば済むことだったはずです。この発言は、マリヤを皆の面前で辱めたことにもなり、たとえ食事の用意が素晴らしかったとしても、それらは全て台無しになったでしょう。  しかしイエス様は、マルタに2回優しく名前を呼び掛けてこう答えられました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」(ルカ10:41-42)。マリヤの選択を良いとされ、何が重要なことかを教えられました。
 
 この箇所から考えさせられることは、個人として、また教会での信仰生活において「無くてならぬもの」とは何か、何が優先順位とされるかという問いかけです。教会はキリストの体であり、教会において、パウロが例えているように、キリストを信じる個々人が全て必要な各器官で、各々役割があります(Iコリ12:12-27)。しかし、何の役割を担うとしても、頭の部分であるキリストにつながっていることが必須です(エペソ1:22)。頭が指令を各体の器官に送り、それに従って各々動くように、私たちはイエス様を信じて礼拝し、そのみことば(聖書のことば)に聞き従うことが全ての奉仕の大前提ではないでしょうか。マリヤが選んだことを心に留めつつ、教会での奉仕に励んでいきたいと思わされます。
 
○マルタの信仰

  兄弟ラザロの死に際し、イエス様に対するこの姉妹の態度は異なっていますが、共通している点があります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21,32)という、主が共にいてくださらなかったという嘆きと絶望でした。一方マルタは、この言葉に続けて「しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」(11:22)と語ります。マリヤはイエス様にひれ伏して、それ以上何も語れずに泣き崩れていますが、マルタは嘆きつつも、主イエスが神に願えば何でもかなえられることを信じ続けるという彼女の信仰の強さが伺えます。更にイエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。…あなたはこれを信じるか」(11:25-26)と問われると、マルタは「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」(11:27)とはっきり表明します。マルタは、ラザロの死という絶望の中において、キリストであるイエス様に望みを置こうとした強い信仰を持つ女性として、特筆されることだと思われます。
 
○香油をイエスに注ぐマリヤ

   イエス様が再びベタニヤのこの家族の家へ招かれた時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤(326g)を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふきました(ヨハネ12:1−8)。マタイやマルコでは彼女は「ひとりの女」とされ、「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう 」(マルコ14:9)と記されています。なぜマリヤはそんな高価な香油を惜しげもなくイエス様に注いだのでしょうか。
 
 彼女はイエス様の足もとで、じっとみことばに耳を傾け続けることのできる人でした。だからこそ、イエス様がご自身の死と復活のことを語られた時、弟子たちは理解できなくても、彼女なりに受け止め、葬りの用意として高価な香油を差し出したのでしょう。彼女の行為は、イエス様の十字架の受難の直前という、「この時」になされたことに意味がありました。イエス様の言われた「この女はできる限りの事をしたのだ 」(マルコ14:8)というのは、マリヤが今という時に、イエス様への愛を示そうとしたこと、それをイエス様が受け取って下さり、評価されたのではないでしょうか。
 
 私たちは、マルタから失望せずにイエス様を信じ続ける強さ、そして熱心に仕える心と、マリヤからイエス様を礼拝し、そのみ言葉に聞き従う姿勢とを学ばされます。そして、これらを心に留め、聖霊の助けを求めつつ、イエス様の愛に応答し「今」できることをして行きたいと願います。(口語訳)
 
 
”聖書の中の女性達10 マルタとマリヤ” 「恩寵と真理」 2017年8月号 同信社 掲載


 

   
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