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(聖書の女性達 No.11)
  
 

 「マグダラのマリヤ:最初の復活の証人」

 

○復活されたイエスとマグダラのマリヤ

   マグダラのマリヤはマグダラという地方に住んでいた女性で、マリヤという名は当時多かったので、そのように呼ばれていたようです。新約聖書の他の三つの共観福音書には彼女について、七つの悪霊を追い出して頂いた女性として、イエスに従ってきた女性たちの一人であり、また主が十字架に架かった時と埋葬の時も、他の女性たちと遠くからみ届けていたこと、そして週の初めの日にお墓に香油を塗りに行き、復活のイエスを目撃した女性たちの一人であることだけ記されています。
 
復活されたイエスが墓の前でマグダラのマリヤに現れ、個人的な会話された様子をヨハネの福音書が特に記しているのはなぜでしょうか。それは他の福音書が記していない弟子たちへの重要なメッセージを、マグダラのマリヤに託したていたことをヨハネは記したかったのだと思います。
 
○空の墓の中に主イエスを探す

   彼女は最初は、空っぽの墓を目の当たりにし愕然とし、誰かが主の遺体を取り去ってしまったと思ったのです(ヨハネ20:2)。彼女は墓の前で泣き続けていたので、「女よ、なぜ泣いているのか」(13,15節)と墓に現れた御使たちと復活されたイエスより問われています。この泣くという原語(ギリシャ語)の動詞は”泣き叫ぶ”という激しい泣き方であり、彼女がどんなに敬愛するイエスの死を悲しんでいたことか、また亡くなった後もせめてその遺体にお会いしたいと思って墓まで来たのに、それがないと知って途方にくれていた様子が伝わります。彼女の「だれかが、私の主を取り去りました」(13節)、「私がそのかたを引き取ります」(15節)という発言からも、あたかも自分がイエスの親族のような思い入れが現れています。
 
 そのような状態にあったので、目の前にイエスが立っていて彼女に話しかけても、気が付きませんし、生きているという想定は持っていない為、イエスが傍にいても、わからないのです。彼女がイエスだと気づいたのはなぜでしょうか?それは、「マリヤよ」(16節)と羊飼いである主に名前で呼ばれたからです。羊飼いは自分の羊を知っていて、羊をその名で呼び、そして羊はその声を知っているのでついて行くのである(ヨハネ10:3-4参照)とイエスが言われたように、彼女はその声を知っていて気がつき、「ラボニ(先生)」と呼び返しました。
 
  この後、弟子のトマスはマグダラのマリヤを含む女性たちや弟子たちの話を聞いても疑いましたが、そのトマスの前にイエスが現れて下さった時、トマスは「わが主よ、わが神よ」(28節)とイエスを復活された神の子と即座に認識しています。このことと比較しても、マリヤはこの時点でイエスをまだ教師としてとらえていたと思われます。
 
○復活されたイエスとの新しい関わり

  ここでイエスはなぜ「私にさわってはいけない」(16節)と言われたのでしょうか。もし文字通りにとると、ルカ24:39にはイエスが弟子たちの前に現れ「さわって見なさい」と驚く彼らに言われ、また疑っていたトマスには物理的に触って確かめるように言われているのに(27節参照)、マリヤにだけ体に触れるなと言われたこととなり、一貫性がありません。ここは新改訳では「わたしにすがりついてはいけません。」(16節)と訳されていることからも、つまり、復活された主イエスとは新しい関わりが始まるのだから、古いイメージのままで私にすがりつくなという意味で、今迄のマリヤのイエスとの古い関わり方に決別を告げるという意味が含まれているとの解釈があります。
   
 イエスがここで初めて弟子たちを「兄弟」と呼んでいるところにも、イエスがマグダラのマリヤに託された弟子へのメッセージ:復活の主との新しい関係が表されています。「私の兄弟たちの所に行って」(17節)とあるように、彼らはもはや弟子ではなく、イエスを長子とする神の子供とされるので、兄弟と呼んで下さっています。「『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』 」(17節)とあるのは、イエスと天におられる父なる神様との親子の関係を与えて下さるという救いの恵みが示されているからです。イエスとの新しい関わり方は、眼に見えなくても、いつも共にいて下さる存在である主を愛し、その教えに従い、主を通して天の父になんでも祈れることです。イエスを通して、天の父を親しくお父さんと呼ぶ特権が与えられ、イエスが天で私たちのためにとりなしてくださるという新しい関係に変わるのです。この重要なメッセージをマリヤは託され、弟子たちに伝える役割を与えられたことは、聖書の中の女性のなかで特筆すべき恵みではないでしょうか。
 
○主イエスの復活の証人として生きる

  
 現代に生きる私たちも、復活されたイエスと出会い、信じる必要があります。イエスが十字架にかかり、私たちの罪の為に代わりに死んでくださり、罪が赦されたことだけでは、救いは完成していないからです。聖書では福音の重要なこととしてパウロが次のように記しています「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである (Iコリ15:3-5」)。このマグダラのマリヤや弟子たちのように、私たちも復活の主イエスと霊的に会うことで、新しい関わり、新しい人生が始まります。霊的には古い自分は死に、イエスと共に新しく生かされていることを信じる信仰が大切です。もし信じた後も、何も心の中が変わらず、喜びもなく、ただ教会に通っているとしたら、それはまだ復活の主に出会っていないのかもしれません。しかし、そのことに気が付き祈り求めれば、イエスの復活が自分の人生にも適用されているという信仰が与えられ、救いの確信を持つことが出来、喜んで他者に救いの喜び、福音を伝えていけるようになるでしょう。
 
 マグダラのマリヤは最初のイエスの復活の証人として、大切な主からのメッセージを私たちにも伝える器として用いられました。神様は男性である弟子たちではなく、当時社会的に低い地位で、裁判では証言できない女性をその証人として選ばれました。このように、神様はご自分の計画のために私たちが誰であっても、社会的地位、能力の有無に関わらず、私たちを用いて下さいます。そのために、私たちをこの世に遣わす為、真理によって聖別されるようにと、イエスが天の父に祈って下さっていることにより励まされます(ヨハネ17:18-19参照)。復活の証人として様々な形:直接的でも間接的でも、イエス・キリストの福音を運ぶ器として用いていただけるよう、祈り求めたいと思います。(口語訳)
 
 
”聖書の中の女性達11 マグダラのマリヤ:最初の復活の証” 「恩寵と真理」 2017年10月号 同信社 掲載


 

   
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