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PTL Journal

父の突然の死:親の死に目に会えない悲しさ、

そしていつか会えるという希望
Mar. 15, 2012, Vol 9

 フィラデルフィア日本人キリスト教会にて

○“パパが死んだ“ 信じられないメールの件名 201234日午前0

 

それはあまりにも突然のことだった。アメリカ時間3月4日午前0時すぎ(日本より14時間遅い)、妹からのメイル:“パパが死んだ“という件名が目に飛び込んだ。それはあまりにも衝撃的でこんなメイルのタイトルを見たことがない、信じられない内容だった。その夜は疲れていたので9時にベッドに入ったが12時に急にぱっと眼が覚め、そうだ分かち合いのブログでも書こうかなとPCに向かった時のことだった。もしあのまま寝続けていたら朝までメイルを見ずにいた。神様が起こしてくれたのだ。

 すぐに実家に電話すると、もう夜中だから、私が寝ていると思ってメイルだけ先にとの妹の配慮であったが、牧師をしている父が日曜の礼拝に出て来ないのでおかしいと、愛知県の刈谷キリスト公同教会の人が、父が住む牧師館に鍵を開けて中に入ると、ベットで寝たまま亡くなっていた父が発見されたとのこと。東京中野の教会の礼拝に出席している母へすぐに刈谷から連絡がいき、母は一度実家に帰って私と話してから、すぐに名古屋に向かった。その後の報告でわかったことは、血を少し吐いていたそうだが、医者の検死結果、詳しく解剖しないと死因はわからず不明。出血性ショック死という診断に。脳梗塞でもなく、心筋梗塞でもなく外傷もないのだ。良く食べ、良く散歩し、まめに健康診断には行き、健康には人一倍気を使っていた父なので、信じられなかった。なぜ?どうして?

 数日前、父から私の携帯に電話がありメッセージが残っていた。新しく車を買ったから、車の保険のことをインターネットでどう調べるかおしえてくれと。そのときは電話にでられず、後から妹にメイルで尋ねると、刈谷の教会の車が動かなくなったため、中古の車を買ってもらったと聞き、保険ももう契約したと聞いたので、すぐ電話をしなかったのだ。そして私から父へ日本時間32日の金曜昼に電話したが出なかったので、世田谷の実家に電話した。久しぶりに母と妹と話し、NYでのバイブル・スタディのこと、今度の5月の私の帰国の時に、以前のように母の教会でまた伝道用の講演を地域の人向けに何かできないかと楽しい会話をしていた。「パパが電話に出ないんだけど」というと、「きっと車に乗っているんだよ」と誰も気がつかなかった。すると、あの時電話した時点では既に死んでいたのかと思うと、なぜもっと早くに父に電話をしなかったんだ!と悔やまれてならない。お互い性格が似ているせいか、よくぶつかることが多かったが、父は「親子だから」といつもけろっとしていた。そして私の将来についていつも心配し、親としていろいろ口うるさく私に言っていた。父にとっては、私が何歳になっても娘であり、娘を思うがゆえにあれこれ言う。それをもっと優しく受け止めてあげればよかった。。。と今となって思っても遅いと涙が止まらないのである。

 電話を受けてから日本へ帰国のことを考えた。これから帰国しても月曜5日の前夜式、火曜6日の告別式にどうしたって間に合わない。仕方なく、東京の教会でお別れ会を次の日曜にしてもらうしかないと、親の葬式にさえも出られない悲しさを思い、一晩中泣きどうした。その間、PCに向かってメイルで教会のみなさんや、日本の幾人かの友人たち、日本での元職場の同僚に連絡し続けた。皆本当に慰めてくれてありがたかった。帰国の飛行機を取ろうとしても、日曜は旅行会社が休みと気がつき、どうしようもない。月曜開けてからチケットを取るしかないとあきらめていたが、ふと、緊急用メッセージを残せば折り返し旅行会社は休みでも連絡をくれるかもしれないと、旅行会社にメッセージを残した。

朝になって、メイルを見てびっくりされたフィラデルフィア日本人教会の方々が電話をくれて慰めて下さった。それからフィラデルフィア日本人教会の礼拝に行き、皆さんに慰めてもらえばもらうほど涙が止まらなかった。子供達向けの教会学校の奉仕もできず、急遽他の方にかわって頂いた。礼拝にて牧師のメッセージを通して、神様がタイムリーに語ってくれた。父をちゃんと敬えなかった、もっと優しくできなかったことを悔い改めて、本人はもういないので、神様から赦しを受け取るしかなかった。こんな親不孝な娘のためにも、キリストが十字架にかかってくれたんだと信じようと。

