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                   PTLジャーナル VOL 10
 


「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」

エペソ人への手紙2章9節

Murrieta, CA の夕焼け
温泉と椰子の木の街
 自然の恵みというのは、その人の行いの良い悪いに関わらず、太陽は昇り、雨は降るように、全ての人が享受できます。その人が自然の恩恵を受けるにふさわしい人格、資質、努力に関係なく、誰でも受けることができるのは、まさにイエス様にある救いの恵みと共通です。聖書でいう”恵み”は冒頭の聖句がとてもよく表しています。神様の恵みは第一に、私達自身からでたことでない、つまりその人の資質や受ける資格に関わらないこと、第二に神様のプレゼント(賜物)、無償であること、第三に行いの報いとして与えられるものではないこと。つまり修行をしたり徳を積んだら頂けるというような、成果主義的報酬ではないこと。このエペソのみことばは 私達が救われる理由が、イエス・キリストを信じる信仰にあるのて、恵みとして誰でも受け取れるからであり、救いが恵みなので”自分は救われるにふさわしい!”と誰も誇ることができないとパウロは説明しています。

 一方、私達の信仰生活において、この神様の恵みを受け取った後それを無駄にしてしまう二つの両極端な状況がおこりうるのです。一つは律法主義、もう一つは放縦主義と言われます。この二つは振り子の左右のようで、キリストの恵みという真ん中に最初は留まっていても、クリスチャンの歩みをしているうちに、どちらかにぶれてしまいがちです。まず律法主義のめばえは、既に弟子達がこの福音を世界に伝えていた時、エルサレムから来たユダヤ主義の人達が、イエスを信じたと称して、実は全く恵みを理解しておらず、信仰で救われるという福音に、プラスして律法を守り割礼を受けなければ救われないと、異邦人に偽の福音を教え始めたのです。そこでパウロははっきり手紙で説明しました。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。」ガラテヤ人への手紙2章16節

 現代の教会においても、この律法主義が形を変えて忍び込んできます。これは、私達のメンタリティーに染み付いている成果主義に似ていて、目に見えない信仰のみより、活動すればいいので逆に分かりやすいからです。具体的には、人の作った教会の規則に縛られたり、強いられたり、もしくは神様の愛を得ようとして奉仕を行い、表面的には敬虔でも心には喜びがなく、主との愛の関係に基づかないで教会へ通ってしまうという状態です。自身が律法主義に陥っているかどうか見極めるには、自身の内に喜びがなく、そして人との間に愛がなく裁いていることでわかります。

 もう一つの恵みを無駄にしてしまう状態を放縦主義といいます。放縦とは勝手気ままという意味で、極端に言えば”神は赦してくれるのだから罪を犯してもいいんだ”という認識です。ある人は、信じて教会へ通っていても、救われる前の以前の生活と考え方も態度も全く変わらず、肉の欲求に従って生活し、聖書を都合のよいところだけを引用してこの世と同調し、自分の罪を悔い改めようとしません。パウロはそういう人たちに向けてはっきり手紙で書いています。「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。(ローマ人への手紙6章1-2節)キリストを信じた時、古い自分は死に新しくキリストのために生きるはずなので、古い自分に戻って罪を犯し、悔いるだけで改めず罪の中にとどまるのは、おかしいのです。むしろ罪の支配から自由になったのですから、その自由を神のために使いなさいと、パウロは優しく手紙で忠告しています。「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。 気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。」ガラテヤ人への手紙5章13-14節 

 このように私達はこの肉体を着ている間は、弱さゆえに、信じた後も、程度の差は異なっても律法主義的か放縦主義的になることがあります。個々人が恵みから外れてしまうと教会全体へ影響し、互いに裁きあって分裂したり、教会を好き勝手な活動の場にしてしまったり、形は教会でも、キリストを中心にしていない慈善団体のようになってしまうと、主がどれだけ悲しまれることでしょう。

 しかしながら、私達が恵みにとどまれるように、天におられるイエス様が神様の右の座にてとりなして下さりますし、また私達の内に住まわれる聖霊が助け導いて下さるので、これもまた、なんという大きな恵みでしょうか。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同様に試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 」ヘブル人への手紙4章15-16節

 また祈れない程に落ち込んだとしても、御霊に励まされ、御霊がわたしたちのためにとりなして下さいます。(ローマ人への手紙8章26節)

 信仰の歩みには様々なことが起こりますが、試練の中にあっても、キリストにあるめぐみに留まり続け、主に全て依り頼み、みことばの糧を得て、兄弟姉妹との交わりを通して励まされ幸いです。そして、この主にある喜びを福音を知らない方々にお伝えし、目標に向かって歩んで参りたいと思わされます。目標とはこの肉の体が死んだ後、最終的には永遠に続く天国であります。例えこの世で辛く悲しい状況があった時も、天へ導かれるという希望と平安とこのキリストにある喜びを与えられることを感謝いたします。         (引用:口語訳聖書)
 
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