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PTL Journal Vol. 11  Sep. 2009

新型インフルエンザと備え


 
「腰に帯びを締め、あかりをともしていなさい。・・・・帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。」
ルカの福音書123537





    ナイアガラの滝 Sep. 2007撮影




○新型インフルエンザの世界的蔓延

 20092月下旬よりメキシコから始まった、新型インフルエンザの世界的蔓延状態は、日々脅威のニュースとなっています。初期のころの水際対策も功を奏さず、厚生労働省が発表した2009822日現在、日本国内で確認された集団発生の事例数は47全都道府県で1734例。また感染確認事例数は、47全都道府県で9813人。この秋冬、従来のインフルエンザが流行る時期に、事例数はこの数倍に上る蔓延期となると想定されています。当初、若い世代に感染するとのことでしたが、最近は年齢や持病に関わらず感染していく事例が発表されてきています。
 私は仕事上、免疫力の弱い、介護や支援の必要な高齢者向けの療養型病院や老人保健施設、在宅サービスセンターに勤務してきた為、インフルエンザに限らず感染症全般に対しては日頃から対応には気をつけてきました。今回、新型ということもあってワクチンや薬が未だ用意されていない状況下、職場内での感染症対策持ち込まない、持ち出さない、うつらないが今まで以上に徹底されるべく、日々、マスク・手袋・消毒薬の備蓄がされ、様々な想定に対しての対応策が話し合われています。自分が感染の媒体にならないように自身の体調管理も重要です。また、今年は地震も多く、水害による死者も多く出た夏でした。関東でマグニチュード6の地震が起きた時、アメリカにいる両親がニュースを見て震度6と思って、心配して電話をかけてくれた程です。

ハリウッド映画は予告してくれる!?
 ”アウトブレイク(Outbreak)”という映画を今回の新型インフルエンザの蔓延ぶりで思い出しました。すさまじい伝染力と死亡率を持つ未知の病原体の脅威と戦う人々の映画です。多くのハリウッドのSF映画(たとえば”ハルマゲドン”とか、人類の危機を扱っているもの)についてよく観察すると、これらのストーリーは聖書を部分的にモチーフとして使っていることが多いのに気がつきます。映画では大体、ヒーローがいて危機を救うのがパターンですが。。。
 聖書ではこの世の終わりの前兆として、地震・天災・疫病・戦争がおこると予告されています(ルカの福音書21章7−11節)。また、この世の終わりの時、主・イエス・キリストが再び来られる(再臨)と書いてあるので、その時がとうとう近いのかなと最近思うようになりました。キリストの時代から約2千年後の今、科学が進み、人間の欲深さ・罪のせいで、大量破壊兵器が作られ、環境破壊が進み、戦争・テロは増大してくると、別に聖書を知らなくても地球は長くないんではと日々のニュースや映画をみれば思わざるを得ない状況になってきました。私も以前は、戦争・テロが勃発すると、どうしてこんなひどい事件が起こるんですか?戦争がいつまでもやまないんですか、神様?“と思って、ただ感情的に嘆いてみたり。そんなことを真面目に考えて、先行きを嘆いていたら、不安でやってられません。一方で皆日々の生活で忙しいから、考えている暇はないでしょう。逆に、いつ災難・事故にあって死ぬかわからないから、それまで充実して自分の好きなこと・やるべきことをしよう!死んだら終わりなんだから〜と思うか。なんだかそれも相対的で不確かに思えませんか?

○それまでどういう生き方をするか
 今までは、この世の終わりについて言及されている箇所が聖書にたくさんあり、それらの箇所を読んでも「まだ先でしょ。」「自分が高齢になって死んでから後のことだろう。」と現実感がありませんでした。私には、これらの聖書のことばが自身の信仰と結びついていなかったので、本当に再臨がいつ来るのか!という緊迫感がなかったのです。しかし、幸いにしてここ数年、聖書を創世記から黙示録までを順々に教会で教えられてきて、知識としての理解ではなく、徐々に聖霊の力で、キリストが戻ってこられることに現実感を持てるように変えられてきたようです。そして、現実感を持ってくると、逆に地震・天災・戦争・疫病の蔓延についての不安が薄れてくるのです。なぜなら、これらが起こることを恐れているより、それまでどういう生き方をするかということに焦点を置くようになるからです。それも、この世で死んだら終わりではなく、死んだあとの世界を見据えての”今”の生き方です。もちろん、それがいつなのかは、神様の他誰もわからないと聖書に書いてあります。
 この冒頭のルカの福音書のみことばを学んだ時、「キリストが今日来られるかもしれない」と牧師に言われ、では、それまで私たちキリストを信じる者はどういう態度で日々過ごすのか?と問われました。キリストがたとえでこんな話をされました。「腰に帯びを締め、あかりをともしていなさい。・・・・帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。」これは、主人=キリストが帰ってくるまできちんと目を覚まして仕える準備があること(“腰に帯びをしめて“)、その心の態度が重要だという意味だと学びました。そうすると、今度はその主人が帰ってきて、食卓について、私たちしもべに主人のほうが給仕して下さるとも書いてあるのです。(ルカ1237節)これはびっくりしました。キリストが私に逆に仕えて下さるなんて。本当にそんなしもべは幸いだなと、私もそんなしもべになりたいと思いました。
 そもそも、なぜクリスチャンはキリストを“主“と呼んで仕えるのかというと、イエス・キリストを自分の救い主と信じた時、キリストが主人で、わたしたちはしもべとなるというのがベースです。つまり、信じた後は、全て新しく人生の考え方が180度変わるので、自分の人生において、自分自身のために生きるのではなく、神様のために生きると、それがなぜか束縛ではなく自由なのです。自由なしもべなのです。日常生活では、すぐ自分が主人だと自分の欲求・ねらい・感情に従ってあわただしく動いています。自分自身のための”自由”というのは、ある意味尽きることのない自分のねらい・欲望の追求、そしてそれらは残念ながら100%満たされることがないからです。私が経験したことは、キリストを信じた後、このような自分をいつも突き動かす、飽くなき自己実現の追求と達成できないことへの諦め・虚しさから解放されて、とっても自由になったことでした。今度は自由になった後、次のステージ:どのように、キリストの教えが信仰と結びつき、現実に自身の生活にあてはめていくのか、仕えていくのかと、内側が変えられていく現在進行形です。時間がかかりますし、変えられていくプロセスは一生だと。