 

怒涛の帰国、手間どう交通機関「出してください!」出棺直前に斎場に到着

神様の恵みでなんとか飛行機がとれ、35日の050分(日本時間514時)にNYの空港から大韓空港で飛び、韓国経由で関西空港に着くこととなる。36日の午前11時半に関西空港に到着するも、思いもよらず関空から新大阪まで時間がかかり、2時からの告別式に間に合うどころか、3時の出棺にも間に合わない計算。急な帰国のため、携帯電話もなく、両替もしてないのでクレジットカードしかつかえない。公衆電話から教会に連絡をとるも、小銭がなくてすぐ切れるので、現地の詳細を聞くこともできない。なんとか“3時に出棺”という言葉と斎場の名前を聞いた。関西空港より、電車も40分先にしかないため、タクシーに乗った。しかしタクシー運転手が、「新幹線にのるより、近鉄特急のほうが早いよ」と大阪市内の近鉄の駅でおろされた。私は関西は初めてで、空港からどれだけかかるか、市内の交通も検討がつかず判断する力もない。近鉄駅員に尋ねてみるとなんと特急でも名古屋まで2時間40分もかかると。冗談じゃない。新幹線は新大阪から名古屋まで一時間。タクシーの運転手の言ったこと、新幹線と同じに着くといったことを信用した私が愚かである。とにかく、横浜市内から地下鉄を乗り継いで、なんとか新大阪へ着いたのは午後1時。そしてすぐに新幹線乗って、名古屋到着2時過ぎ。さらに刈谷までは東海道線快速で20分。ようやく240分に刈谷駅についたので、3時の出棺までは間に合うと思いきや、ここでもまたタクシー運転手が、出棺の意味がわからず、「出棺とは教会をでる時間かもしれないから、まず教会によってから斎場にもいけますよ」と言うため、教会へよって(もちろん、そこはもぬけの殻)斎場へ向かったため10分以上余計に時間がかかり、3時ぎりぎりで斎場に着いた。支払いも済ませずかけこんだ。

親族の皆はそれまで、讃美歌を歌い、お祈りをして私が来るまで伸ばしていたが、3時となり仕方なく、パパの顔を写真で取っておいて私に後で見せようと、お棺を中にいれてしまった矢先だった。そこへ、カンカンカンとヒールで走ってくる音が響き、皆、ハッとして、そこへ私が登場。まるでドラマのようだった。しかしお棺をすでに中にしまっていたのだ。とっさに「出してください!」と妹と母が係の人に頼み、前例のなさに係の人は驚いていたが、「娘がアメリカからきたんです!出して下さい!」と喪主の母に頼まれ、お棺を引き出した。私はなんとか父の安らかな、そして触ると冷たい顔を見られて、そして出棺。お別れを言えた。そして火がつけられたのであった。

あせっていなければ、もう少し早くつけたはず。しかし神様の恵みにより、式には出られなかったがすべりこみセーフで父の顔を見られた。混乱の中でも祈ってどうするか、神に聞けばよかったのに、あまりにもあせっていて時間がぎりぎりで動転していた。親族も教会の方々も私の劇的な到着に喜んでくれた。あと3秒遅かったら、お棺に火がつけられ、父の顔を見られなかったのだ。着いたときにはお骨を拾うことしかできない、それはあまりにも悲しすぎる。とにかく、式には間に合わなかったが、送り出すことが出来て感謝であった。

 

○刈谷の教会の方々とのお別れ、そして実家へ

斎場にて妹と母から、父の前夜式と告別式について聞いた。遠くから大勢のかたが駆けつけて下さり、とてもよい式で、皆さまからの心温まるメッセージを頂いたと、写真をみながら説明してもらうことができた。告別式には出られなかったが、久しぶりに父方の親族と会うことができた。父は兄弟のなかで一番健康で、他の兄弟や姉は、高齢でたくさんの病気をかかえて、名古屋まで出てくるのがやっとであった。悲しみと驚きのなかにおいても、苦しまず眠るように天国にいった父がみなうらやましいと言っていた。

