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益子教会でのメッセージ

   ○Jan. 10, 2021 「キリストに結ばれて歩む」
    
 
 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」 コロサイ信徒への手紙2章6-7節
 
皆様 おはようございます。本日は、大下牧師が土浦のフレンドという教会の礼拝で説教奉仕に行っていて不在であります。こういう機会に、ピンチヒッターで益子教会でのメッセージの奉仕をさせて頂けることは、とても幸いです。
 
さて本日のメッセージのタイトルは「キリストに結ばれて歩む」です。この新共同訳では「キリストに結ばれて」と訳されていますが、口語訳と新改訳では「キリストにあって」となっています。英語のNIV訳ですと「「continue to live your lives in him,?」NIJ  英語の直訳 「キリストにあってあなたの人生を生き続けなさい。」 現在進行形となっています。この一時だけでなく、続けるというのが、原語のギリシャ語の文法上からこのように訳されていると思います。私はこの英語の役、キリストにあってあなたの人生を生き続ける というのが実践的に思えます。キリスに結ばれて歩むとは具体的にどういうことでしょうか。み言葉を通して知ることができます。キリストを信じ、キリストの弟子になるということは、一般的にいっても弟子は師匠に倣い、従うものです。ですから、イエス様がどういう方であったか、またどう言われたか(その教え)を信じ、実践していくことだと思います。
 
例えば 神様を信頼し従うこと、キリストが命じたように、私たちも互いに愛しあうこと、キリストが真理の光であったように、私たちもこの暗い地上にあっても、光の子らしく生きること。 これらの実践は、大変です。むしろ、自分の力でやることは不可能ではないでしょうか。だから、私たちは、神様にそうなれるように、日々助けを求めて祈り、私の心を変えて頂くよう、祈り続ける必要があると思います。
 
新約聖書の大半を占める、使徒パウロの手紙の特徴は二つの部分からなると言われます。前半には神が私たちのために何をなしてくださったかを記している部分(教理)と、 後半はそれに基づく生活の中での適用を命令ではなく、「勧めます」という勧めで述べられていることが多いです。決して強制的ではなく、私たちの自発性が促されているのです。この「自発性」ということはとても 重要です。それは恐れや洗脳で強制されてではなく、みずから責任をもって神様の愛に応答し、キリストに従おう、みことばに書いてある通りにしようと、思える心です。
 
 
私たちはキリストにあって、新しく生まれ、神のいのちにあずかったわけですから、神様を知ることができますし、ますます神様を知りたいという願いを持つようになっていきます。一方、神様を信じていない人は、神様から遠く離れてしまい、 神を知りたいという願いもなく、むしろ神を知る事を拒絶する心があります。日本人の多くは、八百万の神といわれる宗教的文化を持ち、自分が表面的に拝む神、たとえば御朱印をもらって利益をいただく、願いが叶う、ようは自分の想う通りにしてくれそうなら仏も神道の神も何でもよいのですが、ただ、特定の宗教に熱心になることを敬遠します。なぜなのでしょうか。おそらく、それに入り込むと今の自分が自分でなくなっていまう、洗脳されるという恐れを抱いて、拒絶するのかもしれません。特に、オウム真理教というカルトが事件を起こしてからそういう風潮が生まれています。宗教は怖いと。ですから、そのような宗教を真剣に信じることを恐れる日本人は、自分の都合のよい神をつくります。それはある意味、自分が神なのです。自分のことは自分がコントロールしたいからでしょう。日本人は神ということばを乱用します。神業、神なんとかと、なんでも神をつける。神の名をみだりに唱えてはならにという律法を持っているユダヤ人の方々が聞いたら驚くことでしょう。
 
一方で、日本人でも何人でも、神様を求め、真理を求めている方々もおられます。神様は求めている方々に、必ず、ある時に、またある方法でご自分を現され、信じられるように導かれます。教会には、大勢ではないですが、ぽつぽつと、教会の門をたたく人、また礼拝に来るのでなくとも、聖書に興味をもち、聖書勉強会に来られ方もおられます。私はアメリカに住んでいた時は在米の日本人向けに、また西那須野に住んでいた時は近所に住む方と、また西那須野幼稚園のログハウスをお借りして、園児の保護者向けに小さい家庭集会を開く機会が与えられてきました。そこに口コミでこられる方々は、皆、神さまを求めておられ、今は全て理解できなくとも、聖書の言葉に耳を傾けるために集まって下さりました。私はみことばを説明し、また共に各自祈ってほしいことを分かち合い、お祈りし、そしてその後お茶を飲みながら団欒の時が持っていました。今のこの制限された社会を考えるとほんとに、自由な時代ですね。またいつか機会があれば聖書勉強会をしたいと願っています。私は、信徒としてこのような伝道する機会がアメリカでも日本でも与えられてきたことは感謝であり、私自身もこの伝道活動をすることによって、霊が喜び、神さまがみことばを分かち合う賜物を与えて下さっていることを感謝し、今は夫と共に、福音宣教のためにこの益子の地にて遣わされていることを、本当に感謝しています。このような時代にあっても、これからこの益子で神様がどのような業をなさるか、それに少しでも関われることを期待しております。
 