○キリストに仕えるとは具体的に生活の中でどういうことなのか
 日々の生活のなかで目に見えない主に仕えることは、自分の置かれた場所で、そこにいる人々:職場の同僚、家庭の家族に仕える、またキリストを信じて神様の言う“愛”を少なくとも知っている人同士ではキリストが命じられたように互いに愛し合うこと、また誰に対してもキリストの愛で接すること、御霊の実を結ぶ(御霊の実とは愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制のこと(ガラテヤ人への手紙52223節)、機会を生かして自分の周りの人に福音を伝えること、これらを実行していくことが主に仕えることなのだと学びました。いつも、ぼーっと自分のことだけ考えて日々過ごし、後になって「ああ、あの時キリストを伝えておけばよかった。。。」と機会を失ったことを後悔することは悲しいなと思いました。

 私は日曜日に一週間を振り返ると、自分の生活に流されて今まで述べたことが全然できていないと痛感するのです。キリストのことを覚えていない時間がほとんど。ああこれでは、腰に帯びを締めて備えてないし、目を覚まして主を待っていないじゃないかと。自分の現状をみことばの光にあてて調べれば調べるほど、非常に落ち込みます。自分の力では、これら霊的なことをどんなに努力しても出来ない、自身の無力さ・罪深さを自覚せざるを得ない状況となります。しかし、ここに福音が与えられているのが救いです。こんな罪深い、信じた後も霊的になかなか成長しない、依然罪人の私のために、キリストは十字架で苦しまれ私の代わりに罰を受けて下さったんだ。おかげで、私の過去・現在・未来全ての罪が赦されている。このことを信じるだけで、天国で神の子として、永遠に神様と復活されて今も生きているキリストと一緒に生きられるなんて。その大きな犠牲と愛と赦しを思い、その愛に応答して神様に仕えていきたいという思いが、落ち込んだ後も与えられ続けます。生活のなかで出来ていないなら、日々悔い改めて、祈って神様に助けていただけばいいんだと。キリストを復活させたと同じ神様の力で、こんな私の内側の態度も徐々に変えられると希望を持っていこうと。


○神様は現状を100%ご存じで、外見でなく心の態度を見られる方
 私は昨年大きな手術を経験しましたが、神様は癒して下さり順調に回復が与えられました。しかし、職場に復帰してもしばらくは後遺症のために、以前のように仕事ができない、自分の体が思うようにいかないため、肉体的な弱さを覚えました。また後遺症が治っていくのも、体力が戻るのも予想以上に時間がかかるのです。見た目が元気に見えるのは幸いなことです。一方で、それで調子に乗ると、自分でもどこまで活動したら体に負担となるのか加減がわからず今まで通りに活動してしまうと、その後痛い目にあい、ぐったり寝込みます。つい、人と、また以前の自分と比較し自分は何も活動していない集会に出ていけなくて他の人との交流が少ないだから不信仰となってしまうと自分を責め、自己憐憫に陥ったこともありました。孤独になることもしばしば。
 神様は落ち込んでいる私を、忍耐をもって聖書のことばで引き上げ続けて下さいました。神様が今までどんなに私に良くして下さったか、助けて下さったかを思い出して、感謝する心に変えられます。これらを通して、教会(キリストを信じている人たち)のなかには、元気な人ばかりではないこと、高齢の方、病床にいる方、体が弱い方はいつも集会に出ることが出来ないし、実際的な奉仕の活動出来ない方もいる、その方々のお気持ちや状況を少し理解できる機会を神様は与えて下さったと思います。今後は自身が元気になったら、そういう方に何か仕えられればという心も与えられました。神様は私たち一人一人の今おかれた状況を100%ご存じで、外見・活動でなく、心の態度を見られる、全知全能の神様であることを思い出しました。神様がこんな自分を愛して下さって、恵みを受けなさいって言って下さる。生活のなかで、自身がどんな状況でも、腰に帯びを締めて主が戻ってこられるまで、喜んで主に仕える心の態度が与えられるよう、備えていられるよう祈り求めたいと、最近のインフルエンザの蔓延において思わされました。


   
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