その夜、斎場から親族を送り出してから父が住んでいた牧師館へ母と戻る。なぜか、父はいつになく、家をきれいに掃除していて、また今までつけたこともないのに、ノートに買い物のレシートや最後に乗った車のガソリンの領収書をはっていたのも見た。検死に来ていた警察官は「こんな几帳面な人はなかなかいないですね」と言っていたが、実際いつもどんぶり勘定でお金を使う父は、そんなまめなことはしたことがなかったのである。

幸い、父の弟が近くに住んでいて、月に一回礼拝の説教を担当し、父の牧会を手伝っていてくれたため、叔父が今回の葬儀の司式や、教会員のかたへの協力指示や、様々な手続きについてすべて手配し、手伝ってくれたのが本当に感謝である。叔父はすでに刈谷の教会員のかたとも親しい関係ができていて、週一回の英会話教室で地域の人にも教えていた。そして、叔父はこんなことがあって途方に暮れている教会員の気持ちを察し、神様からの召しにより、自分が今後、主任牧師としてこの刈谷の教会で仕えるということを決心していたのである。これは本当に大きな恵み。現職中の牧師をそれも礼拝当日に失い、途方にくれている教会の信徒の方々にとって叔父の後任のことはどんなに慰められたことか。神様は父を私たちの予想より早く突然取られましたが、ちゃんと後任も備えて下っていた。

刈谷の教会員の方々は父に生前から本当によくして下さった。人数の少ないアットホームな教会。父が20104月から牧師として就任してから撮影した、数枚の思い出の写真を見るにつけ、ああ父は皆さんに愛されていたのだと分かる。そして牧師館の片づけも、皆でてきぱき手伝って下さった。私はこの大量の父の家の片づけをどうしたらいいのか、東京にも帰らなくてはならないのに…と途方にくれていたが、教会のAさんが父の遺品で捨てなければならない大量の物の処理も、トラックを借りて来て、すべてして下さったのです。Sさんはちょうど翌日からご家族でスペインに旅行に行かれる予定であったのに、前日までこまごまとしたことを手伝って下さいました。本当に感謝をいいつくせません。お昼は皆で父がよく食べに行ったお寿司屋に行って思い出を語りつつ楽しく団らん。それからまた片づけ等、事務連絡等をすませ、そして夜は母と叔父と三人で「とにかく疲れているけど、食べて力をつけなくちゃ!」と叔父がおいしいイタリアンをごちそうしてくれた。本当に叔父にも大変世話になった。父の思い出を語りながら、夜がふけていく。そして翌日、荷物をすべて宅急便で送りだし、車の売却(購入したばかりの車だったが、父以外使わないので売却することに)の手続きをし、そして刈谷市役所に叔父に連れて行ってもらい手続きを終え、なんとか夕方刈谷から東京へと電車で向かう。刈谷の教会の方々と叔父に感謝しつつ、そして父をこの地において遣わしてくださった神様に感謝しつつ、感慨にふけながら車窓を眺めた。


 父と過ごした最後のお正月 2012年1月

311日 そして父への追悼の祈り

311日、それは日本人にとって心が痛む、追悼の日。日本全国で国家主催の大きな追悼記念式典から小さい家庭に至るまで、昨年の東日本大震災により亡くなられた方々のために祈りが捧げられ、復興への希望が語られた日。アメリカに在住する私は、フィラデルフィアの日本人教会でその追悼記念礼拝に参加する予定であった。ところが、この一週間ですべてが変わってしまった。津波が突然、家族や大切な人の命を奪ったが、私の父の死もあまりにも突然であった。そしてこの311日にまさか自分の父のための追悼の会を東京で自身が参加しているとは、誰が想像しただろうか。今年の年末年始は短期間だが、日本に一時帰国しお正月を家族で過ごせたこと、今思えば父との最後の時だった。

突然の父の死を受け入れるには感情的には時間がかかる。頭では、私たちキリストを信じる信仰が与えられている者には希望がある。死んだら終わりでなくて、死んだらどうなるのかという不安もなく、この体が死んでも、霊魂は天国で永遠に生きると信じてるので、天国でいつか父にも会えるという希望、これが大きな慰め、励まし、また確証でもある。しかし、自分も死んでから天国で父と会えること、それを楽しみとして思えるには、もう少し時間がかかるであろう。大切な家族を失った遺族にとって、悲しみは深いもの。しかし神様は全てをご存じで、その人を慰めるために、多くの目に見える人々を通して慰めを与え、また直接目には見えない神様も慰めを与えてくださるのが感謝である。


 東京のお別れ会で読まれた聖書の個所、これが私への慰めです。
「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。ヨハネによる福音書 112526