 このようにして求めた結果、イエス・キリストを信じる信仰に導かれ、神様のいのちにあずかった者は、益々神様の恵に感謝し、また自分の罪が赦されているという平安、本当の神様を信じる信仰を与えられ、聖書という、文字で示されている、神様のみことばにより、生活の中の小さな決断をする時、人生の岐路に立つとき、神様に聞き、また結果を委ねることができるのは、なんと幸いでしょうか。そして、その恵みに感謝すればするほど、もっと神様を愛し、ますますそのような生き方をしたいと、自発的に思えるようになります。これがキリストに結ばれて歩んでいくというプロセスではないでしょうか。
 
しかし、私自信、なかなかみ言葉をかたりながらも、その通りに出来ない、そんな自分に落ち込むというのが現実です。 これらの実践は、大変です。むしろ、自分の力でやることは不可能ではないでしょうか。そんな時、使徒パウロでさえも、ローマの手紙でこのように記していることを思い出します。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」ローマ7:21-25
 
つまり私たちの霊は救われていても、まだこの体を着ているうちは、「神さまの御心にそったよいことをしたくてもできない、また自分がしたくないことをしてしまう」という悩みは完全になくならないので、私などは「ああだめだ、クリスチャンだなん恥ずかしくて言えない」と落ち込んでしまうこともあります。しかし、パウロは、それでも私たちは、すでにキリストによって救い出されているから、大丈夫、ゆえに神様に感謝できるんだよと、励ましてくれます。なぜならこのジレンマも、キリストに結ばれてこの地上で歩み続ければ、私たちは少しづつキリストのように内側が変えられていくという希望も同時にあたえられているからです。わたしたちをありのままで受け入れて下さり、そして、その後内側を変えて下さる方だからです。
 
パウロがローマ信徒への手紙12章2節で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 」と勧めているのは、神様が私たちを何が神の御心なのか、何がよいことか、神に喜ばれるか、完全なことであるかを知れる用に、自分を変えて下さいと願えば、変えて下さるということです。聖霊の力なしに、自分の力や努力で、自分の品性や性格、考え方や思いを神様の思いにそえるようなレベルに変えることは不可能だと思います。希望は、神様はキリストのような性質に心を変えて下さる方であること、私たちがするべきことは、自分を変えて下さい、新たにして下さいと願い続ければよいわけです。神様の愛は私たちの限界や、繰り返してしまう失敗、弱さを包み込むことができ、神さまは憐み深く、寛容な方であり、私たちがキリストに在って歩めるよう、キリストに結ばれて歩めるように私たちの心の成長を、忍耐をもって暖かく見守っていてくださるのです。
 
そして、私たちには更なる希望があります。聖書の記されているように、キリストが復活されたように、私たちも、この体はいつか死んでも、天国で永遠にいきる新しい体が与えられ、もはやこのような葛藤がない、死も涙もない世界を待ち望めるからです。信仰の先輩たちも、「約束されたものを手に入れなか」いで、死んだとヘブライ人への手紙13章にかいてあります。この「約束されたもの」とは、神様が約束して下さった救いの完成のことです。この体が死んで初めて、私たちが罪と死の力から完全に解放され、また一切の苦しみや悲しみから解き放たれて、神の子として、もはや死ぬことのない永遠の命を生きる者とされることです。これはパウロが。朽ちる者が朽ちない者に変えられるとコリント信徒への手紙で表現しています。
 
「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 」 コリント信徒への手紙 第一15章52-58節
 
夫と結婚してから、毎朝二人で聖書を読み、分かち合い、祈ってから一日を始めています。どの箇所を読むかは、その年ごとに、毎日読む箇所が記されている本を購入するのですが、今年1月1日の箇所は、「私たちの国籍は天にあります」ピリピ人への手紙でした。この世は仮住まいの者(別訳は「寄留者」)であると、下記のようにヘブル人への手紙にも書かれています、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」へブライ人への手紙13章13-16節
 
本日の箇所コロサイの2:7「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」 とあり、先ほどの コリント信徒への手紙 第一15章の最後「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」とあります。私たちは 本籍は天国、天の故郷にいつか行き、づっとイエス様と神さまと共にいることができるという希望を待ち望みつつ、この世での生活をみ言葉を通して信仰を守り、そして聖霊によって日々励まされ、教えられ導かれ、あふれるばかりに感謝し、キリストに結ばれて歩んでいけるよう、日々祈り求めて行きましょう。
 
引用 新共同訳聖書 

 

   
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