私は言う「信じます!」。

 

○天国で迎える75歳のお誕生日と父の説教ノート

 

 父はいつ、なぜ死んでしまったのか?検死は3日と判定し、解剖をしない限り死因は不明とされました。しかし、毎日母に電話を一日に3−4回かけてくる、さみしがり屋の父から最後に電話がきたのは1日の木曜。車を納車し、早速8KM乗ってきた、「とてもすてきな車だよ、来週、ママが刈谷に来るとき新しい車で、駅まで迎えに行くからね!本当にありがとうございました!」と、母の結婚生活47年、こんなに改まって丁寧にありがとうございました と言われたことがないと、余程うれしかったのかな、とその時は母は思ったそうです。それが最後の言葉であった。そして金曜からぱたりと電話がなかった。私もアメリカから父へ電話をかけてでなかったのは2日金曜の昼。さらに平日にお弁当の宅配を毎日頼んでいたので、金曜の昼、呼び鈴を鳴らしても出てこなかったため、お弁当の配達の人は玄関前に置いておいたと。新聞も金曜からとられていない。つまり状況的には2日朝頃になくなっていたのであろう。なぜ検死の日がずれたのかについて、サスペンスドラマの好きな母は、以前見たトリックを思い出し「ストーブをつけっぱなしでいたことにより、部屋が暖かくて死亡推定時刻がずれたのかもね」と冷静にコメント。母はこんな時にもユーモアを持つ余裕あり。母が一番辛いのに、始終しっかりしていた母を尊敬する。

日本で高齢者向けのソーシャルワーカーをしていた私は、一人暮らしのお年寄りの安否確認に関しては、仕事上人一倍気にしていて、よく寸前のところで家で一人で倒れて死にそうになっていた在宅のお年寄りたちを、様子がおかしいとすぐに見に行き、機転を利かせて家の中に入って助けたこともあり、また助けるように指示したり、家族に連絡したものです。しかし、元気な父のことは問題外でした。なぜ自分の親のことをもっと早くに気が付いてあげればとこれも、今更いっても仕方がないことですが、ソーシャルワーカーとしての直感も働かず、失格である。

313日は父の誕生日。 75歳を前に寝ながら天国へいってしまった。私は父の遺品を整理しながら、父の説教用のノートを手に取る。ぱらぱらと読んでいくと、ちょうど昨年の313日は日曜であったので、自身の誕生日でもあると説教のメモが書かれていた。“回復への道“という題で、イザヤ書からのメッセージ。私はしばらく、移動のバスや電車のなかで、昨年から最近までのことを書いていた父の説教ノートを読んでいた。父は、一生懸命信徒の方々に、イエス・キリストを信じ、従うこと、信頼することを語っていて、ちょうど震災後であったので、そんな中においも、キリストにあって希望があるというような内容を綴っていた。私はこの父の遺品、説教ノートを大事にしたいと。75歳の誕生日を天国で迎えるとは本人も、だれも想像つかなかった、しかし天国で迎える誕生日というのも幸せであろう。これも神様のタイミングだったのだから、委ねようと思う。そして、私は父の伝道の志を継ぎ、自分が置かれた場所にて、私なりにイエス様を伝え、聖書のみことばを通して皆に仕えていきたい、ますますそういう神様からのビジョンを心に示された。

人がいつまで生きられるかは誰もわからない。神様だけがご存じ。津波により突然すべてを失う人もいれば、病気で長く闘病して逝かれる方もあり、父のように突然天国へ行ってしまう人も。身内の死に当たり、感情的にはまだまだ涙がつきないし、悲しみはいっぱい。神様が私の人生を通してなさりたいこと、計画されていることを、残された者が限られた時間に、祈ってキャッチできるよう、益々求めていきたいと。またアメリカに帰国し、日常へ戻る。悲しみと向き合いつつ、神様からの慰めをフルに受け取り、平安な気持ちに変えられていきたいと願う。

 

刈谷でのお葬式(356日)と東京でのお別れ会(311日)と多くの方々にご出席頂き、また電報やメイルでもたくさんの方々からのお祈りと励ましのことばを頂き、母も妹も私も大変慰められ支えられ、なんとここまでこられました。3月25日にはフィラデルフィアの教会でも父の記念会をしてくださるとのこと、皆さま本当にありがとうございます。父は多くの方々に愛されていることを知るにつけ、これが大きな慰めです。父も天国で照れくさそうに笑っていることと思います。


 


   
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